DEEP METAL BATTLE

すぎな之助(旧:歌帖楓月)



7 沼との離別

「ジョンや。あんたの気持ちはわかったよ」
 オウバイはしみじみとうなずいた。
「そりゃ、そうだろうよ。何せ、アタシが外見第一でこさえた子だからねぇ。そう思うのも当然さねえ」
 老婆の目が、沼に棲むナマズの皮膚のようにぬらりと輝く。その口に、下卑た嗤いが浮かんだ。
「どうせ、あれはもう役立たずだ。あんたの思ってる通りに、殺そうが愉しもうが、好きなようにおし」
「ええっ、」
 老婆に勧められるや、今まで嗜虐的な笑みを浮かべていたドクターが、ぽっと顔を赤らめて、少女のように恥らった。
「そんな、オウバイ様」
 そして、老婆を、少し恨みがましく上目遣いに見た。
「どうして、そんなに簡単に勧めるのです? あんまりつれないじゃないですか。私は、ずっと、麗しの貴方様だけに操を立ててまいりましたのに」
 ふん、と、老婆は鼻で嗤う。
「んなこたぁ、とっくに知ってるさ。あんたは美しすぎる私のことが好きで好きでたまらなくって、記念すべき最初は美女の私とって決めてるってね。でもねえ、」
 そこで言葉を切ると、オウバイは鼻の穴を膨らませ、抑えきれない笑みに萎びた頬をゆがませた。
「フヒヒ、でもねえ、私は、自分の体にするには『手付かず新品の生娘』がいい。だけど相手にする男は……『慣れてる男』がいいんだよぉ! あの色男みたいにね。ひゃひゃひゃ!」
 老婆は嬉しげにはしゃぐ。
 しかし、すぐにそれは一転して、獲物を喰おうと忍び寄る爬虫類のような気配になった。
「ジョンや、わかるかい? わかるよね? あたしの言いたいこと」
 孫は背すじをただした。
「はい! もちろんですとも!」
「よしよし、お前は良い子だねえ。それじゃ、あたしがロイエルを連れ戻してきてやるとするか。今まであれを育ててきた礼だ。お前にくれてやる。そうしたら、……わかってるね?」
 孫の医師はときめいて、瞳を輝かせた。
「はい、麗しのおばあさま。わかりました。すぐにでもご要望にお答えします!」
「ケケケ。よろしく頼むよ。さあ、お前は奥で待ってな! すぐにロイエルを遣るから、一生懸命練習するんだよ!」
 オウバイが、やり手婆よろしく診察室の奥を指差した。
「麗しのおばあ様の仰せのままに!」
 ジョン医師は意気揚々と歩き出そうとするが、扉の際で、心配そうに立ち止まった。
「で、でも。やっぱり、その、」
 初心な童貞らしく医師は迷う。
「ああ? なんだい?」
 老婆は孫の煮え切らない態度にいらいらして促す。
「何か言いたいことでもあるのかえ? さっさとお言いよ」
「か弱いおばあ様に何かあったら、僕は、僕は。……やっぱり、僕も、残った方が……。おばあ様、僕も残った方がいいのではないでしょうか?」
「ええい、うっとおしいっ! 行けと言っとるじゃろが!」
 オウバイは孫の後腿を蹴った。しなびて骨と皮だけになっている老婆の脚は、細いだけに鞭のような働きをした。
「痛ぁいっ!」
 医師が飛び上がる。
 フン! と、老婆は鼻息を荒く吹いた。
「お前、あたしを誰だと思ってるんだい? 確かに、あたしはとびきり美しい女だ。でもね、あたしゃ天下の呪術者オウバイ様なんだよ! いらんお節介は無用だよ! でも、どうしてもっていうんなら、ちょいと腕を貸しな!」
 老婆は、中年医師の腕をつかんだ。
 白衣の袖をグイとまくり、そこに、ガリッと噛みついた。
「ひぃっ! オウバイ様!?」

 診療所を出ようと、扉を開けたロイエルは、中将と鉢合わせしてしまった。
「っ!」
 驚いて声を詰まらせた少女に、指揮官は、「ロイエルおはよう。ジョン医師はいらっしゃる?」と、静かに尋ねた。昨夜の気配を全く漂わせずに。
「……あ、」
 一方、昨夜を体に刻まれた少女は、表情をこわばらせ、顔色を失った。そして、二、三歩、後ずさりをした。
「駄目! 入って来ないで!」
 悲鳴のように叫ぶと、ロイエルは中に駆け戻った。
 必死に消そうとしていた記憶が、生々しく脳裏に甦ってきた。身震いしながらも、少女は「最後にお二人のお役に立ちたい」と、診察室に戻った。
「ドクター、大変なんです!」
「……ロイエル、」
 部屋には、医師一人しかいなかった。
 彼は、少し目を見開いたものの、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「おやおや、そんなに慌てて。どうしたのです?」
 それを見て、ロイエルの凍えていた胸に、希望の灯火がともった。
 ……笑ってくださった。
 嬉しい。
 心にほのかな温もりが生まれたが、事態は急を要する。ロイエルは緊張を解かずに言った。
「中将が来たんです! どうか、逃げてください!」
 だが、医師は首を振った。
「いいえ。逃げませんよ。私は、彼と話をしたいのですから」
「やめてください。危険です。ドクター、」
「いいえ。私の気持ちは変わりません」
 穏やかだが確固たる意志をみせたドクターに、ロイエルは困惑した。
 そんな。どうしたらいいの?
 ドクターには危険な目に遭って欲しくないのに。
 中将は、話し合うつもりなんてないと思う。いいえ、ないに決まってる。
「ドクター、お願いです。どうか逃げて、」
「何を怯えているのです。ロイエル」
 医師は、養い子の肩に手を乗せた。
 暖かな手の温度を感じながら、少女は懇願した。
「逃げてください。捕まって欲しくないんです」
「捕まりませんよ。捕まるものですか。私と彼とは、心を開いて話し合うのです。そうすれば、誤解も解けるというものです」
「でも、中将の方は、ドクターと話し合いに来たのではないと思います」
 言い募るロイエルに、ドクターは、普段の彼らしくないきっぱりとした物言いをした。
「そんなことはない。さあ、ここは私に任せるんだ。ロイエルは、奥の処置室に行っておいで。いいかい? 処置室だよ? 見つからないように、ちゃんと鍵を掛けておくように」

 付き従ってきた兵士は、ドアの前に立ったままで動こうとしない中将に、「入りませんか?」と、促してみた。
「中将。彼女は、ドクターやオウバイを逃がしてやるつもりかもしれませんよ?」
 すると、「いや」と首が振られた。
「待とう。医師の方から出てくると思う」
「……たしかに、ドクターは話のわかる人ではありましたが……、」
 5人の兵士たちが、自分の判断を訝しんでいる気配を感じながらも、中将はこれで大丈夫だと考えていた。
 ロイエルは昨日のことを医師に話したはずだ。彼女が話さなかったとしても、オウバイが彼に話しただろう。
 そして、アンネ准将から聞いた彼の姿は、穏やかで、争いを嫌い、平和を愛し、村人たちの融和を願う、人格者。
 それが外面だ。
 そして、軍にこそ、その「できた外面」をふるって、真の自分を偽る必要がある。
 だから、逃げはせず、自分からここに出てくるはずだ。養い子に「無礼」を働いた私への「義憤」に燃えて。
 
 間もなく医師が出てきた。職業柄か、消毒用アルコールの臭気が漂っている。
「これはこれは。おはようございます。初めまして、ゼルク・ベルガー中将殿ですね?」
 春日のように穏やかに微笑み、丁寧に頭まで下げてみせる。
「おはようございます。初めまして、ドクター・ジョン。昨夜、ことづけた件で伺いました」
「わざわざすみません。この度は、うちのロイエルが騒動を起こしまして、とんだご迷惑をお掛けしました。さあ、どうぞ中へお入りください」
 診療所の中に一歩入ると、アルコール臭がさらに濃く漂っている。
 ゼルク・ベルガー中将は、従ってきた兵士達を振り返った。
「君たちは、外で待機していてくれ」
「はっ」
 それを聞いた医師が気を回す。
「暑い中、外で待つのも大変でしょう。皆さんもご一緒にお入りください」
 中将が笑顔で首を振った。
「いいのです。任務ですから」
「しかし、気の毒で」
 眉を下げる医師に、中将はできた微笑みで応じた。
「お気持ちだけ、いただいておきます」

