万の物語/三万ヒット目/人質は三万〜誕生日の贈り物〜

人質は三万〜誕生日の贈り物〜

すぎな之助(旧:歌帖楓月)


53

 マサヤ、姉さんを連れてきて、と、母は小さな声で頼んだ。
「はい母さん」
 夫人が話すかたわらに立っていた息子が応じて、部屋の隅にうずくまっていた女の方へ歩いていった。
 ウヅキは、その時初めて彼女の存在を知った。
 今の今まで、ミマの友人たちが立ちふさがり、「まるで隠されるようにして」部屋の角に座り込んでいたからだった。
「サヨ姉さん、」
 マサヤが、長女に声をかけた。
 ぼろぼろで、汚れた蒼いドレスを着た女が、それまでうつむいていた顔を上げた。
 彼女は、夫人とミマによく似た顔をしていた。
「……父、さん?」
 サヨは弟の姿を見るや顔を青くした。息子の顔は、父に似ていた。
 マサヤは、おろおろと首を振った。
「ち、違うよ。姉さん、マサヤだよ? おぼえてない? あなたの弟だよ? ほら? ほら?」
「……マサヤ?」
 サヨは、首をかしげた。
「グズのマサヤ?」
「うんっ!」
 弟は、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「そうだよっ? 小さい頃、あなたにいじめられてた、マサヤだよ? ぼく、大きくなったでしょう?」
 姉の前に膝をついて、弟は、気弱げに微笑んだ。
「姉さん、迎えに来たよ。僕。たすけにきたんだ?」
 えへへ、と、頼りなげな笑顔を、姉に向けた。
 父とはまるで違う、微笑みだった。
「あのね? あのね? 僕、姉さんの大好きなお菓子、作れるようになったよ? おやつ全部あげるからさ? えっとね、お勉強も、できるようになったんだよ?」
 いじめっこの姉に、自分を精一杯立派に見せるように、弟は、けなげに言った。
「だからね? あのね? あの、あの、僕、姉さんをもうイライラさせたり……しないから、だから、あの、ここを出て……一緒に暮らそう? だ、だめ?」
「……」
 それまで、おびえた様子で、弟を、父によく似た顔の弟を見ていたサヨは、こっけいなほどに情けないその物言いと振る舞いに、思わず、苦笑を浮かべた。
「グズマサヤ」
 幼き日の、まだ地獄を知らなかった幼き日の思い出がよみがえる。
「『グーズのマサヤ』。ぜんぜん治ってないじゃないの。あんたはほんとにグズのまんま」
「え、えへ……」
 弟は、恥ずかしそうに、顔をうつむけた。
「あの、あの、ねえ、一緒に、暮らしてくれる? 姉さん?」
「……」
 まるで、開かない扉が開いたのを見たように、
 サヨは、まぶしそうに、弟を見た。
 弟は発破をかけたくなるほど情けない顔をして、サヨを見つめ続ける。駄目って言われるんじゃないかと、びくびくしながら。
「しかたないわねーェ?」
 姉は、かつての「いじめっこ」だった時のように、尊大な笑顔を作って、答えた。やせた体から発せられる声は、決して大きくなかったが。
「『グズのマサヤ』と暮らしてやるか」
「……うんっ!」
 生臭い部屋。暗かった部屋。
 弟は、なえて動かなくなってしまった姉の足を気遣い、その細い哀れな体を大切そうに抱き上げた。
「姉さん、」
 やせて骨ばった酷い父とは違う、すらりとたくましい優しい弟は、姉に微笑みかける。姉がおびえない「グズのマサヤ」の笑顔で。
「これから、『お池のご恩』を返していくからね?」
 それは、かつて、幸せだったころのできごと。
「……あ、」
 姉は、ようやくそれを思い出すと、涙を落として笑った。
「まだ覚えてたのかよ。しかたねえな、もう」


←戻る次へ→

万の物語 作品紹介へ inserted by FC2 system