万の物語/十二万ヒット目/十二の月が巡るまで〜ウヅキと卯月〜

十二の月が巡るまで〜ウヅキと卯月〜

すぎな之助(旧:歌帖楓月)


38

 黒い女と、はちきれんばかりの筋肉の男が、居酒屋の片隅で湿っぽい会話をしていた。いや、会話ではない。
「俺と別れてくれよぅ」
「……」
「お前のことは、たしかに愛しているけれどもー。だけどぉ、向こうには子供ができちゃったんだな。逃げらんないんだよ。責任とらなくちゃー」
「……」
「手切れ金なら払うからぁ、なー?」
「……」
「お前だってさー、こんなだらしない男と付き合うの、ヤだろぉ?」
「……」
「頼むよ、言ってくれよおお。嫌いだってー。俺のこと殴っていいからさー」
「……」
 女の返事が無い。
 男が一方的に話しかけるだけだった。
 黒い長髪に黒い衣服の女は、酒場に入ってここに座ってから、ずっとうつむいており、声一つ漏らさない。
 周囲の客たちは、二人のことをチラチラと盗み見して、抑えた声でたまにそれを話題にした。「こじれてるな」「あんなときは黙られるのが一番困る」「しっかし、酷い男だなー」など、ひそひそ言い合う。
「もー行かなくちゃ。じゃー、元気で」
 ついに、男は席を立った。
 しかし、やはり女は無言のままだった。
 男は二人分の料金を払い、そそくさと店を出て行った。
 客たちは、しばし女の様子を伺っていたが、やがて注意を向けなくなった。それまでの彼女のあまりの沈黙ぶりが、可哀想というよりも奇妙だったので、声を掛けようとする客は一人もいなかった。
 そう。
 彼女の雰囲気は、酒場には、まるでそぐわなかった。
 礼拝堂で鎮魂の祈りでもささげているのがお似合いだ。
 真面目で辛気臭いのだ。
 だが、そんな彼女の隣に、新たに入ってきた男の客が座った。
 うつむいたままの彼女に、なにごとか話しかけている。男の顔には好意的な笑みが浮かんでいた。
 女は顔を上げて男をじっと見た。
 男は少しひるんだが、すぐに元の笑顔を取り戻した。
 男は給仕を呼んで、酒を注文した。
 すぐに、二人分が運ばれてきた。
 男と女は、乾杯をして、酒を飲み干した。


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