国主の願いは、全てかなえられた。
一人の世界ができた。彼の他にはもう誰もいない。
国主は、満足だった。
国主は、山頂の社で、激しく笑い転げた。
『ハハハハハ! 私を愚かだと罵った者たちはもういない! お前たちの方こそ愚か者だったのだ! ああ、愉快だ! 私の真の姿に気づいて、崇め、讃え、尊べばよかったのに! それをしなかった愚か者たちよ! お前たちは全て滅んだ!』
もう、誰も自分を馬鹿にしない。
誰もいないから。
傷ついた国主の心は、満ち足り、癒された。
さて、次は、星に何を命じようか?
『従順な臣下と民が欲しい。私の世話をする者がいなければ、不便この上ないからな。他国は、邪魔だからいらんな。それから……』
国主は、欲しいものをあれこれとつぶやいた。
まだ、命じてはいない。
思案の最中だった。
そこに、
一羽の小鳥が、飛んできた。
社の中に。
雪のように白い小鳥が。まるで蝶のように、ひらひらと優雅に。
『?』
国主は、不思議そうに、首を傾げた。社は閉め切られていて、鳥が入れるほどの隙間はない。
一体、どこから来た?
国主はいぶかしんだ。
小鳥は神棚の上に止まる。と、なんと、なめらかに言葉を発した。女の声だった。
『ここに落ちていたのね』
冬の早朝に響く鶴の音のように、優雅に美しかった。形は小さな愛らしい鳥であるにもかかわらず。
『な、』
国主は呆然となった。小鳥を凝視した。
今、しゃべらなかったか……?
小鳥は、人間の驚きなど気にも留めずに、星の周りをちょこちょこと歩き回っている。まるで検査するかのように黒い目で見回して、首を上下に動かす。
そして、国主の方を見た。
『あなたが、知恵の種を使ったの?』
『!』
声を掛けられた。
国主は、心臓が止まるかと思うほど驚いた。
『あ……あ、あ、あ』
言葉が出ない。
足と肩が、小刻みに震えた。
者皆殺めた国主が、たった一羽の小鳥に怯えていた。
小鳥は、首を傾げた。
『どうしたの?』
小鳥は、優しい声音で言った。
『何も恐れることはないわ。私は、あなた達の主の、巫女』
女の声で話す小さい鳥は、国主には訳のわからないことを言った。
気味が悪い。
彼は落ち着くどころか、逆に一層おののいて、ついには腰を抜かしてしまった。
『あ、ああ、あああ』
国主は、できるだけ神棚から離れようと、わななく足と手を無理やり使って、体をずり動かせた。
『……お、お助けください。どうか、命だけでも……』
鳥が何者かすらわからなかったが、国主は思わずそう請うていた。
『そんなに怖がらないで?』
小鳥は困ったようにささやくと、姿を消した。
『!』
消えた。
いなくなった。
国主は、ほっとした。
今のは幻だ。
そう、思うことにした。
こんな気味の悪いものがいるはずがない。
ここには、ずっと、私しかいなかったのだ。そう、私は白昼夢でも見たのだろう。
国主は、今見た光景を忘れることにした。
それよりも、楽しいことを考えようと思った。
今、この世界には、私しか人がいないのだ。私以外の人間は、無くなった。なんとすばらしいことだろうか! 私を馬鹿にする人はいない! これからは、星に命じて、私を敬う人だけを出してもらうのだ。真の私を理解できる人だけを。
なんて楽しいのだ。
私を理解する人間だけがいる世界。
ふふふ。
『ふふふ』
国主の心に次々に笑みが生まれ、それは口から外へとどんどん落ちた。
ふふふふふ!
『ふふふふふ!』
あーはははは!
