DEEP METAL BATTLE

すぎな之助(旧:歌帖楓月)



13 黒狼は誠意を測れるか?

 深夜の首都。歓楽街は目にも鮮やかな七色の人工照明で賑やかに、あるいは黄昏色にしっとりと、目的に応じて様々な色の照明の中で、客を迎えてもてなしはする。しかし、そこにはあらゆる闇が潜み、牙を研いで獲物を待ち構えている。弱者は弄ばれ、おごれる者は破滅を掴まされ、貧者はさらに窮する。即ちその光には偽りが巧妙に混じっており、騙されれば犠牲になる。
 オフィス街はというと、顧客のための時間はすでに終わっており、建造物を照らす人口の光は青い色をしていて、ともすれば冷たく存在している。建物内では昼も夜も照明の色は同じ、ただ、従業員がさまざまな思いを抱えて残業をしていたりもする。
「あのー、ユリちゃん、できればの話なんだけどー、お友達のゼルク君をここの入口まで連れてきてもいい? どうかな?」
 オフィス街にある高層ビルの一室で、揉み手擦り手で上目遣いのガイガーに、妻はきゅっと顔をしかめた。彼女のそんな表情すら魅力的と思う夫は、確かに新婚気分だった。
「私が嫌だって言っているお友達に、あなたは楽をさせたいんだ?」
「違うよ違うよー。やっぱり軍服きた剣呑な顔の兄ちゃんが、具合の悪そうな女の子連れて、夜の企業にずかずかとやってくるってのはちょっと迎える企業的にもアレなんじゃないかなって。人通りは少ないとはいえ、生身の目や耳は無くても代わりの機器と術者は動いてるわけだし」
「つまり、うちの企業のイメージを心配してるつもりなの?」
「そりゃそうだよ。ボクはユリちゃんの旦那様だもの」
「どうかしらね?」
 ユリは顔をしかめた。
 夫が妻をやっぱり可愛らしいと思ってしまうのは、新婚という名の色眼鏡からだろうか、いや違う。熊男の新妻は確かに可憐な女性だった。
「やっぱりお友達のゼルクさんの肩を持っているのでしょ? それから、国軍の」
「そりゃそうだよ。奥さんも友達も仕事も大切だもの。どの肩も持たないと、ボクはオトナとして駄目じゃないの」
「そうねえ」
 ユリは目を細めてふんわり笑った。彼が好きな「癒される笑顔」だった。
「じゃ、入口までね。あとはわたしが直接」
 民間企業の幹部である妻は、実験台に置かれたサングラスのようなものを掛けた。
「調べて判断します」
 不敵なほほえみをそっと浮かべた。
「朝までに仕上げたい仕事があるの。だからゼルクさんの方は、手早く片付けるわ?」
 夫は、ぞっとして「ひぃい」と声をもらした。

 深夜の領主の館は、ほとんど闇の中に落ち、館の住人はたとえ眠れなくとも寝台にもぐりこんでいた。
 灯りが、それも小さなランプのような幽かなものですら、点いているのは、おそらくこの一室だけだった。
「これを着て行きなさい」
 アンネ准将は、自らの上着を少女に着せてやった。薄水色の医療用前開きの寝間着では可哀想過ぎる。
 鮮やかな青の、首都警備用の制服。
「ありがとうアンネ准将」
 袖を通して見上げる少女に、赤胴色の髪のアンネはほほえみかけた。
「あなたに幸運があるよう、祈っているよ」
 薄茶色のやわらかな髪を撫でる。
「ありがとう、准将もお元気で、」
 ロイエルはぎこちなく笑って礼を言った。それでも瞳は相手を警戒しておらず、少なくとも心の中では、准将のことをかつてほど悪くは思っていない。
「ゼルク中将、よろしくお願いします」
 准将は中将に敬礼した。
「こちらこそ、私の留守をよろしく頼みます」
 彼も部下に同じように返した。
「さあおいで」
 ベッドに腰掛ける少女を、中将は抱き上げた。
「……」
 不安げに身じろぎし、ロイエルはとっさにアンネ准将を見た。
 しかし准将はほほ笑むばかりで、答えるのは中将しかいなかった。
「転移の魔法を使って、君を首都に連れていく。体に衝撃がかかるから、こうしておかないと、どこかへ飛んでいくかもしれない。君は嫌だろうけれど」
 返事はなく、少女は暗い表情でうつむいた。嫌じゃないとは決して言えないし、嫌だとも言えない。
 だた。彼女の緊張した身体からは嫌悪感がひしひしと伝わってくる。
 経緯を考えれば当然とは思うが、彼は今その配慮をしている場合ではなかった。
 ゼルク中将は、背後を振り返り、白い防護服の男と灰色の術者に言った。
「では首都までお願いします」
 防護服の男はひらひらと手を振った。
「はーい。でも私は転移の後はすぐ研究院に行きますのでー」
 術者は深々と頭を下げた。
「……かしこまりました」
 軽薄な早口と、沈重な言葉が同時に返ってきた。
 ロイエルは、とにかく早く首都について、彼から離れたかった。
「?」
 だが不思議なことに、彼から「とてもいい匂い」がすることに気づいた。
 今まで、そしてここまで近づくまでわからなかった。
 何の香りかは形容しがたい。強いて言えば薬草のような。
 ふと、湿地で初めて彼と会った時に、彼が湿地からの風を遮ったことを思い出した。そして彼が去った後、再び吹きつけた風にこそ少女は「生臭い」と感じたのだ。それから、湿地が消えた後に吹いた風にも、こんな香りが混じっていた。
 彼は香水か何かつけているのだろうか?
「行くよ、ロイエル」
 声を掛けられ、ロイエルはハッとした。何故だかこの香りに妙に惹かれている。
 でも、この人のことは嫌いだ。ひどく間近で掛けられる声に嫌悪を覚える。この人がドクターとオウバイ様の理想の未来を破壊したからだ。
 しかしそれでも、返事無くただ受動的に連れていかれるのは人形みたいで嫌だし、必要な語りかけに応じないのは公正ではないと思った。
「ええ。連れて行って。中将」