 ジョン医師が案内したのは、屋内に入って左に設けてある応接室だった。昨夜訪れた准将達も、ここに通された。入って右側は待合室で、その奥の診察室、処置室に続いている。
 南に面した窓、東に面した窓がそれぞれ開け放たれており、近くに迫る沼の風が吹き入ってくる。
 部屋の床は木張りで、良く磨き上げられているというよりは、長年の水拭きが過ぎたのか、木の色味が抜けて、薄白くなっていた。
「どうぞ、お掛けください」
 席を勧める医師に、中将は切り出した。
「早速ですが、お話に入ってよろしいですか?」
「今、お茶をお持ちしますから」
「いいえ。お構いなく」
 腰を下ろした中将が、笑顔できっぱりとそう言うと、医師は「そうですか? ……それでは、」と、一言断ってから腰を下ろした。
「では、改めまして。初めまして。今回、指揮官として派遣されましたゼルク・ベルガーと申します」
「どうも初めまして。この村で診療所を開設しております、ジョンと申します。遠路はるばる大変でございますね」
 互いに、穏やかに自己紹介をしあう。内心を隠して。
 ジョン医師は、優しい光を湛えていた瞳に、少しの苦味を混ぜた。
「このたびは、うちのロイエルがとんだ粗相を致しました。申し訳ございません」
「いいえ。その件でしたら、」
 にこりと中将が微笑む。
「彼女がしたことについては、彼女自身にきちんと償ってもらいました。一晩石牢に留置して、それでおしまいです」
 これだけ言って、指揮官は相手の出方を見た。
 医師は感銘を受けたようだった。
「なんと寛大で温情ある措置でしょう。やはり、国軍の方々は国民に優しくてらっしゃる」
「当然のことです」
 しらりと応じながらも、中将は、昨夜の件を知らされていないのか? そんなはずはない、と、不審に思った。先ほど、館に来たオウバイの剣幕と慌てぶりからみて、ロイエル本人が口にできなかったとしても、あの老婆が医師に伝えただろう。
「当然だなんて。……それでは、私の気が済みません」
 ドクターは首を振り、真摯な表情で、中将に言った。
「うちのロイエルには、二度とこんな真似をしないように、きつく言って聞かせました。私は、彼女の後見人として謝ります。私の監督不行き届きでこんなことになってしまい、本当に申し訳ありませんでした」
 立ち上がり、深々と頭を下げる。
「ドクタージョン、頭をお上げください」
 ゼルク・ベルガー中将はそれを制した。
「いいえ、私の気が済みませんから」
 少女の後見人は、まだ最敬礼をしている。
「ドクター、誤解しないでください。私は、あなたに謝ってもらうつもりで来たのではありません」
 中将は、下がりっぱなしの医師の頭に、怜悧な温度の言葉を掛けた。
「私はあなたに、今回の事実を確認しに来たのです」
 頭が上げられた。そして、不思議そうに、今度来た指揮官を見つめる。
「事実確認ですって?」
 村に一人生き残った医師の表情は、謝罪をする謙虚なものから、協力者としての意気込み溢れるものに変わり、背筋を正して椅子に腰を下ろした。
「わたくしにできることでしたら、どんなことでも協力いたします。歴代の指揮官方にも申し上げてきたことですが、わたくしは、この村で起こっている悲しい紛争を解決するためなら、全力を尽くすつもりです」
 それを聞いたゼルク中将は、できた微笑を浮かべた。
「平和を愛する方なのですね。ドクターは」
 言われた相手は、きっぱりと首を横に振って否定した。
「いいえ。村民として当然の態度です」
「ところで、ロイエルはどうしていますか?」
 涼やかな微笑みと共に差し向けられた質問に、医師は、にっこりと笑って返した。
「井戸に水を汲みにやっています。間もなく帰って来ますから、そうしたら、ここに呼びましょう」
「では、彼女が居ないうちに、あなたに聞いておきたいことがあります」
「なんでしょうか? どんなことでも」
「あなたは、ロイエルにとって何でしょう?」
 流れるように続いた言葉のやりとりに、真空のような間が入った。
「……?」
 医師は、微笑んで、どこまでも穏やかに微笑んで、首をゆったりと傾げた。
「中将、申し訳ありません。おっしゃっている意味が、よくわからないのですが」
「では、どうしてわからないと思われたのかを、教えていただけますか?」
「わからない理由を、ですか? ……中将は、難しいことを尋ねられる方ですね」
 ドクタージョンは、顎に左手を添えて、少しうつむき、ふわりと笑う。
「わからないは、わからないですね。わからないことに、理由が必要でしょうか?」
「『ロイエルにとってあなたはどんな存在ですか?』という問いかけがわからないのが、私にとっては不思議なのですよ。ドクター?」
「困ったなあ。これはまるで、言葉遊びのようですね。そんなことを聞かれるとは思いもしませんでした」
「申し訳ありません。これも私の仕事の一つなのです。彼女が帰ってくるまでで結構ですから、どうかお付き合いいただけますか?」
「ははは」
 医師が苦笑した。
「今度来られた指揮官は、興味深いお方ですね。今までにない方だ。これまでに、うちのロイエルのことを聞いた方など、一人たりとも、居なかったのに。あまりにも意外ですよ」
 言葉の最後まで、彼の空気は穏やかだった。
「恐れ入ります」
 軍人の静かな恐縮に、医師は、いえいえ、と、軽く手を振った。
「では、私の軽い頭から、答らしきものを搾り出すように努力してみましょうか。そうだな、ロイエルにとっての私は……、」
 窓から、沼の生臭い風が吹き込んできた。
「……つまらない答えかもしれませんが、私は、ロイエルにとっての後見人以外の何者でもありませんね」
 部屋に、沼の臭気と、濃いアルコール臭が入り混じる。
 情の無い答えだった。が、中将はあくまで穏やかに問い重ねた。
「そうですか。彼女の方は、あなたのことをひどく尊敬し、慕っているようですが?」
「そんな。大したことではないんですよ」
 ドクターは、乾いた表情で首を振った。
「彼女にとって、私は衣食住を保障してやれる唯一の存在です。だが、それだけの話です」
「随分と割り切っていらっしゃる」
「当然の事実ですよ。ゼルク・ベルガー中将」
「それではまるで、二人は情によるものではなく、利害による繋がりのように聞こえますね」
「……」
 医師はにっこりと笑い返した。
「情など入れていては、一人前にはできませんからね」
「なるほど。あなたはあの子を、厳しく甘やかさずに育てられているのですね?」
「そうです。これは養育者としての義務だと思いますよ。いずれは一人立ちする子ですから。自分の身の程をわきまえた人間で居てもらわないと」
「身の程、ですか?」
「そうですとも」
 医師の瞳が熱を帯びた。
「自分が生きていられるのは何の為かを知り、いっぱしの人間を気取って思い上がったりしないように、ということです」
「なるほど。ロイエルは何の為に生きているのです?」
「もちろん村の為にですよ。村民ですからね」
「そうですか」
 非常に友好的な笑顔を交し合った後、医師は「話がはずんで、喉が渇いてしまいました。お茶を淹れてきますので、少々お待ちくださいますか?」と断って、席を立った。
 窓から、絶えず沼の臭気が入り込んでくる。
「……」
 一人になった中将は、部屋に満ちた二つの異臭に目を細めた。
 ぬるい紛争だと思っていたが……。
 指揮官の口元に、鋭い笑みが浮かぶ。
 間もなく、足音が近づいてきた。
「お待たせいたしました」
 二人の席を挟んで置かれている卓上に、冷えた赤い液体の入ったグラスが並べられた。
「まだ残暑が厳しいので、冷茶にしてみました。お口に合えばよろしいのですが」
「ありがとうございます」
 医師は席に着くと、まず、自分がそれを飲んで見せた。
 中将が微笑む。そして、グラスに入った茶の香りをきいた。
 さびた鉄の臭いがする。それは、戦場に生きる彼こそが良く知っているものだった。
「この水は、どちらのものを?」
「井戸からです」
「鮮やかな紅色をしていますね。冷茶とおっしゃられましたが、『茶葉』は何ですか?」
「茶葉、ですか?」
 医師は持っているグラスを見下ろした。
「……あいすみません。いつもロイエルに用意させていますので、私は詳しくないのです」
 言いながら、彼は飲み干したそれを卓上に置く。
「間もなく帰って来ると思うのですが、遅いなあ。道草でも食っているのか」
「おや。厳しく育てていらっしゃるのに、彼女は道草をしますか?」
「これは! ハハハ」
 医師は指揮官の指摘に目を丸くして、笑った。
「いやはや。そうですね。先ほどは少し口が過ぎました。基本は厳しくですが、何も、生活の全てを縛り付けるような真似はいたしませんよ。あれは、あくまで彼女の養育をする立場としての理想を申し上げたまでです」
「そうでしたか。これはとんだ誤解をするところでしたね。失礼しました」
「私は、中将殿から悪鬼か何かだと勘違いされかけていたのですね? いや、これは、信用を失うところだったな」
 中将は、茶に口をつけず、卓に置きなおした。
「ところで。あなたには、お祖母様がいらっしゃるとのことですが」
「そうですが」
 医師は目を伏せた。
「恥ずかしい話になります。村人達からは、彼女が紛争の首謀者であると思われています」
「あなたは、それについてどうお思いですか?」
 医師は、両手で顔を覆ってうなだれ、首を振った。
「信じたくはないです。信じたくはない。しかし、私は、彼女と何年も会っていないのです。私と村人達は信頼しあっています。彼らが根拠の無いことを言うとは思えません。……孫の私としては、祖母がそのような者と思われることは、非常に悔しいですが、」
 手を取り払い、自嘲ぎみの笑みを浮かべて、医師は中将に言った。
「信じたくは無いが、否定する証拠がどこにも無い。私には、何も言う資格がありません。そんな私にできることは、誠心誠意、村の平和のために尽くすこと。それだけです」
「立派なお考えですね」
「いいえ。村のことを考え、村に生きる者として、これは当たり前のことです」
「そのお祖母様が、先ほど、領主の館に来たのですよ」
「……えっ?」
「『ロイエルに会いに行く』と言って、また姿を消したのですが」
「それは大変だ!」
 顔色を変えた医師は、椅子から立ち上がった。
「もしかすると、ロイエルは、うちの祖母に捕まっているかもしれない!」
 中将も、相手と同じように立ち上がった。
「どういうことです?」
 促すと、医師は青い顔をして答えた。
「だってそうでしょう? もしも祖母が首謀者だったら、これまでの事件、『若い女性が多く失血死している』というではありませんか。祖母は、ロイエルを狙っているのかもしれません!」
「あなたのお祖母様は、孫のあなたが世話をしている娘を狙うでしょうか?」
 医師は辛そうに首を振る。
「考えたくはありません。そうでないと信じたい! ですが、私にはそれを否定するだけの根拠が無い!」
「……肉親という情の繋がりは、信じないという根拠にはなりませんか?」
「なるわけがないでしょう!」
 ジョンは、激しい口調で返した。
「村の民を襲っているのがうちの祖母だ。そう、皆が噂しているのです! 私は村の平和を願う者です! たしかに、肉親としては、信じたくない! しかし、それ以上に、自分が住んでいる村の幸せを考えるのが、私の役目、村に只一人残った医師である私の使命なんです!」
 中将は、彼の言葉を全て聞き終えると、
 嗤った。
「さすが、首謀者の一人だけはある」
「え?」
 医師は、何を言われているのかわからないらしく、怪訝な顔をして、新しい指揮官を見返した。
「今、なんとおっしゃいましたか?」
「聞こえませんでしたか。では、もう一度お聞かせしましょう。さすが、首謀者の一人だけはある、と、言ったのです」
「……中将殿……」
 医師は、悲しげに声を落とした。
「……私のことを、お疑いでしたか」
 瞳に、透明な涙が浮かんだ。
「そうですか。まあ、仕方のないことですよね。確かに私は首謀者の孫です。自分が疑われる立場にあることは、よくわかっています。しかし、」
「……」
 ゼルク・ベルガー中将は、じっと相手を見る。
「しかし、私は潔白です。あなたや村人が疑いたいのなら、私はいくらでも疑われましょう。罵詈雑言も、いくらでも受けましょう。ですが、真実は私の心にあります。私は首謀者ではありません。誓って」
「何に誓いますか?」
「……そこまでお疑いですか、」
 ドクタージョンは、瞳から涙を幾筋も落とした。
「この澄んだ胸には、何も恥じるところはありません。ええ。神に誓って、と、申しましょうとも」
「あなたの神とは、オウバイのことですか?」
「何をおっしゃっているのですか? 中将殿は」
「あなた方の神は、どうやら、血も涙もないようだ」
「……あなたの方こそ、血も涙も無い物言いだ。それは神に対する冒涜以外の何者でもない。私には、どんな言葉でも受ける覚悟があります。しかし、神に対するあなたのその態度は、許せないものを感じる」
 そこで、医師は息をついた。
「いや。神の話ではなかった。そうです、急ぐべきは、ロイエルです。私は、井戸に行かねばなりません。あの子のことが心配だ」
「それはこちらの兵士にやらせます。あなたには領主の館に来ていただく」
「え?」
「ドクター。あなたには、養育すべき彼女を虐待した疑いが掛けられている」
 静かに告げた中将に、ドクターは眉をひそめた。
「そんな。一体、何の話です? 虐待ですって? 何を根拠にそんなことを、」
「昨日、彼女から聞きました」
「彼女がそんなことを? それは嘘です。子供だから誤解しているんだ。きっと躾が厳しいのに嫌気がさしたんでしょう」
 あなたも子供の言うことを信じてはいけませんよ? と、医師は中将をたしなめた。
「子供とは自分勝手な生き物です。自分が快適に暮らせればそれでいいと思っているんだ。脳が未熟なのですよ。そんな未熟者の言うことを、真に受けてはいけません。あなたには、もっと大切なお仕事がありますでしょう? それは紛争を解決することだ。そのための協力ならば、私はいくらでもするつもりでいましたが。なんと、そんな子供のいうことに突き動かされるお方だったとは。……あなたは優しすぎる人ですね?」
 指揮官は、意味深に笑った。
「優しい、ですか?」
「それが過ぎると申し上げました」
「ドクター、あなたはロイエルから、昨夜の話を聞いてらっしゃいますか?」
「昨夜? 昨夜は、牢に閉じ込められたという話ですよね?」
「そうです。その中で、彼女が私とどんな話をしたか、私から何をされたか、聞いてらっしゃらないですか?」
「ああ。聞きましたとも」
 医師は誠意を込めて微笑む。
「『悪戯をしたので酷く叱られた』と、ロイエルは言いました。でも、私は言ってやりました。『それは当たり前のことだ』とね。『自分が何をしでかしたのかを理解して、お前はもっと反省すべきだ』とね」
 ゼルク・ベルガー中将は笑った。
「あなたの言うことに、色々とほころびが出てきていること、ご自身で、わかってらっしゃるでしょう?」
「何の話です?」
「あなたが最初に言っていた通り、これは言葉遊び。お陰で、あなたの素性がわかりました」
 医師は鼻じろんだ。
「な……、あなたは、私をからかっていたとでも言うのですか!? こんなに誠意を尽くしている私を、」
「誠意ですか」
 できた微笑みが、医師の憤慨を弾いて返した。
「老獪とはあなたの為にあるような言葉だ。オウバイ」
「ハハっ。誰がオウバイですって……?」
「息をするように嘘を吐けるあなたのことを言っている」
「馬鹿げた妄想だ。常軌を逸している。そもそも私は祖母ではない。見てわからないのですか?」
 ドクタージョンは、処置が無いというふうに首を振って、医師は応接室を出て行こうとする。
「中将は、彼方此方で戦われているうちに、ついにはご心を病んでしまわれたのではないですか? 医師として何とか力になって差し上げたいが、あいにくと専門外。『首都の病院を受診されてください』とお勧めするしかできないことが、口惜しいですよ」
「どこまでも慈悲に満ちた言葉、さすが村一番の人格者と謳われるだけはありますね」
「いいえ当然のことです」
「それにしてはあの子に対してだけ、ひどく冷酷に接しておられるようだが」
「ハハハ。まあ、そういうことにしておきますよ」
 医師は扉の取っ手に手を掛け、にこりと笑って、お暇の挨拶をした。
「それでは御機嫌よう。私は、大切な養い子のロイエルを探しに行きます。お大事になさってくださいね。ゼルク・ベルガー中将殿」
「仕方ないですね。手荒な真似はしたくなかったのですが」
 ゼルク・ベルガー中将は、手元にあった物を掴むと、扉の方へと投げた。
 正確には、ガラス製の卓を、医師に向かって投げつけた。
 標的はするりと避け、扉に当たったそれは派手な破砕音を立てると、鋭いかけらとなって飛び散る。
「……なんてことをするのです!?」
 驚いて声を荒げた医師に、中将はふわりと微笑んで見せた。
「異体系の呪術ならば、私に掛けてある防御魔法を突破して攻撃できると思いましたか?」
「いたいけいのじゅじゅつ? 一体、何を言っておられるのです?! こんな、こんな乱暴な人が、国軍の中将になれるなんて、世も末だ……」
「あなたには言われたくないな。オウバイ」
 医師はため息をついて肩をすくめた。
「ああ、可哀想な中将殿。私が誰かもおわかりにならないのですね。外に居る兵士さんたちにも、この悲しい事実を伝えてさしあげなければ。『あなたがたの指揮官は精神を病んでいらっしゃる。早急な治療が必要ですよ』、と」
「あなたの口を相手にするのは、もう止めることにします」
 ゼルク・ベルガーは、腰に下げた剣を抜いた。
「この村でこれを使うことになるとは、思いもしなかったが、」
 ひっ、と、医師は顔色を青くした。
「……何をするつもりです!? 正気ですか? 中将殿、」
 白金の鞘から、真白な長剣が抜かれて輝いた。
「ええ。呪術者オウバイ」

