ロイエルは、ドクターから伝えられる「神聖な使命」を果たす前に、いつも、ある場所に立ち寄る。
それが習慣になっていた。
来れば、気持ちが落ち着いた。
そこは、村をぐるりと取り囲む湿地のほとりだった。一番深いと言われている黒い淵が臨める場所だった。
手の中に、尊敬し信頼する医師から託された、オウバイ様の石がある。
そうして、茶色がかった青緑にどろりと濁る沼の淵を見つめて、心の中で、オウバイ讃えるのだ。すると、体の奥にある水が、故郷に帰ってきたように揺らめく。そんな気がする。
全能の力をもつ、麗しいオウバイ様。今日も私を生かしてくださってありがとうございます。あなた様のお陰で、世界の皆が健やかに生きております。あなた様はこの世の宝、あなた様はこの世の星、あなた様はこの世の花です。美しいあなた様を讃える私を、どうか、あなたを磨く布として、あなたを引き立てる闇として、あなたを一層美しく咲かせる栄養として、心ゆくまでご利用ください。
それが済むと、目まいを起こし足がふらついた。
白く乾き果てた砂地に、膝を着き、座り込んでしまう。細かな粒子が飛び散り、膝上までまとわりついた。
いつも、こうなる。
体から力が抜けて、目が回り、虚脱感が襲ってくる。貧血のような症状だった。動けるようになるまでに、しばらく時間がかかる。
しかし、少女は、光を浴びた草花のように、嬉しそうに笑っていた。
「私は『幸せ者』、なんだ」
ロイエルは、こんなふうになることを、ドクターに相談していた。すると、彼は、こう答えたのだった。常には柔和な表情を、おごそかにして。「それは、全能のオウバイ様が、ロイエルの賛美を聞き届けてくださったのです。恐れ多くも喜ばしいことです。あなたは『幸せ者』なのですよ」と。
私は「幸せ者」なのだ。
ロイエルは動けないまま、青い顔で、暗く重い色の淵を、ずっと見つめていた。
そこに、いつか村に訪れる永遠の楽園が、厳重に隠されているかのように。
だから、呼びかけられるまで、気付かなかった。
「大丈夫かい?」
「?」
頭上で穏やかな低い声が響いた。
晴天の霹靂、とは、まさにこのことで、ロイエルは驚いて顔を上げた。前方の暗くどろりと濁った沼地から、太陽が照る澄んだ爽やかな青空へ。
若い男が、自分の後ろに立っていて、見下ろしていた。
月光のような金髪に、今日のような薄青い空の色をした瞳。
今までに見たことがない兵士だった。
そして、初めて見る類の軍服。アンネ准将の真っ青なそれでもないし、他の兵士たちが来ている迷彩柄やくすんだ緑色でもない。
暗い灰色だ。
自分より10も年上じゃなさそうだから、きっと、兵士見習いだろうと、ロイエルは予想した。
ゼルク・ベルガー中将、というのが来ているらしいが、その人はこんなじゃないだろう。恐ろしい巨漢で強面の軍人に違いない。
それに比べて、目の前のこの人は若いし、まあ背は高いけど、すごくってほどじゃない。なにより、体つきが、引きしまってすらりとして、全然ごつくない。
強いほど、体付きが大きくて頑丈だ。あのソイズウ大佐なんて、岩山のような巨体だったし。
この人は、まだ、軍に入ったばかりのひよっこなんだろう。
こんな人まで出さないといけないということは、もう、国軍には余力が残っていないのだ。
私たちの輝かしい勝利が、確実に近づいているのだ。
この村に、美の女神オウバイ様が望む、不老長寿の理想の楽園が、実現するのだ。
そう考えたロイエルは、少しの笑みを、若い軍人に向けた。
すると、彼も笑い返した。とても穏やかに。
ああ、この人は、絶対に戦場に慣れていない。
だって、慣れてたら、もっとすさんでる。
こんなあたたかい笑顔、浮かべられないわ。
だから、自分の予想は正しい。と、ロイエルは確信した。
「具合が悪いんじゃないのかい? こんな所に居たらいけないよ」
そんな優しい言葉、戦場には不向きだわ。
少女は憐れんだ。