 転移の魔法は、中将には慣れた感覚であり、どうというものではなかったが。
 腕の中の少女が悲壮な声をあげて縮こまった。
 ゼルク中将、ロイエル、灰色の術者、白い研究員、彼らの周囲の風景は一変していた。
 首都である。そして 彼らは、オフィス街の高層建造物の1階内部に居た。この企業のイメージカラーである世界一深い湖と同色に染め上げた青い絨毯に、氷壁のような壁。まるでそれは北限の風景のようだった。広間中央には黒鋼で作られた企業の象徴「獲物に狙いを定めた黒狼」の塑像が台座に据えられている。大きさは、実際の狼の2倍ほどあった。
「着きましたね。よかった、建物の中に入れてもらえました。じゃ、僕らはこれで失礼します。後日また」
 白い研究員は明るく述べつつ、「行くぞ」と言って術者の肩をポンと叩いた。二人の姿が消える。研究院に行ったのだ。
 中将は抱えた少女を見おろした。
 真っ青になってガタガタ震え、涙をぽろぽろこぼしている。
「大丈夫?」
 中将は濃い青の絨毯に膝をついて、身をこわばらせてがくがく震える彼女の背をさすった。
 全身の違和感、関節痛、平衡感覚の失調及び精神の動揺、これが転移魔法の一般的な副作用だ。慣れるに従いその時間は短く、程度は軽くなる。が、少女にとってはこれが初めての転移魔法で、その上身体は健常ではなく、下腹部に傷を負っている。
 安静にさせてやりたいが。今、それは不可能である。
「お腹痛くない?」
 気遣われるのも屈辱だろうに、少女は怒るどころか耐え切れずにさらに涙を落とした。ひっく、と、嗚咽をもらした。
 ひどく痛むのだろう。
「ごめんね」
 謝るしかなかった。

「今晩は。ようこそ弊社へ」

 妙齢の女性の清楚な声が、ふわりと聞こえた。
 深い青のタイトなワンピースに、研究用の白衣を羽織り、サングラスのような眼鏡をかけ、つややかな黒髪を耳の下の長さで切りそろえた女性が、狼像のそばに立っていた。
 彼女が「友人の新妻」なのだろう。この建造物は、彼女が幹部を務める企業であり、その1階の受付広間だった。
「初めまして。国軍中将、ゼルク・ベルガーと申します」
 ロイエルを抱き上げて立ち、青年は会釈した。
 女性は仕事の笑みを浮かべる。
「いつも夫がお世話になっております。今夜は夫から、お二人を弊社に案内したい旨の依頼を受けました」
「夜分に恐れ入ります」
 恐縮されて、女性はにっこりと笑った。
「いえ。ただ、初めに申し上げておきますが、私はゼルク・ベルガー中将と彼女のことを無条件で受け入れて歓迎をする気持ちはございません」
 「……ガイガーから聞いたんです」とだけ、ユリは言い加えた。
 中将は「ええ、」と静かにうなずいた。
 ユリは笑顔を抑えた。
「あなた方に用意したお部屋は最上階ですが、下の階、ほとんど全ての部分は、私や私の部下が働く場所です」
「はい」
「私どもが働く場に、貴方を招くことが相応しいのかどうか、今から試させていただきますが、よろしいかしら?」
「構いません」
「お部屋までは非常階段を使っていただきます」
「わかりました」
 女性は少し首を傾げてほほ笑んだ。
「夫に挨拶をさせずに、ごめんなさいね?」
 彼女の瞳を覆う薄暗い眼鏡に、一瞬、青く発光する小さな大量の文字列が映った。
 同時に、広間中央の黒狼の塑像がゆらりと動いた。また、建物内部に瀑布のように低く響き渡る音が起こった。
「改変セキュリティーシステムを起動させました。貴方がそれにどう反応するかによって、私は貴方を『判断』し、歓迎すべきお客様か排除すべき敵かを決めます」
「ええどうぞ」
 つまり、それに攻撃を仕掛けてはいけないということだ。それ即ち「敵」とみなされる。
 ユリの姿が薄れてゆき、隣の彫像の黒狼が息づいた。
『では、案内しましょう』
 硬い鋼からしなやかな毛皮を得た黒狼が、歩みだした。