 ドクターに命じられて、処置室に入った。そして鍵を閉めた。
 窓が無い。灯りは小さなものが一つだけ点いていた。
「お帰りなさい。ロイエル」
 ロイエルは、瞬いた。
「?」
 部屋には先客がいて、その人は、優しい笑みを浮かべて近づいてきた。
「ドクター?」
 ここに行くように言ったのは彼だった。
 今、目の前にいるのも、彼だ。
「どういうことですか?」
「あれはオウバイ様です。万能のオウバイ様が、偉大なるお力を奮われているのですよ」
「……どうして、ドクターの姿に?」
 医師は養女にゆっくりと歩み寄ってくる。柔らかな革の靴が床を踏みしめるたびに、ピタ、ピタ、とささやく。
「役立たずのあなたには、何も聞く資格はないんですよ」
「ごめんなさい、ドクター」
 うつむいたロイエルの両頬に、暖かな手が添えられた。
 少女は、はっとして顔を上げる。
「……ドクター?」
 彼は笑っていた。
「だけど、最後ですからね。特別に教えてやりましょう。オウバイ様がついに動き出したのです。至上の楽園を作るために」
 ロイエルの顔がほころんだ。
「おめでとうございます」
「あなたに祝ってもらいたくありません」
 ドクターの手は、ロイエルの首に降りた。
 やわやわと撫でて、そして、なぶるように締める。
 ふっ、と、息を漏らすが、抵抗はしない養い子を見下ろして、医師は、穏やかに、そして満足そうに微笑んだ。
「良い子ですね。さすが、私が育てた子です」
 苦しく浅い呼吸を繰り返しながら、ロイエルは嬉しそうに笑った。
「ドクター」
 その従順な姿に、ジョンの瞳がかげる。
「それなのに。どうして、こんなことになってしまったのでしょうかねえ」
「ごめんなさい、ドクター」
「お黙りなさい」
 ジョンは、ロイエルの首を両手で絞めたままで、ぐい、と、部屋中央に設置してある診察台へ引き立てて行った。
 最初の数歩は、どこに連れて行かれるのかわからずに脚をもつれさせたが、行き先を推し量ると、少女は自ら進んでそちらに歩いた。
「あなたに謝ってもらったところで、もはや取り返しはつかないのですよ。私の長年の苦労は水の泡。麗しのオウバイ様の理想は、あえなく崩れ去ったのです」
 苦い声で独白のようにつぶやいた後に、乗りなさい、と、医師は少女に促した。
 薄緑の診察台に、ロイエルは上った。正座をして医師を見上げると、彼は微笑みかけてくれた。
「しかし、寛大で慈愛に満ち満ちた美の化身オウバイ様は、あなたに最後の役目を与えられたのです。その後に死ねばよいと、おっしゃられたのです」
「えっ」
 ロイエルの顔が明るくなった。
「本当ですか。ありがとうございます。私、なんでもします」
「ええ。何でもしてもらいますよ。……その前に、」
 医師の手が少女の肩に乗せられた。
「いつもの診察をしましょうね」
「はい。ドクター」
 少女は嬉しくなった。
 いつものドクターだ。
 朝は私の体を診てくださって、オウバイ様の道具として相応しいかどうかを確かめてくださる。それが済んだら、ドクターは診療の準備を、私は朝食の支度を始める。昼はお仕事や、神聖な使命を果たす。夜は二人で身を清めてから眠りに就く。
 でも、きっと、これで最後。
 ……もう戻れないのだ。
 ロイエルの瞳から涙が落ちた。
「ごめんなさい、ドクター」
 養女の言葉に、医師はわずらわしそうに首を振った。
「麗しのオウバイ様が私とお前に与えてくださった時間は、ほんのわずかです。さあ、役目を果たすため、その汚らわしい借り物の服を脱ぎなさい」
「はい、ドクター」
「……そうだ」
 オウバイの孫は、診察台横の机に並べたハサミを一つ手に取った。よく磨かれた刃が、てらりと輝く。
「私がやりましょう」
 そして、養い子が着ている、他人の衣服を切り裂いた。
 少女は、信頼する医師に身を委ねて、微笑みすら浮かべてその様を見ている。この行為は、彼女にとっては、初めて見るものではない。彼が、重傷を負った患者を処置する前に行うことだったからだ。衣服を切って除き、患部を診るための救急処置だ。それを思い出し、少女は微笑んだのだった。
 下着があらわになる。
「……これも、もらったのですか?」
「え?」
 不愉快な表情になる医師に、ロイエルは、おそるおそる尋ねた。
「なんのことですか? ドクター」
「この下着も使用人のものかと聞いてるんです」
 少女はきちんと着せ付けられた一揃いの下着を見ると、「そうだと思います」、と、うなずいてみた。
「破廉恥な」
 医師は舌打ちした。
「このような余計な装飾がついたものなど、堕落の極みです」
「……そうですよね」
「そうですよ。簡素清潔、質素倹約を旨として、人間は生きるべきなのです」
「私も、そう思います」
「さすが、私が育てたロイエルですね。私の心をよく理解している」
 医師は満足そうに微笑んだ。
 ロイエルには、それが嬉しかった。
「さて、こんな嘆かわしいものは、早々に取り去りましょう」
 ジョンは、下着をハサミで切り、少女の体から引き取ると、床に投げ捨てた。その他の切り裂かれた衣服も、汚らわしいものを触るようにして、床に放る。

