「お帰りなさいまッせー!」
館が深夜を迎えてから、北の賢者は戻ってきた。
華やかな笑顔で出迎えたのはセイシェル。一人だった。
雪葉は眠っている。
そうとわかっているからこそ帰ってきたのだ。
眠りを促す紫水晶の炎が、良く効いている。
「雪葉は?」
なのに確認せずにはいられない。
「良く眠っておりますよ?」
アタシ、子守歌を唄ってあげましたの! と、セイシェルははしゃいだ。
「雪葉ちゃんとアタシ、すっかり仲良しですわー! 主上、どうぞご安心くださいませ! 私きちんとお世話しておりますわ!」
「それはよかった」
心の底から、しかし同時に上の空で、賢者は返事をした。
「見に行って良いか? 起こしはしない」
「はぁい、よろこんでー!」
セイシェルは、口ではご機嫌に応じながらも、内心では主の奇行に首を傾げていた。
主上のお客様なのに、どうして会おうとしないのかしら? なんで、こんなに持って回ったコトをなさっているの!? 雪葉ちゃんのコト、ホントにわたくしにお任せでいいのかしら? ウウン、セイシェルはどうしたらいいの? いやん、ひょっとして、主上は、部下としてのアタシの能力を試してらっしゃるのッ?
渦巻く疑問に溺れそうになりながらも、セイシェルは取りあえず満面の笑みで、主を雪葉がいる部屋へと先導した。
しかし、彼女はどうにも居心地が悪かった。
主から信用されていない気がする。
アタシどうしたらいいの? こんな時、どうしたら? ん? こんな時……?
こんな時ですって?
あらぁ? そういえば! そうだったわ。そうよ!
セイシェルは、はたとあることに気付いた。
くるりと振り向いて、主に確認してみた。
「そういえば、主上、お館にお客様が逗留されるなんて、初めてではないでしょうか?」
今まで、人はもちろんのこと、賢者ですら、ここで過ごしたものはいない。
インテリジェは、気持ちがひとかけらもこもっていない返事を寄越した。
「さあな。覚えてない」
「!」
インテリジェの投げやりな態度に、セイシェルの表情は、意外にも輝いた。
これよォ! これこそ主上よ!
セイシェルは大いに安心した。
今のでホッとしたわあ! そうよゥ、主上はこのようでなくては! もうッ、今までの奥歯にモノのはさまったような言い方なんて、主上じゃない、主上じゃないわっ! ああん、きっとなにか悪い物でも召し上がられたんだわ! 出すもの出したらッ、きっと、きっと元に戻られるわ! イヤンよかった、アタシ、信用されてないわけじゃないのね! 食当たりなのねッ!?
一部で思考が飛躍したものの、セイシェルは心配が吹き飛んで、足取りが途端にいきいきとなった。しかし同時に、こんなドキドキ不安なのも、スキ、と思っていた。
「主上っ、雪葉ちゃんはよーくお休みですから、ささ、どうぞどうぞ、たんとお入りになってくださいましね!?」
インテリジェの不審な言動に毒され、セイシェルの言葉遣いもさらにおかしくなる。そんな機嫌だけが良い変な言葉と共にいそいそと開かれた扉を、インテリジェは表情無く通った。
「セイシェル、二人にさせてくれ」
「ハッァーイ!」
暗い部屋。
北向きの窓際にしつらえられた寝台。
漆黒の髪。
閉ざされた瞳。
眠る、言霊の娘。
「雪葉っ……」
焦がれる心に突き動かされ、インテリジェは小さく叫んで駆け寄った。
安らかに眠る雪葉の、上体を抱きしめた。頬を寄せる。涙で濡れていた。
可哀想に、淋しかったのだろう。
やるせない想いで一杯になった。
「すまない雪葉。待たせた、」
耳もとにささやいて、紫の賢者は娘を顔を間近に見つめる。
長いまつげが震え、唇から小さな吐息がもれて、黒曜石の瞳がわずかに開いた。
同時に、身を離したインテリジェの手の中に紫水晶が現われる、それは速やかに細かく砕け、炎を上げる。
雪葉の瞳は閉ざされ、再び眠りの底に落ちた。
インテリジェはそれを確認したうえで、改めて抱き寄せた。
見つめ合えば、私は雪葉に、よりとらわれてしまう。
こうして、身さえ触れ合えばいい。そうすれば、雪葉は私の事象を受け入れて流す。彼女は充足する。それで心の疲労が快復していく。
陽が東の空を明らめるまで、北の賢者はそうして過ごした。
どうして、会えないのだろう?
