絶叫が聞こえた。
ウヅキは起きざるを得なかった。
卯月の声だ。自分に助けは求めていないが、ひっきりなしに聞こえてくる。
行かなければ、ならない。
なぜなら、卯月があれだけ頼んだのにも関わらず、自分は断言したのだ。「部長はもう来ない」と。
非常に不愉快だった。
セイシェル部長が約束を破ったことが、である。
はっきりと約束したのに、それを反故にするとは。
「まったく」
舌打ちして部屋を出た。
「何を考えてるんだ。部長は」
彼女の部屋の前に来ると、わかってはいたが、やはり機動部長の声が聞こえてきた。後は卯月の叫び声も。
「ホレ、言え、言わんかい、卯月チャン、『ぉにーィちぁん』って」
「ギャーギャーギャーッ!」
「そんな威嚇するカラスみたいな鳴き声しなくってもイイじゃないかよう。『おにいちあん』て言えばいいじゃないかよ。こ、こんなに頑張ってるのにィ!」
ウヅキは、何ゆえに部長が「お兄ちゃん」と呼ばせたがっているのかまるで理解できないまま、扉を開けた。
「セイシェル部長! 私との約束はどうなったんですか?!」
てっきり卯月を宙吊りにしているとか、放り投げているとか、威嚇しているものとばかり思っていたのに。
予想もしないことになっていた。
「ウヅキぃッ!」
家主の姿を扉に見つけた卯月は手を伸ばして助けを求めた。
「助けてくれよ重いようっ、」
ウヅキは、居候の救助要請よりも、部長の方に目が釘付けになっていた。
「誰です? あなた」
彼は、三人のうちのどの姿でもなかった。
彼は、寝台にて卯月を組み敷いていた。
彼は卯月の視線を追って、やや振り返る格好でウヅキを見た。
「よう、ウヅキ君。誰って、セイシェル部長だけども?」
「見たこと無いですけど……?」
強いて似ているとするならば、金髪の生活安全部長を男にしたような「青年」だった。
彼は、頬をひきつらせてぎこちなく笑った。
「おう。頑張って無理してんだ。だって卯月ちゃんが『オッサンをおにぃちぁんって呼ぶの無理!』っつーもんだから、頑張っておニイちゃんにふさわしい外見に、ハアハア、あんま、しゃべらせないで疲れるからハアハア。言わせたら帰るからハアハア」
「なんですかそれ」
ウヅキには、なぜに部長が「おにいちゃん」にこだわるのか、わからない。まったくわからない。
「あの、卯月が怖がってるので、」
……別に手荒なことをしている訳ではないようだが。
「やめてください部長」
「おう」
見たことのない形態のセイシェルは、素直に応じるが。
「ヒトコト言わせたら帰るから。ハアハア。俺も眠いから実は帰りたいんだけども。そういや俺、ガキと姐さんとオッサンて呼ばれたことはあるけど、ニイチャンは無いなあと思って。一度も言われないと気づいた。本当についさっきね」
「部長、本当にお疲れですね」
「ちょっと、しゃべり掛けないで? 用済んだら帰るからウヅキ。ハアハア」
「はぁ」
ウヅキは部屋に戻ろうと思った。これが、機動部長の姿で脅しているのならばやめさせるつもりだったが、そうではないようだ。卯月は懲罰執行部長をいじめるので、これくらい仕返しされても仕方が無いことだと納得した。
「では、部長、大概にして帰ってくださいね。私は部屋に戻りますから」
きびすを返そうとすると、卯月が「ウヅキ、助けてくれよぉ、重いよう」と泣き言をいって引き止めた。
ウヅキは迷惑そうに返した。
「重いぐらい我慢しろよ。大体、お前だって、うちの部長にそれ相応のことをしてきてるんだから、」
「そうそう」
セイシェルがにやにや笑いながら、敷き込んだ少女をからかう。
「助けてもらえなくってかわいそうねェ。ホラさっさと『おにィちやン』て言えば? 卯月チャン」
「ぜってぇいやだ」
ぶんぶん首を振って嫌がる少女の顎を、セイシェルはぐいと右手で掴んで持ち上げて、顔を覗き込む。
「卯月チャーン。『おにいちあん』、て、言え。言いなさい卯月ちゃん」
「ふざけんな! 重いッ、どけぇ」
「言えばどくぜ。『おにぃいちやん』て言え卯月チャン」
「いやぁだッ、」
「一回でいいから。『おにィちぁん』て。強情なガキだねえ本当に卯月ちゃんは。ハアハア、すげえ疲れてきた」
「いやだァッ、」
「……」
ウヅキは、何故か、イライラしてきた。ついさっきまでは早々に立ち去ろうと思っていたのに。それどころか、目が離せなくなった。
