DEEP METAL BATTLE

歌帖楓月



D.M.B.ミスリルマイン紛争 全貌

 首都ミッドガル。ミスリルマインの紛争が終結する35年前のある夜のこと。
 その部屋の窓という窓には暗幕が張られていた。暖炉の炎はなぜか緑に燃えており、一つだけともされた燭台のロウソクの炎も緑色で、屋内は闇と緑の光が揺れ続けていた。
 そこに、一人の若い女が居た。
 北コレルの惨劇の原因と同じものを、美しい女は持っていた。大人の両手で包める大きさの褐色の瓶に入れられ、石油に浸けられた握りこぶし大のそれを、ねっとり眺めている。目は私欲に輝き、唇は野卑に歪んでいた。
「ヒィッヒッヒッヒ……ディープメタルは美しいのぅ。どうか、ワシの不老不死を叶えておくれ」
 女は術者。それも、この国の魔法体系に与しない呪術者だった。
 3年ほど前、辺境の村ミスリルマインを訪れた折に、彼女は村の周りを取り囲む湿地からディープメタルを見つけだした。それは、底に溜まる黒い泥炭のさらに下に埋もれていた。大蛇ミドガルズオルムが、それを守るように生息していたので、掘り出すのに苦労した。囮になった弟子が何人か死んだ。そうして、昨日ようやく手に入ったのだ。
 石油浸けであるにもかかわらず、瓶からは消毒用アルコールに似た匂いが漂ってくる。それはこの鉱物の臭気だった。
「『ディープメタル』と『新しい体』と『それを調整する医者』が揃えば、不老不死の術が使えるようになる。ワシの美が永遠になるのじゃぁ。手こずらせたミドガルズオルムは、滋養強壮剤として栄養を搾り取ってやる」
 女の脇には、今日さらって来たばかりの赤ん坊がいた。おくるみに包まれ、カゴに入れられてすやすや眠っている。すでに、精神を操る術を掛けてあり、施術者を至上の存在だと思い込ませてある。
 この赤ん坊を「医者」にするつもりだった。
 瓶を大切に握ったまま、女は、暗い緑色の光の中でやすらかに眠る乳児を見下ろすと、クククと嗤った。
「いよいよ作戦開始じゃー。お前にも名前つけんといかんわいなあ。しかし考えるのが面倒臭いからジョンにしよう」
 それは、隣家で飼われている番犬の名前だった。

 ミスリルマインでは、呪術者オウバイと同じ名の女が暮らしていた。ディープメタルを発見した時、自分の弟子に名を与えて、そこに住まわせたのだった。顔には始終仮面をつけているように命じて。
 ディープメタルと未来の医者を手に入れたオウバイは、転移の術を使って、村へ向かった。
 弟子は師の来訪を喜び、身を震わせた。
「ああオウバイ様……! お久しゅうございます! お待ちしておりました。貴方様をお迎えする準備は万端に整ってございます」
「久しぶりだねぇ『オウバイ』や」
 師は、らんらんと輝く目で嗤った。黒い布に包まれた瓶を、わが子のように愛しそうに抱えていた。赤ん坊はおくるみごと腰紐にくくりつけていた。
「さあ、あんたは首都に帰るんじゃ! ワシがこれからここで暮らす! 私の言い付けどおり、『村で一番頼れる呪術者』になっただろうね?」
 弟子は、仮面の下で微笑んだ。そして恭しくひざまずく。
「もちろんでございます。全身全霊を掛けて、仰せのとおりにいたしました。わたくし以外に、一体誰がこの村をミドガルズオルムから守れるでしょう。私がいるというだけで、村人たちは大蛇を恐れず安寧に生活できる。いまや水辺で子供らが遊ぶほどになりました」
 美女は満足げに笑った。
「よっしゃよっしゃ! そりゃーやりやすくて結構じゃわい」
 オウバイは上機嫌になった。そして、ずかずかと土足で家に上がり込んだが、部屋の中央まで来ると、おどろいてわなわな震えた。
「ちょっと、なんだい? あの男は……?」
 居間に向かって開け放たれた寝室の内部が見えていた。そこには、男が眠っていた。
 後から付いてきた弟子は、オウバイの元にひざまずき、彼女を見上げ、微笑んだ。
「『私の夫』でございます。今は魔術で眠っております」
「んなんだッて!?」
 瞬間、オウバイの額に青筋が浮かんだ。
「なんてことをしてくれたんだい! 夫だってぇ!? 誰がそんなイヤラシイことをして良いと言った!?」
 オウバイは、弟子の腹を蹴った。
 細い彼女は、背後の板張りの壁に強かに頭と背中とを打ち付けた。
 弟子は咳き込みながら、態勢を直してひざまずいた。そして、よ ろよろと師を見上げる。顎から深紅の血が一筋の流れを作って首筋を流れる。
「全ては、あなたさまの崇高な計画を成就させるためでごさいます」
「なにが私のためじゃ! どこがさ!?」
 激高するオウバイに、弟子は合掌して微笑んだ。
「ああ、麗しのオウバイ様。いかなる時でも、貴方様は美の結晶でございます。どうぞ、わたくしの考えをお読みください」
「私が美しいのは当たり前じゃ! って……考え? 考えかい? チッ! 面倒だけど読んでやるよ! どんなつもりでそんな馬鹿をやれたんだかッ! 後で、死ぬより怖い『お仕置き』じゃーよー! ……ふん! むにゃむにゃ……キエエエー!」
 オウバイは、うっとりと見上げる弟子の思いを読んだ。
 そして、
「へぇえ、」
 と 、つぶやいて、にたりと笑った。
「なんだい。そうだったんかい。あんた、いい作戦を考えたもんだねえ?」
 呪術師は弟子の頭を撫でてやった。まるで飼い犬を褒めるように。
「なるほどねえ。あの男をあんたと一緒にねえ……。ひひひ。そうかいそうかい。ありがとよ。喜んでそうさせてもらうよ?」
 その言葉を聞いた弟子は、「嬉しゅうございます!」とうわずった声を上げた。
「貴方様のお役に立てて光栄にございます」
 オウバイは、底暗い笑みで応じた。
「たつともさ! ひひひひ! ギッチリ立たせてやるよお!」
「私はなんて幸せ者なのでしょう!」
 弟子は、喜びに涙を流しながら、寝室へと向かった。
 そして服を解き、……この村に来てからただの一度も人前で取ったことのない面を取った。おとなしそうな容貌の可憐な女性だった。血まみれの唇で心から笑った。
「麗しのオウバイ様に栄光あれ」
 そして、寝台の脇で、再びひざまずいて恭しく頭を垂れ、弟子は寝台へ入った。
「ヒッヒッヒッヒ! 役に立ってくれてありがとうよお! じゃーな!」
 オウバイは、すぐに二人を殺した。
 血にまみれた仮面を手に、オウバイは嗤う。
「ヒッヒッヒッヒィ!」
 
 それから十年。
 オウバイは、「新しい自分の体」を探し続けてきた。
 しかし、世界中探しているのに、ふさわしい子が見つからない。赤ん坊のころから念入りに術を掛けて、立派な「道具」に育て上げたいのに。
 彼女の年齢は四十代半ばを過ぎた。
 あせりは、日々刻々と募るばかりだった。
 そんなところに、はずんだ子どもの声が掛けられる。
「おはようございます。麗わしのオウバイ様。僕は、今から、おとうさんとおかあさんのお墓参りに行ってまいります」
 男の子が、木製のいすに座って爪を噛んでいるオウバイのそばの床にざまずいていた。
「ああ。ああ。勝手に行っといで!」
 呪術者はぞんざいに手を振った。むしろ追い払うように。
「はい! オウバイ様のおおせのままに!」
 男の子はにっこりほほえんで立ち上がり、深々と一礼して出て行った。

「こらこらジョン! こどもが一人で出歩いちゃだめだ。最近はミドガルズオルムが凶暴になってるんだ。間違って沼に近づいた旅人が何人も引き込まれて食い殺されてるのを、知ってるだろ?」
 ご機嫌で墓参りに行く男の子に、村の男が注意をした。壮年の彼は農作業にいく途中らしく、やや柄の曲がった鍬を片手に持っている。
「お前のお父さんたちのお墓は、沼近くにあるじゃないか。一人は危ないぞ! お前のおばあちゃん……じゃなかったな、オウバイ様についていってもらえよ!」
 口調は荒いが、優しい言葉だった。
 こどもは、ニコッと笑った。
「平気だよ。ぼくがどこに居たとしても、うるわしのオウバイ様はいつでも守ってくださるんだ。じゃあね、おじさんもお仕事頑張ってね!」
 男の子は、きちんとお辞儀をして、道沿いに咲いている小さな野の花を摘みながら行ってしまう。
「やれやれ」
 男は苦笑する。
「オウバイ様を襲った強盗の子が、あんなにいい子に育つとはな……。やっぱり、引き取って育てたオウバイ様の人徳のお陰か。やっぱり人間、氏より育ちだ」

 男の子は道端に咲く赤紫色のホトケノザやレンゲソウを摘みながら、墓へ行く。それらの花は供えるつもりだった。
 整備された道から折れ、あぜ道に分け入ってなお歩き、向こうにどす黒い沼が見え始めたころに墓があった。そこは村の墓所ではなく荒地だった。ひっそりと土を盛り、人の頭くらいの大きさの石を上に乗せてある。
「お父さんお母さん。おはようございます」
 ジョンは墓の前にしゃがみこんだ。昨日供えた野の花を花瓶から抜き取り、新しい花に変える。花瓶には水が入っていない。だから昨日の花はしおれていた。今日生けた花も、すぐにそうなるだろう。
 こどもは花を生かす気がなかった。
 笑いながら、お墓に向かって手を合わせた。
「今日も僕はうるわしのオウバイ様のおかげで幸せです。おとうさんとおかあさんはやすらかに眠ってください」
 ジョンはにこにこ微笑みながらそう言うと、すっくと立ち上がった。そしてひざに付いた黄褐色の泥ぼこりを手でぱっぱと払う。
「また明日来るね。おとうさん、おかあさん」
 ジョンは、元来た道を戻り始める。
 少し冷たい春風が、そよと吹いた。辺りは草花の揺れる野だ。オオイヌノフグリは水色の愛らしい花を一面に咲かせ、その中からはナズナがすっと伸びて、小さな白い花を楚々と清らかにつけている。あちこちにホトケノザが小さな赤紫の花をつけて、こんもりと小さな群れをなし、全ての風景は薄い水色の空のもとにある。
 男の子はにこにこ笑いながら、家までの道を駆けた。
 なんていい天気なんだ。なんていい春なんだ。
 全てのいいことは麗しのオウバイ様のおかげ。
 全てオウバイ様にお任せすれば、ぼくは何も不幸なことはない。
 男の子は、うふふとわらった。
 おとうさん、おかあさん、僕をオウバイ様に会わせてくれてありがとう。おかげで僕はしあわせです。
 ほかには何にもいりません。

 オウバイは、ジョンを育てることになったいきさつを、村人向けにこう話していた。
 ミスリルマインの村民をミドガルズオルムから守ってきた呪術者「オウバイ」。ある夜、旅人を装ってオウバイの家を訪れた男女の賊がいた。彼らは、「赤ん坊が腹をすかせているが、我々は貧しく、母親には、もはや出る乳もない」と言って、一晩の宿を求めた。善良なオウバイは快く応じ、男女に自分の寝所を貸し、夕食をもてなした。
 だが、深夜、居間の椅子の上で眠っていたオウバイは、二人の会話を漏れ聞いた。「情けを恵んでもらうには役に立つと思ってさらってきた赤ん坊だが、もう邪魔になった。ここで赤ん坊を殺し、オウバイを殺して、自分たちはこの家をのっとろう」と。オウバイとしては、いつでもその可哀想な夫婦に家をあげても良いと思っていたが、罪もない赤子に手をかけるという言葉の方に驚いて、真偽をただすべく寝室を開けた。
 寝室では男女が、あられもない姿で寝台にいた。しかし、オウバイを怒らせたのは、男の手があるものを握っていたということだった。
 自分の赤子の首を、すでに握り締めていたのだ。
「なんてことを!」
 オウバイは、もはや話し合う余地はないと判断し、赤ん坊の命を救うべく、魔法を使って二人を殺した。
 オウバイは、一人残ったこの赤子を自分の「孫」として育てる決心をした。子どもに罪は無い。だから私はこの子を育てよう。しかし、子に親がいるのは当然。子を産んだことのない自分が親と名乗るには不自然だ。ならば、この男女を自分の子ども夫婦にし、この赤ん坊を孫ということにしよう。オウバイは、この子の行く末の健やかなる事を願い、村の人々にもそのように嘘を通してもらうことをお願いして、ジョンを孫にした。
 村人は、この話を信じきっている。だから、暖かい目で二人を見守っているのだ。
 血塗られた真実は、オウバイの胸の中に監禁されている。

