「姉さん。おやつができたよ。姉さんの言ってたホットケーキだよ」
マサヤが、この家で一番日当たりがよく風通しの良い部屋に入ると、姉はベッドに腰掛けて窓外の海を見ているところだった。
「あのね。今、卯月ちゃんとウヅキ君が来てるんだ。二人とも、これから冒険に出かけるんだって」
姉のサヨは、弟を振り返ることなく、海風を受けて外を見つめている。長い髪がさらさらとなびく。妹のお下がりの服も風を受けて揺れる。
弟は静かな微笑を浮かべて、姉の背中をそっと支えるように、優しい調子の言葉を続ける。
「南の高地に行くんだって。珍しい生き物が沢山いるんだって」
「マサヤ」
姉が弟を呼んだ。
「うん。なあに? 姉さん」
振り返って見上げた顔には、清々とした笑みが浮かんでいた。
「アタシの冒険に、付き合ってくれる?」
「冒険?」
ゆったりと首を傾げるマサヤに、ミマは言った。
「おやつを食べたらね。かあさんと、アタシと、マサヤで、街に行くの。……アタシの新しい服を、買いに」
「姉さん……」
さわやかな海の風が吹き抜ける。
「そしてね、私は、学校から帰ってきたミマちゃんを、新しい服を着て、出迎えるの」
「ねえさん、」
弟の目から、涙が落ちた。
姉は笑う。
「なぁに泣いてんだよ? マサヤの泣き虫」
「だって……嬉しくって」
ぐずぐずと鼻をすすって腕で涙を拭うマサヤに、姉は立ち上がって歩み寄った。
「泣いてる場合じぇねえよ? 付き合うのか付き合わないのか? でないと置いてくぞ?」
一年のうちに、なんとか一人で歩けるようになった。
恐ろしい記憶は、優しい家族と海風とが、時間を掛けてまぎらわせて、やがて癒してくれるのだとわかった。そう、時間を掛けて。
「うん、姉さん」
腕を顔から離して、ほっこり笑う弟に、「『うん』じゃねえ。『ハイ』だろ?」と命じて「ハイ」と言い直させて、姉は、頼りにしている「頼りない弟」の頭を撫でた。
「ありがとな。で、これからも、アタシに付き合ってくれるか? マサヤ」
「うん。じゃない、はい、姉さん」
弟の嬉しそうな笑顔。
それを見るサヨの表情は翳った。姉から離れないでいてくれる弟を可哀想に思った。
「……ごめんな、マサヤ」
それを見たマサヤはおののいた。
「キャッ。姉さん怖いよぉ。どうして謝るの? な、何か企んでるの!? 僕、なんでもするからいじめないで、そうだ今日の僕のおやつ、全部あげるから、」
「……」
弟の情けないにもほどがある反応に、姉の「可哀想」だとか「迷惑を掛けてすまない」だとか、そういうしおらしい気持ちが吹き飛んだ。
「このバカマサヤッ!」
弟がこんなふうだから、姉は後ろ向きに悲しまずに、前向きに怒ることができる。
「お前、アタシが珍しくしおらしくしたっていうのに! 『企む』って何だよ!?」
細く小さなげんこつが、弟にポカリと降る。
「うわぁん姉さんごめんなさい!」
さらなるひ弱な謝りっぷりに、姉は、「こいつの後ろになんかついていくものか」と思った。
もしかしたら、こうやって少しずつ、「元気になる力」をもらっているのかもしれない。
「ほら、行くぞ! ホットケーキ食べに!」
姉は威勢よく弟を従えて部屋を後にした。
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