 一糸まとわぬ姿になった少女を見下ろして、うっとりと笑った。
「ロイエル……。ああ、きれいだ。さあ、横になりなさい」
 大好きな医師から微笑みかけられ、ロイエルは、一時だけ、自分の罪深い立場を忘れた。
「ドクター、」
「さすが、オウバイ様が選りすぐり、そして、私が理想を持って育てた体だ」
 医師の手指が、ロイエルの体を撫でた。丹念に、自分の作品を愛でるように。
 くすぐったくて、少女は声を上げそうになったが、大好きな医師がとても真剣な顔をして触っているので、一生懸命にこらえた。
「それなのに、何てことだろう、」
 その悦楽の表情に影が差した。
「この体が麗しのオウバイ様になるはずだったのに、」
「ごめんなさい、」
 おののいて謝る少女に、医師は首を振る。
「謝りの言葉なんて聞きたくも無い。……ロイエル。あなたは、私が、どれだけ、美の化身オウバイ様の不老不死の完成を、待ち焦がれていたか、知っていますよね?」
「……はい。朝も夕も、いついかなる時も、ドクターはオウバイ様を賛美し、崇めていらっしゃいました。よく知っています」
「それなのに! 知っていたくせに! あなたは、なんて愚かな、なんと罪深いことをしてしまったのですか!?」
 ジョンは血を吐くように叫ぶと、白い脚を掴んで広げる。少女はまるで抵抗しない。
 医師の右の手指が、子宮に到る彼女の中にぐいと差し入れられた。
「いた……っ!」
 びくりと全身を震わせて、思わず悲鳴を上げた。
「痛いですって? オウバイ様や私の絶望や悲痛に比べれば、あなたのなんて、無いに等しい」
 言いながら深く突き入れてくる痛みに、しかし、ロイエルは医師の言葉に心から同意して、歯を食い縛って耐えた。
 ドクターのおっしゃるとおりだわ。こんなの、お二人の心の痛みに比べれば、痛いうちに入らない。
「は、い、ドクター」
 彼の指が中を探る。彼の養女は声を押し殺すが、白い体が痛みに震えている。
「……騙されたんだ、私たちは、中将に、」
 医師の両目から涙が次々に落ちた。
「優しい、穏やかな、できた指揮官だなんて、とんでもない。ロイエル、私たちは騙されたんです」
 返事をしたいが、口を開けば必ず悲鳴が漏れることはわかっていたので、少女は、一生懸命こらえながらうなずいた。
 医師は指を引き抜く。
 痛みから解放された少女は、はぁっと息をついた。夕焼け色の瞳が涙をいっぱい落とす。
 ジョンは、右手の指に付着した少女の血液を見て、目尻に涙をにじませた。
「なんてことだ……」
 床に膝をつき、医師は嗚咽を始めた。
「オウバイ様の、神聖な、美しい、汚れのない、至上のお体だったのに」
「ごめんなさい、」
 ロイエルは身を起こした。下腹部が痛みを訴え、思わず「うっ」と声を漏らす。だが、それは気にする価値の無いものだった。自分の体よりも命よりも大事なのは、医師とオウバイだった。
「ドクター、ごめんなさい、」
 診察台から降りて、ロイエルは医師のそばにしゃがみ込み、床に頭をこすり付けて礼をした。
「ごめんなさい!」
「謝る資格なんか無いと言ってるでしょう! この重罪人!」
 激怒の声をあげて、伏せていた身を上げると、医師は、駄目になった生け贄を、床に組み敷いた。
 後頭部をしたたかに床にうちつけて、ロイエルの意識が、一瞬、遠のく。だが、養い親の涙声にすぐに我に返った。
「どうしてあんな男に犯されたんですか!? どうして身を守らなかったんですか! あなたが初潮を迎えた時に、ちゃんと、言って聞かせたはずです! 女性のたしなみについて! ちゃんと覚えていますか!? 言ってごらんなさい!」
 脳震盪を起こしかけて、混濁する意識を、必死でかきあつめて、ロイエルは何とか返事をする。
「は……い、ドクター。『大人の男の家に行ったらいけない』『夜は酒場に行ったらいけない』『森に行ったらいけない』」
「そうですよ! それなのに、どうして!?」
 言いつけのどれもが今回の事件には当てはまらないのに、ジョンは何故と聞く。
 ロイエルはそのことに疑問を持つこともなく、理由を考える。
「……」
 ロイエルの胸に、昨夜のことが甦る。
 瞳が涙で埋め尽くされた。
 言い訳なんかできない。彼が、あれをする前にどうしてしつこく言っていたのかもわからなかった。何をされるのかもわからなかった。押さえつけられて身動き取れなくなって、痛いことを何度も何度もされて、
 気を失って、そして……朝になって。牢の中は、何も無かったみたいにしてあって。自分の体の中だけに、昨夜のことが残ってて。
 初めて、男の怖さがわかった。
 だから、ドクターは、私に、女性のたしなみを言って聞かせていたのだと。
「……ごめんなさい、……ごめんなさい」
 身を小さくして、震えながら謝り続ける少女を見て、医師は一層泣いた。
「……どうして! どうして、こんなことにっ!」
 悔しさを渾身の力に変えて少女を抱きしめ、医師は号泣した。
「オウバイ様! ああ、オウバイ様!」
「っ、」
 少女は男の遠慮ない力で締め付けられて、骨がきしみ、息ができなくなる。苦痛に顔をしかめる。
「オウバイ様ぁっ!」
 ジョンは愛しい老婆の名を叫び、ロイエルの胸に顔をうずめた。押し付けられた彼の髪が粗く柔肌を擦る。
 心臓に近いところで彼の吐息を感じると、一層、彼の悲しみと悔しさがわかった。
 わたしは、とんでもないことをしてしまった……。
「……ロイエル」
「はい、ドクター」
 物心ついた時から変わらない、素直で従順な養い子に、ジョンは微笑みかけた。
「オウバイ様の生け贄になれなくなったあなたですが、私の役には立つのです。あなたには、その役目を果たしてもらいたいと思います」
 ロイエルの表情が輝いた。
「はい!」