 それから数年経っても、オウバイの「体」となる者は見つからなかった。
「おかしいったらおかしいっ! なんで見つからないんじゃ?」
 オウバイは歯軋りした。
「ワシはなんにも高望みはしとらん。超絶美人赤ん坊を探し採るだけじゃっつーのに!」
 時間がない。時間がない。もうすぐ自分は老いる。
 すでに彼女の年齢は壮年の域に入っていた。外見的にはまだ若くみえるのは、老化を遅らせる魔法のおかげだった。
「この術もまもなく限界にくる。わしの美しさが消えてしまうよお! 一体どこにいるんじゃ! わしの新しい体は!」
 不老不死を完成させるための術具は、ディープメタルと、新しい体、体を調整する医師だった。このミスリルマインの湿地はディープメタルを含んでおり、「古い体から新しい体に移るための培養槽」の役割を果たしてくれる。あとは、彼女の「新しい体」を用意するだけだった。
 しかし、彼女が欲する赤ん坊は、いなかった。世界中探しても。
「こんなにたくさん人間がいるってのに! どうして、私の新しい体だけが無いんじゃー!? 畜生! 美しいままでいるって、こんなに難しいことじゃったんじゃーなー!」
 オウバイは、繊細な草花の彫刻がされた飴色の木の椅子から立ち上がって地団駄を踏んだ。
「ジョンが医者になる歳まであと15年くらいかかる。そのころには『初潮がきてる娘』が居なきゃならないんじゃ!」
 しかし、その後さらに数年経っても、オウバイが求める赤ん坊は見つからなかった。

 やがて。
 ジョンはオウバイの言い付けどおり、医師となる道を志す。
 それは、ジョンが18歳の時だった。
 そのころになると、オウバイは数日に1日程しか、人々の前に現れることはなくなっていた。ジョンの前にも然り。村人は、ミドガルズオルムから村を守り続けたオウバイの魔力が、ついに底をつきはじめ、健康を蝕み始めたのだと思った。
「うるわしのオウバイ様……。僕は今日からドクター・ウィンズのところへ医術を学びに行って参ります! そして、見ていて下さい! 僕、きっとオウバイ様を永遠の美女にいたします!」
 ジョンは、4日ぶりに姿を現したオウバイの前に跪いて恭しく一礼し、頬を赤に染めながらそう言った。
「あー。行っといでジョン。お前は絶対に医者になるんだよ! わかったね?」
「はい! オウバイ様!」
 オウバイの顔は既にしわで彩られ、眼窩は落ち窪み、血色は土気色だった。
 ジョンは、彼にとっての麗しの君に、数日ぶりに会えた喜びで、踊りださんばかりの軽い足取りで家を出た。
 玄関の、すでにガタがきた木の扉が、きしみながら閉まる。
 ジョンがいなくなると、オウバイは胸を押さえてうめいた。
「ぐぐう」
 オウバイは居間の木の床に崩れこんだ。
「ハアハアッ……グフ、グフ、ッゼェゼェゼエ!」
 荒い呼吸と咳を繰り返す。
「どうも、いけないねえ……ゴホゴホゴホッ! 何十回も掛けた老化防止魔法の副作用かねえ……ッハアハアハアハア!」
 苦しげに、胸の服地をぐしゃぐしゃに握り締めて、そう喘ぐ。彼女は年齢以上に外見的な老いを迎えていた。体の中にいたっては、ぼろぼろだった。
「ディープメタルの中に、戻らなければ……」
 砂が風に吹き飛ばされるように、オウバイの体がそこから消えた。
 そして、彼女はある場所に現れ戻った。
 そこは、どす黒い液体の中。
 ミスリルマインの沼の中だった。
 彼女は、沼の中に漂う、紫の石のかけらを口に含んだ。その時の表情はまるで、麻薬に溺れた中毒患者が、禁断症状を起こして薬を打つときのような、精神的にも肉体的にも歪み枯渇した表情だった。
 ゴボゴボゴボッ、と、オウバイの口から気泡が上がる。
「ううう! ……うふう……」
 徐々にではあったが、確実に呼吸が安定し、先程の苦悶の表情が薄らいできた。
 オウバイは枯れ木のような手をじっと見つめて、つぶやいた。
「……あたしゃ、もう、ここでしか生きていけないんかい?」
 沼の中で、しわがれた声が響く。その声には、以前の魅惑的な響きはもうない。ひび割れた老婆のものだった。彼女には、ディープメタルが溶け出すここの中でしか、楽に生きられる場所はなくなっていた。
「赤ん坊も見つからないし……あたしゃ、このまま……?」
 この時、生まれて初めて、老婆の胸に不安が生まれた。
 このまま老いて、死ぬのか? 
 それも、こんな汚い沼の中で? 
 さあっと、背筋に、恐怖と不安と焦りが冷たい電気のように流れた。
「いやじゃあああ! わしゃ死なんぞ! 死んでたまるかい!」
 恐慌した老婆は、わめき散らした。
 ここは沼の中。
 ミドガルズオルム以外に聞くものもいない。いや、ミドガルズオルムさえも、ディープメタルの毒を恐れ、この辺りには近づかなくなっていた。
「いやじゃ! いやじゃ! いやじゃあああ!」
 気もふれんばかりになったオウバイは、自分の叫び声の間に、「ごくん」と何かが嚥下された音を聞いた。
「げっ!」
 我を忘れるあまりに、口に含んだディープメタルを飲み込んでしまった。
「なんてこったい! ぐえええ! 出ろ! 出るんじゃーよー! ふんっ! むにゃむにゃむにゃ……きえええ! こら! 出ないかい!」
 オウバイは、体の中に飲まれてしまった石を叱りつけながら、魔法で石を出そうとするが、
 オウバイの中に入った石は溶け消えていた。
「……そんな、」
 オウバイは呆然と動きを止めた。しゃべるのもやめた。
 北コレルの悲劇が、自分の中に入った。
「こういう場合……わしゃ、どうなるんじゃ?」
 未来への不安よりも、今起こった変事の方が重大だ。さすがのオウバイも心配になる。わめくのをやめた。自分の体に変調はないか? しかしこの沼の中では、濁っていて目に見えない。
 オウバイは魔法の鏡を作り出し、自分の姿を映した。
「うおお!?」
 そこには、
 若く、美しい、オウバイがいた。
 流れる黒髪をした美女が。
「ひ……ひひひひひひひ!」
 オウバイは頬を歪めて嗤った。
「なんだい! 簡単なことじゃないか! 代わりの体なんかいらなかったんじゃ! ディープメタルを飲めばよかったんじゃ! わしは若返ったぞー!」
 そのまま、その姿は沼からかき消え、オウバイの姿は陸上へ移った。
「グウ!?」
 だが、陸上に現れた瞬間、オウバイの苦しみはぶり返した。
 皮膚は瞬時にひび割れ、苦悶が始まる。
「……! ……! ……!」
 もんどりうって、老婆は沼に戻る。
 沼に戻った瞬間、オウバイは美女に変わっていた。苦しみも消えた。
「沼の中だけってことかい」
 ぜいぜいと息をついて、美しい声が漏れでた。
 女は動きを止めて考えることに没頭した。
「……ということは、だよ……」
 しばし後、オウバイは、にたりと嗤った。

 その夜、首都から一人の男が消えた。
 彼は俳優、それも、美形として名高い優男だった。
 高級クラブに座っていたはずの男は、一瞬の内に自分を取り巻く風景が変わったことに愕然とする。
 きらめくシャンデリアとベルベットのソファー、そして琥珀色の美酒は、のろいの色をした沼の水に変わっていた。
 そして、彼を取り巻く洗練された美女の群れは、一人の壮絶な美貌の女に変わっていた。
「……」
 彼は周囲を見回す。どういうことだ? 酔ったのか? いやまだそんなに飲んでないはずだが。……これは夢か? 
「よく来てくれたねえ?」
 女は男ににじり寄り、真っ白な腕を、彼の背に、毒蛇のようにぬったりと這わせた。
「お前は店の女か?」
「こんな美人が店になんか出るわけないじゃろ」
 謎の女はニヤリと嗤った。
「あたしゃ、子どもが欲しくてねえ。アンタ、アタシの相手にぴったりだァよォ。子ができるまで、付き合ってもらうよ。ヒィッヒッヒッヒッヒ!」

「ヒヒヒヒー」
 数週間後、オウバイは、沼の中で嗤っていた。真っ白な裸体が沼の水に晒されている。もはやその水は、人の体液だかディープメタルの溶液だかわからないものになっていた。
 下腹部を大切そうになでながら、オウバイは嗤う。
「そうさ。いないなら、自分で作りゃ良かったんだよ。これなら、間違いない子ができるだろうよ。私の体にするためにぴったりなのがねえ。……ヒッヒッヒッヒッヒッヒ!」
 男の死骸が、不気味なほどに美しい女の側をたゆたう。
「ヒッヒッヒッ、ヒーッヒッヒッヒ! あとは産むだけさ! これで私は永遠に美しいままだよ」
 そして十月十日の間、女は沼の中から出なかった。

 19歳になったジョンは、今日もドクター・ウェルズの元に向かうべく支度をしていた。
 外は快晴。南の窓を開けて、ジョンは今日も合掌する。
「うるわしのオウバイ様……。わたくしは、今日も貴方様のお陰で幸せです」
 だが、その表情は曇っていた。
 オウバイが、ジョンの前から姿を消して1年が経った。
 最後に会ったのは、ドクター・ウェルズに教えを請う最初の日だった。
 オウバイのことを恋しく思う余り、両親の墓に参ることはすでに忘れ果てていた。
「あの日、僕にお会いになられたのは、……さよならのつもりだったのだろうか?」
 はあ……。と、ジョンはため息をつく。
 心が、乾いた冬枯れのようにやるせない切なさであふれそうだった。うるわしのオウバイ様に会いたい。オウバイ様は万能だから、僕が恋していると知ってたに違いない。だから、恋心が勉学に支障をきたし、ひいてはオウバイ様の神聖なる目標である不老不死の術の妨げになることを予知して、……僕の前から消えたのではないだろうか。きっとそうだ。
「オウバイ様……。ああ、オウバイ様」
 あふれでる思いに、ジョンは思わず窓から両手を伸ばして、太陽を仰いだ。
「貴方様の太陽のような美貌に、もう一度会いたい!」
 その時。
 ジョンの伸びた両手の中に、何か温かくてほんのり重いものが落ちてきた。
「!?」
 驚いたジョンは、それを持ったまま手を引っ込めた。
「うわ……っ!?」
 両手の中にあったのは、女の赤ん坊だった。生後数日といったところだろうか。
 続いて聞こえてきたのは、ジョンがずっと恋い焦がれてきた声だった。
「ジョン! おいジョン! 聞こえてるかい? ぼさっとしてないで返事しな!」
「そ、その声は! うるわしのオウバイ様!?」
 ジョンはあたふたと周囲を見回した。
 だが誰もいない。
 オウバイの声だけが響いてきた。
 「いいかい! それが私の体になる赤ん坊だ! ようやく手に入った! ちゃんと育てるんだよ! いいね! 自分が道具だってこと、身の程をわきまえてる子に育てるんだよ! それから、その子がどんなに別嬪になっても、……って、なるに決まってるんだけどね、それを悟らせちゃいけない! その子にも周りにもだ! いいかい! 絶対にそのことを守って育てるんだよ!」
 ジョンは、声が聞けた喜びで涙を滝のように流しながら返事をした。
「はい! 承りました! オウバイ様! 喜んで! あなたさまの御心のままにいたします!」
 その日から、ジョンはどこに行くにも赤ん坊を連れて歩くようになった。
 行き倒れの旅行者から託された、という赤ん坊を。
 村人はジョンの言葉を信じた。村人の多くはこう語り合った。あのジョンは、オウバイが自分にしたことと同じことを無意識のうちにしている。ジョン自身は自分の出生の秘密も知らないのに……。血がつながらないとはいえ、親子とは似るものだな。と。
 すべてが偽りであるにもかかわらず、それらは運命的な整合性をもった。