『あーはははは! 星よ! 命令する!』
国主は、たがの外れた笑いの合間に、そう叫んだ。
『駄目』
国主の、まさに目の前に、女が現れた。
『うわーっ!!』
たった一人の人間の驚きようといったらなかった。
驚きの余り、抜けていた腰は、さらに砕けてしまい、下半身に全く力が入らなくなってしまった。骨の無い重い人形のように、腰は床に鎮座し、足がだらしなく投げ出された。
『わー! うわーっ! ひいー!』
腰から上は物音に驚くニワトリさながらの驚乱ぶりだった。
『助けて助けて! 助けてっ! 誰か助けてくれえ! 誰かっ!』
国主は声も枯れよといわんばかりに叫び続けた。両手は、意味もなくばたばたと振り回される。これも、驚いたニワトリが羽をばたつかせるのに似た、無駄としか思えぬ派手な動きだった。
『落ち着いて。私は、あなたに危害を加えるつもりはない』
女は、水面を指でなでるような、なめらかな声で言った。小鳥と同じ声をしていた。
『……聞いていないわね』
女は、息をついて、目を伏せた。黒目がちの瞳は、黒い水のように潤っていた。
『困った人』
ため息の甘い芳香が、国主に届いて鼻腔をくすぐった。
若い女の香りだ。
国主は、少しずつ、落ち着いていった。
目の前にいるのは、化け物ではない。
しゃべる鳥でもない。
若い女だ。
黒髪黒目の、自分と同じ色を持つ、だが、女だ。
国主は、騒ぐのをやめた。
最初はぼんやりと、次に興味を覚えたふうに、女を見た。
『お前、誰だ?』
『さっき、言ったでしょう? 聞こえてなかったのね?』
女は苦笑した。
美しかった。
濡れたような黒髪、涙を浮かべているのではと思うほどに潤んだ黒瞳。
真紅の唇が優雅に笑む。白い肌が誘うように柔らかな質感を見せる。
『私は、巫女。こちら一帯の世界の持ち主の、巫女』
何かわからないことを言われたが、そんなことは聞かなかったことにした。考えるのは面倒だから、嫌いだ。
それよりも、これは美しい女だ。
『名は?』
巫女は笑った。
『ふふ……』
困ったふうに。少し首をかしげて。
『あなたにはきっと、言えない』
『名を教えよ』
女は、無言で首を振った。
執拗なほど見つめる国主の視線に触れもせずに、上を見た。
『主上。種はここに落ちておりました』
恭しく申し上げる声が、天に昇る。
『見つけたのか』
呆れた声が、振ってきた。
国主と同じくらいの若さの、男の声だった。
『雪葉は目聡いな』
巫女は、陽の光を見つけた花のように、嬉しげに笑った。
『主上、いらしてください』
巫女の呼びかけと同時に、世界が、人の形を造った。
ただ空気があった場所に、人ができた。
巫女の隣に、紫の青年が立っていた。紫色の目は、最初から神棚の星に注がれていた。
『良く見つけ出したものだ』
黒い小さな物に無表情を向けていた青年は、愛しそうに隣を見た。
『これでは、お前に隠し事は、とてもできないな。雪葉?』
低くささやいた青年は、微かに笑った後、巫女を抱き寄せる。
『いいえ』
巫女は、うっとりと微笑んで首を振る。
『私は主上の物ですから、どうぞ御意のままに。見なかったことにせよとおっしゃられるのでしたら、喜んで、いつまでも目を閉じております』
『嬉しいことを』
紫色の髪の青年は顔をほころばせ、巫女の頬をそっとなでた。
『さて、種を拾って帰るとするか。これをノウリジに返さねば、あいつの自棄酒で私の酒蔵が空になってしまう。あいつの胃は、我が屋敷以上に大きな酒蔵だからな』
『はい。主上』
『ユキハというのか?』
二人の睦まじい会話に、異物が割り込んだ。
国主だった。
雪葉は、返答せずに首を傾げた。
『?』
『ユキハというのか? そなたの名は』
『何を、言っているの?』
小鳥が人間から話しかけられたかのように、雪葉は不思議そうな顔をした。
何を言っているの、だと?