 少女を診察台に座らせ、両足を開かせた。
「まずは、私に、あなたの血をください」
「……はい、」
 床に膝をつき、脚の間に入った医師が、さきほどの触診で血がにじむ箇所に舌をあてがう。
「っ、」
 少女はそれを見下ろして、少しの痛みを伴う刺激と、初めて見る行為とに、息を飲まざるをえなかった。
 そこを何度も舐め上げて、医師は至悦の笑みを浮かべると、「これが、オウバイ様になるはずだった体の血なのだ」とつぶやいた。
「あの、ドクター、」
「なんですか?」
 尊敬し信頼する人が、自分の脚の間にひざまずいているというのは、奇妙な感じだった。
「私、これで、ドクターのお役に立っているのですか?」
「ええ。立ってますよ」
 ロイエルは、心配そうに首を傾げた。
「……こんなこと、が?」
「ハハ」
 医師は、乾いた笑いと共に、立ち上がった。
「『こんなこと』ですって?」
 表情が、残酷なものに変わった。
「『こんなこと』呼ばわりですか。そりゃあ、あなたには『こんなこと』かもしれませんね? 何せ、昨夜はあの男とさんざん愉しんだようですから」
 少女はとまどうばかりだった。
「ドクター? なんのことですか?」
「ここのことですよ」
「あっ」
 びくりと肩が揺れた。医師の指が、再び差し入れられたのだ。
「男を知ったあなたには、『たかがこんなこと』かもしれませんがね。私にとっては、今まで、ずっと、ずっと、憧れて、夢見ていたことだったのですよ」
 熱に浮かされたような吐息が、彼の口から糸を引くようにこぼれ出た。
 しかしロイエルは痛みに顔をしかめていた。
「い……っ、」
 痛いが、痛いと言ってはいけない。必死で歯をくいしばると、首の後ろに、ぞっと悪寒が走った。
「ドクター、違うんです。そんな、意味じゃ、」
 医師と自分との間に、大きな誤解があることはわかるが、ロイエルには、どうすればそれを解消できるのかわからなかった。
 指はもっと深く差し込まれ、身を震わす少女に、医師は、「あなたの血を、もっとください」と薄く嗤った。
 疼く痛みが、彼女の瞳を揺らさせて落涙を強いる。
「どうぞ……ドクター、」
 だがそれでもロイエルは従順にうなずいた。
 養育者は酔ったように笑う。
「いい返事だ。そうですよ。あなたは道具。私の言うことは絶対ですからね」
 医師はひざまずくと、再び行為を始めた。じわじわとにじみ出る血液を舐め取る。
「ドクター、」
 おずおずと、ロイエルは声を掛ける。
「ドクター、」
「何ですか?」
 顔を上げる中年の男に、少女は、思い切ってたずねた。 
「ドクター。これは、一体、何の行為なんですか?」
「え?」
「私、わからないんです。これは、何か、神聖な行為なのですか?」
「わからない?」
 医師の表情から、険が落ちた。
「ああ、汚れの無いロイエル。さすが、私が育てた子です。そうですよね。たかが一夜で、悦べるわけがない。男に慣れるわけもないですよね。そういえば、男女の性愛についての本にも、そう書いてありましたっけ」
 涙を落として医師は笑う。
「『男に慣れる』って、どういう意味ですか?」
 ジョンは首を振って答えない。
「知らなくていいんですよ。ロイエルはそのままで死ねばいい」
 そして立ち上がった。
「あなたの言うとおりです。これは、神聖なこと。私が、オウバイ様から望まれる人間になるために必要な行為なのです」
「はい、わかりました。あの、ドクター、」
「なんです?」
 一層、相手の顔色を伺うように、少女はおそるおそる尋ねた。
「では、これは、……昨夜、私が、されたこととは、違うんですよ、ね?」
 何も知らないことの証明のような真っ白な質問だったが、医師は激昂した。
「ロイエル! あんな男の犯した醜い罪と、私が執り行う神聖な儀式とを、一緒にしないでください!」
「ごめんなさい」
 ロイエルはおののいて、身をすくめて謝る。
「ごめんなさい、ドクター」
 医師は片頬を不愉快に震わせた。
「あなたの謝り声なんか、聞きたくもありません。さて、ロイエル、あなたには最後の役目を果たしてもらいましょう」
「はい、ドクター」
「仰向けに寝なさい」
「はい」
 医師は、再び診察台の上に横たわったロイエルを見ると、「よろしい」とおごそかにうなずいた。
「では、ロイエル。最後の役目を与えます」
「……はい、」
「ずっと、私が夢見ていたことです」
「はい」
 ジョンは、自らの理想と憧憬とを込めるだけ込めて養育してきた娘を見下ろした。
「オウバイ様も、実は、それを望んでいたのです。……嬉しかった」
「何を、ですか?」
 医師の唇に抑えきれない愉悦の笑みがのぼった。
「慣れた男が好きだということですよ」
「え?」
 意味が分からず少女はおずおずと聞き返すが、男はふんと鼻であしらった。
「あなたにわかってもらいたくありません。ロイエル、道具であるあなたには、知る資格が無い」
「はい、ドクター」
 おとなしくうなずく少女の両脚を、ぞんざいに押し開き、医師は診察台に膝を乗せて上がった。
「道具は、黙って私の役に立てばいいんです」
「はい」
「私は、『慣れた男』になりたいんです」
「はい、」
「話は終りです。さあロイエル」
「……っ」
 体の深奥まで激痛が走り、ロイエルが甲高い悲鳴を上げた。
「いた、痛い!」
 初めてで加減も何もわからない医師は、ただ嗤うだけで、気にも留めない。
「黙りなさい道具が! あなたは、脚を開いて受け入れていればいいんです!」
 返事をしたいが、焼けるような酷い痛みで気が狂いそうだった。
 あの人にされたときだって怖くて痛かったけど。……こんなには、
「いやぁっ、」
 思わず拒絶の声を上げて、ロイエルは逃げようと診察台から身を起こそうとする。
 しかし、たたみかけるように、医師が冷たく尖った声音をこすりつけた。
「逃げるんですか? あなたは、私の神聖な行為から逃れる気ですか? あなたに、そんな資格があると思っているのですか?」
 少女は、養い親の言葉に、やすやすと縛られる。
「……いいえ、ドクター、」
 体から力が抜けた。
 ドクタージョンは、慈悲深く笑った。
「あなたは用無しになった道具ですから、ほんとうなら即座に惨たらしく処分しているところです。処置室の奥に捨ててやっているところなのですよ。なのに、こうして役立ててから処分しようというのです。あなたは私に、当然感謝すべきです」
 柔肌を無慈悲に硬く貫く中年の医師の、狂った物言いに、ロイエルは、もはや身に染み付いている自動的な返答をした。
「はい。ドクター、ありがとうございます」

 応接室の窓からは、途切れることなく沼の風が吹き込んでくる。部屋は、消毒用アルコール臭と泥臭さに満ちていた。
「中将殿。どうか、落ち着いて。その白い刃物をしまってください」
 医師は青い顔でつぶやいた。
「私はオウバイではありませんよ。わかるでしょう? 私が老婆に見えますか?」
「見えませんね」
 中将は涼しい顔で微笑む。
「それならよかった。どうぞお帰りください。そしてお休みになった方がいい。身体と心を癒すことです」
「どこまでも、『できた御仁』だ。ドクターは」
「いえいえ、」
 ほっとしたドクタージョンは、応接室の扉を開けようとするが、相変わらず差し向けられたままの刃に気付いて、思い留まった。
「さあ、その刃物をしまってください。私でしたら、あなたのご命令どおりに、領主様の館にまいりますから。反抗したりはしませんよ」
「私はね、オウバイ」
「私はオウバイではありませんよ。中将」
 苦笑する医師に、青年は微笑んで返す。
「どの程度の『規模』で仕留めようかと、考えているところなのですよ。決して、手を出しあぐねているということではなく」
「何を言っておいでです? ええ、わかりました。私は、外で待機している兵士さんを呼びにまいります。あなたを連れ帰っていただきましょう」
「よくも丁寧な言葉を続けられるものだ。ここまでしているというのに」
「いいえ。どんなお方であろうとも、あなたはこの紛争の指揮官です。丁重に誠意を持って接するのが、村民としての義務にほかなりません」
「『ここまでしている』という言葉の主語はあなただが?」
「言葉遊びがお好きですね。時間が許せば、そんなあなたにずっとお付き合いしたいところですが」
「私は、早々に切り上げたいと思っていますよ」
「そうでしたか。私には、あなたを足止めする権利などありませんから。どうぞ、お帰りになってください」
「帰るには、あなたを仕留めなくてはなりません」
「困ったな。あなたは相当に混乱しているようだ。私のところにも一般的な安定剤ならありますから、処方してみましょうか?」
「ジョン医師とロイエルはどこです?」
「ご覧のとおり、ジョンは私です。ロイエルは、先ほども言いましたように、井戸に水を汲みに行ったままです。探しに行こうにも、あなたがそうさせてくれない」
「では、私がロイエルを探してみましょうか?」
 中将の言葉に、医師は笑う。
「そんなお手間をお掛けするわけにはまいりません」
「簡単なことです」
「それはそうでしょう。彼女は必ずこの小さな村のどこかにいるわけですから」
「ええ簡単なことですよ。この家を破砕すればそれで済む話ですから」
「ご冗談を」
「それはあなた次第です。オウバイ」
「ええ、私はオウバイ、そういうことしましょうね。あなたの言葉を否定したりはしません」
「あなたは随分と理性的で論理的にふるまう。さきほどの老婆と同一人物には見えない。しかし、こちらが本性でしょうね。長年にわたって村を巻き込む呪術を行使してきたのですから」
「ですから、私はジョンだと申しております」
「だが、ジョン医師はここには居ない。……ロイエルと一緒にいるのですか?」
「私がジョンですよ」
「ジョン医師が呪術を使った様子は無い」
「そのとおり。私は何もできません。ただの医者です」
「そうですか。あなたにお会いしてからずっと、」
 ゼルク中将は薄く笑って、白い剣を見た。
「私にあらかじめ施されている各種防御魔法が、呪術による侵害を受け続けているようですが。お心当たりは?」
「ございませんとも」
「わかりました。では、長く続いた話を終りにいたしましょう」
「そうですか。中将殿がそうおっしゃるのなら」
 ほっとするドクタージョンに、中将は白い刃を薙いだ。
「丁度頃合いだ。受けた分はお返しする。オウバイ」
 刃の流れが、応接室の空気を大きく揺らした。ひっきりなしの遠雷のような震動と音が響き始める。
「何をなさるのです!? ゼルク中将殿!」
 たじろいだ医師は、逃げた。扉を開けるのではなく、開いた窓から出て行こうとした。
「やはり、沼が『棲みか』か」
 中将は首謀者を追いかけ、窓を出る手前で白衣の襟首をつかんだ。
「随分と沢山のディープメタルを所持しているようだな? オウバイ」
「中将。一体、何のお話ですか?」
 返事はすでにしゃがれていた。
「……どうして、」
 自らの声を聞いた本人が驚いた。
「なんてこった。どうして術が切れたんじゃ?」
 『彼女』は、自分の手を見た。白衣の袖は長すぎて、まくり上げないと手先が見えなくなっていた。つまり、元に戻ってしまったということだった。
「おおお、術が、術が使えん……。あんた、何したんだい?」
 元の姿に縮んだ老女をつまみあげたまま、指揮官は答えた。
「あなたの術を返した。それだけだ」
「嘘じゃ! 呪文も無しにそんなことできるかい! そ、そ、そ、その白っちい剣の所為だね!? それは何なんじゃ!?」
「質問には答えない。ロイエルとジョン医師はどこだ?」
 オウバイは顔をしわくちゃにしかめた。
「お前が答えなきゃ、わしも答えないもんねーだ!」
「では、あなたを始末する。そうすれば終わる」
「やれるもんならやってみな?」
 憎まれ婆の挑発に、中将は無言で白い刃を閃かせた。
「ギャー!」
 オウバイは顔を強張らせて、怪鳥のような悲鳴を上げた。
「やめとくれよっ!」
 その切っ先は、老婆に向けられてはいなかった。
 窓の外、沼地を指していた。
「私を始末するんじゃろ? なんで湿地なんじゃよ!? なんで湿地に刃物を向けるんじゃ!」
「あなたを、と言ったからだ」
「私はここに居るじゃろ!?」
 薄青の冷たい瞳が、紛争の首謀者に向けられた。
「あなたはオウバイだが。あなたの『代わり』ならいくらでもできるだろう。沼は『あなたの群れ』であり、『あなたの原料』だ」
「何を言ってるんだい? 訳がわからないね!」
「私よりも、あなたの方が、そのことをよくわかっているはずだ」
 老婆を掴んだまま、指揮官は窓を乗り越えて外に出た。
 右手で握られ中段に構えられた白い剣は、広がる湿地に向けられている。
 顔色を変えたオウバイはジタバタと手足を動かし、「やめとくれぇえ! やめとくれぇ!」と悲鳴を上げた。
「断る」
 青年は静かに答える。
「私は、あなたが引き起こした紛争を解決しに来た」
「嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃっ!」
 ゼルク中将は、沼に向けて白刃を薙いだ。
 白い光の奔流が、沼を襲った。
 その時、村から音が消えた。まるで時が止まったような静寂だった。
 光は大きく閃いて、静やかにそして速やかに沼全体へと広がり、すると、沼地の水が消え去った。やはり静かに。
「……」
 呆然と目を見開く老婆の前に、もはや沼は無くなっていた。
 干からびた沼底。
 それは、まるで、数年にわたる干ばつに見舞われたかのようだった。あるいは、もともとから、このような荒野だったかのように。
 そこには、大蛇オロチの干物も転がっていた。
 ごくりと喉を鳴らす老婆をつまみあげたまま、中将は静かに言った。
「あなたとあなたの棲みかは消した。あなたは単体になった。もはや、今までのような規模の呪術は行使できない」
「この、ひとでなし」
 老婆はよろよろと青年を見上げた。
「あたしが……、あたしが、この術を完成させるのに、ここまでこぎつけるのに、一体、何十年かかったと思ってるんだい? 一朝一夕にできることじゃないんだよ?」
 酷いよ、大きな術だったんだよ、と、ほろほろとつぶやいて、老婆は肩を落とした。今まで、自分が至極真っ当なことをしてきたかのように、一片の後ろめたさもない打ちひしがれ様だった。
「あんたは、まあ、酷い男だねえ?」
 干上がった沼を見つつ、老婆は涙を流した。
「……」
 青年は目を細めた。
「酷い男だよ。私から不老も不死も奪っちまって……」
 涙は、オウバイの皺まみれの顔を網目のように伝い、乾いた地面にじめじめと落ちた。
「ううう、あたしゃ、もう死ぬしかないじゃないか」
「オウバイ、」
 声を落とした青年は、老女を地面に降ろした。
「ううっ、あたしゃ悲しいよ、」
 よぼよぼと立つ老婆の黄色く濁った目からは、滂沱の涙が流れ、それは皺に導かれて口元にも立ち寄った。
 老い干からびた唇は、涙に湿され、
 クっ、と嗤った。
「ひとでなしのいい男、よくお聞き。女の涙というのはね、」
 涙は老体を潤し、乾いた土を濡らす。
「女の涙というのはねえ、」
「涙というのは?」
 ゼルク・ベルガー中将は促した。
 オウバイの両目が、どっと涙を溢れさせた。
「女の最大の武器なんだよ!」
 瞬間、辺りに沼の臭気が甦った。
 老呪術者は、生臭い空気に勝機を掴んで快哉を上げる。
「してやったり! ヒャヒャヒャ! 一方的に負けてたまるかい! やっぱり亀の甲より年の功ってなもんだよ、若造がっ! あたしが居る限り、沼なんかいくらでもっ、」
「それが本当に涙ならな」
「へ? ……あいて!」
 オウバイは耳に青年の声を感じ、首筋にチクリとした痛みを聞いた。
 老婆の首筋のそばには、先ほどまで彼女の襟首を掴んでいた彼の右手があり、樹脂製の小さな注射器を握っていた。それには、昨日ロイエルを浴室で濯いだのと同じものが入っていた。
「しかし、あなたの体液は今や全てディープメタル溶液らしい。ならば、我々国軍の勝ちは約束されている。それは、除去すればいいだけのことだ」
 ゼルク・ベルガーの声が怜悧に響く。
 それが、老婆がここで聞いた最後の音となった。
「……は、」
 急速に意識が奪われる。枯れ木のような老婆が倒れた。
 昏倒したオウバイを見下ろし、中将は、診療所の入り口で命令どおりに待機している兵士らを呼んだ。
「お疲れ様でした、ゼルク中将」
 きびきびと走って来た部下に、中将は指示する。
「オウバイ内部のDMは除去した。彼女とその周辺に除去剤を散布してくれ。その後、三人はオウバイを領主の館の地下牢に連行しろ。残り二人は、私に着いてきてくれ。診療所に戻る」
「はっ」
 平素は通常任務付きの兵士らが、指揮官が持つ白い剣を、もの珍しく見つめた。
「ほう。それが、研究院製の、あれですか。セラミックなんとかという……」
「通称なら『セラミックサーベル』だ」
 それは、刃の部分が半透明に透けて見えるほどに薄く研がれた、特殊磁器製の長剣だった。使い手の間で通用する俗称は、単に「白」という。研究院が付けている正式名称もあるが、それは用途、精製方法、材質、形状、の順に文字を並べたもので、とても長いものだった。「対人及対物用超高熱下精製高硬度高純度セラミック材次元響渡機能付片刃長剣」という。本来なら大規模で激しい戦闘状態で使用されるべきもので、この村の紛争程度なら必要ない。それを彼が携帯しているのは、前に指揮にあたっていた某紛争地域から、直接こちらへと赴任したからだった。
「こりゃ、なんともきれいですねえ」
 見とれている兵士に、中将は首を振った。
「見た目はきれいだが。物騒だよ」
「……はい。沼が消えてますものなあ……」
 五人とも、ついさっきまで湿地だったはずの、干からびた前方の地面を見た。
「さすが研究院の作品ですね。恐ろしいものだ」
「いやはや。こんなものが拝見できるとは」
 赴任して二日目の指揮官は、彼らの会話の呑気さに呆れて、少し肩をすくめた。ケイタムイに長期派遣されている通常任務の兵士らは、誰も彼もが、実際の事態にかかわらず、安穏たる流れにしたがる気配がある。これも老婆の呪術の影響なのだろうか。
「では、私は診療所内に戻る。二人は着いて来い」
 再度命じると、兵士らは我に返ったように背筋を正した。
「はッ!」