 数年後。
「どくたー。お花がさいていたの。どくたーにあげる」
 桃色のワンピースを着た愛らしい女の子が、天使のような可憐なほほ笑みを浮かべながら、とことこと診療所へ駆けてきた。ドクター・ウェルズと患者の治療方針について話していたジョンは、その声に振り返ってほほ笑んだ。
 赤茶色の髪が絹糸よりもさらさらと輝く。紅茶色の目は夢見るように美しく潤んでいた。
「ロイエル、そんなにあわてないで。転びますよ。ほらいらっしゃい」
 ジョンが、ロイエルに両手を広げると、ロイエルは「きゃあ」と言ってうれしそうにほほ笑みながら、ジョンに抱き着いた。ジョンはロイエルを抱え上げた。
「はい。れんげそう。どくたー、おしごとおつかれさま」
 ロイエルはジョンに、摘んできたレンゲの花を手渡し、ジョンの首に手を回してほおずりする。
 ジョンはそんなロイエルに愛しそうにほほ笑みかける。
「ありがとうロイエル」
 ドクター・ウェルズは、自分の息子ほど歳の離れた青年とその養い子とを、白髪交じりの顎髭をなでながら、ほほ笑んで見守る。
「ジョン。ロイエルは随分かわいい子だ。人さらいに注意しなければならないな」
 彼は、すでに子を育てた者として、そうアドバイスした。
「人さらい?」
 ジョンは、その言葉を聞き、神妙に笑顔を引っ込めて、ドクター・ウェルズの暖かくも厳格な顔を見た。
「かわいいのですか? ロイエルは……」
 ウェルズはふっと笑った。
「ああ。率直に言ってどの子よりもかわいいな。ロイエルと歳の近い領主の子が表面上はちやほやされているが、あれは単に、親の財力と権力に人がたかってきているだけさ。その点、ロイエルに声をかける大人たちの顔を見てごらん。……よく、旅人が、ロイエルを抱いた君のところに駆けよってくるだろう?」
「そう、言われてみれば……」
 ジョンは思い出した。今日だってそうだった。「やあ! かわいいお子さんだ!」そう言った旅商人が、ジョンに手を引かれたロイエルのところに駆けて来てしゃがみこんだ。「おじさんがいいもの持ってる。あげようね!」そういうと、商品のはずの小さな髪飾りをロイエルにつけて、にこにこ笑いながらジョンに言った。「こんなにかわいい子は見たことがない。さぞ美しい奥様をお持ちなんでしょうなあ!」と。ジョンは、ほほ笑んだだけで返答をさけたが。……こんなことは頻繁にあった。あんまりちょくちょくあるので、どこの子も小さいときはそうなんだろうと思っていたのだが。
 まずい。
「ジョン。例えば旅芸人が、行く先々で目ぼしい子をさらって、芸人にしたてたりする。まあ最近では聞かなくなってきたが。……他にも、男の中には幼児にしか性的欲求を感じない歪んだ者だって、まれにいる。もう、ロイエルは自分でちょこちょこ歩けるようになっているし、注意しておいた方がいいぞ?」
 さらなるウェルズの忠告に、ジョンは青い顔になってうなずいた。
「そうします。気が付きませんでした」
 ジョンにとってはオウバイが唯一の美。一般の人間の感覚などどうでもよかった。ゆえにロイエルの外見など気にもしなかったが……。
 この子はどうやら可愛いらしい。
 教え子の青年があまりにも深刻な表情になってしまったので、医師は苦笑した。
「ハハハ。おいジョン。だからってあんまり神経質になることはないぞ? 心配することはない。たまにしかそんなことは起こらん。少し気をつければいいんだよ」
「どくたー? どうしたの? ぐあいわるいの?」
 腕に抱えたロイエルが心配そうに見つめる。ジョンは首を振った。
「いいえ。違うんですよロイエル。具合は悪くありませんよ。ちょっと考え事をしてただけですからね」
 安心させるように暖かくほほ笑み返すと。ロイエルが心配そうな顔を引っ込めて笑った。まるで小さなバラが咲くような愛らしさで。
「よかった」
 ドクター・ウェルズは、二人のやりとりを聞いて再びほほ笑んだ。良い関係だ。親子ではないのに、なんて暖かい。

 家に帰ったジョンは、ロイエルの服を全て処分した。これからは、自分のお下がりを着せるつもりだった。
「オウバイ様から預かった大切な術具になんてことをしてきたのだろう。不注意にもほどがある。ああ。うるわしのオウバイ様、こんな私を罰してください」
 これからは男の子と同じ格好をさせよう。いや、できるだけみすぼらしい格好がいい。そうすれば、「可愛い」などと言われることもない。
「どくたー……。なんでおようふくをすてるの?」
 ジョンのシャツを着せられ悲しそうな顔をしたロイエルに、ジョンはほほ笑みかけた。
「捨てはしませんよ。こちらへおいでなさい」
 ジョンは、洋服を袋に積める手を止めて、隣にぽつんと立つロイエルをつれてソファーの方に行った。
 この子には、自分の容姿を意識させてはいけない。傲慢な子にさせてはいけない。この子は……オウバイ様の大切な「お体」だ。
 ジョンとロイエルはソファーの上に隣り合って座った。
「いいですか? ロイエル」
「はい。どくたー」
 ジョンは、泣き出しそうな顔のロイエルに優しくほほえんだ。
「世の中には、着るお洋服どころか、今日たべるごはんもない子たちがいっぱいいっぱいいるんですよ? その子たちはね、住む家もなくて、毎晩毎晩、冷たいお外で眠らないといけないのです。夏も冬も」
 だまって聞いているロイエルの目から、ぽとりと涙が落ちた。
「……ごはんもないの? おうちも? ……かわいそう」
「そうです。あんまりひもじくて、あんまり寒くて、死んじゃう子が、毎日たくさんたくさん、いるんですよ」
 小さいロイエルはくるくるしたきれいな目を見開いた。
「……しんじゃうの……?」
 ジョンは、静かにうなずいた。ロイエルがしゃっくりを上げて泣き出す。ジョンは、ロイエルをひざの上に抱き上げて、背中をさすった。
「ロイエル。だから、あなたのお洋服を、そんなかわいそうな子たちにあげましょうね? 少しでも寒い思いをしないように。少しでも生きて行けるように」
「はい……」
 ジョンはほほ笑んで、その子たちのために泣いているロイエルの背をさすった。
「ロイエルは、かわいそうな人達を助けてあげられる子になってくださいね。麗しのオウバイ様のように」
「はい、どくたー……」
 それ以後、ジョンはロイエルに修道者のように節制した暮らしをさせるようになる。徹底した精神論を唱えて。
「ロイエル。あなたは他の子たちとは違うのです。あなたはオウバイ様のもの。オウバイ様の御心に沿うように。頑張りましょうね、ロイエル」
「はい。ドクター」

 12歳になったロイエルには、まだジョンのシャツが着せられていた。
 学校にも行かず、ジョンの診療所で手伝いに明け暮れるロイエルの姿を見て、ドクター・ウェルズは彼女がかわいそうに思えた。ジョンにして見れば、養女の身の安全のためにしていることだろうが……このように閉じ込めていては、ロイエルの将来は限定されるだろう。
 だからある夜、酒を携えて、ウェルズはジョンの診療所を訪れ、さながら息子に孫の教育をアドバイスするような気持ちで言った。
「君はもう医者だろう? 医学生ではない。経済的にもゆとりがあるはずだ。ロイエルも、もう子供じゃなくなる。そろそろ女の子らしい格好をさせてはどうだ? 幼児の間は注意が必要だが、もうあの子は大きいじゃないか」
 ウェルズは、居間に通されて、ソファーを勧められ、ジョンと二人きり、差し向かいで酒を酌み交わした。
 老年の医師は、この家の質素さにも辟易した。この木の床は、ニスを塗らずにどれくらいたつのだろうか。ずいぶんとカサカサしている。から拭きされるらしくそれなりの艶はあるが、時間が経った美しさというよりも、朽ちようとする空しさが漂う。壁も天井も、なんの飾りもない白い漆喰だ。調度品の類いも全くない。彼の祖母オウバイが住み着いていた時と、何ひとつ変わっていない。
「お前の仕事の手伝いならば、別にロイエルでなくてもいいだろう。看護士を雇えばいいじゃないか。そんな風に学校にもやらないというのは、いささか慎重に過ぎる」
 そして、家全体に漂う、消毒用アルコールの強い匂い。いくら診療所とは言っても、これはおかしい。
「ロイエルを看護士にするつもりならともかく、いや、そのつもりならば首都の学校に入れるなりしてだな……」
 ウェルズの言葉を、ジョンはややうつむき加減で静かなほほ笑みを浮かべて聞くばかりだった。
 その時、コンコン、と、扉を叩く音がして、ロイエルが酒の肴を木の盆に乗せて入って来た。
「こんばんは。ウェルズ先生」
「やあ、こんばんはロイエル。……ああ、また、きれいになったねえ」
 ウェルズがほほ笑むと、ロイエルは困ったようなほほ笑みを浮かべた。
「どうぞ、召し上がってください」
 彼女はジョンの白いシャツを着て、同じくお下がりのズボンの裾を切って履いていた。
 ふくらみはじめた胸や腰が、清楚できれいな体の曲線を描く。ぬけるように白い肌は真珠のようにきめが細かい。肩までで無造作に切られた髪の毛は、無粋にまとめてくくられているだけだったが、その艶といい滑らかさといい、どんな繊維も及ばない。
「ウェルズ先生、ゆっくりしていってくださいね」
 二人の間にある机に肴を置いて一礼し、部屋を出ようとした少女に、ウェルズは再び声をかけた。
「ロイエル、君は何か、やりたいことはないかい?」
 そして、ウェルズにとって理解しがたい答えが、ロイエルから返ってくることになる。
「オウバイ様のために生きることです」
 ロイエルは、きれいにほほ笑んで、そう言った。
 間髪入れず、ジョンが言葉を挟んだ。
「ロイエル。もういいから、あなたは眠りなさい」
「はいドクター。お休みなさい。ウェルズ先生」
 扉は閉められ、再び二人になった。
 そして、それまでの穏やかな雰囲気には、ほころびができていた。
 ウェルズは、眉を寄せていた。
「ロイエルは……おかしくなってはいないか……?」
 ジョンは、ほほ笑んだ。
「いいえ。ドクター・ウェルズ」
 そして、彼は立ち上がった。
「ロイエルは普通です。目立たない子なのです。あなたも、今の今までそうとはお気づきにならなかったでしょう?」
 ジョンは嗤った。
 ウェルズは、今まで息子のように接してきた青年が見せた表情の歪みに、気が付いた。
「ジョン……? お前は、」
 どういうつもりでロイエルを育てている? と聞こうとした口は、永久に閉ざされた。

