三階には、ただ二人しかいなかった。
事務机は十数個あるが、人は二人。
書類は山。どの机の上にも、うず高く。よく使われるらしく、ホコリはかぶっていない。
書籍も山。部屋の四方にある壁の、三方にしつらえられた本棚からもあふれて、床上に、人丈まで積み上げられてさえいた。いくつか倒壊している山もある。
足の踏み場と言えば、出入り口から各々の机に至る細い道。そこ以外は、本の山。
本まみれの、灰色の石造りの部屋。重苦しい雰囲気がただよう。
窓の景色も灰色。
二人の制服は黒。
薄暗い室内。
「俺ァ、今、やることねェんだよなァァ。新しい本も入ってこねえし」
上司の声を、ウヅキは右耳から左耳へ素通りさせて見送った。
そんなはずはないだろう。
そうでなく、「本を作らないために」頑張っているのだから。こうして。
疲れたうつろな目をふらふらと動かせて、窓外を見る。本棚も、窓のところだけは避けて置かれている。
灰色の石の壁にふちどられ、細い雨が降っている。
いつもの風景だ。変わりない。
「ぅあー暇だなア……」
そんなはずはない。
「うーい、ウヅキィ。お前よぉ、売店行ってあめ買って来い」
ウヅキは、上司を見た。
顔を、机上の書類から、左横にある上司の机、上司の書籍の山、上司の黒くて曲がった髪、上司の寝ぼけ顔に移動させて。
「嫌です」
「味か? そうだなリンゴ味で……って、オイ、ざけんな?」
そう言って、上司の消しゴムが飛んできた。
「買ってこいっつったろーが? 何、おとなしく拒否してんだよ?」
ウヅキは消しゴムを右手で受け止めて、
ゴミ箱に捨てた。
すみやかに、上司の右こめかみが青筋を太く浮かせる。
「テメェ……」
ウヅキは彼に皆まで言わせずに遮って、だがその図太さの割にはひどく静かに言う。
「今、忙しいじゃないですか」
上司は「あぁぁァ?」と言った。
「ウヅキィ。お前、俺が『暇だな』っつったとき、何の反論もしなかったろ? ということは、てめえ今暇なんだよ。買ってこい」
「あなたこそ、今、暇なんでしょう? 自分で行ってくださいよ。僕はいそがしいです」
「笑わすなよ。上司よりいそがしい部下がどこの世界にいるよォ? 俺は暇だ。だからお前はもっと暇に決まってるの。ホレ行け」
「嫌です」
今度は、水色をした布張りの厚い本が一冊飛んできた。
ウヅキは、顔に飛んできたそれを右手で受け止めて、表紙を確認すると、
引き出しにしまった。
書籍ではなく、それは上司の日記だった。
上司は顔色を変えた。
「てめえそれ返せよッ!」
「嫌です」
「返せっつってんだろ! このうんこウヅキ!」
ウヅキは、引き出しの鍵を掛けた。
金属製の鍵を二つにねじ切って、ゴミ箱に捨てた。
もう、開かない。
もう一つある主鍵はウヅキが自己管理している。
「あーっ! きったねー! こいつきったねー男ォオ!」
上司は口から唾を飛ばしながら大声をあげた。
「もうお前ッ、最悪っ! 性格うんこ色ッ! ほんと、うんこウヅキだね! いやもう、名前ウヅキじゃなくてウンコ。ウンコでいい。ウンコで決定ね」
ウヅキは、勝手に不名誉な改名をさせた上司をきっぱり無視して、仕事を続けた。
しかしながら、腹の中では上司に対する疑念が渦を巻いていた。
どうして彼は暇なんだろうか? いそがしいはずなのに、今は。自分と同じ状況のはずなのに。いや、彼の方が、精神的に追い詰められているはずなのに。
青年は、一枚の書類を何とか仕上げて、次の書類を手に取る。
今回の事件に関して、機動部への協力要請文書と打合わせ文書と添付資料。
いそがねば。
これ以上、本を増やすわけにはいかないのだ。取り返しが付かなくなる前に、未然に防がねば。
なのに、どうして上司は暇だというのだろうか?
「おいウンコ」
いらいらしながら、ウヅキは一応答えてやる。
「手洗い場所ですか? この部屋の北東の角です。いってらっしゃい。早くすませてください」
紙製の写真入れが飛んできた。手垢まみれの。
ウヅキは、頭めがけて飛んできたそれを左手で受け、右手では文書を書きつつ、上司に聞いた。
「あえて聞きますけど。これは返して欲しいですか?」
あぁー、と、上司は悲壮な声を漏らして、それを見た。
「しまったッ!? オイオイ、つい、手元にあったから投げちまったよ! もー俺の大バカ野郎! だいじな宝物だぞ!? バカバカッ! 最低ッ!」
と、酷く悔しげにひとりごちた。
そして、あせった表情でうなずいて、彼は不承不承言った。
「ううーむ。不本意ながらなァ……今回の件に関しては、『済まなかった』と陳謝の意を率直に表明するものである。それを返せコラ」
ウヅキは、ぎっしり詰まって重い写真入れを上司に投げ返した。
偶然にも、それは顔に当たった。バコ! と、音がした。
「てんめえェぇッ!?」
顔から机へと、それを落としっぱなしにして、上司は怒った。
「すみません。今のは偶然の事故です」
ウヅキは形だけ謝った。
「謝り方に誠意がねえっ!」
上司は叫んで返し、瞳を閉じて、狂おしげに時々首を振りながら、熱弁をふるう。
「もっとっ! もっと、こう、なァお前っ、謝り方ってものはなァ! 『部長様のお大切な物をお返ししやす! ウエァアッ!? 今のはッ事故です! けっしてわざとじゃないんスよッ!? こりゃどうもっ、ホント済んまッせんでしたぁあぁ! 許してくさい!』くらいの、恐れというかさ、後悔とかさ、うやまいの心というかさァ?」
「後で聞きます忙しいので」
「このクソウンコがァ!」
「さっさと行って来てください」
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