部長は、「ケッ、青いガキがよォ」、と、吐き捨てた。
「何、甘っちゃるい寝言ほざいてやがる。現実ってェのはこんなもンなんだよ? 道を外れたら、恐ッェことや、見たくないことで溢れ帰ってんだよォ? お前、人はそういう現実を知って大きくなるンだよ。そこから目ェそらしてっとォ、ぬるい腐れ人間が完成するッてェ結果になる」
「何おっしゃってるんですか。こんなこと、日常で起こったら『非現実』の類ですよ」
「世間をナメて甘えてるガキにゃァな、これっくらいで丁度イい現実なんだよォ。その証拠によ、見ろお前、その小娘、すっかり大人しくなったじゃねェか」
「……」
ウヅキは、取り付いている卯月をそっと離して見た。
そこには、今だけかもしれないが、すっかり険(けん)が取れて、ただ恐がっている女の子が、いた。
卯月は心細そうにまた少し身を震わせると、「ウヅキぃ」と言ってすがりついた。
ウヅキは、
あ、可愛い、と、思ってしまった。
「おォ? 何、赤くなッてンだぁ?」
ニヤニヤ笑いながら、大きなセイシェルがウヅキの顔を横から覗き込んでくる。
「何だお前、え? まんざらでもなさそうじゃァねェか」
ウヅキは、何を言ってるんだこの人は頭がおかしいんじゃないのか? と思いながら、まじまじと部長の顔を見返した。
セイシェルは、ニタリと嗤った。ひどく歪んだ喜びが、顔に出ていた。
何かする気だ、と、ウヅキは経験から察した。
懲罰執行部の青年の左隣で、機動部長は両手をぶんぶん振り回し、両肩をぐるぐる回すと、「いよぉし、いっちょヤッテやっか!」と、まるで何かの準備が完了したような一声を上げた。そして。
「ッワァァァァ!」
また、大声で叫んだ。
「!?」
卯月の背中に両手とも回していたので、ウヅキは耳を塞ぐことができなかった。
最初の「ワ」以降の音は、鼓膜に暴風が吹き込んできたみたいになり、音として知覚できなかった。
ただ、腕の中の卯月が一層小さくなってガタガタ震えだしたのは、わかった。
「なにするんですか!?」
思わず、ウヅキは声を荒げた。まだ聴覚が回復してないので、自分の声自体聞き取れないが。
「もう充分でしょう? 止めてください!」
「やっだよーん」
体はおじさんでも中身は無邪気な子供のように、セイシェルはおちゃらけた返答を寄越すと、次なる行動に出た。
「うわぁ、いやだッ!」
卯月とウヅキを引きはがして、おりの中の卯月にまたもや悲鳴を上げさせ、
「ほーれほれーェ!?」
おろおろしている卯月の直前にて、なんとも形容しがたい変な踊りをおどった。
酔った大猿が、雨乞いをしているような、そんな、妙な踊りを。
……本当におかしいんじゃないのか? この人、と、ウヅキは、心配になった。物とはいえ、頭部を殴られすぎて、ついに壊れたのかもしれない。
「ホーレホレーぇ!?」
「ぎゃーぎゃーぎゃー!」
視覚、聴覚、平衡感覚、色々な手段でもってセイシェルに恐がらせられてきた卯月は、その珍妙な踊りすら、もはや恐怖だった。決して笑えるものではなかった。
「うわーんうわーんッ! ウヅキぃ!」
がくりと腰を抜かし、嫌で変なおやじの向こうにいる青年に手を伸ばして助けを求める。
「ウヅキぃぃ! ウヅキぃぃー!」
「止めてください部長!」
「やだよーんだ。ホーレほれーェ!」
「うわーんっ! やだ恐いよ、恐いよウヅキぃ! 助けてぇ!」
ウヅキは舌打ちをした。
「部長っ!」
セイシェル機動部長と鉄格子の間に、ウヅキは割って入った。背に、卯月をかばって。
「これ以上、卯月を恐がらせるのは止めてください!」
「お?」
それまで、おちゃらけていた部長は、途端、表情を不機嫌に曇らせた。