 薄暗い処置室では、奇妙なことが起こっていた。
 室内に置かれている水が入った容器が、ことごとく破砕して消失した。
 そして、とりわけ奇妙なのは、その出来事が起こった時、辺りからいっさいの音が消えたことだった。
「?」
 ドクタージョンが、身を起こした。
「なんでしょう。麗しのオウバイ様の偉大な力……では、ないような、」
 そして舌打ちをする。
「そういえば、彼は特殊任務専門の指揮官でしたね。ひょっとすると……彼か? オウバイ様はご無事でしょうか」
 時間が無いですね、と、医師はつぶやいた。彼の体の一部は、いまだ、少女の奥に、無理に食い込んだままだった。
「まだ慣れた感じがしないのですが。ゆっくりしている暇は無さそうです。愛しのオウバイ様が、お一人で悪鬼を退治してくださっているのです」
 思いやりも未練も無く、医師は、傷ついた少女の内から、容赦なく体を引き抜いた。びくりと、疲れ果てた体が痙攣して、奥でせき止められていた血液が流れ出す。
 医師は、少女の血が染み付いたズボンのファスナーを上げる。そして、診察台を降りた。
 側に設置されている台から、メスを取って閃かせる。
「さて。あなたが、もうこれ以上汚れないように、もう誰の役にも立たないように、バラバラに腑分けしてやります。誰もこれがあなただとわからないくらいに、小さく、小さくね」
 少女はぴくりとも動かない。
 返答が無いのに眉を寄せた医師は、声を硬くした。
「ロイエル、聞いているのですか? 返事はどうしました?」
「……はい、ドクター」
 少女の憔悴して消え入りそうなかすれ声に、気の無い男の冷酷な声が追い討ちをかける。
「感謝なさい? ロイエル」
「はい。ありが、とう、ござ、います、ドクター」
「メスでは時間がかかりますね。やめましょう」
 磨かれた小さな刃物を、床に投げ捨てた。
 ジョンの目は、壁際にある金属棚を見ていた。
「四肢を切断するためのノコギリで、大まかに切り分けてから、鉄槌で潰して捨ててやりますよ。さて、ロイエル」
「……はい」
 医師が柔和な笑顔を浮かべて、養い子を見下ろした。
「あなたを処分します。奥の部屋に行きますよ。立ちなさい」

 中将たちは、医師がロイエルを連れて逃げ込んだと思われる、診療所の奥へと続く通路の入り口に立った。
 目の前に扉がある。施錠されていた。
 当然、鍵はない。
「仕方ない」
 ゼルク・ベルガーは白い剣を右上から左下に払った。
 扉に対角線の切れ目が入り、それは消失した。扉だけでなく、それと接していた周囲の壁や床の一部も、削り取られたような跡を残して消えていた。
「おお……」
 背後に立つ部下たちが息をのむ。
「……扉はどこへ行ったのですか?」
 指揮官は彼らを振り返ると、「『魔法使いの回廊』と呼ばれる閉鎖空間へ」、と答えた。
「まほうつかいのかいろう?」
「そうだ」
「一体それは何ですか?」
 興味津々の体の兵士らに、中将は首を横に小さく振った。
「答えることはできるし、珍しがる気持ちもわかる。だが、質問は止しておいた方がいい。研究院の品物に深入りしても、良いことは何もないから」
「了解しました」
 今、前方には、長年の水拭きが過ぎて白く色落ちした木の床の通路が延び、5メートルほど進んだ突き当たりの右に、処置室の木の扉があった。
 ゼルク中将は白い剣を鞘に収め処置室に向かう、つもりだった。
 少女の悲鳴が聞こえてさえ来なければ。