 ロイエルには、首都に着いたこと以外、何もわからなかった。ひどい痛みと不快感とでどうにかなりそうだった。転移の魔法がかけられた瞬間、腹が裂かれるように痛み、体中の関節が無理な方向に捻られるような激痛が走った。頭はぐちゃぐちゃに掻き回されたように、何もかも乱れていた。
 中将が何か言ったりしたようだが、わからない。悔しいが今は彼に身を任せるしかなかった。

 一階の奥、階段室への入り口付近で、先導していた狼が振り返った。
「貴方に施されている防御魔法を全解除することができますか?」
 ユリの声をした黒狼の言葉に、ゼルク・ベルガー中将は首を振った。
「今の私にその権限はありません。ただ、貴方の夫と話をすることができれば、可能かもしれません」
「わかりました。『ガイガー。ゼルク・ベルガー中将がお話したいそうよ』」
『ゼルク君ひさしぶりー』
 間髪入れずに聞こえてきた待ちかね声は、おそらく細君から話すことを禁じられていた為だろう。
「久しぶり。私の魔法防御を解除するよう手を打ってほしいんだが」
『うん。死なないでね?』
「……」
 中将のこめかみが波打った。
 もしも、ここが初対面の彼の妻の仕事場でなければ、そして妻本人がここにいなければ、ゼルクは悪友に、「そんな場所に案内するな」と抗議したいところだったが、まあ、互いの言い分は生身で再会した後に存分に語り合えばいいと思い直した。きっと、話の途中までは、彼だってこちらを助けるつもりだったのだろうし。
『5分くらい待ってくれる? ユリちゃん、いい?』
「5分ね。わかったわガイガー」
「この子は、」
 中将がユリに声を掛けた。
「この子は許してもらえないだろうか?」
 女性幹部の声をもつ狼は首を傾げた。
 音もなく彼のそばに近づくと、鼻をきかすそぶりを見せた。
「このお嬢さんからは、未知の呪術の気配がします。これではセキュリティーシステムに敵として認識されます」
 ですから、と、狼は続ける。
「彼女のことは、『夫の友人である貴方に免じて排除しない』ということになります。貴方は決して彼女を離さないでください。離した時点で、このお話をなかったことにします」
「中将、……もういいわ。私のこと、放っておいて」
 酔って目が開けられないロイエルがくぐもった声を漏らした。ユリの話が聞き取れたらしい。
「ロイエル、」
「邪魔でしょう? 私は、首都に連れてきてもらっただけでいい。どこかに置いて行ってくれたらそれでいい」
「駄目だよ」
 ゼルクは遮る。
「君が何と言おうと、私は君の安全を確保する」

 最上階より一階下の、夫婦の部屋に、情報処理課のガイガー管理官はいた。5分の間に、彼は友人の魔法防御を解除する手続きをしなければならない。
 仕事用のヘッドセットモニタを付け、眼前に現在の仕事場を同期させて映し出し、夜勤の職員の名を呼んだ。
「ブルックリン君ー。いる?」
 夜勤をしていた男性職員に画像がつながった。
『こんばんは管理官。どうされました?』
「さきほど首都に来たゼルク中将の魔法防御を解除して欲しいのよ」
『……。ご存知でしょうけど、あえて言いますね。管轄が違います。研究院に依頼してください』
「研究院には内緒じゃないと困るんだよなあ」
『そんな重要権限が許可された術者なんて、うちは雇ってませんよ。視聴目的だけです。……あ、』
「何? 何? 妙案浮かんだ?」
『いや、妙案というかですね……』
 部下の呆れ加減の声が返ってきた。
『管理官とゼルク中将の共通のご友人が、いらっしゃいますよね。研究院に属してますが超越した存在として。それこそ第一人者でらっしゃる』
「おお、そういえば」
 部下は「なんでそんな重要人物のことを忘れていられるんだろう」と思い、乾いたやるせない笑いを浮かべた。
『ハハ。そちらへ個人的に依頼なさったらいかがですか?』
「いやーブルックリン君、ごめんね。僕ったら動転しちゃってて、一番信頼しているキミのことしか頭に浮かばなかったんだ」
『ぞっとしない冗談はよしてください。では失礼します』
 逃げるように同期が切れて眼前が真っ暗になった。
「さてと。アインシュタイン君は僕の声を聞いてくれるかしら」
 ドキドキしながら、「頼れる友人」のことを思い浮かべた。しかし、「うむむ」とうなり、口がへの字に歪む。
「はあ、心配だなあ。何せあの人ときたら、マラソンだの筋トレだのしてる時間は、集中しすぎて何にも聞こえなくなっちゃうからなー」
 残り時間あと何分だっけか、と独りごちながら、ガイガーは、自分独りしかいない部屋で、ここにはいない友人に、直接声を出して呼んでみた。通じるときはこれで通じる。それほどの相手だ。
「おーいアインシュタインくーん。聞こえてる? ゼルク君が『助けて欲しい』って言ってるよー」