可哀想に。きっと、すぐに、そんなこと言ってられなくなるわ。軍人なんかになるの、止めておけばよかったのに。
「大丈夫です。ちょっと座ってみたかっただけですから」
「そう言うけれど、顔色がひどく悪い」
「いつものことです。すぐ治るんです」
軽く笑って、言外に「関わらないで」と表現した。
しかし、青年は、ロイエルの目の前に来て、砂地に片膝をついた。
風が、当らなくなった。
残念に思い、眉をひそめたが、青年は少女の気持ちに気付かないようだった。
ロイエルは、彼がそこに座ったのは、わざとでなく偶然なのかもしれない、と、思いなおした。
ありえる。だって、何も知らない人に、湿地の力や素晴らしさがわかるわけないもの。
それなら、怒っても無意味だ。
そんなことを考えていると、心配そうな言葉を掛けられた。
「お家まで送って行こうか?」
ロイエルは困惑して、少し上体を引いた。
それは困る。今、出て来たばかりなのに。ドクターから任された神聖な使命を果たさなければならないのだ。
帰るわけにはいかない。
「本当に大丈夫なんです。それに、家は診療所ですから。軍人さんは、安心して仕事に戻ってください」
「診療所……?」
少し眉を寄せた相手に、ロイエルは言い加えた。
「この村には、初めて来たんでしょう? それなら、ご存知ないかもしれませんけど。わたしの家は、村でただ一つの診療所なんです」
ロイエルは誇らしげに笑った。尊敬するドクターの診療所のことを紹介できるのが、嬉しくてならなかった。
「……」
兵士見習いと思われる青年は、一つ、瞬いた。
少女は、彼が「診療所」の意味を知らなくて戸惑っているのだ、と思った。人が多く住む都会には、診療所はないのかもしれない。
だって、こんな表情を見せるなんて、それくらいしか思い浮かばない。
「……どうしたの? 『診療所』って、ご存知ですか?」
尋ねて反応をうかがうと、彼はくすりと笑って返した。
「知ってるよ。少し考え事をしていた」
そして、ちょっと振り返って、後ろの沼に目を留め、またすぐに向き直って、言った。
「君が言うように、私はこの村には初めて来たんだ。だから、色々と驚くことばかりでね。それで、この村の習慣がどんなものか、とても興味を持っている」
「習、慣?」
首を傾げ、まだ残るめまいにふわりと侵されて、少し目を細めながら聞き返すと、「兵士見習い」は、うなずいた。
「そう。例えば、食生活。君は、今までどんなものを食べてきたんだい? こんなに大きな湿地に囲まれた村だから、私たちが住む首都とは、食生活から違う気がするのだが」
「なんだ。そんなこと」
答えるのが簡単で、そして自分の「仕事」にも全く差し障りの無い質問だったので、ロイエルは気安く答えた。
「近所のおばさんがくれる小さなお芋や、湿地に生える食べられる水草の実を、ゆがいて練ってお団子みたいにして干しておくの。それを蒸して食べるの」
すると、相手はゆっくりとうなずいて、訊き加えた。
「それを、君が、全部するの?」
そんなこと、わざわざ確認するまでもないのに、と、少女は思いながら、簡単にうなずいた。
「ええ、そうよ」
「いつから?」
「え?」
記憶がない。
「いつからかしら。……いつの間にか」
「その他には、何を食べる? 野菜や、魚や、肉や、果物は?」
「近所のおばさんがくれた物を食べるわ」
「家が診療所だというなら、お医者さんと一緒に暮らしているね。お医者さんと君とで、分け合って食べるの?」
ロイエルは、きょとんとした。
「どうして? ドクターのは、別に作るのよ?」
「誰が作るの?」
「私が」
「どんなものを作るの?」
「スープと、肉料理と、パンと、野菜の煮込みと、果物。他にも色々、ドクターが食べたいっておっしゃった物を」
「それも、近所の人からもらうの?」
ロイエルはおかしくなってくすくす笑った。
「いいえ。ドクターはお金を持っているもの。ちゃんと買い物に行ったり……最近はお店がなくなったから、領主の館が外から買ってくるときに、一緒に買ってきてもらうの」
