DEEP METAL BATTLE

すぎな之助(旧:歌帖楓月)



16 滲み出る毒

 やがて涙が嗚咽に代わって、しゃっくりとなり、それが止むと、ロイエルに残ったのは、ばつの悪さと恥ずかしさだった。
 どうしよう。なんでこの人にすがったんだろう、しかも泣いたりして。
 顔をあげられない。目も合わせられない。混乱して心臓がドキドキする。
 彼の膝の上に抱えられているという事実も追い打ちを掛ける。
 こんなの、赤ちゃんみたいじゃない。しかも、この人、病人みたいなものなのに。私ったら。
「……ごめんなさい泣いちゃって。もう大丈夫、」
 もぞもぞとつぶやき、顔を赤くしてうつむいて、最低な気持ちで膝の上から降りる。
「こんなつもりじゃなかったの。顔、洗ってくる」

 腕の中からロイエルがいなくなった後、ゼルクは自分が置かれた状況を理解した。シャツとスラックスを身に着けている。上着については友人のどちらかが管理してくれているだろう。
 ここが、ガイガーの提供した『隠れ家』だ。
 目覚める前までは、自分が幼少だったころの、母との思い出、暖かく安らかな夢を見ていた。それはアインシュタインが設えてくれた癒しなのだろう。
 それに加えて、目覚めたら、あの子が頼ってきてくれた。
 口元に笑みが浮かぶ。
 上々だ。望外の報酬だ。
 両腕を動かす。両手を広げて閉じてみる。しびれや痛み、違和感ははない。
 脚も動かしてみる。上肢同様、特に異常は感じられない。
 中将はベッドから降りた。ふらつきは感じない。平衡感覚も正常だ
 一歩踏み出す。
 大丈夫だ。問題ない。

 ロイエルは困っていた。
 蛇口から水を出す方法がわからない。
 当然であるが、それは相変わらず、金獅子に羽が生えた格好をしており、羽の部分を動かせば、適温の水が優雅な音を立てて流れ出てくる仕組みになっている。
 たしかに先ほど自分はここで顔を洗ったのだ。
 しかし、具体的にどう動かせば水が出るのか、先ほどの魔法使いの手本は早すぎて覚えられなかった。
「……」
 難しい顔をして羽を動かす。
 押しても引いても開いても駄目だ。
 少女は、水1つ出せない自分が情けなくなってくる。
 診療所では、家事全般を担っていたのに。ここでは、顔すら洗えないなんて……。
 カチャカチャという金属音が気になったのか、ゼルク中将がこちらに来た。
「ロイエル、どうかした?」
 少女はギクリとした。
 顔を合わせたくなかったから顔を洗いに来たのに。つまり、逃げてきたのに。
 居たたまれなくなった。でも、黙っているのはもっと気まずい。
「水を出したいのだけど、方法がわからないの……」
 うつむいて真っ赤になりながら、ぽそぽそとつぶやく。
 すぐ隣に中将が立った。恥ずかしさと緊張で体が硬くなり動悸がしてくる。さらに追い打ちをかけるように、彼から漂ってくる心地よい香りに、どうしていいかわからなくなる。
「変わった形だね」
「……そうなの。この、羽をね、動かせば出てくるって、アインシュタインさんがやってみせてくれたのだけど、」
 青年は、それよりも真っ赤な薔薇模様の洗面台の方がかなり気になった。吹き出したばかりの動脈血のような色だ。目が痛い。
 これらは、ガイガーの奥方の趣味なのだろうか? 他人の好みに口出しするつもりはないが……。
「他には無いのかな」
「え?」
「洗面所」
「……」
 考えもしなかった。
「探してみようか」
 下を向いたままのロイエルには、彼の声だけが上から降ってくる。どんな顔をしているかなんて、見られない。ところで、少女は下を向きっぱなしで、どうしたってこの洗面台が視界に入る。強烈な鮮やかさに目がちかちかしてきた。全体的に、ロイエルにとっていいことは一つもない。