「呼んだ?」
 ロイエルを抱き上げたゼルクの前に、軽く息をあげた紫色の長髪の艶美な青年が立っていた。体を鍛えていたのか、トレーニングウェアを着ている。
「……アインシュタイン」
 突然の友人の登場に、ゼルクは目を丸くした。
「どうして?」
 術者は片眉を上げた。
「ガイガーが『君が助けて欲しいって言ってる』と言っていたから来てみたんだが。何をどうして欲しいんだい? ああ、それから、久しぶり」
 やや低めの滑らかな声に、中将はほほ笑んで穏やかな声で返した。
「久しぶり」
 アインシュタインは、視線を友人の両腕の中に移した。
「お。この子、誰? 転移魔法でドロドロに酔ってるみたいだけど? 可哀想に、寝かせてやったら?」
 しかし友人は首を振った。
「今はそうもいかないんだ。ケイタムイから連れ出してきた。彼女を研究院に渡したくない。匿ってもらえる場所として、ガイガーの奥さんの仕事場を提供してもらえることになったのだが。場所柄、信用できる者以外は匿うわけにはいかない。それで、……話は飛ぶが、私に掛けられている防御魔法を全解除して欲しい」
 ん? と、紫色の髪の青年は首を傾げた。
「そりゃセキュリティー企業に匿ってもらうのは安全だろうが、企業としては研究院の獲物なんか匿いたくないよな、危なっかしい。で、それでどうして君の防御魔法解除の話になるんだ?」
「お話に割り込んで失礼しますが、それは私が、ゼルク中将のことを信頼するに足りる人物であるかを調べるためですわ?」
 ユリの声で黒狼が言った。
 アインシュタインが怪訝な顔をする。
「……あれ? ガイガーの奥さん? 結婚式で見た時と違う」
「こんな姿でごめんなさい。ユリです。アインシュタインさん」
「おたくの企業で唯一、システム統括自律ソフトの『黒狼』に介入指令できる技術者兼術者がいるって聞いてたけど……ユリさんのことだったのか」
 紫の長髪の青年は、あごに手を当てて天井を仰いだ。そして友人を見た。
「てことは、君はこれからこちらのシステムの標的にされるんだな?」
「そう」
「丸腰で?」
「まあね」
「ふーん。君がそこまでするこの子は、君にとって大事な子に違いないね?」
「ああ」
「そうか。じゃ、解除してやる。それで君は存分に痛い目に遭うんだね。身を賭してユリさんの信頼を勝ち取るといいよ」
 アインシュタインの言葉が終わると同時に、国軍中将を護っていた術が全て消失した。
 そして紫色の術者は、黒いオオカミを見た。
「ねえユリさん」
「なんでしょう、アインシュタインさん?」
「僕は彼の友達なんだ。貴方が判断を終えるまで何もしないから、君たちの後ろを着いて行って、ただ眺めていてもいいかな?」
 狼は尻尾を軽く振った。
「それなら構いませんよ?」

 一階の北角にある階段室の扉を開けると、白く塗られた金属の非常用内階段が、一気に薄闇に覆われた。眼前の光景がぶれて異様に波立つような世界が広がった。
 前を行く黒い狼が告げる。
「さあどうぞ、お進みください」
 カツンカツンと階段を上る金属音が規則的に響く。
 その音と共に、青年は自分の感覚神経が他者に侵されていくのを感じた。現実世界から切り離されていく。
 ユリの魔法により仮想空間と接続しているのだ。今は「薄暗く波打つ視界」だけだが、今後、五感が「あらゆる仮想」を「現実」として捉えさせられる。ただ、軍の訓練ほどの精度はないだろうが。
 ゼルクはロイエルを軽く抱え直した。
 何が起こっても、この子を、決して離さないようにしなければ。
 徐々に闇が濃くなる。
 月のない夜に入っていくように。 
 黒い狼に先導されて階段を登っていく。
 足音が聞こえなくなった。
 何も見えなくなったが足取りに迷いはない。
 それはつまり、「本当に階段を上っているのかどうかはわからない」ということだ。
 自分の一番近くにいる少女のつぶやきが耳に入った。「暗くて何も見えない」と。
「ユリさん」
 青年は声を漏らした。
「はい?」
 返事をする狼の姿は、彼には見えなくなっていた。
「彼女にも、私と同じことをしているのですか?」
「もちろん。私はその子も信頼できるかどうか確認します」
 ふふっ、と、笑い声がした。
「安心してください。彼女には視覚接続だけです」
「それは止めた方がいい」
 すぐに中将が返した。
「彼女が被ってきた呪術は未知の部分が多く危険で、何が起こるかわからない」
「……」
 ユリは沈黙し、真偽を測っている。
「俺もそう思うよ」
 ゼルクの背後からアインシュタインが呆れ声でつぶやいた。
「でもそれでは確認ができませんもの」
 黒狼の言葉は、拒否だった。
 ふうん、と、アインシュタインが小さくつぶやいた。
「なに、するの?」
 闇の中で少女の不安そうな声がゼルクの耳に届いた。まだ、彼女に触れてるという感覚は、ある。
 ロイエルを首都に連れてきた青年は言う。
「君のことはちゃんと守るから、嫌だろうけど私から離れないで。ロイエル、」
 彼の視界は暗闇に落ちていたが、真摯に少女を見つめていた。
「約束してくれるかい?」
「……わかったわ」