「麗しのオウバイ様、お手数をおかけ致しました」
 ジョンの左肩の上に、皺だらけの左腕が現れていた。医師は陶酔しきった表情で、左腕に向かってひざまずき、床に頭をこすりつけた。
「オウバイ様、」
 美しい女の声がぴしゃりと返ってくる。
「このバカ! どうして今の今まで、とっととこの男を始末しなかったんだい! これでもう他には、ロイエルのことを評価する人間はいないだろうねえ? あの子をあんたの養子だと思ってる人間は、いないだろうねえ?」
「ああオウバイ様、怒ったお声もこの上なく麗しい……。ええ、おりませんとも。誰もかれも、ロイエルは孤児だと思っております。もちろんロイエル自身も。私は『ただの後見人』にすぎません」
 ジョンは熱に浮かされたように答えた。
 あのとき、そう、ロイエルがまだ物心もつかないとき。ドクター・ウェルズの忠告により、ジョンは悟った。……この子を養子にしてはいけない。普通の子供と同じ立場にいさせてはいけないのだ。これは『単なる捨て子』として扱わねば。でなければ、オウバイ様のおっしゃったように、道具として身の程をわきまえた子に育てられない。
 ジョンは、ロイエルには精神的修養として質素な生活を送らせていると思わせ、他人の目には孤児が医師の家にやっかいになっていると思わせた。
 ただ一人、ドクター・ウェルズを除いて。
 ジョンは、もはや動かなくなったウェルズを見下ろす。オウバイの術により、息絶えて床に倒れている老医師を。何の思いもなく。
「ドクター・ウェルズについては仕方がなかったのです。私は誰か開業している医師に師事せねば医者になれません。なぜなら、私は医学校に通っていないのですから。……彼は私を自分の子のように思い、ロイエルを自分の孫のように思っていたのです。だから、そろそろ潮時かなとは思っていたのですが……」
「だったらとっとと殺しな! 手間かけさせんじゃないよ!」
 ジョンは、オウバイに叱咤されて感激した。
「ああ……麗しのオウバイ様! あなたの言葉が私の力です! 貴方様の美しいお姿が一日もはやく拝見できますことを心からお祈り申し上げます」
「祈らんでいいから! とっととロイエルを大きくするんだよ! まだまだ子供さあねえ……あと5年ってところか……。おいジョン! ロイエルは初潮はまだなのかい?」
「へ? しょ……初潮ッ!?」
 ジョンの顔に朱が走った。
「おい。何赤くなってんだい!? ……あんたまさか、あの子に、」
「ち、違います! 私はオウバイ様一筋です! ちょっと、そういう、婦人科的な話が苦手で……」
 フンッ、と鼻息が聞こえた。
「お前医者じゃろ!? 子供だって取り上げてるじゃろ? なにを照れてんだい!」
 ジョンはあたふたと言葉を返す。
「ああっ、違うんです! 仕事なら大丈夫なんです……けど、麗しのオウバイ様の口から……そんな、しょちょうだなんてッ! ああはずかしいっ!」
「なんだいなんだい! あんた私に惚れてんのかい!? ケッ! 仕方ないねえ! あたしくらいの美女になるとそういうのが多くて嫌になるよ! まあ、んなことはいい! いいかい? ロイエルに生理が来る前に言っとくよ。あんた……あの子を、男に興味ないように育てただろうねえ?」
 ジョンは厳しい表情で顔を上げた。
「男に興味ですって? ハッ! そんなふしだらな子には育てた覚えは断じてありませんよ! あの子は潔癖な子です! そんないやらしいことは全く何一つ教えておりません! 耳にも入れさせませんとも! 下品な年配女性たちの会話の中にもゼッタイに入れないようにしております! 馬鹿にしないでください! 汚らわしいッ」
 その迫力には、オウバイさえ押された。おろおろした声が返る。
「そ、そうかい……。……いや、ちょっと聞いてみたかっただけなんじゃよ……。気を悪くしないでおくれね? すまないねえ……」
「もちろんですとも! ロイエルは、未来のオウバイ様の大切なお体ですから! 絶対にほんの一筋の傷すらつけないつもりでございます! 貴方様のお体は、至上の宝石! 天上の星々でございます! その点につきましては絶対の自信と確信がございます!」
 その熱意には、オウバイさえ引いた。
「うう、もういい。わかったわかった。……じゃ、あたしゃ、これで。帰るからね」
 その夜。ドクター・ウェルズの死体を沼に落としたジョンは、風呂で全てを洗い落とした。寝間着を着て、ロイエルの部屋に向かう。部屋では、ロイエルがやすらかな寝息をたてていた。身につけているのはジョンの寝間着のお下がり。白い枕には、ロイエルの髪が絹糸をまいたように広がっている。
 ジョンは、ほほえんでその寝顔を見つめる。
 やすらかにおねむりなさい、ロイエル。
 そして、清らかに、健やかに育ちなさい。
 あなたはオウバイ様の道具、オウバイ様の大切な体なのですから……。
 ジョンの笑顔には一片の迷いも、曇りも、呵責もなかった。

 そして、1年が経った。夏のある朝。
「ドクター……私、おかしいんです」
 真っ青な顔をして、診療室にいるジョンのところに、ロイエルが駆けて来た。
「血が止まらないんです……。もしかして、これは病気ですか?」
 急いた言葉に、ジョンは何事かと思って、診療の準備のために下調べしていたカルテから目を上げて振り返った。
「……。ああ。それは、」
 ロイエルの履いている、ドクターからのお下がりの茶色のズボンに染みが広がっていた。ロイエルは泣き出しそうな顔をしていた。不安そうに胸の前で手を握っている。
 ジョンは柔らかくほほ笑んだ。
「心配しないでくださいロイエル。それは病気でもなんでもない。あなたくらいになったら、たいていの女の人はそうなる」
 ジョンはロイエルに、処置の仕方を教え、部屋に戻って着替えてくるように言った。
 とうとうきたか。
 ジョンは、一人になった診察室でほほ笑んだ。
 あと少し。あと少しだ。そうすれば、オウバイ様は……
 ジョンの頬がだらしなく緩んだ。
「ああ! 麗しのオウバイ様! もうすぐですよ!」
 感極まってそう漏らし、ジョンは、今日の診療を中止すべく、扉に張り紙をしにいった。 私の教育は万全だ。ロイエルは清らかな少女になった。自らすすんで汚れたことをするような子では、断じてない! あとは、悪い虫がつかないように注意するのみだ。
 ジョンは、今日一日を、ロイエルのために割くつもりだった。
 やがて、2階の自分の部屋からロイエルが降りてきた。
 随分と、体つきが大人びてきた。そろそろ下着だけは揃えてやらないと。
「ドクター……おさわがせしてごめんなさい」
 しゅんとした様子で謝るロイエルに、ジョンは笑って首を振った。
「いいえ。驚いたでしょうロイエル。前もって教えておけばよかったですね」
 ジョンは、自分の前、患者用の椅子に腰掛けるように勧めた。
 ロイエルはそこに座る。
「じゃあ、今日一日はあなたに、大人の女性としてのたしなみをお話しすることにしましょうね」
「え!?」
 あんまりな申し出に、ロイエルは驚いた。
「一日だなんて! そんな! ドクター。私のためにドクターの貴重な時間を割かないで下さい。患者さんたちが困ります」
「いいえ」
 ジョンは、きっぱりと首を振った。
「これは大切なことなのですよ。ロイエル。オウバイ様の忠実な僕である私とあなた。あなたは体が大人になったのですから、大人としてオウバイ様に忠誠心を表す術を身につけないといけないのです。わかりますね?」
 オウバイ、の名が出た途端、それまで恐縮していたロイエルの表情が引き締まった。
「わかりましたドクター」

 ドクターが教えた大人の女性としてのたしなみは、用を得なかった。
 ロイエルは、辛抱づよく、おとなしく、素直に、育ての医師の話を聞いて、確認した。
「……ということは、大人の男の家に行ったらいけないんですね? 後は、夜は酒場に行ったらいけない。森にも行ったらいけない。はい、大丈夫ですドクター。私、そんなところに興味なんてありません」
 それまで、汗をかきかき、目をあちこちに泳がせ、頬を赤らめたりして、しどろもどろで言葉をさまよわせていたジョン医師は、ようやくほっとした。
「わかってくれましたね! さすがロイエル、オウバイ様の教えを忠実に守る良い子ですね!」
 ジョンはほっと胸をなでおろす。
 心配する必要なんてない。この子の潔癖さは、折り紙付きだ。

 深夜。沼の中の美女は、苦悶していた。
 時間がない。間に合わないかもしれない。
「ゴホッゴホッゴホグォフッ! ゲエッ!」
 黒い沼の水に、鮮血が混じった。
「ハアッハアッハアッ! グァフッ!」
 あの娘はまだ13だ。まだ早い、まだ早い、しかし、肉体がもたなくなっている。沼の中にいてさえ、もはや美しい体ではあり続けられない。
 吐き出された血と、どす黒い沼の水の中で、オウバイはその瞳を爛々と輝かせた。
 ああ、今すぐにでもあの体が欲しい! 
 欲しい! 
「だがまだ早いんじゃあ! わしの『体』を使うには勿体ない!」
 体が、ロイエルの生気を必要としている。
 だが、あの娘はまだ早い。
 まだ早いが欲しい! 
 体の芯から燃え上がる欲望に負け、オウバイは、陸上に姿を現した。
 正確には、ロイエルの部屋へ。
「ハアッハアッハアッ! ううっ! グフグゥフグゥ! ガハッ!」
 喀血を繰り返し、沼の水を滴らせ、口からは唾液と血液を溢れさせて、皺だらけの老婆が、床をのたうった。
 誰も目覚めなかった。オウバイの苦悶は誰にも聞こえない。まるでこの女はすでに死んで、この世のものではなくなっているかのように、いくら苦しみ悶えても、その姿は生きている者には知覚されなかった。
 木の床を、沼地の水と血液、唾液で無体に汚し、ロイエルのベッドのシーツにしがみついて、ようよう身を起こした。
 あどけない少女の寝顔を見て、オウバイはにたりと嗤った。
「おやおやおや。よく眠ってる上に、あんたもう女になってるねえ。じゃ、後は3年待つだけかい。ヒヒヒ!」
 未来にはっきりと現れた光明。オウバイは笑いをおさめきれない。
「イッヒッヒッヒッヒ! イッヒッヒッヒッヒ! もうすぐ終わりじゃー! ヒッヒッヒ! さてと、どうすればいいかねえ? 私の今の苦しみをまぎらわすには」
 オウバイは、ロイエルから生気をもらうつもりだった。
「しかし……。ちゅーしたら駄目じゃろ? 17までは何が何でも純潔を保たなくっちゃね。えい、手をにぎりゃええんじゃ!」
 ぐいっ、と、オウバイはロイエルの右手を乱暴に掴み上げた。
「んっ、」
 ロイエルが身をよじる。
「おとなしくせんかい! わしの道具の分際でっ!」
 オウバイはそう叱り付けて右手を握り締めた。
「あ、う」
 ロイエルが、苦しそうな声をあげる。
「う……うっ」
「よっしゃこれくらいでやめといたろ! ハアッハアッハアッ! ちょっとは楽になったー!」
 いくらか元気になったオウバイ。楽になると同時に、思考に幅が出てきた。すると、いい考えが閃いた。
「あーそうか。なにも、こいつから生気をもらわんでも……。人間のだったら誰でも構わんのじゃ。そういえばそうじゃ」
 深夜。沼の黒い水と、鮮血に塗れた老婆は、生け贄の娘を前にして、にたりと嗤った。
「遠慮なく、村の衆をいただくとするかいの」

 やがて、ミスリルマインに恐ろしい噂がたち始めた。
 村を守ってくれたオウバイがいなくなり、ミドガルズオルムが暴れ始めたようだ。
 夜な夜なミドガルズオルムが村を徘徊し、酔って道端に眠っている者を捕らえて沼に引き込み、生き血をすするらしい。事実、毎朝毎朝、沼の岸には2、3人の死体が転がっていた。
 ミドガルズオルムは幼児を餌にし始めたらしい。昨日も1人、その前も1人。幼児が忽然と姿を消し、そして数日後に沼の岸辺でその死体が見つかった。
 若い女の血も好きらしい。酒場で接待する女性が全員、沼地で死体となって見つかった。
「うーむ。こりゃあ、いけないなあ……」
 ミスリルマインの太った領主は、課せられた務めには腰が重いくせに、こすい金儲けには動きが速いという困った男だったが、さすがに村の大事に動き出した。村人達からの度重なる苦情申し立てで、晩酌もままならなくなったからだ。彼は、2日間だけ酒を断ち、頭をひねって、もっともな策を考え出した。
「大蛇の所為というなら、棲みかの湿地を埋め立ててしまえばいいんだ。そうすれば、住む場所がなくなって死んでしまう。土木工事は大掛かりだし金もかかるだろうが……。なぁに、金なら、国から出してもらえばいい。なんせ、自然災害だからなあ。だから、村が負担する金はたかがしれてる。なんせここは辺境だ。それも、ただの辺境ではない。無駄にでかくて危険な湿地に囲まれているという、「特段の配慮をすべき、不便で危険な地理的条件」ときている。お陰で、補助金も交付金もたんとくる。私たち村の負担は、微々たるもんだ」
 毎日を不安に暮らしていた村人たちは、領主の案に胸をなでおろした。そうだ。ミドガルズオルムが悪さをするというならば、住んでいる湿地自体を無くせばいいんだ。
 村民達に異存はなかった。わずかな者を除いて……。