「いいの。私一人で探してみる。あなたは、また寝てたらいいわ? 私の用事なのだし、」
「いや。私はこの洗面台を使いたくないからね。目が痛くなる」
 考えていることが同じだったので、少女は思わず顔を上げた。
 すると、中将が、少女の気分と同じような顔をしていた。
「好き? こういう色柄」
「あんまり……」
「じゃあ行こう」

 二人はそのままずっとまっすぐ歩いた。ロイエルは、ゼルクの後ろをついていった。何も話しかけられないのでほっとした。
 白い台所と食堂があった。
 飴色の木造りの廊下を横切った。
 大理石ではない簡素な風呂場の入口があった。白い樹脂製だった。そこは素通りする。
 衣裳部屋らしき、何もない小さな暗い部屋があった。そこも素通りする。
 そして、素っ気ない寝室があった。暗灰色のシングルベットとサイドテーブルしかない。
 最後に、飾り気のない、白い樹脂製の洗面所と、トイレがあった。
「よかった……」
 背後から聞こえてきた、心からの安堵の声に、中将は苦笑した。
 洗面所には何の個性も細工もない、どこにでもある銀色の蛇口がついていた。
 取っ手をひねるとジャアっと勢いよく水が出た。
 青年は振り向いた。
「これなら使い方わかるね?」
「ええ。あ、よかった、普通のタオルもある」
「?」
 ゼルクは眉を寄せた。またジョン医師がおかしな習慣を取り入れていたのではないかと疑った。
「『普通のタオル』って?」
 ロイエルは、洗面台の隣の白い棚に積まれた木綿のタオルを一つ取り出し、言った。
「さっきの洗面所のは、普通じゃなかったの」
 意味が分からず、青年は首を傾げた。と同時に、あの医師とは無関係だったことに安堵した。
「普通じゃない?」
 少女は複雑な顔をして肩を竦めた。
「なんて言ったらいいのか……見てみればわかるわ?」
「……そう、」
 それも彼の奥方の趣味だろうか? と、中将は考えた。昨夜からここまでのできごとを振り返ると、どうやら自分は彼女と反りが合わないようだ。
 そして、ロイエルが蛇口に手をやろうとしたときだった。
「はいちょっと待った」
「!?」
 アインシュタインが転移魔法で姿を現し、ロイエルの腕を捕まえた。
 少女は驚いたが、右腕を掴んでいるのが魔法使いとわかると、緊張を解いた。口元が自然に緩んで、少し笑顔になる。
 ゼルクはその一瞬を見て、「友人が自分よりもはるかに少女との心の距離をつめている」ことがわかり、仕方のないこととはわかっていながらも、目を伏せた。
 ロイエルは「友達」の名前を呼ぶ。
「アインシュタインさん、どうしたの?」
「水に触ったら駄目」
 しかめつらしい顔でロイエルに言った後、「保護者」を見た。
「DMがまだ残ってるぞ。彼女」
 中将は少し目を見開いた。
「まさか、……除去は一昨日したところだが、」
 手ずから彼女を洗浄したのだ。にわかには信じられなかった。
 魔法使いもうなずいた。
「俺も昨夜、魔法で除去したはずなんだが。さっきな、寝てるお前の傍にいた彼女を見ていたら、じわじわ出てくるのだ。靄みたいに」
「何の話をしているの?」
 困惑顔で、ロイエルが魔法使いに尋ねた。
「……」
 アインシュタインは、決して彼女の手を離さないまま、見下ろす。そして「保護者」を見た。本来、指揮官である彼から話すのが筋なのだが。
 ロイエルは彼に視線を移そうとはしなかった。
 ゼルクは平静な目で魔法使いに説明するよう促した。
 魔法使いは腰を落として、少女と同じ目の高さになった。イワギキョウと同じ色の切れ長の瞳が、夕焼け色の丸くきらきらした瞳をのぞき込む。少女は素直に見つめ返した。