 暗闇に、ほのかに光る触手が十数本、「床」から湧いてきた。
 登っていたはずの階段はどこにもなくなっていた。
「!? なにこれ、」
 ロイエルは驚いて中将を見上げる。相変わらず具合は悪そうだ。
「大丈夫だよ。君には単なる映像だ。なにもしないよ」
 からかうように笑って見せた。
「怖い?」
「怖くないわ!?」
 案の定の意地っぱりな言葉が聞けた。おそらくこれで、私への反発心から、彼女は恐怖をいくばくか和らげられるだろう。
 触手の太さは消防用ホースほどで、床の上をのたくっている。
 クラゲのような質感の、半透明で白く輝く内側には、キラキラと緑色に輝く人の指先ほどのらせん状に巻いた糸がいくつもいくつも蠢いていた。
 現れた触手の放つ薄明りで、黒いオオカミの姿もぼんやりと浮き上がった。
「ゼルク中将は、水棲生物の「ヒドラ」はご存知?」
「……学生時代に生物の教本で少し見ましたが」
 うふふっ、と、狼が可憐に笑った。
「それです。大きさが異なりますけれど」
 言葉が終わるや、触手が二人に巻き付いた。
 中将の背後に立つ友人が「悪趣味」とつぶやいた。
「では調べさせていただきますね?」
 柔らかな女性の言葉に、「どうぞ」と中将はなんでもなく応じる。友人の「つぶやき」は聞いたうえで。
 感触もクラゲによく似た、べちゃりとして冷たいものだった。
 触手の中にきらめく緑の小さな螺旋がビッと直線に伸びて、針になった。
 無数のそれが触手から青年に打ち込まれる。
 仮想現実だが、彼には五感に接続してある。
 黒い狼が説明する。
「このヒドラは針のような刺胞を対象に打ち込み、神経毒で運動神経を若干麻痺させます。これで抵抗を防ぎます」
 完全に麻痺させると死に至るため、企業の仕様でそれはしない。
 ただ、と、狼は首を傾げる。
「弊社のシステムでは、痛覚の麻痺はさせません」
 ゼルクは静かな目で狼を見る。言葉はない。
 狼は不思議そうに言う。
「おかしいわ? 相当な痛みと痺れがあるはずなのですけれど。動揺すらなさっていないですね。こういったことは訓練等で慣れてらっしゃるのかしら?」
 彼に抱き上げられている少女も、狼の言葉と、ゼルクの変化の無さの差異にとまどった。
「中将、……大丈夫?」
「大丈夫だよ」
 言葉も明瞭なままだった。
「困りましたね。私の仕事が詰まってますので、貴方の件は、手早く終わらせようと思いましたのに」
 ユリがつぶやいた。
「これではまだ判断できない」
 ゼルクが問い返す。
「どの程度で判断をする心づもりですか?」
 黒い狼は言う。
「貴方が根をあげるまでです。例えば、懇願『もうやめてくれ』『許してくれ』、あるいは激昂『国軍に刃向うのか?』、それから命乞い『死にたくない』『助けてくれ』。それらが、どの時点で聞けるか、そしてどんな内容かで判断します」
「そうですか」
 中将は軽く息を吐いた。
「ロイエル、」
 助け出した少女に声を掛ける。
「なに?」
 かすかな緑の光の中で、自分を見上げて目を合わせてくれた少女の、深い夕焼け色の瞳を、中将は覚えておこうと思った。
「終わるまで目を閉じていてくれないかな?」
「どうして?」
「酷い光景になるかもしれない。でもそれはわざわざ見なくていいことだから」
「子供扱いするの?」
「そうじゃないけれど、」
「じゃあ命令しないで。……そんなの、自分の意思で決めるわ?」
 彼女を照らす緑の光が、赤みを帯びた。
 黒い狼が一度尻尾を振ってしとやかに尋ねる。
「そんなにお元気なままだと困ります。ではこれで、悲鳴の一つでも上げていただくと助かるのですけど」
 中将が、ふっと息を詰めた。
 ユリは言葉の調子を変えることなく続ける。
「如何です? オコゼという魚はご存知? その背ビレの毒を受けた場合の痛覚刺激です。これは形はヒドラを模してありますが、刺胞の毒成分はそれとは関係なく合成できます。とはいえ仮想現実ですから、そもそもなんでもありですわね。さて、ロイエルさん?」
 呼ばれてロイエルはオオカミを見る。
 視点が下がってゆく。
 中将がゆっくりと「床」に膝をつき、脚の上に少女を大事そうに抱えた。
 その背後には紫の髪の術者があいかわらず立っており、黙って友人を見下ろしている。
「はい。なんですか?」
 少女の透明な声に、女性は彼女に対する偏見を「少し」改めることにした。非常に美しい少女であったので、声色に女の媚やその他よからぬ気配でも含まれていれば、彼女にもいくばくかの感覚接続を加えるつもりだった。それがないので、接続はやめることにした。
「あなたは、彼がどのくらいの痛みを受けているかわかりますか?」
 問われて、ロイエルはオオカミの黒い瞳を見つめ、自分を離さないでいる中将の顔を見た。
 自分に触れ、支えている力に変わりはない。
「……」
 全然わからない、というのが少女の正直な気持ちだが。
 少女の目に心配がよぎったのを感じ、ゼルクは首を振って軽く笑う。なんでもないよというふうに。
 ロイエルは思った。……おそらく、黒い狼は私に「彼が酷く痛めつけられている事実」を理解させたいのだろう、と。
 少女は困惑し、また黒い獣をみた。
「私は、その魚のことを知りません。だから、痛みもどのくらいかわかりません」
「そう。ゼルクさんの様子がそんなふうでは、よりわからないでしょうね?」
 女性は呆れ半分で笑った。
「指先を刺されただけなのに気がふれるほどの痛みだったと、言う人もいます」
 ロイエルはハッとして青年を見た。
 彼の表情は変わらない。少し、笑みを浮かべている。
 ……その笑顔は、つまり、私を不安がらせないため?
 そう思い至り、しかし少女はどうしていいかわからなくなった。
 この狼は、名前をなんと言ったか?
「ユリ、さん?」
「はい」
 呼んでは見たものの、続く言葉が見つからなかった。なんて言えばいいのだろう。許して欲しい? やめてほしい? 全部不正解だと思う。今までの、彼女と中将とのやりとりを聞いていると。
「ねえロイエルさん、彼は石牢で貴方を傷つけましたね?」
 逆にユリが質問した。
「えっ?」
 ロイエルはなんと返事していいかわからなかった。何故それを今問うのだろうか? そんなことよりも、彼はもっとずっと大切なものを破壊したのだ。
 溢れかえる感情に瞳を震わすロイエルに、狼はさらに言った。
「どう? ロイエルさんは、彼が貴方を傷つけた分だけ、今、彼は苦痛を受けていると思いますか?」
 問いかけは、しかし、少女の心にさらに手におえない感情を再生させるだけだった。
 私が首都に来たのはそんな問題ではない、と。
「そんなことじゃないんです……私が首都にきたのは、もっと、もっと、大事なことのためで……」
 それだけ言うと、ロイエルは目を見開き、耳をふさいでうつむいてしまった。その上、何も視界に入れられなくなった。