「これは、困ったことですよ。ロイエル」
 ジョンは、沈痛な顔で診察椅子に腰を下ろし、隣に立つ少女にそう言った。
 季節は初夏、時刻は早朝。診察室の窓からは、垣根越しに、よどんだ沼地が見える。そこから、涼しいが湿った風が窓を抜けてくる。黒い淵から湧いてきた霧が、沼臭い匂いと共にどんよりと漂ってきたりもする。
 ジョンの表情を心配そうに見つめたロイエルは、そっとたずねた。
「沼が、そんなに大切なのですか? ドクター」
「ええ。とてもね」
 ジョンは、窓の外の沼地からロイエルに視線を転じた。
「無くなってしまったら、オウバイ様の術が効かなくなるのです」
 実際は、オウバイの生存自体が危うい。そこに棲んでいるのだから。
 だが、ジョンはそのことをロイエルに明かさなかった。
「沼は、神聖なものだったのですね?」
「そうですよロイエル。ですから、私たちは沼を守らねばなりません」
「わかりました。ドクター。では、領主の所に話をしにいくのですね?」
「ええそうです」
 二人がそう結論づけた所に、玄関の扉を激しく叩く音がした。
「おい! おい! ジョン先生! 大変だ!」
 慌てた男の声が響いてきた。
 二人は顔を見合わせ、そこへ向かった。
「おはようございます。おや、ジェームズさんじゃないですか」
 ジョンは、玄関扉の向こうに、領主の家の使用人を見つけてほほ笑んだ。なぜかバケツを持っている。
「朝早くからどうなさいました? どなたか、お怪我でもなさったのですか?」
「違う違う! そんなもんじゃないんだよ! 先生、あんたんとこのおばあさん、……ほら、オウバイさんだよ」
 オウバイの名前を聞いた瞬間、ジョンの顔はバラ色に染まった。
「おばあさま!? うるわしのおばあさまがどうかなさいましたか?」
「先生、喜んでる場合じゃないんだよ! オウバイさんがこともあろうに、領主を、殺しちまったんだ!」
「え!? そんな、まさか、」
 ジェームズは2、3度うなずくと言葉を続けた。
「俺はこの目で見たんだ。ホントのことだぞ。オウバイさんと先生とは、最近一緒にいなかったとはいえ、やっぱり家族だろ? あとできっと、事情聴取の役人が来るよ。先生は心の準備をしとけよ。今、領主の館は大変なんだ。俺は湿地の水を汲みに行くはめになっちまったしよ。もうわけがわからねえ」
 じゃあな、と言って、ジェームズは沼の方へと駆けて行った。
「やった。やりましたよ」
 ジョンは、一筋の光を見たようにほほ笑んだ。そして、息を呑んだまま隣に立つロイエルに、ゆっくりと言葉をかけた。
「ロイエル。さあ、試練のときがやってきたようですよ? オウバイ様の偉大なるお力が顕現なさるときが来たのです」
 ロイエルは、不思議そうにジョンを見上げた。
「顕現? 一体どういうことですか?」
「ここで立ったまま話すほど、軽々しいものではありません。さあ、診察室に帰りましょう」
「はい」
 ジョンは診察室にロイエルを連れて行った。
 そして、オウバイの偉大なる考えについて、これから起こると予想されることについて、話して聞かせた。
 窓の外は、さわやかな初夏の緑の風景。
 二人は、診察用の椅子に座って語り合う。
「ロイエル、麗しのオウバイ様のすばらしさについては、ずっとお話ししてきましたね?」
 ジョンの言葉に、きっぱりとしたうなずきが返された。
「はい。オウバイ様は偉大でお美しい方だと。この世の全てはオウバイ様のお力によって存在しているのですよね? そしてドクターと私は、オウバイ様の忠実なる僕。今は、オウバイ様は天の国で私たちを見守ってらっしゃるけれど、いつの日か、不老不死の秘術を成功させ、宇宙の女王として私たちの前に、その麗しいお姿を現される。私たちは常に、倹約、質素、謙譲を旨として、いつか降臨されるオウバイ様のために真摯に働かなければならないのですよね? オウバイ様の御心にかなう者として、私たちはオウバイ様の道具でなければならないのですよね?」
 立て板に水を流すように、ロイエルが流暢にそれを語ってのけた。
 ジョンは満足げにうなずく。
「ええそうです! 私たちはオウバイ様の忠実なる僕。私心を滅し、大義のため、理想のため、信念のために、日々の生活を精進しなければなりません。さて、ロイエル、」
「はいドクター」
 それまで、穏やかにほほ笑んでいたジョンは、真面目な表情になって少女を見つめ直した。
 ロイエルも表情を改め、真剣な顔になって、ドクターを仰ぎ見る。
「いよいよ、オウバイ様の降臨の時期が近付いて来たのです!」
 その言葉に、ロイエルの表情は輝いた。
「本当ですか!?」
 しかし、ジョンの表情は変わらず、深刻なほど真剣なままだった。
「しかし、ここへ来て、オウバイ様のお力の源である湿地が……沼が、埋め立てられようとしている。……村の噂では、ミドガルズオルムが暴れて人々の命を奪っていくということになっていますが。真実は違うのです!」
 ロイエルは、息をのんだ。
「どういうことですか? ドクター?」
 ジョンは、重々しくうなずくと、口を開いた。
「いいですか、ロイエル。ミドガルズオルムは、オウバイ様のお使い。決して人々に害をなす存在ではないのです。最近だけでなく、昔から、ミドガルズオルムは湿地に近付く人間を食い殺す、と言われていますが、それは違うのです! 沼に引き込んで人を殺すのは、麗しのオウバイ様に反対する、悪辣な悪魔たちの仕業なのです!」
 ロイエルは、目を見開いた。
「そんな、」
「本当です。村人がその真実に気づかないのは、彼らは私たちと違い、普通の人間ですから、可哀想に、悪魔の力に操られてしまっているのです。なんとも悲しいことです」  しばらく目を伏せ、少し首を振ると、医師は顔をあげて少女を見つめた。
「しかしロイエル、村人たちを許しなさい。彼らは弱さゆえに真実を知らされない、そんな哀れな宿命を負った存在なのです」
 養い子は素直にうなずく。
「はい、ドクター。……私は村の人達が好きです。だから大丈夫ですよ……あっ」
 途中で何か思い出したらしく、ロイエルは「そうだ」とつぶやいた。
「ドクター、今日はリウマチのジェニーおばさんの診察の日ですよ。とても調子が悪いでしょう? それに、ドクターとお話すると安心するみたいです、オウバイ様のことで大変ですけど、あの人だけは今日診察してくださいますか?」
 ロイエルの言葉に、ジョンはうなずいた。
「そうですね。ジェニーさんだけは診ましょうね。それで、話を元に戻しますよ? 領主の家の使用人のジェームズさんが、オウバイ様があらわれたと言ってましたよね?」
「はい、ドクター」
「あれこそが、偉大で麗しいオウバイ様がついに不老不死の聖なる力を発揮するという、始まりのしるしなのです!」
 右のこぶしをぐっと握り締めて、医師は声をあげた。
「さあ! ロイエル、私と二人で聖なる湿地を守り、オウバイ様の降臨をお手伝いいたしましょう! 村人たちは、可哀想に、ほんとうの真実がわかっていないのです。だからきっと、悪魔に騙されて湿地を埋め立てようとするはずです。ですが、私たちは違います。私たちには偉大なる真実の女王、オウバイ様がついていらっしゃるのです! 私たちは決して、罪のない哀れな村人たちを恨んではいけません! 広い心、そして、深い思いやりをもって接しましょうね! 私たちが戦う相手は、オウバイ様の降臨を邪魔しようとする悪魔だけです!」
 ジョンは、熱に浮かされたように言葉を並べた。
 ロイエルは、それを素直に聞いて、与えられた試練に立ち向かうべく、強くうなずいた。
「わかりましたドクター。私、オウバイ様を守ります」
 長く熱く語ったドクターは頬を紅潮させつつ、「よろしい」、と、うなずいた。
「ではロイエル、ジェニーおばさんを迎えに行ってくれませんか? 診察予定の時間には少し早いですけど、さっさと済ませてしまいましょう。今日は沢山することがありますからね?」
 ここでジョンは、引き締まった表情を解いて、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
 ロイエルもほほ笑み返した。
「はい。ドクター」
 そして彼女は、患者を迎えに行くために家を出て行った。
 一人になった家で、ジョンは考える。
 オウバイ様のお体に限界が来ている。もはや、人の生気を吸い取るしか、延命の道は残されていないようだ。
 ジョンの目から涙が溢れた。
「あんなにたくさんの人を必要とするほど、麗しのオウバイ様は弱ってらっしゃるというのか! ……ああ! おいたわしい!」
 数日前、ロイエルの部屋が、汚泥と血液とで汚れていた。そして、少女は一日、体調を崩して寝込んだ。
 医師は涙を手でぬぐい、鼻をすすった。
 大切な道具に手をつけねばならないほど、衰弱されているのだ。ロイエルにはそのことについて、「これは悪魔の仕業だ。もっと精進しなければなりませんね」と説いておいた。それで納得してくれた。ロイエルは大丈夫だ。しっかりと身の程をわきまえている。あの子なら、オウバイ様のために、自分の命と体とを喜んで差し出すだろう。
 そして、医師は自分がなすべきことを思いめぐらす。
 あれらの変死体。検死にかけたら死因がわかってしまう。ミドガルズオルムの仕業にしては、まったく損壊がない。牙の跡も何もついていない。……魔術によって生気を吸い取られたことによる衰弱死だ。検死をするのは村の医師。私以外にも医師はいる。
 オウバイの孫は、暗く微笑んだ。
 ……私以外の医師を、消さねばならない。
 その時。
「ジョンや」
 ひび割れた声と、そして、姿がジョンの目の前、診療台の上に現れた。
 ジョンは老婆を一目見ると、涙を溢れさせた。
「ああッ! ああ! オウバイ様! 麗しのオウバイ様ぁ!」
 枯れ木で作った人形のようになりはてた老婆が、ジョンの前に現れた。
「お久しぶりでございます! ああ! お会いしたかった!」
「挨拶なんかいいんじゃぁー!」
 すがりつこうとするジョンを、オウバイは蹴った。
 骨と皮だけになった細い脚が、医師の腹に突き刺さる。
「ぶぐっ!」
 ふん、と、老婆は鼻を鳴らした。
「ジョン! 大変なことになったよ! 私の沼がつぶされる! うう、ゴホゴホゴホッ!」
 言葉の途中でオウバイが咳き込み、血を吐いた。
「ああ! オウバイ様! 大丈夫ですか!?」
 駆け寄る孫を、老婆は手で振り払う。
「かまうんじゃないよ! いいかい! あたしゃもう沼から出て来ないよ! ロイエルが17になって、私の体になるにちょうどよくなるまでね! それで、いいかい! お聞き!」
 おろおろするジョンを、オウバイは叱咤した。
「はい! 仰せのままに! 麗しのオウバイ様!」
「アホかー! まだ何も言っちゃいないよっ! うう! ガハガハッ!」
 オウバイは、再び血を吐いた。そしてセイセイと荒い息を繰り返した。
「ハアッハアッ。あんたがやらなきゃならないことを言っとくよ! ロイエルが17になるまであと3年……。あたしゃ、このままじゃもたない。だから沼に入ったまま安静にしているよ。お前は私に『エサ』を用意しな?」
 ジョンは、それまでデレデレ笑っていた顔を、神妙なものにした。
「エサですか?」
「そうだよ」
 オウバイは、血まみれの顔で、ニタリと嗤った。口の周りのしわに血が染み入って、壮絶な表情になっている。人食いのようだ。
「沼地の水を診療に使うんだ。あれにはディープメタルが溶けている。弱った人間なら、簡単に私のエサになる。私が沼の中から呪いをかける。……そうだ、いいこと考えたよ。井戸という井戸に沼の水を入れな。そうすれば、村全体が、私の思いのままになる……。後3年間、じわじわ私のエサにしてやるよ。私が不老不死の術を成功させたら、証拠が残らないように、この村を滅ぼせばいい」
 そこまで話したとき、家の玄関の扉が、軋んだ音を立てた。
「チッ、ロイエルが帰って来たね。じゃ、頼んだよ! ジョン」
「はい! オウバイ様!」
 老婆は消えた。診察室に、汚濁した血を撒き散らして。
 入れ替わりにやってきたロイエルが、その光景に驚いて声をあげた。
「どうなさったんですか!? ドクター!」
 ジョンは、ほほ笑んだ。
「悪魔が、宣戦布告にやってきたのですよ。さあ、ロイエル。オウバイ様のために、戦いましょう」