朝、目が覚めると、わたしの中の嵐は消えている。そばに、あの方が居た気配の名残が感じられて。
そこから、また、飢えが始まるのだ。
北の賢者にお会いしたい。
この目で彼を見たい。
神の事象を受け入れたい。
……インテリジェ様、どうして、会ってしてくださらないの?
紫の賢者様。
寂しさが、胸を冷やす。
そして募った想いは……朝には消えていて。
また、飢えが始まるのだ。
会えないままに。
「主上、いってらっしゃいまッせー!」
「主上、お帰りなさいまッせー!」
早朝と深夜、セイシェルの見送りと出迎えの挨拶を、それぞれ四度聞いた。
五度目の、夜明け。
雪葉の部屋を出てきたインテリジェが、すぐに目にしたのは、床に座し礼をして控えているセイシェルだった。
「主上」
彼女が深く頭を垂れ顔を伏せているので、主には金の波打つ髪の流れが見えるのみだが。
昨日の深夜までは上機嫌だった彼女の声は、沈んでいた。きっと笑ってはいないだろう。
「主上、恐れながら、申し上げます」
「……なんだ?」
応じるインテリジェはというと、こちらはぞっとするような不機嫌になっている。
早くここから離れたいと思っていたからだった。
たかが四日で、自制心が底をつくとは思っていなかった。
雪葉を己の物にしたい。
部屋へ戻りたい衝動と戦いながら、インテリジェは無表情で歩み出す。
「早く申せ」
歩き始めた主に、セイシェルはぎょっとして顔を上げると、自分も立ち上がって後を追った。
どうして止まって話を聞いてくださらないのォ!? 歩かないでいただきたいわぁ。しかも早足ですって!?
と、内心では泡を食いながら、それでも声はしおらしく仕上げた。
「はい、申し上げます。主上、どうか雪葉ちゃんと会ってくださいませんか?」
「毎夜会っている」
「わたくしの言葉が足りませんでした。目を覚ましている雪葉ちゃんと会ってやっては下さいませんか?」
「……」
振り返った主の表情には、殺気が漂っていた。
「!」
ひいッ。
セイシェルは恐れてかしこまった。
「申し訳ございません、失礼いたしました。出すぎた口を、」
「ならん」
持ち物の謝罪と、主の断りが同時だった。
そして意外にも、賢者の言葉には続きがあった。
「白柳からの預かりものだ。無体な真似はできん」
「ハ?」
無体……?
無体って、一体、なんの話なのん? と、セイシェルは思った。どうにも、主の真意が測れない。
「雪葉ちゃんの目が覚めている時に会うことと、長に、何か関係がございますの?」
「雪葉は白柳の娘だ」
「はい」
「それゆえだ」
そこで解答は終わった。
彼は、もはや口を開こうとしない。
「?」
セイシェルは、困惑という名の袋小路に追い込まれて立ち往生した。
それゆえ? それゆえ、……なんなのん? その次にどんな言葉が隠されているのん? ああん、主上、アタシには全く訳がわかりませんわ?