「ドクターの分だけ?」
「ええそうよ」
「……」
青年兵士は言葉を失ったようだが、家事に慣れたロイエルは、「首都では、お店がない、なんてことがないから、驚いてるのね」と思って気にしなかった。
気を取り直したのか、また質問があった。
「君は、いつから料理をするようになったの?」
「……」
少女は、記憶をたどる。
「十歳くらい、だったと思うわ。火を扱っても怪我をしない背丈になったから。ドクターが調理の仕方を教えてくださったの。『これからは、これも君の仕事ですよ』って。それまで、私の仕事は、お掃除やお洗濯くらいだったのだだけど、やっと一人前になれたの。今は、家事全般と、ドクターのお仕事のちょっとした手伝いはできるわ?」
ドクターとのやりとりが話せたのが嬉しくて、ロイエルの口元に笑みが浮かんだ。
「そう。君は今、いくつ?」
「17よ」
「学校には行っている?」
「行く必要がないって、ドクターがおっしゃったわ。だから必要ないの」
「君は、その診療所の子供なの?」
「とんでもない」
ロイエルは、さっと首を振る。
「私はドクターのお世話になっているの。それだけよ?」
「雇われているということ?」
「違うわ。私、孤児なの。優しいドクターが、私を診療所に置いてくださっているの」
「孤児……」
「そうよ。ドクターが優しい方で、感謝しているわ」
「そう」
兵士見習いは、難しい顔をして、後ろから吹く風に乱された前髪をかきあげた。
「……」
青年は、口に手を当てて、目を伏せた。
自分の気持ちとは逆に、「嬉しくなさそう」な顔をした相手のことが、ロイエルには解せなかった。
「……どうしたの?」
すると、意外にも、軽い笑みが返ってきた。
「いいや。首都とは全然違うのだな、と思ってね」
「そうだったの」
ほっとする少女に、青年は穏やかにたずねた。
「また、聞いてもいいかい?」
「どうぞ」
こんなに簡単に答えられる質問だったら、「目まいが消えるまでは」付き合ってあげようと思った。だって、こんなこと、全然、戦いとは関係がない。
「君の着ている服は、首都では、女の子が着る物ではないのだけど。その服はどうしたの?」
「ああ。これ?」
ロイエルは、表情を明るくした。
「全部、ドクターのお下がりよ?」
その時、相手が浮かべた表情は、ロイエルが知らない種類のものだった。強いて近いと言うなら、思いがけない病名を告げられた患者さんのそれだった。だから、「一体、どうしてそんな顔をするんだろう?」と、不思議にしか思えなかった。
「ね、どうしたの?」
「……」
答えがない。
「ねえ?」
続く沈黙に、不安が湧いてきた。
どうしよう。私、何か、この人に悪いこと言った? だけど、思い当たらない。
ロイエルが、ひとまず謝ってみようかと思った時、青年がようやく言葉を返した。
「心配しないでいいんだよ。首都とあまりにも違うから、驚いていただけだ」
そう言ってもらえたので、とても安堵して、肩の力が抜けた。
「よかった。びっくりしたわ。私があなたに、何か悪いことしたのかと思った」
息をつくロイエルに、兵士見習いは微笑みかけた。
「気を遣わせて、すまなかったね」
「いいの」
ふと、そういえば、彼の名前を聞いてなかった、と思ったが。それは、どうでもいいことに思えた。だって、私たちは、実は敵同士だから。無闇に親しくならない方がいい。彼は、やがて、「戦場の厳しさ」を思い知って、兵士になることを諦めるだろう。
きっと、もう2、3日のうちには、嫌になって辞めるかもしれない。
沼からは、少し強い風が吹きつけてくるのだが、彼に当たってそれてしまう。少女は、それだけが残念だった。
「よかった。顔色が少しよくなってきたね」
「そう?」
「君は、お腹は空いてない?」
ロイエルは考える。朝食は5時、診療所の昼休みは13時からだ。今は午前中だ。