 ジョンは、動けなくなっているロイエルの二の腕を掴んで、処置室の奥にある小部屋へと引きずって行った。磨かれた床に、血の軌跡が残る。
「さ、案内してやります。楽しみでしょう?」
 厚い扉には金属製の大きな引き手がついており、厳重に施錠されていた。
「ロイエルはここを見るのが初めてでしょうから」
 養育者は、唇を笑みに歪めた。
 少女の腕から手を離し、床に転がらせておいて、ジョン医師は、両手で金属の取っ手を握ると力を込めて押し下げた。ガチャンと留め金が解かれる鈍く重い音がした。医師はそのまま取っ手を手前に引っ張る。扉が重々しく開く。
 保存液の匂いと生臭さが充満していた。空気がひどく冷えていた。
 そこは、冷蔵室になっていた。
 灯りをつける。暗い橙色の光がともる。
 部屋は小さかった。人が三人も横たわれば足の踏み場も無いほどだった。
 真っ黒に見える液体を満たした、褐色のガラス瓶が左右の壁に設えられた棚にぎっしりと並ぶ。
 医師は嗤う。
「嬉しいですねえ。いつもは夜にならないと来られないのですよ。でも、夜も素敵なんですよ。ひっそりと静まり返った暗い診療所で、私は静かにここを開けて、あといくつ残っているか、まだ足りているか、美の女神オウバイ様の声を聴きつつ確認するのですよ。足りなければ手に入れる。それもまた楽しみの一つですよね。オウバイ様との愛の共同作業なのです。ああ、だから幸せなんだなあ」
 自身の愉悦を、長く独白のように語り続けて、ジョンはロイエルを見下ろした。
「ロイエルも素敵な場所だと思うでしょう?」
 小部屋の冷えた空気は重く床に落ちて流れ、動かない少女の素肌を襲っていた。血液と体液で汚された下半身がぞっと冷えて震えた。
「ロイエル、目を開けなさい! 良く見るのですよ!」
 うつぶせに倒れた養女の後ろ髪を掴み上げ、医師は部屋を強いて見させる。
「……はい」
 命令に従うことが絶対の体が、目を開ける。

 すると、恐ろしさのあまりに封じていた記憶がよみがえってきた。
 それは、いつか見た景色だった。
 夜中に目が覚めて、ドクターがこいしくなったとき。
 夜中に目が覚めて、水を飲みに降りてきたとき。
 夜中に目が覚めて、
 ドクターの嬉しそうな声に惹かれて、わたしは処置室に入って、
 その奥にまだ部屋があるのだと、知った。
 暗い暗い夜の底で、冷たい空気の中で、
 ドクターが、
 女の人を、こどもを、
 ばらばらに、
 切り分けていく。
 朝、洗濯に使うたらいに、
 ごとりごとりと音を立てて、
 ドクターが、
 脚を放り込み、
 腕を放り込み、
 頭を放り込んで、
 一人分を放り込んで、
 わらってる。
 「こんなに採れた」と喜んでいる。
 遮光瓶に入った液体は黒い。
 夜だから、明かりが橙色だから、黒に見えるのはしかたない。
 でもこれは
 「新鮮な動脈血」
 「用無しの体は沼に捨てる」
 「今度のは若い」
 「オウバイ様に、子供の血液をさしあげよう。喜んでもらえるだろうか」
 「沢山採れるようになった」
 なんて嬉しそうな顔。私にも、あんなお顔を見せていただきたい。 あんなに喜んでいただけるのなら、私は何でもする。
 でも、
 どうしてだろう。そう思うと、怖くなる。どうしてだろう。
 冷たい部屋で切り分けられる私はどんなきもちだろう。
 どうすればその部屋に行けるだろう?
 どうしたら、
 ……その部屋に行かずに済むだろう?

 ロイエルを冷蔵室に引きずり込んで、ジョン医師は嬉しそうに身を震わせる。
「これでようやく役立たずを処分することができるというものです」
 よく冷えたノコギリが、かざされる。

 いやだしにたくない。
 ちがう、よろこんでいのちをささげたい。
 
「ドクター、」
 少女の唇から声が漏れた。

 しにたいのかしにたくないのかわからない。
 ちがう、しななければならない。
 いやだ。しにたくない。
 ちがう、よろこんでいのちをささげたい。

 私は生きている価値が無くなってしまった。
 私には死んで償う資格が無くなっていた。
 私、どうすればいい?

 体が動いた。
 ロイエルは、自分でも信じられない速さで身を起こした。
「反抗する気ですかこの役立たずがっ!」
 養い親の声も耳に入らず、少女はすぐそばにあった遮光瓶に手を掛けた。自分でも、どうしてこんなことをするのかわからなかった。何の意味も目的もなかった。
 瓶が床に落ちて割れ、中身が飛び散る。
 その血を取られ命を奪われた女が苦しみもがいて出てきたように、それはロイエルに勢いよく浴びせられた。
 こごえた血を被ったロイエルは、狂ったような悲鳴を上げた。
「キャァァァアァッッ!」
「ああっ、大切なオウバイ様の飲み物が! 何てことをするんだこの愚か者め!」
 ジョンがノコギリで少女を打ちつけた。とっさのことで、害意はごく単純な行動となり、彼は後悔した。どうして切り裂かなかったのかと。
「ロイエルッ! 許しませんよ!」
 混乱した少女と激怒した男に、落雷のような音が襲いかかった。
「!?」
 音に驚いて何事かと腰を浮かすジョン医師は、直後に暴風にさらされ、それと同時に、処置室を形作っていた建材達が、床から壁から吹き消される様を見ることになった。
 嵐が去ると、青空が広がり、太陽光が白く輝いた。
 夏の風が吹きつけた。
 沼の気配が、消えていた。
「……え?」
 医師はおろおろと辺りを見回した。
 ここはどこだ?
 何故、日が差している?