国主は、腹が立った。今まで親密に話をしていたのに、急にそっけなくされた気がした。
『そなたの名前だっ! ユキハ……』
『雪葉。この男は?』
紫色の青年が、腕の中の巫女に問いかけた。
なにやら怒っている国主から目を外して、雪葉は主上を見上げて微笑んだ。
『知恵の種をまつっていた者です。主上』
雪葉の表情は、そして、曇った。
『使ってしまったようです』
『何』
紫の青年は、目を細めた。その瞳は、巫女ではなく種に向けられた。
やってくれたな、という低いつぶやきが、雪葉の耳に入った。
主上は、そして初めて国主を見た。
『どうして使い方を知っている?』
前置きも無く、尋ねた。
国主は、無礼な単刀直入さに憤慨する前に、男の奇異な色に驚いていた。
何者だこいつは?
紫の髪など、紫の目玉など、見たことも無い。髪とは黒、目とは黒だろう。
この女といい、男といい……奇妙すぎる。
まさか、
『化け物だ……』
国主の口から、言葉が飛び出した。
『化け物』
それは二人の異人に向けられた言葉だったのだが、国主は美しい女にはあえて目を合わせず、彼女を手中に収めている青年の方を睨んでいた。嫉妬が、半ば混じっていた。
『無礼者!』
高く滑らかだが、怒りに満ち満ちた声が響き渡った。
女が激昂していた。白い肌が薄紅に染まるほどに。
『いかに存ぜぬとはいえ、北の賢者に対して何を申すか!』
『雪葉、やめよ』
巫女を、紫の青年が制した。
雪葉は困惑し迷った様子で、主を見上げる。
『主上……。ですが、』
北の賢者は首を振った。
『雪葉が言葉を交わす必要などない』
国主の方を向いている巫女の体を、自分の方に引き寄せた。
『ですが、主上。種と星をご覧になったでしょう? あまつさえ、この者は主上に対して……』
折れない巫女に、主は冷たく首を振る。
『捨て置け』
『主上、そのような、』
『構わん。私の尊厳など、どうとでもなる』
『でも、』
それでも主を想う意思を貫こうとする巫女を、賢者は束縛するように抱きしめた。
愛しさが、青年の声を視線とを甘く変化させた。
『良いから。雪葉の声を他に与えるのは惜しい。後は、衆と兵にまかせよ』
雪葉の頬が紅色に染まった。
『はい』
紫の賢者は、国主を見た。
その目は無機質だった。
先ほどの国主の非礼な言葉すら、彼の感情にはそよ風ほどの刺激も与えられなかったらしい。
『お前がまつっているこれは、私が投げ捨てた知恵の種だ。どこに行ったかわからず、今まで探しておった。持って帰るので返してもらう』
一息にそう言うと、青年は神棚に手を伸ばした。
『ま、待ってくれぇ!』
国主は悲鳴を上げた。
『持っていかないでくれ! それがないと、私は独りになってしまう!』
身を裂かれるような思いで、国主は叫んだ。
今、種が無くなれば、私は、私は、何もできなくなる。こんな、誰もいない世界で、どうやって生きていくというのだ。いや、生きられるものか。誰が食べ物を作ってくれる? 誰が衣服を? 誰が風呂を沸かす? 誰もいないではないか。
『それがないと、困るのだ!』
『何をふざけたことを』
青年は、ためらいもなく種を右手で取って、振り返った。
床にへたり込んだままで真っ青な顔をしている国主を、氷のような目で見下ろして、言い加える。
『今この状況を望んだからこそ、種に命じたのであろう? どうやら、お前以外に人間は残っていないな? この星には。お前、さては人嫌いか。ならば、よかったではないか。無人の星になって』
早口にそう言い投げると、賢者は雪葉に微笑みかけた。
『帰るぞ雪葉』
巫女は極上の笑みを返す。
『はい、主上』
『待ってくれぇぇー!』
国主は、声を限りに叫んだ。
『もう少し種を貸してくれ! お願いだ! あと少しでいいんだ! でなければ、私は、私は死んでしまう!』
必死の声をぶつけられ、紫の青年は眉をひそめた。泥団子を投げられたかのように、ひどく不快そうだった。
相手の表情を見やる余裕も無く、国主は叫んだ。