 そして、紛争は始まった。
 次々と奇異な死を遂げる医師たち。昨日まで元気に診察を行っていたのに、次の朝には寝台の上で死んでいた。あるいは、洗面器の中に自ら顔を浸けて「水死」する医師もいた。……彼らの診療室には、いずれも、強い消毒用アルコールの匂いが充満していた。
 徐々に村の大人たちは正常な判断力をなくし、男は昼間から酒場に入り浸り、女は部屋に閉じこもるようになる。国から埋め立て工事に派遣された人夫も、この村の住民と同じ状態になった。
 そして、おかしくなった親から養育が受けられなくなった子供たちが残った。乳児は衰弱死したり行方不明になり、幼児はふらふらと湿地へさまよい出て、そして「ミドガルズオルム」に殺された。大きな子供達は、村に一つあった喫茶店に入り浸り、無為に時間を過ごし、行方不明になって死体で見つかることもあった。
 おかしな事態に、領主は国に助けを求めた。湿地の埋め立てを巡る小競り合いが大きくなり紛争化してしまったと届け出た。
 国の指示を受けて、国軍が「紛争処理」に向けて動き出した。
 だが、埋め立て阻止派の中心人物であるはずのオウバイは、消息不明だった。村中のどこにも、かの老婆の姿はなかった。国軍の調べに対し、村人の多くはこう言った。
「あの呪術者は、若いころはミドガルズオルムから村を守ってくれた。かつては良い呪術者だったのだ。おそらく、領主の館に現れて湿地を埋め立てないように言った、あれが最期だったのかもしれない。ひどく年老いて衰弱している様子だった。……おそらくもう、あの時は正常な判断もできないほど頭も老いていたのだろう。息子のジョンもオウバイの行方を知らないというし。……死んだんだろう。きっと」
 だから、首謀者は不在。しかし、紛争はそこにあり続けた。だが、相手を特定できない。兵士たちは誰を相手に戦ったものかと戸惑った。とりあえず、湿地の埋め立てをしようとすると死に物狂いになってそれを阻止しようとする村の人々を取り押さえようとした。
 しかし、彼ら「埋め立て阻止派」の顔触れは、毎回違っていた。推進派の人間が交じっていたりもした。湿地付近にいた村人であればなんであれ、埋め立てを阻止しようという衝動にかられるようにしか、見えなかった。
 一般の兵士にも、村人にも、争いによる死人は出なかった。……だが、酒に酔って沼に近づき、足を滑らせて、水死する者は何人も何人もいた。
 上官は別だった。
 初めに赴任した指揮官は、ある朝井戸に沈んでいるのが発見された。死因は水死。ただ、ひどく、酒の匂いがした。酒に酔って、誤って井戸に落ちたとしか、考えられなかった。
 次に来た指揮官は、本当にミドガルズオルムに襲われた。左肩からがっぷりと左腕を食いちぎられた。彼は湿地の辺の調査中、湿地の色が、場所によって異なることに気づいた。そして、紛争の呑気さに暇を持て余した彼は、湿地に石を投げて暇をつぶしていた。何げなく、その辺にあった石をつかんで、澄んだ水に投げ込んだ。すると、「ギャアア!」という悲鳴に似た叫び声と共に、ミドガルズオルムが姿をあらわした。彼は左腕を食いちぎられた。指揮官は、その大蛇の姿を報告書にこう表した。「そのミドガルズオルムは、自分がこれまでに見てきたどれよりも、際立ってやせ細り、そして、いらだっていた」と。その後、その指揮官は、原因不明の代謝障害を引き起こし、死亡した。当初は、病死とされた。
 3人目の指揮官は、湿地に身を踊らせて死んだ。赴任した4日後、湿地に水死体となって浮かんでいた。原因はわからない。ただ、彼女は若い女性だった。当初は、事故死とされた。

 4人目は、軍当局の大佐だった。自分で志願したという。
「ロイエル。ちょっとお使いに行ってくれませんか?」
 ジョンは、書庫でカルテの整理をしていたロイエルに声をかけた。
「はい。ドクター」
 ロイエルに、黄色い小石を渡しながら、ジョンはほほ笑む。
「今度来た指揮官は、大佐だそうですよ。位の高い人ですから、少しは話を聞いていただけるかもしれません。この小石には、オウバイ様の偉大なる魔法がかけらているのです。これを渡せば、大佐にかけられた悪魔の呪いも解かれることでしょう。話がしやすくなるはずです。私は、今、診察で忙しいので、あなたが先に行ってこの小石を渡しておいてください。私は後から来て、大佐と話しをしますからね」
「はい。ドクター」
 ロイエルはにっこりほほ笑んだ。育ててくれた彼の役に立てること、それが少女の喜びだった。そして少女は、指揮官の駐留所となっている領主の家に出掛けて行った。
 それを見送り、ジョンは心の中でつぶやいた。……あと2年だ。この子が17になるまで、あと2年。
 30分後。
 少女が浮かない顔をして戻って来た。正確には静かに怒っていた。
「どうしたんです?」
 ジョンが尋ねると、ロイエルは頬に手を当てて、苦い声で答えた。
「指揮官にまるっきり子供扱いされたんです。……ドクターごめんなさい。あたし、ソイズウ大佐の頬を平手で打ってしまった。あの人、気を悪くして……ドクターとお話してくださらないかもしれません」
「なんですって? あなたが暴力をふるうだなんて。まあ、事情を話してください」
 ジョンが事の経緯を聴く。一体、どんな「子供扱い」をしたら、柔順なこの子が怒り出し、あまつさえ手を上げるのか?
「はい、ドクター。実は……」
 そして、ロイエルから、ことの経緯を聞いて、ジョンは、はらわたが煮え繰り返った。表面上は努めて穏やかにしていたが。
「つ、つまり、いきなり抱きつかれて『おじさんと仲良くしよう!』と言われたと。……ロイエル、それで、その後は、あなたは大丈夫だったんでしょうね? 何か、何か、されたりしませんでしたね?」
 動揺した医師の確認に、ロイエルは落ち着いた口調で答えた。
「ご安心くださいドクター。私、ドクターの使者として、恥ずかしくない態度をとりました」
 それは答えになっていなかった。
 後見人は「そうでなくて!」と途方にくれた。「いやらしいことをされなかったか?」と聞きたいが、純情過ぎる医師にはできない質問だった。
 ジョンは目を泳がせながら、苦心して言い回しを考えつつ、問い重ねた。
「あのですね、ロイエル。……他に、ソイズウ大佐から、……そうだなあ、どこか、みだりに体を触られたり、さすられたり、しませんでしたか?」
 ロイエルの顔が曇った。
「ごめんなさい、ドクター」
 医師は、まさかの予感にぎくりとした。
「……ど、どうかしたんですか?」
「ソイズウ大佐のこと、平手で打ってしまって……」
「いやそれはどうでもいいんです」
 持って回った聞き方をするジョンと、その方面にまったく無知なロイエルの話が噛み合うはずがなかった。
「ドクター? どうでもいい話ではないと思うのですけど」
 不思議そうな顔をする「純粋培養」の少女に、理想論好きの養い親はハッとさせられた。
「ああ、いやいや。そうですよね。どうでも良くはなかった。ロイエル、乱暴はいけませんよ? 話し合いは常に理性的な態度を第一としてですね。常に落ち着きを大切にしなさいね。で、ソイズウ大佐が、ソイズウ大佐がですよ? ロイエルに対して何かをしなかったかと聞いているのです。そこをはっきり答えてください。どうです?」
 ジョンのもどかしい言葉に、ロイエルは、またも、ごめんなさい、と謝った。
「ドクター、ごめんなさい。実は、私は忍耐力がまだまだ足りないようです。『お医者さんの家の子なんだってね。何でも好きな物買ってあげるから、おじさんとお医者さんごっこしない?』って言われて。私は、ドクターのお仕事をきちんと手伝っているつもりでいますから。『ごっこ』なんて遊びをするほど幼稚ではないです、と、断ったのですけれど。でも大佐ったら『どうしてもどうしても』ってしつこくて、……それで、つい、平手打ちをしてしまったんです」
 医師は、意味がわからず首を右に傾げた。
「『お医者さんごっこ』ですか?」
 ロイエルも、同じように困惑した顔で、うなずいた。
「はい。たしかに『お医者さんごっこ』と言いました」
「ううむ?」
 意味がわからず、ジョンは首を左に傾げる。
「お医者さんごっこねえ。……それで、大佐は一体、あなたに何をしたんですか?」
 少女は、自分の衣服の襟首に指を掛けてひっぱった。
「服を脱いでベッドに寝てごらん、って」
「ハ……!?」
 少女の後見人は、あんぐりと口を開けた。
 それはつまり悪戯目的ということだ。
「か、仮にも、国家の、軍人が……そんな、」
 めまいを起こして頭を抱えた医師に、ロイエルは「ごめんなさい」と謝った。
「でも……私、物欲に捕らわれるほど未熟じゃないです。それに、やっぱり失礼だと思うんです。私、ドクターのお仕事をきちんとお手伝いできてるはずなのに。『ごっこ』だなんて、ほんの子供の遊びですよね?」
 少女が怒るに至った理由は、かなり真面目な方向にずれている。
 そういった方面には潔癖で真面目過ぎて、つまり遅手も遅手のドクターは、あまりの驚愕に口を閉じるのを忘れ、舌から歯茎から、カラカラに乾いてしまった。
 ロイエルは言葉を続ける。
「大佐は、私がはっきり断ってるのに『いいから』って言って、無理やり脱がそうとするんです。だから、私、怒ってしまって。……でも、やっぱり、ドクターがおっしゃるように、紳士的な態度と落ち着きが大切ですよね。やっぱり謝って来ます。彼がいきなり抱き着いたのだって、親愛を示すための大佐の故郷の慣習かもしれないし」
 また出て行こうとした少女の姿を見て、医師はあわてた。
「駄目ですッ! 行っては駄目! 待ちなさいロイエル! 危ないですから! 今後その人のそばに寄ってはいけません!」
「謝りに行くのもいけないのですか?」
「……ロイエル、あなたって子は……」
 ぜんぜん男の性質をわかっていない様子の少女を見て、ジョンは呆れると同時に我に返った。
 この子をそういう風に育てたのは自分だ。
 ごほん、と、医師は咳払いをした。
「今度のことは、ロイエル、よくやりましたと言いましょう。彼はどうやら悪魔の手先だったようです。オウバイ様の偉大なる志を阻もうとする、邪悪な思念が感じられます。……ロイエル、よく、見抜きました」
 ロイエルは驚いた。
「そうだったのですか? あたし、ただ、夢中で。……だって、抱き上げられたままどこかに連れて行こうとするし。ああもしかして、悪魔の所に連れて行くつもりだったのかも……」
「なっ!」
 ジョンはもっと驚いた。そして、本格的に怒った。
「ななんですって! そ、そんなことまでも……おのれ、オウバイ様の聖なる志を踏みにじろうとする毒虫め!」
 一方のロイエルは落ち着きを取り戻した。
「悪魔の手先だったなんて。よかった。オウバイ様がお守りくださったから、私は平手打ちができたのですね」
 ジョンの怒りは収まらない。
「ええ! オウバイ様の御心によって、あなたは救われたのです! おのれえ!」
 医師は、ロイエルには「ちょっと散歩してきます」と告げると、すぐに領主の館に居る大佐に怒鳴り込みにいった。

 その夜。ジョンはそのことをオウバイに報告した。
 医師が独りきりの診療室に、老婆の声が響く。
「そうかいそうかい。さすが、わしが『いい種』を見つけて腹から出した子だよ。いくら隠しても、わかる奴にはわかるんだねえ。こりゃあ、ますます注意しなくちゃね。よし、ロイエルには、村のガキの中からお守りをつけてやるよ。ちょいとガキをかどわかして来て、術の指南でもして、ロイエルを守れるようにしてやる」
 その後数日と経たないうちに、ソイズウ大佐は、領主の娘にも同じことをした。それは速やかに発覚して、彼は軍当局より厳重訓戒を受け、そして首都へ呼び戻された。彼はミスリルマインで生き残ることができた最初の指揮官だった。