 アインシュタインは、聞くことから始めた。
「ロイエルは、生まれてからずっとケイタムイで暮らしてきたんだよな?」
「そうよ」
「そこの水を飲んで、そこで取れた物を食べて」
「ええ」
「ディープメタル、という金属の名前を、聞いたことがある?」
 誰からとは言わずに、アインシュタインはたずねる。
「さっき、あなたから聞いたのが初めてよ? いい匂いのするワクチンの話に、その言葉があったわ」
「……」
 魔法使いは瞬きを一つした。指揮官を見る。彼の目に浮かんだ渋い色に配慮し、アインシュタインは感情を抜きにして事実の説明をすることにした。彼女が献身するほどに傾倒している二人のことは触れないように。
「そうか。ケイタムイの湿地の水にはディープメタルという金属が含まれていたんだ。その水や、その水で育った農畜産物を飲んだり食べたりすると、ディープメタルが体の中に入り込んで溜まっていく。そして、食べたり飲んだりした本人や、その周りにいる生き物に『悪さ』をする」
「待って、アインシュタインさん。ディープメタルというのは、……オウバイ様が使っていらした偉大な力と関係があるの?」
 自分が尊敬する人を悪く言われるのではと警戒し、少女は表情を重くして確認する。
 魔法使いは軽く首を振った。
「いいや。今の話に呪術は全く関係ないな。今回は、たまたま、呪術で使う水にディープメタルが含まれていたようだがね。僕が話をしているのは、あくまでディープメタルという金属の話。とても体に悪い。ここまでは、わかった?」
 ロイエルは、そっとゼルクの顔を窺った。彼は全く静穏で、少女が想像したような「首謀者を憎む」という気配がない。彼女が思ったのとは違う様子だったので拍子が抜けたのと同時に、何故か寂しさと、そして逆に怒りとが、心の奥にじわりと滲んだ。
「……うん、」
 少女の、間を置いたうなずきを得てから、魔法使いは続ける。
「それでな。ディープメタルというのは、水に溶ける。ロイエルの中にあるディープメタルも、同じように、……例えば、もう君は、さっき水を使っちゃったんだけど、あれで皮膚から水に溶けて出ていくんだ」
「うん、」
「すると、溶け出たディープメタル混じりの水が、ほかの生き物に悪さをする」
「『悪さ』って、どんなこと?」
 魔法使いはため息をついた。
「その種類が大層多い。あらゆる病気の元になったり、『魔法』のような働きをしたり。これという掴みどころがない。普通の病気なのか魔法なのか、それともディープメタルによるものなのか、区別がつかないのだ」
 アインシュタインはあえて話さないが、研究院だけがDMを精密に検出する技術を持っている。しかしそれは対象に大きな負担を掛け、結果として死なせることが多かった。
「私が水に触ることで、それをまき散らしちゃうの?」
「そう。だから、ロイエルの中にあるディープメタルを取り除かないといけない」
「どうやって?」
 アインシュタインはゼルクを見た。
「ゼルク、どうする?」
 中将は仕事の顔で答えた。
「研究院から除去剤を取り寄せるか、君が魔法で除去するか、いずれかの方法だ」
 ロイエルが、浮かない顔をして指揮官を見た。
「もう少し詳しく教えて?」
「研究院から除去剤を取り寄せて、除去剤入りの水で2週間程度生活するか。それともアインシュタインの魔法で除去してもらうか」
「どうして2週間もかかるの?」
「人体の構成物質が全部入れ替わるまでに必要な時間だからだよ」
 指揮官は淡々と説明する。
 少女の表情がどんどん沈んでいく。
「そんなに長く?」
「そう」
「じゃ、魔法だとどれくらい?」