『死にたくない! 死ぬのは嫌だ! それがないと、私は死んでしまう!』
『うるさい』
斬って捨てるような口調が、返された。
『勝手なことを』
無情に乾いた言葉がさらに続いた。
自分の生死がかかっているのに、それを勝手呼ばわりされた。国主は、憤慨した。
『なんだと! 私の命をなんだと思っているのだ!』
『いのち、だと?』
紫の賢者が鋼のように固い声をやった。
紫の眼光が断罪の刃のように鋭くなった。
『皆殺しのお前が何を言うか。これほどのことをしておいて、よくものうのうと』
『!』
国主は、凍りついた。
『う……、違う、わたしは、』
皆殺し、という恐ろしい言葉をつきつけられ、国主はひるんだ。
わたしは、そんな恐ろしいことはできない。なぜなら、本当の私は良き主なのだから。
青年は目を細めた。
『お前が種に命じたのだろうが? だから全員死んだ。種は自分では動けない。命じたのはお前だ』
そうだ。
私は、全ての人間を、無くしたのだ。
皆殺し。だ。
皆殺し。
国主の中で、今まで優しく暖かく心の中を漂っていた何かが、悲鳴のような音をたてて粉々に崩れ落ちた。
『うわ……わあああ! わあああああ!』
国主は、ようやく、自分のしたことの恐ろしさに気づいた。
世界に自分独り残して、人を全て殺してしまった。
どれほどの罪か、想像もつかない。
『私、私は、私はっ、全て殺してしまったのだ! おおお、どう、どうすれば……どうすればいいのだっ』
『取り返しがつかないことだ』
紫の賢者が、冷厳な声で告げた。
『償うことも、忘れることも、やり直すこともできない』
『ああ……』
国主は、泥を吐くように低く嘆いた。
『こんな……こんなことをしたのだから、きっと神が恐ろしい罰を下される』
『神など居ない』
すぐさま返事が返った。
巫女を抱いた青年が、片頬で笑った。
『誰も懲罰は下さない。ゆえにお前の罪は消えることが無い。お前はお前の良心がある限り、それから罪を責め続けられるのだ。お前の良心が消えた時は、お前が狂うとき。それすなわち、お前の心が死ぬときだ』
苦しいぞ、と、賢者はつぶやいた。
『罪は許されること無く、良い心はお前を責め続けるだろう。心が死ぬまで。それが、報いだ』
『こんな、こんなことをしてしまうならば……星をまつらねばよかった』
国主は、消え入りそうな声で言った。
床に腰を下ろしたまま、両手で頭を掴むように抱えて。
『ただ毒づくだけの場所、神体のない神社で、私には十分だったのだ。愚痴を言う場所さえあれば、それでよかったのだ……ああ』
星をまつらねば良かったのだ。国主は、何度も何度もそう言って、自分を責め、両手で抱えた頭をかきむしった。
『誰も本当の私を理解してくれない、そう悩んで鬱積していたところに、このように力のある物が降ってきた。……私はてっきり、神が下された物だと勘違いしてしまった……ああ』
国主の嘆きを聞いているうちに、賢者の表情に変化が現れた。
最初は氷のように冷たかったのが、気まずいものへと。
『待て』
紫の青年は、国主に声を掛けた。
国主は、怪訝な顔をして目を上げた。
賢者は、決まり悪そうにつぶやいた。
『私にも非があることに気が付いた。確かに、私が知恵の種を投げ捨てねば、お前はこのようなことをせずに済んだのだ。身の丈にあった生き方ができたはずなのだ』
国主はぽかんと口を開けて、青年を見上げた。
意外な言葉だった。先ほどまで、私を突き放すようなことばかり言っていたのに。いきなり情け深い。
巫女に寄り添われた彼は、国主に問いかけた。
『お前。もう一度命を与えたならば、誤りの無い人生を送られると誓えるか?』
『? 今、なんと?』
『わからなかったか? では、言い方を変える。今回のことは、私にも落ち度がある。だから、お前への償いをしよう。もう一度、お前は自分の生をやりなおす。それで過ちを犯さなければ、私はお前に二つ目の命をやろう。この星もくれてやる』
国主は、表情の無い青年の顔を眺めた。
言葉を失ってしまった。二つ目の、命だと?