「おー? なンだテメェ、俺のすることに意見すんのかァ?」
「します」
「テメェ、俺より偉くなったつもりか?」
「いいえ」
「じゃア、どけェェ!」
「嫌です」
「……」
セイシェルは目を大きく見開いて、ウヅキを睨みつけた。
ウヅキは睨むことはせず、ただセイシェルを見返した。
「……」
するとセイシェルはしゃがみこんだ。
「?」
ウヅキは、彼が何のためにそうしたのか、理解できなかった。
部長は、イワベの顔の上でぶちまけられていた弁当箱を取り、油まみれの中身を、手にべちゃべちゃとなすりつけた。
それで何をする気だ? と思って、ウヅキは彼の行動の続きを見守る。何のつもりであるにせよ、ここを退く気はないけれど。
「はいはいはい。まったくよォ。『まんざらでもネェんじゃネェのか』って、聞いてやってんだからヨォ?」
しゃがみこんだままの姿勢で、下を向いて両手をこねくりまわしながら、セイシェルはぶつぶつ言っている。
「素直に『ハイそうです』とかよォ、言えっての。おおー、これだよこの感じだよ。いーい具合になってきたァ」
やおら、部長は立ち上がった。
「はい準備終わりィ! ウヅキどけぇぇェ!」
「!」
叫びながら、ウヅキの体を横へ押しやろうとする。
ウヅキは踏ん張って、卯月の前を死守した。
「嫌です!」
「ホホー! いーい心積もりじゃァねぇかッ! それが返事がわりでいいんだな!」
セイシェルは、ウヅキのすぐ横の鉄格子を両手でつかんだ。
「止めてください何をする気ですか!?」
「さぁなァ?」
「卯月に手を出さないでください!」
「上司に口出しすンじゃねエ!」
セイシェルの手の中で、グググググ、と、鉄格子が悲鳴を上げた。
「……?」
そこで、ウヅキは、おかしいと思った。
彼はどんな形にもなれる「物」だ。卯月に手を出すなら、体を変形させて、とっくにおりの中に入っているはずじゃないか。それなのに、格子をこじ開けたりして。……なんのつもりだ?
そうこうしているうちに鉄格子が曲がった。
人一人通れる隙間ができた。
「ハイできあがりーィ! ハハハー?」
格子を広げきって、セイシェルは、からから笑った。
広がってない格子から、わざと顔を中に突っこんで、首をにゅうと伸ばし、卯月に呼びかけた。
「ほれ。出ろや小娘ェ! きっちり仕置きしたからなァ! もう帰っていいぞ! そんでな」
そこで言葉を切り、セイシェルは、すっと息を吸うと、
「二度と来んなァァッ! わかッたかッ!?」
恫喝(どうかつ)した。
「ぎゃーぎゃー!」
当然のごとく悲鳴が上がった。
「ハハハー! 恐がっとる恐がっとるゥ! おーいウヅキィ、てめェ中入って、ちびってるかもしれん小娘を出したれや」
「あ、はい」
ウヅキは上司の意図を悟った。最初から、彼は卯月を出すつもりだったのだ。ちなみに、油弁当を手に塗っていたのは、格子を広げる際の潤滑油がわりだろう。
ため息だか安堵の息だか、とにかくは胸をなでおろし、中に入りながらウヅキは言った。
「まったく。誤解したじゃないですか。普通の方法があるでしょう? 鍵で開けるとか」
「いーや。お前らもどかしい若人をくっつけたろか、と、思ってねェ? こう、荒療治的な手法をもちいたわけさ。うわぁ、俺っていい上司だろーォ?」
「誰が上司ですか。あなたは、今、機動部長でしょう?」
「兼任兼任。外見が違うだけ。三つを掛け持ってるだけさァ?」
「……もう」
肩を落としたウヅキに、卯月がいざりよってきた。腰が抜けたままなので、立って歩けない。
「ウヅキぃ」
まだまだ恐怖は抜けないらしく、膝を付いた青年の胸に取り付いてくる。