 これからどうやってお二人を助ければいいのか。
 そのために彼の手をとって首都にきたのだ。一番憎い彼しか、首都につながる道はなかったから。
 ドクターは、私に「憎しみを憎しみで返してはいけません」「話し合えば必ずわかりあえるのです」「相手を思いやり、誠実な態度をもって、接していれば、きっと道は開けます」と言って、あの村で医療を行ってきた。
 でも私は許せない。そんなドクターとオウバイ様を紛争の首謀者という濡れ衣を着せて首都へ送った中将を絶対許せない。彼らは村を楽園にしようとしていたのに。
 しかし、少女の思いを邪魔するように、一番新しい記憶が割り込んできた。
 ドクターは最後の最期に
 今まで見たこともないようなでも本当は知っているおそろしい顔をして
 わたしをころそうとした
 大嫌いな中将はわたしをすくってくれた
 そんなことしなくてよかった
 いっそ死にたかった
 切り刻まれた沢山の死体をしっている
 しにたくない
 それはうそだしんでおわびを
 しにたくない
 違う理想を、お二人を助けて理想の世界を、
 しにたくない
 そうじゃない
 狼の言葉がよみがえる。
『どう? 彼が貴方を傷つけた分だけ、今、彼は苦痛を受けていると思いますか?』
 そうじゃない
 いみがちがう
 そんなことでここにきたんじゃない
 なんていえばいいの?
 私を傷つけたのはどうてもいい、私はオウバイ様の道具になれなかったのが許せないだけ、
 もう道具として使い物にならない
 私には価値がない
 しぬしかない
 でもしにたくない、死なずにすんだ
 しにたくないなんてことは許されない、
 ドクターとオウバイ様とを助けなくては、
 そして、
 ……そして、でも、私には価値がない、
 しぬしかない