『どうだ? 過ちを犯さないと、約束できるか?』
『どういうことだ……?』
国主は、ほうけた顔で問い返した。小鳥が、人間から相談されたような。
この青年の言い方は、まるで、命を自由に扱える、かのようだ。
『どういう、ことだ?』
答えない青年に対して、国主はもう一度問いかけた。
面倒くさそうに、紫の賢者は声を出してやった。
『聞いたとおりだ。何のひねりもない。償いに、もう一つ命をやろうと言っている。ここら一帯の世界は私の物。なんとでもなるのでな』
『はは、は』
思わず、国主は笑ってしまった。喜んでいる訳でも、安堵したわけでもない。気味が悪かったのだ。気味が悪い。命を、なんだと?
『ははは、ははは、』
笑いながら、国主は、後ずさった。腰は抜けたままで立ち上がることすらできないので、腕の力だけでずるずると、無様な格好で。
『いい、いい。いらん、いらん。私は、そんなものは……』
顔色を失い、国主は、震える声で断りながら、社を這い出ようとする。
『そうかわかった』
賢者は、ぞんざいにうなずくと、巫女をそっと抱き上げた。
男女の柔らかな笑みと笑みが交わされる。
『さ。帰るか雪葉』
『はい。主上』
紫の賢者と巫女は消えた。
地面に落ちた小石を見るのと同じ、憎しみも愛しさも何の感慨もない様子で、せいぜい野垂れ死ね、と言い置いて、
『せめてもの償いに、お前が死ぬまでは、この星はとっておいてやろう』
国主は、一人、社に残った。
しかし、彼の言った言葉が、頭の中で反響していた。
せいぜい野垂れ死ね。
せいぜい、野垂れ死ね。
国主は、ぞっとした。
命令を聞いてくれる星がないのに、どうやって生きていけば……。
せいぜい野垂れ死ね。
『ま、待ってくれ!』
世界中にひとり。
国主は、叫んだ。
『待ってくれ! 待ってくれ! やはり、やはり命をくれっ!』
国主は、三晩も叫び続けた。
このまま紫色の奇妙な者が戻って来なければ、間違いなく自分は野垂れ死ぬ。声を限りに叫び、涙を落として嘆き、未来への絶望に打ち震えて、精魂尽きたころ。
『とりあえず累機衆に召し上げるか。お前、名は何と言う?』
紫色の青年は、そう言いながら、唐突に再び戻ってきた。行ってしまったときと同じに、巫女を抱いていた。
『名を聞かせろ』
地面を見るのと同じ、何の思いもない顔をして、青年は国主に尋ねた。
涙と鼻水づけの顔で、国主は、ひからびた声を出した。喉は、叫びすぎたために、単に痛いだけではなく、傷を負っていた。口の中は鉄臭い血にまみれていた。
『う。ううっ。ゆ、ゆうじん、だっ』
一言一言が激痛を伴う。国主の口の周りはすでに紅に染まって、それどころか、血が変色して茶色となり錆のようにこびりついている。
北の賢者は、眉を寄せた。
『聞こえんな。お前は自分の名すら言えんのか』
『ゆうじん、ゆ、祐人だっ!』
唾の代わりに血が飛んだ。
『祐人だな。わかった』
賢者は、周りを見回しながら簡単にうなずいた。
国主は、彼が一度別れた時のまま、床に這いつくばっている。
紫色の青年は、くずを見るように国主を見下ろして、再び周りを見回した。
『さすが知恵の種。命令は全て実行された』
命を失った人々の心に、天寿を全うした喜びがあるはずも無く。痛み、苦しみ、悲しみ、恨み、疑り、怒り、……安らかさとは程遠い感覚や感情に満ち満ちている。