 ゼルクは答えず、アインシュタインを見た。回答者が変わる。
「3時間もあれば全部入れ替わるかな」
 だが、そう軽く言ってのけた魔法使いは、「ううむ」とうなって口に拳を当ててうつむいた。
「除去液2週間生活は、長くかかるし面倒だけど苦痛はない。魔法は比較的短時間で済むけれど、術にかかっている間は体の感覚がおかしくなる」
 そして顔を上げて少女を見つめ「どっちがいい?」と選択を促した。
 首謀者達を篤く信奉する彼女にとって、2週間は長すぎると思った。
「『おかしくなる』ってどういうふうになるの? 魔法の方が痛かったり苦しかったりするということ?」
 アインシュタインは「そうだなあ、」と言葉を探した。
「その感覚が様々でね。ディープメタルの多様な性質によるのかもしれないが」
 ロイエルはアインシュタインを見上げた。
「……今もお二人が苦しんでいるかもしれない。早く助けたいから、早く済む方がいいわ。魔法でお願い」
 魔法使いは少女の真摯な瞳にうなずいた。
「わかったそうしよう。で、ゼルク、」
 アインシュタインが友人に呼びかける。
「なんだい?」
 相手は落ち着いた表情で応じた。それを、少女は複雑な顔をして見ていた。
「君が、ロイエルのDM除去に有効だということを、僕はこの目で確認したんだよ。さっきね。ロイエルから靄のように出てきたDMが、眠る君の付近で消失したのだ。おそらく君に接種しているワクチンの副次効果だろう。だが、彼女はその接種を受けられない。なぜなら君達軍人専用のものだからね」
「ああ、それで?」
 魔法使いは、軽く数度うなずくと言った。
「君がロイエルのそばにいれば、除去が滞りなく速やかに進むだろう。協力してくれるな?」
「もちろん」
 よかった、さあ来たまえ、と、アインシュタインは、握ったままのロイエルの腕を引いた。
「アインシュタインさん、どこへ行くの?」
「最初の寝室に戻る。そこで術を掛けるんだ」

 途中、台所付近で、誰かのお腹が鳴った。
 青年二人が足を止めて少女を見た。
「ごめんなさい……」
 ロイエルはお腹を押さえてきまりが悪そうに謝った。
 朝食がまだだからな、と、ゼルクは思ったが、待てよ、と嫌な予感がした。
「ロイエル。最後に食事をしたのは、いつ?」
「一昨日の午前中、あなたが湿地のほとりでくれた小さな食べ物があったでしょう? あれが最後」
 その後は、石牢で夕刻と朝に出されたが、食べられる心境ではなかった。そして昨日はそんな暇などなかった。でもロイエルにとって食事がないことは大したことではない。腹は鳴ったが空腹には慣れている。水は飲むが。
 けろっとした答えに青年たちが顔色を変えた。軍人と魔法使いは、配分は微妙に違うが、体と頭が資本の生業であるので、食なしには成り立たない。
「は? 一日以上食ってないのか!?」
 大食してはトレーニングと頭脳労働で完全燃焼生活をしている魔法使いが声をあげた。
「ちょっとそこに座りなさい。何か作るから、」
 食堂の椅子を指さし、冷蔵庫を開けたゼルクに、魔法使いが待ったを掛けた。
「いやちょっと待て。この後、途中でもし吐くようなことになったら気管に詰まる恐れがある」
 冷蔵庫の中をざっと見て、食材があるのを確認した中将が、友人の制止に顔を曇らせる。 
「ではそれは半日ずらすことにしよう。とにかく何か食べさせないと、」
「おお、わかった。じゃあそれでいくか」
「待って。いいの、」
 割って入った当事者に、2人は、「よくない」「いいわけないだろ」と共に反論する。
 少女は首を振る。
「すぐにでも取り除いて欲しいの」
 自分の為ではないのは明らかである。