 少女は思考に翻弄されて言葉を無くし、激しく首を振ると、両の目から涙を落とした。
 青年はロイエルを抱きしめると、狼に強い口調で言った。
「彼女を混乱させるのだけは止めてくれ」
「どうしてあなたが口を出すのです? それは、あなたが後ろめたいことをしたからですか?」
「違う」
 ゼルクはきっぱりと否定した。
「彼女にはそれを私に復讐する権利がある。しかし今、彼女はもっと深刻で大きなものを抱えきれず持て余しているんだ。その件については君が干渉するところではない」
 オオカミは静かにうなずいた。
「そうですか。しかし私は、虐待を行う者が、得てしてそのような『うまい言い逃れ』をすることを知っています」
 ヒドラが消えて、黒い大蛇が現れ二人に巻き付く。
「では、物理的な痛みに訴えることにしましょう。この建物が私とガイガーの個人的な住まいであれば、私の対応も違ったかもしれませんが。あいにくここは従業員が働き大切なお客様を護る企業です」
 放心している少女の目には、巻き付いている黒い気味の悪い大蛇の鱗は見えていない。
 ゼルクは、全身が圧痛にミシリと音を立てるのを聞いた。
「ロイエル聞いて」
 青年は少女の頭をなでて、優しく言った。
 子守唄を聞かせるように。
「もう少ししたら終わる。そうしたら君を自由にしてあげられるから。私にいくらでも怒りをぶつけるといい」
 ふらりとロイエルの瞳がゼルクの瞳をとらえた。
「わかる? 君が恨むべきは私だ」
「ねえ、中将は、……痛くないの?」
「君は、どちらの方がいい?」
 ロイエルが首を傾げた。ぼろぼろと涙が落ちる。
「わたしは、オウバイ様とドクターを、たすけたいの。あなたのことは嫌い。だって、お二人を、」
 少女をすり抜けて、青年だけにぬらぬらと黒光りする長く太い爬虫類の体が容赦なく皮膚に食い込んで毛細血管を破壊し筋組織を潰して締め上げていき、呼吸が困難になり眩暈がしてくる。
 くるぶしから大腿骨半ばまでぐしゃりと折れた。
「ロイエル。恨みを晴らすのは他人の手を借りず、自分の手でやりたいだろう? 私は逃げないから、ただ、今は少し待っていてほしい」
 肋骨が折れて肺に刺さる。脊椎がゴキゴキと嫌な音を立てた。
「ロイエル、君をささえていられなくなる。頼むから自分で掴まっていて。私から離れないで?」
「……中将?」
 目に見えて顔色を失ってゆく青年の姿に少女は我に返ると、自分を透過して取り巻くおぞましい黒い鱗に覆われた大蛇を視界に入れることになった。
「キャアアアア!」
「離れちゃだめだよ」
 折れた腕で恐慌したロイエルを抱き込む。
 黒い大蛇が唐突に消失した。
 支えを失って、ゼルクは少女ごと仰向けに倒れた。
 黒い狼が歩み寄ってきて彼を見下ろすと、「どうして反応してくだらないの? 五感接続は正常に機能してますのに。……正直、困ります。今までに無いことで、こちらの感覚の方がおかしくなりそうですが。まあこれで最期です」と言った。
 この企業のシンボル獣が消えて、天を突くような燃え盛る溶岩の体を持つ巨人に姿を変えた。火を噴く鉄槌を振り上げる。これが正体だ。黒い狼は、標的を灰燼に帰す劫火の巨人の化身。
 中将は少女を胸に抱えこみ、絶対に見せないつもりだった。
「命乞いは、なさいませんか?」
 劫火の巨人の最後通告に、中将は笑顔で応じた。
「とんでもない」
「そうですか。ではごきげんよう」
 燃え盛る鉄槌はなんの躊躇いもなく、青年と少女に振り下ろされた。
 その後、ユリは、少女の触覚を少し接続してやった。彼がどんな衝撃を受けたかをわからせるために。

 ロイエルは、ソイズウ大佐みたいにごつくはないけど、ずっと触れている硬い逞しい体が壊れていくのがわかった。体を動かして何が起こっているのか確認せねばならないが、顔を胸板に息ができないほど強く押し付けられた。
 視界に炎の色が侵入してきた。だが熱くはない。「これは映像だから」と、彼が言っていた。きっと幻術のようなものなのだろう。
 強く抱え込んでいた彼の腕が、ふっと頼りない感触に変わった。意思の無い「物」が背中に乗っているようだった。
 少し、身を離すことができた。
「見ちゃだめだよ」
 誰かが目を手でふさいだ。
 今までに触れたことのない感触の、じっとりとした冷たい手だった。
「離してください。どうなっているの?」
「見たら失神するからだよ。僕も、友人のこんな姿は一生見たくなかったけど」
 きっとこの手は、紫色の長い髪の男の人だ。
「ユリさん、もういいだろう? 早くシステムを解除してくれ」
「……最期まで何もしないなんて……」
 あの女性の困り声が聞こえる。
「ユリさん、聞こえなかった? では僕が勝手に解除させてもらうが、企業秘密とか特許とか、僕はそんなこと配慮せずにやることだけやるが?」
 声が怒っている。
「駄目です。さっそく解除します」
 舌打ちが、すぐそばでした。気配からして、彼はとても怒っている。
「……あ、君はまだ転移魔法の酔いが強く残っているね。解いてあげるよ」
 言葉が終わるのと同時に、少女の身体と気分の不調が改善された。彼は言葉にしなかったが、少女の下腹部の痛みも消えていた。さらに少女自身気づかなかったが、オウバイの術の気配も消されていた。
「……ありがとう、」
「どういたしまして。お、やっと解除された」
 目隠ししていた手がよけられた。
 白い、人工照明がまぶしかった。
 ロイエルは仰向けに横たわったゼルク・ベルガー中将に抱き込まれていた。瞳は閉じており酷い顔色をしている。
 この色は、診療所でいくつも見てきた、家族の泣き声と共にある患者さんの顔の、
 少女はおののいて彼の上から降りた。
「中将、」
「さがって」
 青いトレーニングウェアを着た紫の髪の男が、ロイエルを手で制すると、友人の額に右手を当てて声を掛けた。
「お疲れ様。ゼルク、戻っておいで。ご褒美をやろう。どんな夢が見たい?」
 長い紫の髪が苦笑で揺れて「……やっぱ最期は赤ん坊になって母さんのそばだよな、」とつぶやいた。
 月の光のような金髪の青年の唇から、かすかに息が漏れた。少し血色が戻った。
 術者はほほ笑んで、「さて行くか」と、意識を失っている中将を抱き上げた。
 黒い狼から女性に戻ったユリが、複雑な顔をしていた。
 アインシュタインは意地悪くほほ笑んだ。
「それで。ゼルクはユリさんの御眼鏡にかなったかな?」
 女性幹部は顔をしかめた。サングラスのような暗い色の眼鏡を外す。黒目がちの可憐な瞳が現れた。困惑しきりの様子だった。
「この眼鏡では測れないことがわかりました」
 その返しが気に入ったようで、術者はハハハと笑った。
「では二人に部屋を貸してもらえる?」
「ええもちろん。でも、私としましては病院の方へご案内したいくらいですけれど、大丈夫ですか?」
「まあ、たぶんね……ロイエル、行こう」
 優しい目をして術者が少女を見る。
 ロイエルはアインシュタインのそばに立ち、中将の顔をずっと見つめていた。ひどい顔色に目が離せなかった。
 これなら、あえて促さなくても着いてきてくれるだろうと踏んで、術者は女性幹部に確認した。
「部屋までは階段で?」
「いいえ。エレベーターをお使いください」
 ユリは白衣を脱ぎ、腕にかけて、青いワンピースで案内した。
 一行が階段室を離れると、その扉自体が消失した。
 一階中央に、黒い狼像が戻っている。その奥に受付スペースがあり、受付スペースの少し奥の両壁に、エレベーターが3基ずつ並んでいた。初めに訪れたときは、見えなかったものだ。