 先ほどまで通路と壁と天井と扉、処置室まで続く屋内の様子は、一変した。
 すべて消えて、真っ白な砂の地面になっている。
 ゼルク・ベルガー中将は、たった今ふるった白い剣を鞘に収めると、すっかり更地になった処置室跡を歩いた。
 そこに首謀者の一人とその養い子が居た。
 少女は頭から暗褐色の液体を被って座り込んでいた。衣服を身に着けておらず、自失の様子だった。
 ジョンはノコギリを手に、呆然と周囲を見回すばかりだった。
 指揮官は、言葉を掛けることもせず、いきなり、医師の肩にオウバイにしたのと同じ除去剤を打ち込んだ。
 ジョン医師は、何が起こったのかを理解しえないまま、昏倒した。
 中将はそして振り返ると、先ほどの立ち位置のままで一歩も動けずに驚愕している部下二名に、「ジョン医師とその周囲に除去剤を散布。捕らえて地下牢へ連行しろ」と指示した。
「……り、了解しました!」
 兵士らは慌てて気持ちを切り替え、機敏に命令に従った。
 青年は、少女のそばに膝をついた。目に見える範囲で命に関わる外傷が無いか、頭の先から脚の先までざっと見る。
 頭に掛かっているのは他人の血液だった。そう判断できるのは、採取されてかなり時間が経過しているものらしく、変質し異臭を放っていたためだった。
「……生きてたね。よかった」
 ゼルク・ベルガー中将が静かに言葉をかけると、ロイエルは、ふらふらと彼を見た。なんとか目が合ったのを確認してから、たずねた。
「どこか、怪我してる?」
「……」
 少女は少し口を開きかけるが、言葉にならない。あらわな肌を隠そうともしない。自分がどういう姿をしているのかを、わかっていないのかもしれない。
 下半身には、新しい血液がこびりついている。……特に、脚の内側に。
 中将は上着を脱いで、少女の肩に掛けた。腿の辺りまで体が隠れた。そして背後を振り返り、兵士に身柄確保されて後手に縛られた医師の局部付近を見る。赤褐色に汚れていた。眉が、ひそめられた。
 十中八九、そういうことだろう。それが合意の上かどうかは、……両者とも「そうだ」と言い張るのだろうが。
「ここ、」
 ロイエルが辺りを見てつぶやいた。
「どこ?」
「君の村だよ」 
 答える中将の眼前で、少女の表情が険しくなった。
「……湿地が、無い、」
「そうだね」
 ゼルク・ベルガーが静かにうなずく。
 ロイエルは問い詰める。
「どうしてっ? そんな、いきなり無くなるはずないわ! どうしてこんなになったの!?」
 青年は、少女の夕焼け色の瞳を見つめた。そして彼女の鋭い視線を受けた上で、言った。
「私が消したからだよ」
 予想外の答えを聞いて、ロイエルの目が大きく見開かれた。
「消し、た……?」
「そう」
 少女は、もっと尋ねようと口を開くが、驚きが過ぎて、うまく言葉が組み立てられない。しかし、さらに重大なことに気付き、中将に訊ねた。
「……オウバイ様は、どこにいらっしゃるの?」
 指揮官は静かに微笑む。
「領主の館にいるよ」
 そこに至る経緯は口にしなかった。
「どうして?」
「どうしてだと思う?」
「……答えて、中将、」
 はぐらかされまいと促したロイエルだったが、恐ろしい可能性が思い浮かび、顔色を変えた。
「オウバイ様は、生きてらっしゃるの?」
「生きているよ」
「嘘じゃないわよね?」
 ゼルク中将は苦笑した。
「嘘じゃないよ。そしてね」
「何?」
「これから、我々は、ジョン医師も領主の館に連れて行くんだ」
「駄目っ!」
 反射的に叫んだ後で、ロイエルは気付いた。
 今まで動転してよく理解できなかったが、すると、オウバイ様も、
「オウバイ様、捕まっちゃったの!?」
「そうだよ」
「! そんなっ、」
 どうしたものか、何を言ったものか、と、ロイエルは瞳を揺らして動転した。
「……ドクターを連れて行かないで! オウバイ様を返してっ!」
 言葉を捜す。何か、二人を救えそうな言葉は無いか。
「お二人を返して! 私一人捕まえれば、それでいいじゃないの!」
 中将は首を振る。
「君を捕まえても何にもならない。紛争を起こしたのはオウバイとジョン医師だからね」
 昨夜何度も言ったように、という言葉は、出さずにおいた。
「!」
 ロイエルがはっとして、視線が、中将の背後に注がれた。彼も目線をそちらに流す。
 意識を喪失した医師の全身に縄が巻かれて、兵士の肩に荷物のように抱えられて連行されるところだった。
 少女が青ざめて悲鳴を上げた。
「だめ、連れて行かないで! ドクターを放して!」
 立ち上がる。すぐに膝が崩れて、膝小僧が荒い地面にがつんと着く。両手で地面を握り締めるようにして腕に力を込め、また立ち上がろうとする。
「ロイエル、」
 中将が静かに声を掛ける。
 悪鬼を見る目で少女が睨む。
「止めさせて! どうして、お二人に酷いことするの!?」
「……」
 指揮官は少女に、自分が一番酷い目に遭っているくせに何を言うんだ、と、言ってやりたかったが、止した。どうせ理解できないだろう。
 それより、ロイエルを少しでも落ち着かせて、手当てを受けさせたかった。首謀者二人の取調べは首都に着いた後でもできるが、この子の傷ついた体のことは、後回しにはできない。
「私は彼らに酷いことはしないよ。それは約束する」
 彼女の耳にきちんと届くようにはっきりと、しかし心を乱さないように静かに言葉を伝えた。
「でも、捕まえたくせに!」
 噛み付くように言う彼女が、足が萎えているのにそれでもまだ立ち上がろうとするのを、青年は「止しなさい」と制して、両肩に手を置いて強いて地面に座らせた。
「邪魔しないでッ!」
「自分がどんな姿か、わかっている? 無闇に肌を晒さない方がいい」
「……」
 一瞬、羞恥で身を硬くしたが、やはり医師への心配が強く、ロイエルは「いいの、邪魔しないで!」と、立ち上がろうとする。
「ロイエル、聞くんだ」
 両肩を掴まえて押し下げ、自分の正面に座らせて、掛けっぱなしで前が開いていた上着の止め具を着けてやる。彼女の両腕はそでを通していないが、この方が動きにくいだろうから、中将にとってはかえって都合がいい。そうして肌の露出が減るに従い、逆にロイエルは居心地が悪そうにうつむいた。
「捕まえて、領主の館の牢へ入れてしまった方が、二人の安全のためにもなるんだよ?」
「嘘だわ」
「嘘じゃない。ロイエル、考えてごらん? オウバイとジョン医師が村人を殺していたという話は、村に広がりつつある。少なくとも、領主の館の人々は知っている」
「違う! お二人がやったんじゃないわ! お二人は、崇高な理想のために悪鬼と闘われたのよ!?」
 怒気に閃いた少女の視線を難なく受けて、中将は「君の真実がどうあろうともだ」と静かな言葉を返した。 
「紛争で家族を亡くした人は大勢いる。まともな闘いならともかくとして、子供を無残な姿で殺された親の恨みはどれほどだろう。もしも、二人を捕らえずに、例えばこの診療所で過ごさせるとすると、どうなると思う?」
「……それは、」
「どうなるか、わかるよね? 村の人々は、大切な人を奪われた恨みや怒りを晴らしに来るだろう。二人は、決して無事では済まないよ」
「……」
 ロイエルは複雑な表情になった。
「そう言って、私を騙そうとしているのではないの?」
「私が君を騙しても、何の得にもならない。君は、首謀者たちの養い子だけど、何の力も無いからね。今、私の目の前にいるのが、君ではなくてオウバイやジョン医師なら、私は算段もするだろうけど」
 少女は肩を落とした。
「……私には、騙す価値が無いということ?」
「紛争を解決する上ではね。だから、君を騙したりはしない。ロイエル。私の言っていること、信じてくれないか?」
「……お二人の身の安全という一面があるということは、信じてもいいわ」
 地面に話しかけるように、ロイエルはうつむいたまま口を開いた。
「でも、」
 顔を上げた少女は、怒りや苦しみや悲しみで、青ざめていた。
「それであなたのことを信じる訳じゃない。あなたなんか大嫌い。お二人は何もしていない!」
 中将はあっさりとうなずいた。
「わかっているよ。私も、そこまで変えて欲しいとは言っていない。ただ、身柄確保は、当事者の身の安全のためにもなるということを理解してもらえばいい」
「それだけのために?」
 ロイエルは、怪訝な顔をした。
「私に、たったそれだけをわからせるために、あなたはこんなに時間を割いてるの? あなたにとって価値が無いなら、私のこと、放って置いたらいいでしょう?」
「紛争の解決には価値が無いけれど。君は被害者だから、」
「被害者じゃないわ!?」
 すぱりと返された言葉に、中将は肩をすくめた。
「私の話はまだ続くんだよ。もっとわかりやすく言おうか? 二人のことよりも、私は、君の体を心配している。すぐに手当てを受けさせたい。だから、こうして時間を割いて、君の気がかりを消した上で連れて行こうと思っているんだ。わかった?」
「!」
 ぎくりと身をこわばらせて、少女は、反射的に両腕で下腹を抱えて身を引いた。それだけで、今しがたまで何をされていたか知れるというものだった。
「い、行かない。……領主の館に連れて行くんでしょ!? 私、行かない!」
 中将は、彼女がそこを嫌っていることをアンネから聞いていたので、言葉を足した。
「処置するのは領主の館の人間ではないし、村の人間でもないよ。国軍の医療班だ」
「……」
 少女のこわばりが少し消えた。両肩を首根に寄せていたのが、少し開く。
 しかし、
「わたしは、ここにいる」
「駄目だよ、危険だから」
 ロイエルは首を振った。真摯な顔で指揮官を見た。
「お二人の代わりになるのだったら、村の人たちに何をされてもいいもの。私はもうオウバイ様の不老不死には使えないみたいだから。何か代わりの役に立ちたい。……お二人は、領主の館にいれば、大丈夫なんでしょう? 私は残る」
「……」
 ゼルク・ベルガーは珍しく言葉を失い、そして長嘆息した。
 左手で額を押さえ、頭痛をおぼえた顔で、尋ねる。
「ロイエルは、二人の為なら命は惜しくない?」
「だって、私はオウバイ様の道具だもの」
「困ったな」
「あなたが困ることは何も無いでしょう? 私のことは構わないで、中将は帰って」
「話し合うのは無駄ということ?」
「そうよ。さようなら」
「そう。わかった」
 これで中将が帰ってくれるものと思い、ロイエルはほっとしたが、事態は彼女の願いどおりには進まなかった。
 ゼルク・ベルガー中将はロイエルを抱き上げた。
「何するの!?」
 ぎょっとして叫ぶロイエルに、青年はしらりと返す。
「話し合うのは止めた。軍の宿営地に連れて行く」
「嫌! 止めて! 降ろして!」
 ばたばたと手足を動かして暴れるロイエルに、中将は「脚を動かさない。自分がどんな格好をしてるかわかってる?」と告げる。
「……!」
 おとなしくなった。
「……中将、」
 しばしの沈黙の後に、決まりの悪そうな小さな声が漏れた。
「はい?」
 どうしてこの子はこうも自分の身を構わないのだろうかと、苦々しく思いながら、青年は少し不機嫌に返事をした。
「あのね、服を、……着たいのだけど」
 ぼそぼそとつぶやく声に、青年は「ようやく現状がわかってきたな」と内心で胸をなでおろした。
「そうだよね。君の部屋は何処?」
「に、二階、」

 すっかりしおらしくなった少女に場所を聞いて、二人は二階の彼女の部屋に入った。
 物の無い部屋だった。寝台と、三段しかない小さなタンス、そして椅子が一つきり。
「服はここ?」
 小さなタンスの前に行くと、中将は床に膝をついて、ロイエルを膝の上に座らせた。
「……うん、」
 自分で開けたいが、両腕とも上着の袖を通していないので、動かせない。
「開けていい?」
 ゼルクの言葉に、しかし少女は首を横に振った。
「……ううん、自分でする」
 大きな上着の中で、もぞもぞと両手を動かし、袖に手をどうにか突っ込んだ。身に合わない長さの袖口から指先だけがのぞいた。
 今頃気付いたが、この上着、重い。ただの布ではなさそうだ。色々織り込まれてるのかもしれない。
 脱がなきゃ、と、ロイエルは、前あわせに手を掛けるが、ゼルクに止められた。
「上着はこのまま着てなさい。下に着るものを考えればいいから」
「でも、」
 全部着替えたい。ドクターの物を着たい。
「この服、重いし、」
「我慢しなさい」
 中将は苦い顔をした。
「その上着の止め具は君では外せない。脱ぐというのなら、私が脱がさなければならない。私に脱がされたい?」
「! このまま着てるわ!」
 ぎくりとしたロイエルは、急いでタンスからお下がりのズボンを引っ張り出した。あわてて履き始める。立ち上がれないので、中将の膝に乗せられたままで、もぞもぞと。
「そうそう。今の間は私の言うことを聞いていた方がいい」
 中将は、脚が萎えている少女の背後から手を回して腹の辺りを抱えて、身体を支えてやりながら、目線は逸らした。
 ロイエルは、まだ動きの悪い脚を手で何とか動かしながら、着替えを頑張った。
 いつもは紐で縛って着ている緩すぎるズボンが、今の体にとってはありがたかった。
「着替えた?」
 上から声が掛かった。わざわざ確認するってどういうこと? と、ロイエルが見上げると、中将はあさっての方向を見ていた。
 それを見ると、……今まで自分が持っていた、自分の体に対する認識を変えなければならないと改めて思った。
 ドクターは、人間は皆平等なのですともおっしゃったし、また、男女の別を厳しくおっしゃられた。平等と言ったり違うと言ったり、どうして、ドクターは逆のことをおっしゃるのだろうと不思議に思っていたけれど。
 自分は女で、それは、男の欲望の対象になる「女の体」を持っているということなのだ。
 ……体の奥が痛い。ううん。痛くない。これは、痛くないんだ。
 ドクターのあれは、違う。そうじゃない。決して欲望じゃない。ドクターが言っていたもの。神聖な儀式だって。
「……着替えたわ」
 返事を得てから、中将は少女を抱えなおした。
 立ち上がる。
「行くよ」
 階段を下り、廊下を歩き、診療所を出た。
 夏の風が吹いている。夏の花が咲いているのか、風に乗っていい匂いがした。
 湿地の気配は、もう無い。ロイエルは悲しくて仕方がなかった。
「……」
 ロイエルは、診療所の、更地になった場所を見た。
 処置室のあった跡地の、ある場所を、どうしても見ずにいられないように目を向けて、そして少女は身震いした。
 それを、指揮官は見逃さずに記憶に留めた。




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