地も水も毒に満ち、人が口にできる食べ物は無い。
低く小さく、口中で『やり過ぎだ』と言った。
『主上……』
腕に抱いた雪葉が、主を見上げて心配そうにする。
『もう、落としてはいかがでしょうか? 無くしてしまったほうがよろしいのでは……?』
『いや』
賢者は首を振った。
『駄目だ。きっかけは私が作ったのだから。その償いはする』
軽く笑って巫女を見つめ、しかし次に、表情を曇らせた。
『雪葉。私の命令に従ってくれるか?』
巫女は至上の喜びを得たように、笑い返す。
『はい主上。なんなりと』
それに無言のうなずきを返して、紫の賢者は、国主を見下ろした。
冷たく、厳しく。
『祐人よ』
国主は、のろのろと顔を上げた。
返事を待たずに、賢者は言葉を続ける。
『お前はこれから私の物になる。命を取られ、累機衆、という名の私の物になる。お前は、まずは物として、誤りを犯さずに、一生を送ってみせよ』
『るいきしゅう……?』
『何を言っている。累機衆だ。お前は赤子となり、累機衆の長の下で生きるのだ。今の生のようにならなければ、誤らなければ、私はお前に人の命をやろう』
『誤らなければ?』
『誤ったのだろう? 生き方を誤ったからこそ、お前は種に命じて、皆を殺しつくした』
国主は、うなずいた。希望にあふれる花畑の夢を見るように、焦点のぼけた目で。
『そうとも。……だれも、本当の私を見てくれなかった。真の私を。見る目の無い者にはわからんだろうが、真の私とは、素晴らしいのだ』
『では今度こそ、そのように生きてみよ。生きられたら、私はお前に人の命をやろう。そのように生きられた時に、お前は人間になる。そうしたら、この星もやる』
『ほ、ほんとうか?』
『もう壊れ落ちるだけの星だ。命もやる。星もやる。約束する』
紫の賢者は、累機衆を呼んだ。
『来い。累機衆』
黒い衣の集団が、現れた。
『これを衆に召し上げる。長の子として育てろ』
『御意のままに』
紫の賢者は、新殻衛兵を呼んだ。
『来い。新殻衛兵』
白い鎧の集団が、現れた。
『星が崩れかけている。私がした約束が果たされるまで、護れ。知恵の種を置いていく。使え』
『御意のままに』
兵に命じ終わると、紫の賢者は、新殻衛兵の長に目礼した。
『巫女の側にいてくれ』
長は、無言で頭を低く垂れた。
『御意のままに』
紫の賢者は、己が抱き上げている巫女に言った。
『雪葉。ここに残れ』
『はい。主上』
『祐人の隣で共に生きよ』
『はい。主上』
『そして、見極めて、祐人が人に戻れたら私を呼んでくれ』
『はい。主上』
巫女は、主の命を、傷の無い笑みで受けた。
そして、賢者は、白の長と黒の長とに言った。
『巫女を柱に置いていく。雪葉が私の約束のあかしだ。再度命じる。衆は祐人を育てよ。長を除いた兵は、星を護れ。そしてその中で、お前たちは偽りを演じよ。この祐人に、かりそめに生きる世界を作れ。私との約束のために』
『御意のままに』
国主は、賢者の物として生まれ変わる。命を取られ、人でない物に。変幻自在の累機衆へ。
新殻衛兵により、壊れた星は白く変化した。蜃気楼の街が、現れる。
知恵の種は黒い岩の中に入れられ、累機衆により護られた。国主から。
星を舞台に、国主のための約束の世界が、作られた……。
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