仕事を辞めたいと思ったことは、無いといえば嘘になるが、まあなんとかしのいできた。
しかしだ。
今回ははっきりと「辞めたい」と思った。
何故女装しなければならないのだ。
絶対に間違っている。
何が真剣な捜査だ。
午後5時半過ぎ、ウヅキは煮え切らない思いと煮えたぎる腹とを抱えて自宅に戻った。
「ただいま」
頭を切り変えて玄関の扉を開ける。
昨日は、迎えた卯月が、見たこともないような可愛い格好をしていたので、ひどく驚いたし調子が狂った。できれば、いつもの飾り気の無い衣服でいてくれたらいいのだが。
「……卯月?」
来なかった。
家の中に入り、廊下を歩いていくが、来る様子が無い。
階段を上がり、自分の部屋に入り、制服の上着を脱ぐ。
隣の卯月の部屋にも、気配が無い。
台所に入る。夕食の支度をするつもりだった。流しを見て、卯月が「言いつけ通り皿を洗っていない」ことを確かめた。
手早くできる野菜の炒め物をこしらえていると、柔らかい足音が近づいてきて、背後から声が掛けられた。
「ウヅキ、お帰り」
「ただいま。卯月、今夜は、」
ふわりと漂ってきた香りに、家主は振り向いた。石鹸の匂いがしたのだ。
卯月の格好が、いつも着ているそっけないシャツに長ズボンだったので、ウヅキはほっとしつつ聞いた。
「風呂入ってたのか?」
「うん! ちゃんと石鹸で洗った。あと頭も!」
子犬のように嬉しそうに報告する居候に、青年も自然と笑みを返した。
「そうか、……ん?」
そして思い出す。
「手はどうした? 卯月、」
「まあまあだぞ。ほら」
少女は家主の目の前に両手を上げて見せる。邪魔だったので包帯を取っ払っていた。
青年は眉を寄せた。
「まあまあじゃないだろ」
切り傷は開いているし、火傷は赤く腫れている。
「ちょっとそこ座ってろ」
ウヅキは救急箱を持ってくると、食卓の椅子に座って足をぶらぶらさせている卯月の手に塗り薬をつけた。
居候の少女は、居心地悪そうに肩を揺らした。
「もういいって。もうあんまり痛くねえし。いいんだよ薬とか包帯とかは」
手当てする側の青年が、首を振って「痛いはずだ」と否定した。
「傷口は開いてるし、ヤケドも水ぶくれが破れてる」
手の具合を検分しつつたしなめるウヅキに、卯月は「ふん」と鼻を鳴らした。
「手先のケガなんか甘やかすとろくなことになんねえから、普通にしてんのがいいんだぞ?」
「誰だ、そんないい加減なこと言ったのは」
「常識だよ」
けろりと返されたので、ウヅキは不快気に目を細めた。
「そんな訳ないだろ。まるで逆だ」
これでもかと薬を厚く塗りつけて、新しい包帯を巻いてやる。
神妙にしていた卯月が、嫌そうに眉を寄せて顔をしかめた。
「うわあコッテコテする。塗り過ぎで巻き過ぎだぞこれ」
「我慢しろ」
「うー」
真っ白になった両手を、もぞもぞと開いたり閉じたりする。
「治るまで我慢だ」
椅子から立ち上がり、ウヅキは居候の少女の頭をぽんと軽く叩いて、救急箱を戻しに行った。
それからすぐに、夕食になった。
卯月は、ミマからお下がりの服をもらったことを嬉しそうに報告した。
「すげーきれいなの。へへへ」
「……」
ウヅキは複雑な顔になった。
よかったな、と、言いたいが。
言うべきだが。
正直なところ、できれば女の子らしい服は、もう着ないで欲しい。いや、できればではない。着ないでくれと頼みたい。しかし、彼女の嬉しそうな顔を見るにつけ、言うに忍びない。
「どうした? ウヅキ」
相手の沈黙に、少女が怪訝そうな顔をした。
「腹でも痛いのか?」
ウヅキは軽く首を振る。
「いや……。何でもない。よかったな。ミマちゃんにはお礼を言わないといけないな」
「うん。たくさんお礼言った」
「そうか」
着ないで欲しいとは、言えない。
二人、しばらく無言で食事をした。卯月は嬉しそうに、ウヅキは表情を決めかねて。
ウヅキが今夜の予定を話したのは、自分が食べ終わってからだった。
「卯月。私は、これから出掛けるから」
まだ食べている卯月は、またたいた。
「どこ行くんだ?」
「仕事で、……歓楽街に」
「歓楽街?」
「そう」
朝は少女達がきれいにする場所で、夜は大人たちが汚す場所。
「アタシ、ついて行っちゃ、だめだよな?」
ほろりと出た卯月の言葉は、ウヅキにとって意外なものだった。
「駄目だ。仕事なんだから。それに危ないから絶対駄目だ。あのな、女の人がたくさん居なくなってるんだ。それの捜査をすることになっているんだ。だから留守番してろ」
「……うん、」
少女が目を落としたのを、家主は「おとなしく了承した」という意味に受け取った。
「遅くなると思うから、先に寝てろよ?」
「ウヅキ、」
「なんだ?」
少女は、迷うように何度か瞬きをした後に、そろそろと言い出した。
「留守番、ちゃんとしてたら。一緒に寝てくれるか?」
「……」
難題を突きつけられた。
思わず眉をひそめる。
「そういうの交換条件にするなよ」
「ん……、」
卯月は、とても困った様子で身じろぎした。
「そうだな。ごめんな、」
何か言いたそうだったのに、居候がしたのは謝ることだった。
しゅんとしてうつむいてしまった少女が可哀想になり、ウヅキは、彼女の頭を撫でた。
「帰ってから考えるから。おとなしく留守番してるんだぞ」
「!」
夜明けみたいに、卯月が顔を上げた。
「ほんとか?」
「ああ」
ウヅキは、もう一度髪を撫でてやった。
「じゃ、行ってくるから。ちゃんと鍵を掛けろよ?」
「うん。ウヅキ、いってらっしゃい」
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