 77階へは、すぐに着いた。
 エレベーターの扉が開くとそこは広い半円形のエントランスになっており、床は白い大理石で、飴色の大きな木製の重厚な扉が左右に開いていた。その奥にはすぐに部屋は無く、大きな絵付けの壺が飾られた壁になっており、そこを左に曲がるとやがて右の壁に扉が現れ、そこを開けると、象牙色の段通が敷かれた広い居室があった。
 ユリを先頭に、ゼルクを抱えたアインシュタイン、そしてその横にロイエルが歩いていく。
 術者が呆れた。
「こりゃひどく大きい部屋だね。もしかして都立体育館のサブアリーナくらいある?」
 ユリが「はい」と応じる。
「使用可能区域はそのくらいです。ですが、通路、部屋の間取りは状況に応じて変わります。同フロアに弊社のスタッフが常駐して警備を行います。本来、要人警護用のお部屋ですから」
「それなら、使用するのにここまでの身辺チェックが必要なのもうなずける……かどうかは不明だけど」
 嫌味を言っておいて、術者は抱えた友人を見下ろした。
「2、3日は目が覚めないだろうなあ……」
「どうしてですか?」
 少女の問いに、術者は肩を竦めた。
「すごい酷かったから」
「それは、どのくらいですか?」
 その状態を見させてもらえなかった少女は、術者をじっと見上げ目で訴えた。
 言わないよ、という紫の瞳と、ただただ必死で見る夕焼け色の瞳がぶつかった。根負けしたのは青年の方だった。
「……黒焦げ」
 嫌な顔をしてぼそりと言った。
「……」
 少女は息を呑んだ。
 一行は部屋の中へ入り、応接室その他3つほどの部屋を通って寝室についた。どの部屋も象牙色を基調として、飴色の木製家具でアクセントをつけていた。花はどこにも飾っていなかった。
 ベッドが二つ並んでいる。
 アインシュタインは友人をベッドに横たえた。
「お守りも付けとくかな」
 彼の、男としては若干細目の右手の上に、楚々とした優しい青紫色の小さな釣り鐘形の花が数輪現れた。
 眠る中将の胸の上に置く。
 まるで死んでしまったみたいだ、と、ロイエルは落ち着かなくなった。
 その気配を察して、術者は笑って見せた。
「手向けの花じゃないよ。お守りだ。これは枯れないイワギキョウの花で、私の象徴」
 さっきまで「僕」と言っていたのに、今、「私」と言った。何かを使い分けてるんだ、と、ロイエルは気づいた。
「ねえロイエル?」
「はい?」
「君は、ゼルクのこと、好き?」
「……」
 非常に難しい質問だった。
 答えられない問いだった。
 ロイエルは、心臓の上に手を置いて、弱った顔をして、渦巻く感情の瞳をそのままに、ただじっと魔法使いを見つめた。
 アインシュタインの右手の上に、イワギキョウの花がもう一輪現れた。
「あげる」
「アインシュタインさん?」
 術者はほほ笑んだ。
「君と僕とは、友達になろう? これはね、友情の証。持っていて、ロイエル」
 花を少女に手渡した。さきほど目隠しした時には冷たく汗ばんでいた手が、温かく乾いたものになっていた。
「ありがとう」
「うん。看病、お願いできるかな?」




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