「お前、……なにしてるんだ?」
浴室から廊下に出ると、卯月が自分の部屋の前でしゃがみこんでいた。ふてくされたように口をへの字に曲げて、膝を抱いて床を見ている。服は着替えていて、あの可愛らしいワンピースから、いつも寝巻き代わりに来ている白シャツと木綿の長ズボンになっていた。だからウヅキはほっとした。
歩いて、彼女の頭を見下ろす位置までくると、言葉をぽとりと落とした。
「寝ろよ」
少女が顔を上げた。どしゃぶりなのに傘を忘れたような顔をしていた。
「たのむよう。なんかゼッタイあいつ来ると思うんだよ」
実はさきほどは全然納得していなかったらしい。
「駄目だ」
そっけなく首を振って、ウヅキは自分の部屋へと足を進める。
「今晩だけでいいからぁああ!」
少女が家主の右脚にしがみついた。
ぎょっとしたウヅキは、少し荒く言葉を返す。
「駄目だ! しつこいぞお前」
「だってッ、怖いんだよぉ、」
必死に言い募る卯月の、その茶色の目をよく見ると、涙がにじんでいた。
「……」
かわいそうになった。
ちょっと離せ、と言って、卯月を脚から引き剥がすと、ウヅキは膝を曲げた。目線を合わせる。
おびえているのがよくわかった。
「そんなに部長が怖いのか?」
「うん、」
「じゃ、……そうだな、お前はやっぱり自分の部屋に寝ろ」
「やだよたのむよう」
悲壮な声を上げる少女に、青年は手で制した。
「話は最後まで聞けよ。私は、お前が寝るまで部屋にいてやる」
それまで、肩をすぼませていたのが、ちょっと緩んだ。
「ほんとか?」
「ああ」
ウヅキが卯月の目をちゃんと見て返事をすると、少女はおずおずとうなずいた。
「うん……。じゃあ、それでいい」
自室から読みかけの本を持ってきて入ると、卯月は寝台の近くにぽつんと立っていた。
「ほら。寝ろよ」
右手に持った本と左手とを軽く叩き合わせながら言って寄越すと、卯月は「うん、」と小さくうなずいて寝台にもぐりこんだ。
ウヅキは卯月の枕元近くの床に座り、寝台を背あてにして本を読み始めた。灯りは枕元にある小さなものが一つきり。薄橙色の弱い光が闇に小さくともる。
「ウヅキ……」
そうっと呼ばれたので、ふりかえると、上掛けを頭からかぶった少女が顔だけ出していた。
「なんだ?」
「何読んでんだよ?」
「これか? ここからずっと遠く、南の賢者がいるあたりにある、高地について書いてある本だ」
「こうち?」
「高い高い場所。だけど山じゃない。机のように、天辺はとても広くてそして平らなんだ」
「ふうん、」
卯月は、体が温まってきて気持ちがほぐれてきたのか、柔らかく小さな声で相槌を打つ。
ウヅキは、その声に、自分の幼少の記憶を思い出しつつ、続きを話した。視線はまた本に戻して。
「そこに住む生き物は、長い時間、他の低い場所と行き来がなかった。だから、固有の進化をしてきた。その生き物たちのことについて書かれている」
「こゆうのしんか?」
つたないおうむ返し。
ウヅキは、小さな頃、両親のどちらかに本を読んでもらいながら眠りについた。そのことを思い出す。ぬくぬくとしていて、穏やかな愛情に包まれて。
「つまりな、他の場所には居ない、そこだけにいる生き物、ということだ」
「すると珍しいのか?」
「すごくな。たとえば、秋に鳴くコオロギという虫がいるだろ?」
「うん、」
「あれはこの辺では陸上に棲んでいる。だけどその高地では、水の中に棲んでいる」
「へえ。どうしてだ?」
「理由はわからない。だけど、それはここらのコオロギでも同じだ。どうして陸上に棲んでいるか、突き詰めるとわからない。ただ、ここには高地に棲むコオロギは居ない。高地には、ここにいるコオロギは居ない」
「むずかしい話はわかんねえけど、水にすむコオロギ、変なの、見てぇなぁそれ……」
少女が、ふわふわとした口調になってきた。
「行くのは大変だけどな。他にも沢山、というか、そこに棲む生き物全てがここに居ないものばかりだ、」
「……うん、」
声が途切れた。
ウヅキは少女の様子を見ることなく、次なる言葉が返ってくるかどうか、待った。目線は、ほのかな橙色の灯りに照らされた本に、そっと置いて。
やがて、すうすうと寝息が聞こえてきた。
ゆっくりと振り返って、卯月を見る。眠っている。
しばらく、ウヅキはそのままそこに居て本を読んだ。
幼いころの暖かな記憶。両親は健在で、今も南の街で暮らしている。ウヅキは両親によって丁寧に育てられた。
私は、日の当たる場所で暮らしてきた。だから、度外れた酷い目や辛い目には、遭った事がない。
卯月は私が知らない世界を、必ず知っているのだ。私が、彼女が知らない世界を知っているのと同じに。
ううん、と、卯月が寝返りを打った。寝息が深くなっている。
もう大丈夫だろう、と、ウヅキは立ち上がり、足音に気をつけながら静かに部屋を出た。
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