 5人目の指揮官は、若い女性だった。
 彼女の名はアンネ。ここに任命される以前は、首都警備を行う部署の幹部だった。彼女の異動は、ミスリルマインの紛争の性質についての見解が研究院より提出されたことによるものだった。研究院の見解はこうだった。この紛争を住民の行動特性より分析すると、通常の紛争というよりも、いわゆる「集団ヒステリー」に近いと。ミドガルズオルムの脅威により、それまで表に出て来なかった、村人たちの心理的不協和が形となって表れたのが、今回の紛争だという。それで、アンネ准将にお鉢がまわってきた。彼女の職務は首都で開かれる集会、式典、会議等の警備だった。雑多な人々の集まりを平静に整理することにかけて、高い評価を得ていた。
 彼女の人となりは、良く言えば真面目。別の言い方をするならばお堅い。そして、彼女は酒が飲めない。同僚の間でも酒の席の付き合いが悪いことでは有名だったが、彼女はそれを改めようとしない。「酒を飲むと脳が正常な判断を下せなくなる」と言って、酒飲みたちの気持ちの方こそ理解できないと公言していた。
 その夜も、彼女は酒場で一人、「水」を飲んでいた。
「准将、准将も堅いことおっしゃらずに一杯どうです?」
「ここの酒は本当に癖になるんですよ。ぜひ味わってみては?」
 酔った部下からのしまりのない誘いに、彼女はすげなく首を振った。
「結構。私はこの水で十分」
 そう言って、自分でもって来たミネラルウォーターを飲み干す。そして、鋭い視線で、あたりの酔っ払いたちを睥睨する。彼女が一番嫌いなもの、それは酔漢だ。なんというだらしなさだ、と、心中で毒づいた。
「ここの水は口に合わない。酒はそれ以上だ」
 彼女の両脇を固めていた部下たちは肩を竦めた。
「やれやれ……准将は首都に生きる人らしい」
 アンネ准将は軽くうなずく。
「そうだ。私は首都生まれの首都育ち。今更変わるものではない。さて、私はこれで失礼させてもらう。これで小言をいう変わり者の上司がいなくなるから、羽を伸ばせ」
 にっと笑って彼女は席を立った。
「お送り致します」
 立ち上がる部下を、彼女は手で制す。
「私一人で大丈夫だ。酔ってないからな。送られると私が世話を焼く羽目になる。いいからお前たちはゆっくりしていけ」
「は……ではお気をつけて」
「お前たちもな」
 彼女は酒場の店主に部下の分の金も支払うと、乱れない足取りで出て行った。
 そして、夜の村に出て、彼女はためいきをつく。
 どうも慣れない。
 首都暮らしが長いせいだろうか? 先程は部下の言葉にそう応じてあしらったが、……暮らしは長くとも、首都かぶれはしていないはずだったのだが。
 アンネは、ここに赴任して以来、ずっと違和感を感じていた。
 この村はおかしい。何がと聞かれると具体的には答えられないが、絶対に何かがおかしくなっている。
 赴任以来、彼女は、村の物を何一つ口にできないでいた。ゆえに、首都からの補給物資のみの生活を送っている。風呂はしかたなく領主の館のを使わせてもらっているが……。
 生来の潔癖症ゆえそうなのだと、他人は思っているが。彼女は自分がそこまで頑なではないことを知っていた。
 ただ、ここの物は口にしたくない。
 何かが嫌に感じた。
 乱暴な言い方をするなら、「気持ち悪くて生理的に受け付けない」。
 絶対に、ここの物は口にしたくない。
 その原因がわかれば……、紛争の解決につながる何かがわかる気がする。これは軍人としての勘だった。
 ふと、彼女は夜空を見上げたくなった。
 塞いだ感覚に、息が詰まりそうになった。
 見上げる空は春の空。
 柔らかな風が流れ、オリオン座が西の空に消えようとしていた。
 やがて、夏が始まる。湿地に囲まれたこの村は、さぞ蒸し暑いことだろう。

「?」
 アンネは、首をかしげた。
 風が、湿地特有の腐った草の匂いをしているだけでなく、酒臭い。ここが酒場の中というなら話はわかるが、そうではない。
 何故こうも強く酒の匂いがするのか?
 怪訝に思った彼女は、湿地に向かって歩きだした。
 近づくほどに酒臭い。
 道を外れ、背の低い雑草を踏み締め、表土の露出したわずかな斜面を下り、湿地に出る。
 アンネは、湿地周辺の様子に異常を発見した。
 湿地の岸が、非常に乾燥している。
 まるで砂漠地帯のように、土が乾燥して、さらさらの粉状になっている。
 そして、酒倉にいるような酒臭さが充満している。いや、それ以上だ。……薬品倉庫にいるようだ。酒ではなくて、純度の高いアルコールの臭気がする。
 あまりの息苦しさに、アンネは咳き込んだ。
 一体なんなのかわからないが、この事態は一人で対処すべきことではない。だれか、兵士を連れて来なければ。
 ごほごほと咳をしながら、アンネは引き返そうとした。そして再び、ゆるい斜面を上がるべく、上を見る。
「……」
 すると、星明かりの中、斜面の上に立ってこちらを見下ろす小さな人影があった。
 子供? 
 身長からしてそれくらいだった。140センチほどの人影がぽっかり立っていた。
「こんな時間に、こんな場所にいたら危ないぞ。……帰りなさい」
 そう声をかけると、その人影は嗤った。
「ヒッヒッヒ!」
 しゃがれた笑い声が、気味悪く響いた。
 子供じゃない、年寄りだ。……なら、分別はあるだろう。これ以上、私があれこれ注意しなくてもいいか。簡単な言葉を掛けて、後は放っておこう。
 アンネは斜面を昇る。そして人影のところにたどりついた。
「夜分にこんな場所でどうされました? 私は国軍の兵士です」
 人影に向かってそう言う。
 すると返事が返った。
「知っとるよー。アンネ准将じゃなあ?」
 夜目に見ても随分年寄りだった。背骨は曲がり、不随意によぼよぼ震えている。声色からしてこの老人は女性だ。
 アンネはそう思いながら、老人に向かって軽くうなずいた。
「ええそうです。夜の湿地は危険ですから、あまり近寄られないほうがよろしい。あなたの方が湿地のことにお詳しいかもしれないが……」
 そう言うと、相手は、数度うなずいた。
「そうじゃのう」
 そして、そっとアンネの手を取った。
 老人のその仕草を、自宅まで送って行って欲しいのかと受け取ったが、次に感じた感覚に、准将は反射的に手を引っ込めた。
「!」
 ただの老人ではない。
 アンネ准将、彼女にかけられた「防御の魔法」が、数層にわたって破壊された。軍管理職には、研究院の呪術者により防御の魔法が施されている。心理魔法防御、時間魔法防御、地水火風攻撃魔法防御、直接攻撃緩和防御、それら7種の防御魔法が施される。
 そして、これら防御魔法の破壊は、無意識にできるものではない。明確に破壊の意志がある、確かな術力を持った呪術者でなければ。
 今、老人はそれをした。
 アンネは思わず後ずさった。
 老人の背後には、夜の村の明かりが細々と輝く。
「おまえは何者だ?」
 アンネの問いに、老人はおかしそうに嗤った。
「ヒッヒッヒッヒ! 軍人さんや、どうしたんかのう? そんなにあわてて。わしはただの老いぼれじゃーよー?」
 老人の不気味な鷹揚さが、アンネに恐怖を呼んだ。
 この老婆、指揮官であるわたしを狙ってきたのだ。
ということは、紛争について、何かを知っている。老婆の素性を知りたい。
 たとえ、私が負傷あるいは死んだとして、軍当局に直接報告ができなかったとしても、この状況は情報処理課が視聴して把握している。彼らは情報を得られるのだ。
「お前は……オウバイなのか?」
 高まる緊張と恐怖、それを統御しながらアンネ准将が慎重に問う。
 すると、暗がりで、相手の肩が震えた。
「何言ってんだい? ヒヒヒ。あたしがあんな美人のわけないじゃろうが? わしゃただの年寄りじゃーよー。アンネ准将。あんた若いねえ? しかも女だし。あたしゃね、若い女は嫌いなんじゃよ。死んでもらおうかね? 麗しのオウバイ様の美のためにねえ」
 言いながら、老人は両手を天に上げた。
「そおれ。准将よ、湿地に入れー入れー入れー!」
 しゃがれた声が、宵闇に呪わしく響いた。
 何の魔術かと、アンネは身構えた。
 だが、とりたてて何も起こらなかった。
「?」
「ええ? なんでじゃ?」
 相手も、意外な様子だった。どうやら魔法が失敗したらしい。
 これは好機だと思い、アンネは逃げ出した。
「ああ! 待ちなっっ!」
 声が上がるが、当然それには構わず走る。とにかく同僚のいるところへと。
「畜生! あんた! 湿地の水を飲まなかったんだね! 畜生! それじゃ私のエサにはならないよ!」
 悔しげで呪わしげな声が響いた。しかし追いかける気配はない。
 アンネは走りながら、その言葉に眉を寄せた。
 湿地の水を飲まなかったんだね、だと? それが、何だ? 確かに私は飲んでない。……飲まないと、老人の魔術にかからないとでもいうのか? 
 村の明かりが見えて来た。石畳の小さな広場。井戸のそばに立つ街灯が、青白く光っている。
 人家もそのすぐそばだ。アンネは胸をなでおろした。もう少しだ! アンネは、井戸にたどり着くことができた。
「ヒッヒッヒッヒッヒ! 馬鹿な女だあねええ! 何も逃げた先がここだなんてねえ! ヒッヒッヒッヒヒ!」
「っ!」
 雨よけの屋根が据え付けられた井戸のつるべの下に、突如として老人が姿を現した。街灯の光と屋根の陰の明暗差により、却って顔が確認できない。老人はどうやらずぶ濡れのようで、その身から、水滴が落ちてひたひたと音を立てる。どうやら井戸の中から出て来たようだ。
「ふん!」
 老人は両手を前に、アンネの方に突き出す。
「っっぁぁ!」
 アンネの右足の骨が、ミシリと音を立てた。ついで、左腕の上腕部が。たまらず、彼女は石畳の上に座り込んだ。
「イヒヒヒヒヒ! 水さえあれば、湿地の水を飲んでない人間にも効く術を使えるんじゃあよお! ふん!」
「水?」
 水さえあれば? 
 アンネは激痛に顔を顰めながら、その言葉を聞いた。
 もう少し、後少しの手がかりを、情報処理課に得させなければ。
「湿地の水か!?」
 指揮官が問うと同時に、肋骨がみしりと音を立てた。神経をつんざくような激痛が数条にわたって走る。もはや座ってもいられず、アンネは倒れた。
「っっっ!」
「そうじゃーよー! 当たりィイ」
 老人がヒヒヒヒヒ! と嗤った。そして、井戸から身を乗り出して来た。街灯の明かりにさらされ、ようやく、その顔があらわになる。
 それは、アンネが今まで、村で見たことのない老婆だった。
「誰だ?」
 老婆は嬉そうだった。
「えらいえらい。あんたはあたしと話した最初の指揮官だよ。ひっひっひ! 他の指揮官は酔っ払ったみたいにして死んでったのにねえ? 若い女のくせに、良くやってくれたよ。ご褒美に、ぐちゃっと殺してやろうねえ?」
 老人が万歳をするように両手を空に突き上げた。動きと同時に水しぶきが飛ぶ。
「!」
 上空に岩が現れた。降って来る。
 終わりだ。
 この村においてアンネのしてきたこと。そして老婆の言葉。それらは符合し、准将の中で一つの推論が精製された。しかし、もう時間が無い。この口からはもう誰にも知らせられない。
 誰か、誰かに、伝えねば、
「管理官! 私は答えがわかった! 助けてくれ!」
 万が一の可能性にかけるしかなかった。

 深夜の情報管理課では、夜勤の職員たちが、あるモニタに見入っていた。
「顔が見えんなあ」
「どうやら、こいつが紛争の黒幕っぽいけどな」
「術者の介入ができない。光の加減で顔が見えない。計算された立ち位置だ。こいつできるな」
 モニタにはミスリルマインが映っていた。管理職監視用のモニタだ。アンネ准将が、逃げているところが映っている。
「アンネ准将、しくじったなぁ。だめだよ、一人歩きは。やっぱり護衛はつけとかなきゃ」
「これで、この人もおしまいか……」
 職員らは神妙な顔でつぶやきあう。
 ミスリルマインの指揮官の最期。情報管理課の職員は、その奇妙な最期をすべて見てきた。今までに死亡した指揮官の全員が、前後不覚の状態で半ば自殺のように亡くなっている。ソウズウ大佐については身から出たサビで逆に生き残った口だが……。今回のアンネ准将は前後不覚には陥らなかった。いつまでたっても。しかし……こうなった。
 助けたいが、助けられない。
「記録係のつらい立場だよな。見てるだけだもの」
「こっちと提携した任務だったら、助けられるんだけどな」
「近所だったら助けに行けるんだけどな」
 モニタに映る画像は、情報管理課が世界中に張り巡らせた、魔術的、あるいは機械的な監視網によって映し出されている。情報管理課の通常任務では、映像を見るだけで直接的な対処はできない。世界中に「目」や「耳」があるが、手や足はない。
 モニタには、アンネ准将に岩が降って来るところが映っていた。
「ああ……准将……」
 職員の沈痛な声が漏れる。
 直径2メートルはある岩石が落ち、井戸はその振動で屋根が崩れた。黒幕の姿は消えた。岩だけが残った。