まるで卯月じゃないみたいだ。
ウヅキは苦笑しつつ言って聞かせる。
「大丈夫だよ。セイシェルさんは、もう何もしないから」
「さぁーア? どぉぉおだかネェェェ?!」
せっかく落ち着き始めた所で、またもや、セイシェルが奇矯(ききょう)な声を出した。
「うわぁッ」と言って、卯月がしがみついた。
「部長! ……ほら、本当に大丈夫だから」
ガキ大将のようなセイシェルをいさめて、ウヅキは卯月を離そうとするが、少女は首を振ってくっついてくる。多分、彼を視界に入れたくないのだろう。
鉄格子が間にないので、卯月の体は、ひどく柔らかに感じられた。いや、気のせいや比較ではなくて、実際に肉付きが良くなっていきている。民間の「恵まれない人を支援する組織」から食料をもらえるらしく、以前のようなやせっぽちではない。
これは女の子の柔らかさだ。
青年男子であるウヅキは、そこまでだかそれ以上までだか考えてしまい、「うわ」と思ってしまった。
「オォ!? 何、チョット赤くなッてんのよォォ!? ウヅキくゥーん?」
目聡く突っこんでくる元上司に、苦くて荒い声で応じた。
「もう、黙っててくださいよ! さあ卯月、家に帰ろう? 送っていくから」
卯月は、またもや首を振る。がっちりとしがみついたままで。
「家無い。適当に帰るからいい」
涙でくぐもった小さな声がウヅキの腕の中から漏れ出た。
それを聞いて、ニタリ、と、上司が笑った。まただ。
「ヒヒヒヒィー! お前、家無し子かァァァ!? よォォしッ! 今晩化けて出たろォォ! お前が寝てる場所に化けて出てきたろぉぉ! どーんなバケモンがいいかなァァ!? すっげえこわいのにしよっとォ!」
びくびくっと体を震わせて、卯月が声を上げる。
「やだッ、やだ。わーん!」
しつこい人だな、と、ウヅキは、悪ノリする男をいさめる。
「部長。だんだん犯罪めいてきてますよ? 本当に止めてください」
セイシェルは腰をかがめて、わざと、卯月の耳元付近で、おどろおどろしい声色で言う。
「首のながぁぁぁい変な顔のがいいッかなァァ!? それともォ? 目ぇが六つで口ぃが五つある、でーっかいおっさんがイイかなァァァァ!?」
卯月が悲鳴を上げた。
「いやだぁぁっ!」
「部長!」
ガド、と、音がした。重苦しい響きだった。
ウヅキがげんこつを振るっていた。
セイシェル機動部長の黒い剛毛頭に。
「……」
口を半開きにして、部長はウヅキを見上げた。驚きのあまり、表情もなく。
殺気だった表情で、ウヅキは叫んだ。
「それ以上言うと、二人に日記見せますよ!?」
二人に日記見せますよ。
誰と誰に、とは言わなかったが。
どういうわけかその言葉によって、セイシェルの勢いはみるみる衰えた。
大きな口から「何を言うんだよぉぉ」という、嘆き声が漏れた。
「ぁぁあ……」
それまで、彼は、ウヅキの腕でおびえていた卯月に向かって、中腰でさんざんおどけていたのに、しおしおと床にへたりこんだ。
代わって、頭頂部には大きなたんこぶが盛り上がってきた。
「ぁぁぁあ……」
セイシェルは、まるで「いきなり退職勧告を受けた、育ち盛りの子供がいるお父さん」のように、言葉も無く呆然と、ウヅキを見上げた。
ウヅキは、げんこつを作った右手のままで、上司をきっと睨んでいる。
「もう、止めますよね?」
そう聞いた。いや、確認した。
上司は、縮こまって頭を下げた。座り込んでのその動作は、土下座そのものだった。
「申し訳ありませんでした。どうか勘弁ください」
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