黒い女と、はちきれんばかりの筋肉の男が、居酒屋の片隅で湿っぽい会話をしていた。いや、会話ではない。
「俺と別れてくれよぅ」
「……」
「お前のことは、たしかに愛しているけれどもー。だけどぉ、向こうには子供ができちゃったんだな。逃げらんないんだよ。責任とらなくちゃー」
「……」
「手切れ金なら払うからぁ、なー?」
「……」
「お前だってさー、こんなだらしない男と付き合うの、ヤだろぉ?」
「……」
「頼むよ、言ってくれよおお。嫌いだってー。俺のこと殴っていいからさー」
「……」
女の返事が無い。
男が一方的に話しかけるだけだった。
黒い長髪に黒い衣服の女は、酒場に入ってここに座ってから、ずっとうつむいており、声一つ漏らさない。
周囲の客たちは、二人のことをチラチラと盗み見して、抑えた声でたまにそれを話題にした。「こじれてるな」「あんなときは黙られるのが一番困る」「しっかし、酷い男だなー」など、ひそひそ言い合う。
「もー行かなくちゃ。じゃー、元気で」
ついに、男は席を立った。
しかし、やはり女は無言のままだった。
男は二人分の料金を払い、そそくさと店を出て行った。
客たちは、しばし女の様子を伺っていたが、やがて注意を向けなくなった。それまでの彼女のあまりの沈黙ぶりが、可哀想というよりも奇妙だったので、声を掛けようとする客は一人もいなかった。
そう。
彼女の雰囲気は、酒場には、まるでそぐわなかった。
礼拝堂で鎮魂の祈りでもささげているのがお似合いだ。
真面目で辛気臭いのだ。
だが、そんな彼女の隣に、新たに入ってきた男の客が座った。
うつむいたままの彼女に、なにごとか話しかけている。男の顔には好意的な笑みが浮かんでいた。
女は顔を上げて男をじっと見た。
男は少しひるんだが、すぐに元の笑顔を取り戻した。
男は給仕を呼んで、酒を注文した。
すぐに、二人分が運ばれてきた。
男と女は、乾杯をして、酒を飲み干した。
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