家に着くと、ウヅキは卯月を彼女の部屋に連れて行き、そして風呂に直行して「屈辱的な格好」を解除した。
抹消したい過去が一つできた。うんざりだ。
がしがしと顔を洗って化粧を落とし、今夜の出来事をきれいさっぱり流し去りたいという思いで全身をきつめに洗うが、それでも心にどんよりしたものが溜まったままだった。
嫌な経験だった。
部屋着に着替え、じっと鏡を見つめ、「いつもの自分」がそこにあることを確認してから、風呂を出た。
少しほっとした。
その後、卯月を呼びに行った。
家主は二階に上がり、卯月の部屋の前に立つ。
扉を叩いた。
返事がない。
「卯月、」
返事がない。
「卯月、寝てるのか?」
「……ううん、起きてる」
くぐもった鼻声が返った。
ウヅキは怪訝に思った。
泣いてるんじゃないだろうな? ありうる。
「風呂上がったぞ。お前、入れそうか?」
「あー。……なんか無理だ。あんま歩けねーし」
気になる。大丈夫だろうか。
「開けていいか?」
「うん」
そして、扉を開けたウヅキは、歓楽街から今まで卯月の様子をしかと見ていなかったことに気づかされた。
ベッドに腰掛けた卯月が、風呂上りの青年を見た。
「俺、じゃない、アタシさー、汚れてるけど風呂は入れねーや。足がガックガクで立てねえの。だっせーよな」
決まり悪そうに頭をかく。
「ホント、あのオッサン怖すぎ」
二つに分けて結っていたであろう髪の毛は乱れてバサバサになり、青い服はホコリまみれになっていた。膝小僧はすりむけている。両手に巻かれた包帯も服と同じようにホコリまみれになっていた。
ウヅキは女装の苦痛にばかり気にしていて、はっきり言えば、周囲の、とりわけ事件以外のことには、ほとんど気を払っていなかった。
卯月の方が私より酷い目に遭っていたのに。
生活安全部長の最後の言葉が胸に甦った。
大切なものかどうかは別として、……私は卯月のことを大切には扱っていない、ようだ。
「はっくしょ!」
少女がくしゃみをした。とっさに、包帯まみれの手を鼻に当てると、もっとくしゃみをした。それで、ぐずぐずと鼻をすする。
「ううー。アタシな、どうやらホコリかなんかに弱いみたいでよ、くしゃみ出んの。でも、おッかしーよなぁ。前はさ、ホコリまみれで生きてたのにな。ウヅキん家がきれーだから、そういうのに敏感になったのかなぁ?」
「……風呂まで連れてったら、一人で入れるか?」
「あー、うん。大丈夫と思うけど。……なんで?」
鼻をぐずぐず鳴らしながら聞く卯月は、相手に何も依存したところはなかった。ずっと野良だったから。
「そんなのじゃ、とても寝られたもんじゃないだろ。来い」
家主は居候をおぶって風呂に連れて行った。
「なぁ、」
階段を降りるところで卯月が聞いた。
「なんだ?」
「風呂入ったら、ウヅキの部屋で寝ても、いいか?」
おずおずとした問いが小さく聞こえた。
「ああ」
青年は断らなかった。
「今回の件で部長たちの厄介さがよくわかった。今までごめんな。卯月」
「……いいのか?」
「ああ」
風呂場の扉を開けて、浴室の入口まで連れて行って下ろした。
「終わったら声掛けろよ。私は外で待ってるから」
「うん」
ふと、思い出してウヅキは言い足した。
「それから、傷のあるところはあんまり強く擦ったりするんじゃないぞ」
「え。いいのかそれで? ほんとに? 嘘じゃないよな? なぁ?」
卯月が本気で確認したので、青年はあきれた。
「当たり前だ。そんなことしたら、傷口が開いて悪化するだろ?」
「はー。そんなもんかな」
卯月は首を傾げはしたが、反論しなかった。
扉に背を預けて床に腰を下ろし、待っていたら、「ウヅキ歩けた! 風呂ってすッげえな!」と、はしゃいだ声が聞こえてきた。
お湯を浴びたら血行が良くなったか緊張が解けたかで、足の震えが消えたのだろう。
「そうか。よかったな」
返すと、「うん!」と元気な声が聞こえた。
ウヅキは立ち上がると、救急箱を取ってきて、自分の部屋に持って行った。
そして気づいた。
他人のこと……つまり卯月の惨状に気が行っている間は、女装したという気分の悪さを忘れていたことに。
そうか。
これが、一人ではないということか。
当たり前のことだったが、忘れていた。
一人で暮らす時間が長かったから、この感覚を忘れていた。
一人は気楽だし、嫌いではないから、気づかなかったが。
一人だと思いやる相手が居ないのだ。良くも悪くも自分に懸かりきりになる。
そういうことか。
……悪くない。
「風呂ってすッげえなー」
と言って出てきた卯月は上機嫌だった。居候は、ウヅキが家を出る時に来ていたあの格好、そっけないシャツに長ズボンのいでたちだった。だから家主はほっとした。
「膝、がっくがくだったのにさ、ぴたって止まったんだぜ」
「そうか」
青年は、とりあえず風呂の扉のところで待っていて、一緒に階段を昇った。
そのまま卯月はウヅキの部屋に着いて来た。
「へへ」
嬉しそうだった。
「よかったぁ。今日も独りじゃないんだ」
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