万の物語/三万ヒット目/人質は三万〜誕生日の贈り物〜

人質は三万〜誕生日の贈り物〜

すぎな之助(旧:歌帖楓月)


 誰もいない、それはひどい雨の夜だった。街の中を流れる川が増水して堤防が決壊し、大変な被害がでていた。でも、うちは大丈夫。街を見下ろす高台にあるから。水は襲ってこない。
 父さんはお仕事。母さんは仕事。兄さんは、もうこの家にいない。
 外は大雨。ドウドウと、低い雨音が窓を叩く。
 わたしは、その部屋の前を通り過ぎるところだった。いつも近寄らないそこは、二階の北の奥にあって、植物園から見上げられる、黒い窓が一つあった。黒塗りの窓。わたしが生まれてから一回も見たことの無い風景を閉じ込めている。
 わたしはその部屋に面した通路の一番奥、行き止まりの壁にある窓に用があった。
 ひどい雨に打たれる、植物園の硝子の壁が見たかった、から。
「あなたは、……ミマちゃんなの?」
 その部屋から出てきた女の人は、わたしを見て、わらった。
 すごくおどろいた。
 その部屋の扉が開くことと、人がいたことにおどろいた。母とあたしにそっくりな顔をしてるのにも、おどろいた。
 そして、もう一つおどろいたことがあった。
 わたし、そんな笑顔、つくったことない。
 その人は、蒼い顔をしてそっとわらいかけた。
 ……悲しそうな人だと思った。わたしはこの人みたいな花を知っている。雨に濡れる桔梗の花。それは庭に咲いている。母さんが隠れて育ててる。植物園でなくて、外で。……へんな母さん。
 そして、そこまで考えてから、わたしはようやく思い出した。
 恐ろしいものがあるからこの部屋には入ってはいけない、と、母と約束したことを。ずっと昔。小さなころに。
 嘘つきだ。母さんは。
 なんだ恐くないじゃない、と、わたしは思った。
 母さんのやりくちが嫌いだったから、わざとそう思った。
 腹の中では何を考えているか知れない、あの、ただただ優しいばかりの微笑みが、大嫌いだったから。おしとやかなうさんくささが、大嫌いだったから。
「そうよ。わたしはミマ」
 でも、母さんの笑顔は、今やわたしに写っていた。
 だからわたしは、その人に、母みたいに笑いかけるしかなかった。そうして、わたしはすごく嫌な気分になった。
 女の人は、それなのに、……ひどく嬉しそうに、笑ってくれた。
「よかった。あなたは幸せなのね」
「あなたは、どなたですか?」
 この決して取れなくなった笑顔をどうにかしたいと思いながら、わたしはたずねた。
「私? 私はね、あなたの……」
 そこまで言うと、その人は、周囲を見回した。
「今日はおかしいのね。誰もいないの? 扉が、開いたままなのに」
 ええ、と、私は思いっきりうなずく。
「いません。多分、二、三日はいません。今、外では水害が起こってて大変なんです。それで、父も母も、仕事に出て行きました。父は公安。母は恵まれない人を助けるのが仕事です。こんな時にこそ必要な人たちだもの。帰ってこられるわけありません」
 わたしは、この人と仲良くなろう、と、思った。
 それは、ただ優しいばかりで本心を見せない母への反抗のつもり、だった。母とした、訳のわからない約束を強制されることに、もううんざりしていたから。
 禁忌の部屋から出てきた、私にはできない顔ができるこの人と、悲しそうなこの人と仲良くなろうと思った。
 それが母への反抗だった。
 わたしは笑う。
「誰もいませんよ。そうだわ……一緒にお茶でもいかがですか?」
 わたしは、父の蒼い花と出会った。
 そして、父の素顔を知った。


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