 苦い顔をする指揮官と魔法使いに、少女は譲歩案を出した。
「中将、じゃあ、一昨日湿地でもらったあの食べ物を、またもらえない?」
「……」
 たしかにあれなら、速やかに消化されて吐く恐れも下す恐れもない。今後のことを考えれば一番いい食事だと言える。
 しかし、心情的には、彼女に「ちゃんとした食事」をさせてあげたい。
 2人ともそう思った。
「……アインシュタイン、どこかに私の上着があると思うんだが、それを出してもらえるかな?」
「うーん、わかった」
 軍の2人は残念そうにやりとりし、一人は上着を転移魔法で取り寄せ、もう一人はそれを受け取って例の物を取り出すとロイエルにあげた。
「はい」
「ありがとう」
 少し笑ってくれた。しかしそれは、首謀者のためになるから嬉しいのだ。
「座りなさい」
 ゼルクは少女に食堂の椅子を勧めて、冷蔵庫からミネラルウオーターの小瓶をだし、コップに入れてあげた。自分も同じものを食べる。
 魔法使いは「味気ない朝食だな」と思ったが、仕方ないことなので黙って見守った。

 最初の寝室に着いた。ゼルクは腕時計を見た。7時58分だった。
 アインシュタインは先に部屋に入ってロイエルのベッドの上掛けをまくると、手招きした。
「じゃあ、ロイエル頑張ろうな。さあここに横になるんだ」
 少女はきょとんとした。
「寝るの?」
 魔法使いはうなずく。
「座ったり立ったまま術を掛けると、必ず倒れる。だから最初から横になっておいた方がいい」
 倒れると聞いて、ロイエルは少し怖くなった。しかし、お二人を探すためには一刻も早く普通に生活できるよう頑張らないといけないと思った。
「ええ、」
 アンネ准将が貸してくれた上着を着たまま、ロイエルはベッドに横たわって上掛けを被った。上着の中は、昨日、医療班で処置を受けた後の格好のままであり、水色の患者服を着せつけられている。そこまではまあいいのだが、さらにその中の下着がロイエルにとって問題だった。下については使い捨てのパンツを穿かせてもらっていたが、上がない。上着を脱ぐということは、胸の線があらわになるということだ。異性の前でそれは避けたいと思った。一昨日まではあまりそういうことに構わなかったため、人生最大の過ちを犯してしまった。
 そこまで考えたところで、思い出した。
 ユリが着替えを持ってきたのだ。その中に下着やズボンなどがあれば、とても助かる。
「あの、アインシュタインさん、」
「なに?」
 ええと、と、少女は目を泳がす。言い出しにくい。どうも青年二人に囲まれていると圧迫感を感じる。
「ユリさんが持ってきた着替え、……今、着てもいい?」
「そういや、あったなあ」
 魔法使いは「あったあった」と応じて、何故か天井を見上げ、「ユリさん、さっき持ってきた着替えどこかな?」と言った。そして「おお。ありがとう。でもガイガーは抜きで頼むよ」と言った。
「……?」
 天井と会話している奇妙なアインシュタインに、ロイエルは奇異の目を向ける。魔法使いは「配線と魔法との微妙な関係でね、ユリさんとはこの角度でないと会話できないのだ」とごく普通の調子で説明してくれたのだが、さらに訳が分からなくなった。
「まあ、このことについてはあまり深く考えなくていいんだロイエル。とにかく、今からユリさんがこちらに来てくれるそうだから、着替えについて色々と話してみなさい」
「う、うん」
 とまどいっぱなしのロイエルはそのままにしておいて、魔法使いは友人に伝える。
「君が起きる前にユリさんが来て、ロイエルの着替えやらここでの暮らし方について教えてくれようとした時に、君が起きてああなったので、皆、一旦退室したのだ」
「そうだったのか。配慮してくれてありがとう」