セイシェルという名の青年の形をした物にのしかかられた少女は、その重量にうんうんうなっていたが、家主がまだ部屋に居るのを知ると、また助けを求めた。
「ウヅキぃッ、重い、どかしてくれよッ、これお前ん所の上司なんだろ!?」
「違うぜ。俺は初登場だ。あーれー? コレ、怪我してんの? 卯月チャン」
今頃、少女の手の包帯に気づいたセイシェル青年が、ひとさし指で無遠慮につついた。
「何シたらこんなになんの? すっげ。両手ぐるぐる巻き」
「……ッ、痛、やだやめろよッ、痛ッ」
「おにいちあん、て言えばやめる」
セイシェル青年はニヤニヤ嗤いながら、包帯の手をつっついた。
「つつくなッ、痛いッ!」
「痛い痛い連呼されると、もっとやりたくなるなあ。ハアハア卯月ちやん。おにいちあんとか言わせるのなんかどうでもよくなってきた。へへへ、突ッついていじめることにしよ」
「いいからどけよッ! あ……痛ぁいッ」
「……」
そのやりとりを聞いたところで、ウヅキの頭の中にある何かが切れた。
「セイシェル部長ッ!」
見たことのない「上司」を退かして卯月を寝台からひったくった。それは、あっけないほど簡単にうまくいった。普段ならそのことを「妙だ」と思うところだが、今の青年にはその余裕が無かった。
「うちの卯月にいやらしいことしないでくださいッ!」
やせっぽちの居候を背後に庇ってから出た言葉には、自分でも思いもしない単語が入っていた。言った後でやっと冷静になり、「何を言ってるんだ自分は!?」と後悔したがもう遅かった。
しかし、
「……やべぇ、バレてた」
図星だった。
部長はそうつぶやくと「えへへ」と苦笑いして「ふー。ちょっと元に戻る。すげえ疲れた」と言うと、機動部長に戻った。そして寝台からドスンと降り立った。
「部長! 何を考えてるんですか!?」
「だって、ちょーっとカワイイんだもん。俺、雪葉しか駄目かと思ってたけど、うむ、案外いけるかもしれん」
ウヅキの後ろで床にへたりこんでいる卯月が、天敵の出現に「ギャッ!」とおびえて叫び、目の前にある青年の脚にしがみついた。
「駄目です。卯月が怖がってますから」
「ふふん」
ウヅキの言葉に、機動部長は片頬で嗤った。
「じゃあ、ウヅキはどうするよ?」
「……どうする、とは?」
姿が変わった。
「わからず屋さん」
胸元が乱された黒いミニのワンピースを着た生活安全部長が目の前にしなやかに立った。
ウヅキは眉をひそめた。
「その格好、……ちゃんと着てください」
「指図を聞いてやれる場合じゃないのよ。ウヅキクンは質問に答えなさい。じゃあどうするのん?」
「意味がわかりません」
「ふうぅん?」
笑顔が、寒くなった。
「そう。でも今夜は眠いからこれで帰ってあげる。お休み、卯月ちゃんウヅキクン」
部長たちは去った。
ようやく、静かな夜が戻ってきた。
「ほら。立てよ、卯月」
手を差し出した後に彼女の両手に気づき、肩を差し入れて立ち上がらせた。背が低い卯月は、ウヅキがかなり腰をかがめて肩を貸せば、ちょうど立てる。
しかし、卯月は立たずに相手にしがみついた。
「卯月?」
痛みがあるにもかかわらず、卯月は包帯を巻いた両手をウヅキの背に回してつかまえた。
背の低い卯月の顔は、ウヅキの胸の辺りと同じ高さだった。
「ううううう」
うなっている。
「卯月?」
声を掛けたが返事は無く、ぐしぐしという鼻をすする音が聞こえてきて、ウヅキは彼女が泣いているのに気づいた。
「卯月、」
「ウヅキ、もうやだ、一緒に寝ていいだろ!?」
「え……」
少女は泣き顔を上げた。
「たのむよう、お前の部屋の床でいいからさあ」
「……」
卯月をしがみつかせたまま、自分は支えることもせずに、ウヅキは見下ろしてつぶやいた。
「床……」
自分はぬくぬくと寝台の上で眠り、この子は寒々とした床に転がす。
それは少し酷いと思った。
「ウヅキぃ、」
ひぃん、と、悲しそうな子犬の鳴き声のごとく声を漏らして、少女が見上げてくる。
がさつなこいつがこんな可哀想な顔をするのだから、相当な恐怖なのだ。
……しかたない。
人道的見地から彼女の願いをかなえるべきだ。隣人愛だ。人類愛だ。
だから、ぜったいに違う。
「わかった。今夜だけな」
「!」
ウヅキの言葉に、卯月の表情が明るくなった。同時に、目の中に溜まっていた涙が二雫ばかり頬を伝った。
ウヅキは何故か胸が苦しくなり顔をそらした。
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