 首都の高層マンションでは、熊のようにごつい男が、床に腰を下ろしてびっくりしていた。
「奥さんたら。あなた、なんてことをしちゃったのよ?」
 フローリングの床は、さっきまではポテトチップスと熊の縫いぐるみと新婚夫婦と観葉植物とモニタがあるだけの、まあ普通の部屋だった。
 それが今や、軍服を着た女性が意識を失って転がっているという非常事態に変わっていた。
「だってこの人、何かわかったみたいだし。それに、ガイガーに助けを求めたもの」
 さらりと真っすぐな短い黒髪を揺らす清楚な美人が、夫の驚きの声に首をかしげた。こちらは立ったまま腰に手を当てて夫を見下ろす。
 この若い新妻が、転移魔法を用いてミスリルマインからミッドガルのこのマンションに、女性を移した。
「国のお仕事に手を出してごめんなさい。でも、ミスリルマインは、私たち民間も困ってた事だったのよ。だって、あの一帯ときたら、ちっとも見られないのだもの。あなたの課の監視網以外では、見えないの」
「まー。国軍の監視網は民間のと比べられないからねー」
「そうでしょ? こちら民間は『少ない元手』と『法律の範囲内』で『精根尽くして』情報提供して、それでお金もらって生活してるの。見えないところがあると、その分、儲けが減るの」
 夫はしみじみとうなずく。
「家計に響くのね」
「そうよ。さ、救急車呼びましょ」
 いそいそと電話の受話器を取り上げる。
 わあ、と、夫が慌てた。
「ちょっと待って奥さん。彼女は軍人さんだから、軍の病院に電話して。普通の所だといろいろまずいから」
「してるわ」
「なんだ……ほっ。さすが奥さん」
 そして、病院に連絡し、准将に応急処置を施して、アンネ准将に致命的な負傷がないことを確認した後、若奥さんは夫を軽く睨みつけた。
「ガイガー。ねえちょっと。さっきから奥さん奥さんって、なあに? 私には名前があるでしょ? まるで他人の奥さんみたいじゃないの」
 ガイガーは、すねる新妻に、頬を緩ませた。
「だって僕たち新婚さんだもの。今まで『奥さん』じゃなかったもの。ユリちゃん」
「そりゃそうだけど」
 清楚な美人は頬を膨らませ、夫をにらみつけた。
「じゃ、あたしも『旦那さん』って呼んじゃうから」
「いやーん。旦那様っって、呼んで欲しいなあ! えへへへ!」
「……だったら私のことも奥様って呼んで」
「いいよいいよおー! おくさま!」
 若奥さんの顔が曇った。
「響きが気に入らない。私も名前で呼ぶからあなたも名前で呼んで?」
「えっ、そんな。じゃ、一回だけ! 一回だけ、ユリちゃん、旦那様って言って?」
 その懇願に、ちょっと考えた後、若奥さんはかわいく笑った。さらりと髪がゆれる。
「じゃ。だんなさまっ」
 ガイガーは天にも昇る心地になった。
「はあああ……。いい! ユリちゃんに呼んでもらうと、それだけで僕は元気になるよ! なんでも来いって感じになるよ!?」
 ユリは眉を上げた。
「一回だけって約束だから、もう言わない」
「ああーん! でもそんなイケズなとこが、好きッ」
 救急隊が到着するまで、彼らの繰り言は延々続いた。

 軍の病院内で意識を取り戻したアンネは、情報管理課の職員から事情聴取を受けた。『一民間人の偶然の好意』によって、アンネ准将は助け出されたとされている。准将は、得た情報を話した後、自身の思うところを述べた。
「湿地の水、それがあの村に起こっている異常事態について、大きな役割を担っていると思うのです。ミスリルマインの水に触れてはいけない。触れたが最後、巻き込まれてしまう。それは、確実な事実だと思うのです」

 そして、研究院にミスリルマインの水が持ち込まれ、成分分析にかけられた。
 果たして、高濃度のディープメタルが検出された。
 北コレルの惨劇の原因が検出されたことにより、事態は一変した。ミスリルマインの小競り合いは、「地域紛争」から、「特殊紛争」へと種別が変更された。
 結果、ミスリルマインの紛争処理は、通常任務から特殊任務へと変更になる。
 6人目の指揮官は、そして選ばれた。

「ゼルクベルガー中将、君を、ミスリルマイン特殊紛争処理の指揮官に任命する」
 西の大陸のシヤドと呼ばれる地方で起こった奇妙な事件を片付けたゼルクベルガー中将に、魔法使いの送る映像で、国軍長官パスツールが命じた。
「謹んでお受け致します。経緯をお聞かせください」
 映像ごしに、鈍い金髪の長官はうなずいた。
「ディープメタルが村を取り巻く湿地の水から検出された。これ以後、ミスリルマインは、汚染地域として認定される。紛争の解決、及び、ディープメタル汚染の原因究明を頼む」
「わかりました」
 特殊任務を扱う者にとってディープメタルは共通した調査対象だった。この鉱物は稀にしか発見されず、発見された際には、周囲に重篤な被害をもたらす。その特性は一貫しておらず、検出された化学組成だけが、ディープメタルを特定する唯一の手段だった。
 そして彼はミスリルマインに行く。

 ロイエルが17になった年。夏の夜。
 彼女は、領主の館に行ったまま、戻ってこない。
 しかし、ジョン医師は心配していなかった。
 なぜなら、ゼルクベルガーが、ジョンの家に使者をよこしたからだ。それも、領主の娘たちと前任の指揮官であるアンネとを。彼女らは非常に友好的に談話をすすめた。ジョンが、紛争首謀者とされる人物の孫であるにもかかわらず。
 今回赴任した指揮官も、以前までの指揮官たちと同様に、ジョンを信用している。ジョンは、今夜の使者の顔触れを見てそう確信したのだった。
 アンネ准将と領主の娘たちを自分の家に寄越した。それは、自分と軍との話し合いが、子供連れの使者で足りる程度の簡単なやりとりで事足りるほどに、双方が信頼し合い、意志の疎通が簡易にできると思っているのだ。
 ジョンはこの村に残った唯一の医師であり、その穏やかな人柄で村民に慕われている。彼は献身的に村人の医療につくしてきた。そんな彼を非難する者は誰一人としていなかった。
 さて、アンネ准将は医師に再度の確認を取る。
「それでは、あなたが後見人として、今回ロイエルが引き起こした騒動の責任を取るということで、よろしいですね?」
「ええ。そのつもりです」
 ジョンは穏やかにほほ笑んだ。そして、心の中では安堵していた。
 どうせ、もうすぐ終わるのだ。
 オウバイ様の術は完成する。誰も真相には気が付かないままで。
 ロイエルは、むしろずっと牢獄に捕らわれておいた方が都合が良い。真相を知った彼女が、万が一にでも命が惜しくなって逃げようとしても、あそこなら不可能だ。国軍の管理下で領主の石牢、そこ以上に、ロイエルの身の安全が保障された場所、そして彼女を拘束できる場所はない。
 オウバイ様はもうすぐ不老不死になる。そうなれば、即刻この村を滅ぼし、不老不死のオウバイ様と、この私は……永遠の楽園に旅立つ。
 ジョンの頬は大きく緩んだ。
 やたらに機嫌が良いドクターに、エミリは可愛らしさを強調してニコニコ笑った。
「うふふ。ドクターったら、今夜はどうなさったの? すごくうれしそうですわ?」
 医師は穏やかに笑い、偽りの言葉を紡いだ。
「ええ。今回来られたゼルクベルガー中将は、とても良いかただと伺っておりましたので。これは、お話しがしやすいと思って。紛争などという、血なまぐさい憂うべき不幸は、是非とも平和な話し合いで解決しなければ。あの中将が指揮官でしたら、私の思いは必ず実現しそうです。だからうれしいのですよ」
 女性陣は、一度にうなずいた。
「おっしゃるとおり、とても良い方ですのよ!」

「いや……っ!」
 今までに味わったことのない恐怖が、全身を支配した。
 何されるの私、……逃げなきゃ……! 
 しかし、両手とも掴み上げられ、体の上に圧し掛かられて、全く自由が利かない。
 逃げられない。
 あまりにも強く掴まれて、手首の骨が軋む。背中と後頭部には冷たい石床が硬くあたり、ぞっとする冷たさがしんしんと伝わってくる。
「痛い! 離してゼルクベルガー中将! ……!」
 抗議の声を上げた唇を唇で塞がれた。
 窒息しそうなぞくりとした感覚が、悪寒となって背筋を走る。
 脚の内側を、ゼルクベルガーの手が無遠慮に触れてきた。少女は、自分がこれから何をされるか悟った。
「やっ……! やめてゼルクベルガー中将!」
 助けてオウバイ様! たすけて、ドクター……! 

 3人の使者たちは、医師の家を笑顔で帰って行った。
 明日の朝には、今度は中将が来るだろう。紛争解決に向けての本格的な話し合いをするために。
 ジョンの心は、安らかで、満ち足りていた。
 まもなく、麗しのオウバイ様は思いを遂げ、私の理想は実現するのだ。
「オウバイ様ぁ……。ふふふ」
 その夜、ジョンは、かつてない幸せに包まれて、眠りに就いた。

 湿地の中。
 オウバイは焦っていた。
 あの准将、死んではいなかったのだ。
 自分は、彼女が死ぬと思ったからこそ、安心して湿地の水のことを話して聞かせた。
 ところが、生きていた。
 一体どうやって助かったのか? その上、後任の指揮官まで連れて、再びこの村に戻って来た。
「あの女。あの時、……わしの言ったことを、どこまでわかったかねえ?」
 黒い水の中で、老婆はつぶやく。
「ふむう」
 自分の体は限界に来ている。一方、ロイエルは17になった。
 急がなければ、国軍が真相に気づくかもしれない。
 オウバイは、闇夜よりも、沼の水よりも、暗く、濁った黒い嗤いを浮かべた。
「全部が、ぎりぎりってとこだねえ。後は、もはや動くのみさね。じゃあ派手に動いてやるよお! イヒヒヒヒヒヒ! イーッヒヒヒヒヒ!」

 すでに両手の感覚が無い。腕をもがれたのと同じだ。
 捕らえられる直前まで、理想と信念とを旗印に躍動していた少女の体は、今、魂のない人形のように、もてあそばれていた。
「やめて、お願い、」
 両目から涙が流れ出し続ける。両足に圧痛が走る。相手の足が装備ごとしかかり、少女の白い皮膚を破り出血を強いた。
「おねがい……やめてっ……」
 声が枯れてきた。
 いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、
「いやあっ……」
 数度目の激痛に悲鳴を上げる。
 と、今まで掴まれていた手首が自由になった。滞っていた血流がしびれを伴って回復し、さらなる痛みを引き起こす。
 ロイエルはゼルクベルガーに爪を立てて抵抗しようとするが、もはや、長い時間、強く握られていたために、腕はしびれて全く動かなかった。不随意なものに成り果て、ただ床の上にあるばかりの両腕を、ロイエルは愕然と見て、ついに絶望した。
 なにもできない……。
 自分は何もできないんだ……。
 こんなにされてるのに、何もできない。指一本動かない。
「いや……」
 ひどい喪失感が、ロイエルを襲った。
「たすけて……オウバイさま……ドクター……」
 いたい、
「うわあんっ……」
 それまで歯を食いしばり、決して上げなかった泣き声が、口をついて出た。自分の意志で止められる限界を越えていた。
「いたいっ……いたいっ、中将っ……お願い、もうやめてぇっ……」

 その夜、医師は幸せな夢を見た。
 永遠の花園で、不老不死の美女オウバイと二人きりで、どこまでもかけてゆく夢を。
 ロイエルの姿をしたオウバイ、そして、彼女と愛を語る自分。
 理想の世界。
 それが実現するのは、もうすぐだった。

 その夜、沼地の中で、老婆は夢を見た。
 世界中の人々にかしづかれ、敬われ、たたえられている、美しい自分の姿を。もはや朽ちることも病むこともない、美しいばかりの自分の姿を。
 それが実現するのは、明日だと確信していた。

 指揮官は、抜け殻のようになった少女に、最後に口づけた。もはや彼女の表情は動かなくなっていた。指揮官は、可哀想な少女をこのまま自室に連れ帰り、労りたい衝動に駆られたが、抱き締めるだけにした。
「ドクター……」
 少女の口から、かすれた声が、石床に落ちた。

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