「……お、おう、」
 さらりと悪びれない態度に魔法使いの方が怯んだ。ごほん、と咳払いすると、調子を取り戻す。
「それよりも、彼女こそだ。昨夜の件について謝罪の気持ちはあるのか、わからんところだぞ」
 ゼルクは昨夜受けた「彼女の調査」を思い出しつつ答える。
「この場所を提供してもらえたから十分だよ」
 確かに言いたいことは夫婦ともにあるが、結果うまくいっているので、とりあえず細君の方はいいとした。ガイガーについては後で考える。
 するとアインシュタインの方が大きく不満を訴えた。
「えええええええええ!? それでいいのかよ!? やり過ぎだって抗議しろよ!」
「……ごめんなさい、」
「え?」
 か細い声が上がったので、魔法使いがベッド脇に目をやる。
 ロイエルが肩を落としていた。アインシュタインはぎょっとする。
「ロイエルのこと言ってるんじゃないぞ!?」
 ゼルクが顔色を変えた。
「君は何も悪くない」
「おはようございますゼルクさん。お元気そうで何よりです」
 爽やかで清楚な声が響いた。
 青年二人が寝室の入り口を注視した。
 ユリがにっこりとほほ笑んで立っていた。
 今の会話をしっかりと聞いていたにも関わらず。晴れやかな笑顔である。
 この姿だけ見れば、清楚可憐で育ちの良い素敵な女性が爽やかに朝の挨拶しているふうである。昨夜あの仕打ちの後に平然と職場復帰し完徹してのけたとはとても思えない。
 紫色の髪の魔法使いは苦虫を噛み潰したような顔で彼女を見たが、笑顔はまるで曇らない。
「ユリさん、おはようございます。昨夜はこのような場所を提供していただき、感謝しています」
 同じように、できた穏やかな笑顔でゼルクが挨拶をした。そこには負の感情の気配すらない。
「いいえ、どうぞ必要なだけ御滞在くださいね? 必要な物がありましたらお申し付けください。用意しますから」
「ありがとうございます」
 2人のにこやかなやりとりに、研究院の魔法使いはげんなりした。そばにいる17歳の少女に同意を求めるべく何か言おうとしたが、信じられないことに尊敬のまなざしで二人を見ているではないか。小声で「ロイエルどうした?」と聞いてみると、「感謝や奉仕の心って、やっぱり一番大切なことなんだなって思って」、と、どこをどう見たらそう思えるんだという返答があり、彼は言葉を失った。行き場のないモヤモヤが酷くやるせなかったが、アインシュタインは、「まあいいか、この子の教育はゼルクの管轄だし、おそらく自分が何か言おうものなら馬に蹴られるだろうから黙っとこ」、と、自分を納得させた。
「さて、ロイエルちゃんの着替えに良さそうなものを、また持ってきましたから」
 にこにこ笑って、ガイガーの妻は紙袋を持ち上げて見せ、「ロイエルちゃんいらっしゃい」と手招きした。
「はい」
 素直に少女は女性の後をついて部屋を出て行こうとする。
 ゼルクが「ユリさん、」と声を掛けた。
「なんでしょう?」
「ガイガーは?」
「ご安心ください」
 ユリは紙袋の中からヘッドセットモニタを取り出して慎ましくほほ笑む。
「その点は抜かりありません」
「ありがとう」
 ロイエルの保護者は心から礼を言った。
 ユリは爽やかに部屋を出て行った。
「なんだ、ちょっと見直したなあ」
 アインシュタインが感心した。そして、魔法使いは階下にいる悪友の様子を魔法で見て、吹き出し、大笑いした。
「ハハハハハハハ!」
 床に膝をついて腹を抱えて笑い始めた友人に、ゼルクは驚いた。
「どうしたんだ?」
「き、ハハハハ、昨夜の、アハハハハハ、大蛇に、巻かれてるハハハハハハ!」

「うひゃああああ!」
