万の物語/十二万ヒット目/十二の月が巡るまで〜ウヅキと卯月〜

十二の月が巡るまで〜ウヅキと卯月〜

すぎな之助(旧:歌帖楓月)


19

 夕刻。
 今日も手の掛かる上司のお守りに明け暮れて、ウヅキが自宅に戻ってきた。しかし、職場での出来事はもはや記憶の別の棚に収められ、今の関心事は「夕飯の献立」に移っている。嫌なことは切り離して忘れ去るのが一番だ。
「ただいま」
 玄関の扉を開ける。挨拶は、卯月が住む以前からしているもので、誰も待ってなくても、なんとなくしていた。
 今は卯月が居るが。
「おー! おかえりウヅキー!」
 いつもよりも弾んだ返答があった。
 パタパタパタパタ! と、足音が駆けてくる。
「ウヅキ! におい、頭のにおいかいで?」
 卯月が走ってきて、ウヅキにどんと飛びついた。
「!」
「なあウヅキ! ミマとミマの母ちゃんになッ、風呂入れてもらったりしたんだ! そんで、もう臭くないって! かいでみろよ!?」
「誰だお前、」
 呆然としている青年に、居候は「卯月だよッ!」と勢いよく返した。
 しかし家主の目は微妙に泳いだままだった。
「何故、どうして、そんな格好になっている……?」
「その前に髪の毛! においかいで!」
 問答無用で、卯月が自分の髪の毛を掴んでウヅキの鼻先に近づける。
 何がなんだかわからないまま、青年は言うことを聞いた。
「……生臭くない、」
 というより、花のような甘い香りがする。思わずくらりときた。
「いやったぁッ!」
 大喜びの卯月にくっつかれた青年の動揺は、収まらなかった。
 なぜなら、家主が予想もしなかった格好を居候がしていたからで。
 可愛らしい橙色のワンピースに、白いレースの飾りエプロンを着け、エプロンと同じレースをあしらった白い靴下を履いている。茶色の長い髪は左右に分けて高い位置でくくってあり、赤いリボンが結んである。
「卯月、私の質問にちゃんと答えろ。その格好はどうした?」
「これか!? ミマんちで、風呂に入れてもらって、ミマの母ちゃんから体すっげえ削られて、それからミマがこうしてくれた! へへへへッ!」
 大きい目を細めて、ひどく嬉しそうに笑う。
「髪も結ってくれて! リボン付けてくれた! この頭な! 『ツインテール』って言うんだって! ミマが『きせかえ人形で遊んでるみたい』って! ハハハハ! おもしれえこと言うよな?!」
「……」
 卯月は、相手の無反応にきょとんとした。
「なんか言えよー? ウヅキ?」
「……」
「ウーヅーキー!」
 石のように硬直してしまっている家主に、少女は彼の肩をがたがた揺らせながら「どうしたお前どっか具合でも悪いのかァ?」と眉をひそめる。
「どこも悪くない。揺らすな」
 ようやくそう返して、ウヅキは肩をがっちり掴んでいる卯月の手を握って離そうとした。そしてぎょっとした。
「お前、何だこの包帯……両手とも。どうしたんだ?」
 手首から先が白い包帯にてぐるぐる巻きにされていた。
「あー。そうだ痛かったんだった。やべ忘れてた。ウヅキ離せー。これ、痛ぇんだ」
「すまん」
 手を引っ込めた卯月は「いててて」とつぶやいてから、答えた。
「ええとな。ヤケドと切り傷、そんだけだよ」
 あっさり言ってのける少女に、青年の方が顔色を変えた。
「『そんだけ』じゃないだろう! どうしてそんなになった!?」
 すると卯月は妙に顔を輝かせた。
「あー! あのなウヅキ、いい知らせだぞ! ホットケーキの焼き方、マサヤに習った! 厚くできるやつ! 教えてやるよ!」
 卯月が得意げに胸をそらした。
 ウヅキは、思わず反射的にどういうわけかその胸元に視線を寄越してしまい、そんな自分の行動が信じられず、「何をやってるんだ私は」とまたも動揺した。
 それから言葉の意味を理解した。
「厚い、ホットケーキ?」
「そうだぞ! すっげえの! ウヅキの作ったのの3つ分くらい!」
「……」
 青年は、やせっぽちの居候の両手を、もう一度見直した。
「それ、習うためにそんなになったのか?」
「まあな! 俺、マサヤ泣かしたんだぜ! ホットケーキ作るときヤケドして、サラダ作るとき切った。そしたら、マサヤの奴、『もうやめようよーぅ』ってびいびい泣くの! ハハ! 俺もなかなかやるもんだろ? って、おっと、『アタシ』か。アタシだな!」
 頬を緩めて、卯月は自慢げに笑う。
 ウヅキは、言葉に詰まった。
 ありがとうと言った方がいいのか、それとも、そこまでするなと叱った方がいいのか。
「行こうぜウヅキ! 忘れないうちに教えてやるから、しっかり覚えろよ? えっと、サラダは駄目だ。血まみれになって食えねえから止めとけって言われた」
 台所へと、卯月がさっと手招きして、スタスタと歩き出した。
 ああ、言葉が見つかった。
「すごいな、お前」
 ようやく出せた言葉は少しかすれていたが、ちゃんと卯月の耳に届いたようで、彼女は振り返ると、くすぐったそうに「へへッ!」と笑った。くくられた髪の毛が踊るように揺れた。
 ウヅキは、胸が、どきりとした。「なんだこれはどういうことだ」という思いと何か形容しがたい甘酸っぱい感情が湧いたが、それら全ては頭の中の別の棚に入れることにして、とりあえず夕食の献立をホットケーキに変更することに決めた。


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