だから、まだ、食べるべき時ではない。
「いいえ」
「そう。実は、私は、ここで隠れて食事を摂ろうと思って来た。そうしたら君がいたんだ」
軍服の内ポケットから、銀色の小箱を取り出すと、彼は中を開けて見せた。
銀紙に包まれた、小指の先ほどの大きさのサイコロ型のものが、規則正しく並んでいた。
「なに? これ」
「食事。できれば、共犯になって欲しいんだ」
「……どうして?」
青年は苦笑した。
「仕事を抜け出して食事を摂っていた、なんて知られたら、おおごとだからね。『お腹を空かせていた君に、私が食事を提供した』という形にしてもらえると、助かるのだが」
ロイエルは吹き出した。やはり、彼には軍の生活は向いてない。そんなことをするようでは。
「あなたは、見習いの兵士さんでしょう?」
相手は眉を上げ、くすりと笑った。
「そう見えた?」
当たったのだと思い、ロイエルは気軽に応じる。
「ええ見えたわ。いいわよ。共犯になってあげる」
「ありがとう」
渡された銀の小さな包みを開ける。茶色のクッキーのような物が現れた。彼にならい、口に入れてみる。すんなりと溶けて、濃厚な乳製品に似た風味が漂う。そして、甘い。
「……」
小さな食事の全てを知るべく、注意深く味わう。
その生真面目な姿を、面白げな微笑で見ていた青年が、たずねた。
「味は、どう?」
ロイエルは、きちんと飲み込み終えてから、神妙に答えて、問い返した。
「そうね、ええ、悪くは、ないわ。……兵士さんたちって、これを食べているの?」
ケイタムイに来ている兵士達が、自分らで炊き出しをしたり、酒場にいたりする姿なら、知っているが。
「私、見たことがないけれど」
「いつもという訳ではないよ。これは携帯食だから。半日分の栄養が入っている。時間が取れないときに使うんだ」
「そうなの」
それはつまり、「隠れてこっそり食べたい時」だろうか? と、ロイエルは聞いてみたくなったが、止めた。これから一人前になろうとしている人を、あんまり突っつくのも可哀想だと思ったので。
そうして、つくづくと青年を見た。
この村にいる兵士さん達は、誰も彼も傷だらけの頑丈な体をしていたり、恰幅がよかったりしている。または、逆に、余分な肉が削げ落ちて、目がらんらんと輝いて、闘う意志が溢れていたり。
この人は違う。
体格はいいけど、ごつくない。
髪の毛はさらさらだし。……外見をどうこう言いたくはないけれど、顔はすごくきれいだし、少なくとも、今まで見てきた兵士らしくない。
なんていうか、苦労してない感じ。
どうして兵士なんか志したのか? と、聞いてみたいが。止めた。だって、私たちは実は敵同士で、あまり深く知り合ったら、やりにくくなるから。
そう、オウバイ様の理想を阻む敵なんだから。オウバイ様の真の理想を理解してもらえたら、きっとうまくやれるのに。でも無理だろうそんなことは。
「顔色が良くなった」
「え?」
言葉が耳に静かに訪れて、少女は、はっとした。
そうだ、調子がよくなってきた。使命を果たしに向かわなければ。
青年が先に立ち上がった。
ふうっと、沼からの風が吹き当たった。今まで彼が前にいた時とは全く別の空気だった。
生臭い、と、思った。そして、「湿地って、こんな臭いだった?」と、不思議になった。だが、嗅覚はすぐに麻痺して、元どおり何も感じなくなった。
「では、私は宿営地に戻ろうかな」
風と同じように、ロイエルを通り過ぎていく。
「おつとめ頑張ってね。さよなら」
少し後ろを向いて、彼に挨拶した。
そのまま歩み去ろうとしていた青年が、振り返った。
「そういえば、聞いていなかった。君の名前は、なんていうんだい?」
「名前、」
それくらいなら、答えても、大丈夫だろう。薄茶色の髪を沼の風に揺らして、少女は答えた。
「ロイエルよ」
「そう。……またね、ロイエル」
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