 朝の爽やかな日差しが届くリビングに、むさくるしい男の悲鳴が響く
 そこにはガイガーがいて、明るい朝にふさわしくない色合いの、漆黒の大蛇にその巨体を取り巻かれていた。もちろんこれは本物の生き物ではなく、仮想現実的な存在であるのだが。愛する妻による感覚接続を許してしまった夫は、結果としてこの蛇の前に無力となった。
「ユリちゃんユリちゃん! これ取ってぇ!? いやあこわいッ!」
 昨夜、ゼルク・ベルガー中将に取り付き絞め殺そうとしたあの大蛇である。
 ただし、今のその力は標的を動けないように固定する程度のもので、決して危険ではない。
「気持ち悪いよおおおお! 冷たいよお! ぬらぬらするよお!?」

「さあ行きましょう!」
 夫に不埒な行動をさせないためとはいえ、不必要な恐怖を用いて足止めを食らわせた若妻は、辺境から来た少女に、爽やかな笑顔を見せて手を引き案内した。
 暖かい柔らかい手だなあと思いながら、ロイエルはユリに手を引かれて行く。
 そしてふと気づいた。首都に着いてから、「ふれあい」が多い気がする、と。
 落ち着いた趣味の化粧室にいそいそと案内したユリは、ドアの鍵を掛けると、「ロイエルちゃんの手が」と、顔を曇らせた。
「なんです?」
 少し不安になり尋ねると、ユリは悲しそうに言った。
「触ってからわかったのだけど、とても荒れているのね? 水仕事するの?」
「あ、はい。家事は全部。あとは、ド、いえ、医師の診察の手伝いで消毒したり」
「そう。ちょっと待ってね、ここにたしか、」
 ユリは化粧台の引き出しを開けて、非常に凝った細工の黄金に輝く小瓶を出した。あの変な金色蛇口と、ギラギラした感じがよく似ていた。
「これは沢山もらった物なのだけど。なんだかとってもお高いクリームらしいのね。これを塗っておきましょう。きっとよく効くわ」
 小瓶を開け、乳白色のクリームを惜しげもなくたっぷりと指にとり、ユリはロイエルの両手に塗ってやった。
 ひどく新鮮な気がして、ロイエルはクリームを塗られる自分の両手を見ていた。化粧品の類は自分とは関係ないものだったからだ。
「はい終わり。これはロイエルちゃんが持っておきなさいね? なくなったら、この引き出しに沢山あるから、どんどん使って」
 ユリは、クリームをしまわずに、化粧台に乗せた。
 彼女は始終にこにこしている。しかもその笑顔にはいやらしさがない。晴れやかでさわやかだ。昨夜の彼女は怒っていたが、それは純粋な「義憤」のようだった。そこにはやはり「いやらしさ」とか「汚さ」は感じられなかった気がする。
「ありがとうございます」
「どんどん塗ってきれいな手になるのよ? さて、これに着替えましょう」
 ユリは紙袋の中から、トレーニングウェアを出した。黒の上下で、上のシャツは七分袖で襟部分が水色をしていて、脇に同じ色の線が入っている。下のパンツも脇に同じ線が入っている。肌の露出がない衣服だったので、ロイエルはほっとした。
「下着はこれね?」
 同じく紙袋から出した。これもスポーツ用の下着で黒だった。いわゆる色気とは逆の機能的な形をしていたので、これにも、少女は心からほっとした。
 余計な性の気配はできるだけ隠したかった。
 安堵した笑顔を見せた少女をみて、この建物の持ち主は頭を撫でてあげた。
「もう安心よ? お風呂は、終わってから入りましょうね? そのときはまた案内するからね?」
「……」
 その言葉を聞いて、ロイエルは涙が溢れてきた。
 昨夜は色々あったが、やはり同性として言葉はなくとも通じ合うものがある。
 辛さをわかってもらえた気がした。




←戻る ■ 次へ→
作品紹介 へ→
inserted by FC2 system