「ではな」
話を一方的に切り上げて、主は出かけようとする。
「あァッ! いやァーんッ! 待ってくださいませ、主上ーッ!」
行ってしまう。
「お待ちくださいませ主上ッ!」
セイシェルは、もはやなりふり構っていられなかった。
立ち上がり猛追する。
主の薄紫の衣のすそに、はっしとすがり付いた。
「待ってエェ!」
「!?」
さすがの北の賢者も、驚いた。所有物が主の行動を制するとは。
「何をする!?」
新殻衛兵の女は、その兵たる腕力にものを言わせて、去ろうとする賢者の衣のすそをつかんでぐいぐいと引き止め、涙ながらに叫んだ。
「ああお願いです聞いてッ、聞いてくださいませー! 雪葉ちゃんが一日中泣きどおしなんですよう! 『インテリジェ様に会わせてくださいませ』って小さな声で、うああ可哀想にさめざめ泣きながら! お願いします! どうぞ一目、お会いになってくださいませ! ンもう、アタシ、アタシ、アレを見ていたらもう、アタシ悲しいわァーッ!」
セイシェルが感極まって泣き出した。鼻水も垂らした。
「ああーん! 若い娘が悲しむのは見たくないんですよぅアタシィィー! 娘がっ、娘が泣くのはイヤアァ!」
「引くな離せ」
インテリジェは不機嫌につぶやくと、セイシェルから衣を引き戻した。
「主上ーッ! お会いくださいお願いですようー!」
「……」
賢者は言葉に詰まった。
できん、と答えねばならない。なにがなんでも。事情が事情ゆえに。
「そんなに悲しんでいたのか? 会いたいと?」
しかし口にしたのは落ち着きを失った確認の言葉で。
「ハイィィ! そッれはもうアタシがいたたまれなくなるほどにでございますようッ! ああああー! オイシイ食事も喉を通らないくらいでございますよう!」
訴えるセイシェルに、会うわけにはいかん、と、主は答えるべきところだった。是が非でも。
しかし、
紫の賢者は一言も口にすることなく、雪葉の部屋へと駆けていた。
「雪葉っ!」
扉を開けるのももどかしく、紫の賢者は部屋に入った。
「……?」
紫水晶の炎による眠りが解けつつある雪葉は、かすかに目を開けた。
「雪葉!」
まだ夢うつつにある娘を抱き寄せると、その漆黒の髪に頬ずりした。
「……インテリジェ、様?」
黒曜石の瞳が開かれた。
自分を抱きしめる力をはっきりと感じ、雪葉は目を開けた。
賢者がいた。
自分の瞳が、賢者を見ていた。
「インテリジェ様?」
紫の、神の事象。
「インテリジェ様!」
「雪葉!」
賢者は言霊の娘の名を呼ぶと、思う様抱きしめた。
名を呼ばれて心地よさそうに目を細めた娘は、しかし、抱かれる力の強さに息を詰めて、小さく悲鳴を上げた。
紫の青年はハッとして腕をゆるめた。
「すまない、」
インテリジェが、心から悔いた謝罪の言葉を、雪葉にささやいた。
生きている女に触れたことがしばらくなかったので、感情がたかぶると力の加減を忘れてしまう。彼にとってのしばらく、とは、生き物にとってのそれとは期間の長さが違うが。
「痛かったか? 可哀想なことをした」
雪葉は労わりの言葉に小さく首を横に振って、「いいえ」と、かすかな声を賢者の耳に届けた。
娘の返事を聞きながら、インテリジェは、強く抱き寄せられた雪葉のきゃしゃな二の腕や背をそっとさする。
雪葉は、目の前に待ち焦がれた北の賢者がいるのを、夢見心地で見上げている。
紫水晶のような瞳。
彼の目に引き寄せられるように、雪葉はインテリジェにすがった。両肩に手を添えて、紫の瞳に陶然と見入って。
それは賢者も同じだった。
時を止めたように、二人はお互いの瞳を見合った。
雪葉は、賢者の紫の瞳から自分に流れ入る「神の事象」に、身も心も溶かされた。
インテリジェは、言霊の娘が漆黒の瞳を通して全てを受け入れてくれる震えるほどの快感に、我を忘れた。
白く小さな顔に掛かる黒髪を指で後ろへ流しやる。そうして両頬を両手で包み、賢者は娘へと顔を傾ける。
しかし、雪葉は不思議そうな顔で瞳を瞬かせ、紫の青年を見上げるだけだった。彼が望んだ想いの熱は潜んではいなかった。
……ああ、まだ子供だ。
インテリジェは言霊の娘のことをそう認識すると、その後の行為を諦めた。同時に、想いが、賢者の心に淡雪のように甘く苦く積もった。
「私に会いたかったか?」
「はい。とても」
代わりに、言葉を交わした。
己が瞳に賢者だけを映して、雪葉はうっとりとうなずいた。その答えと表情とにほだされ、青年は素直な気持ちを口にする。
「私も同じだ。雪葉に会いたかった」
意外な言葉を聞いて、黒い瞳を曇らせた娘は、ものいいたげな表情になった。
「嘘を申していると、思うか?」
愛しげな苦笑を浮かべて北の賢者が確認すると、思ったとおり、娘がうなずいて寄越した。
「はい。それならば、どうして今までお会いくださらなかったのでしょう?」
切なげに瞳を細めて、賢者が首を振る。そうではない、と。
「会いたくないはずがない。逆だ。このようになるからだ。そなたしか見たくなくなる。そなたの瞳に囚われてしまうからだ」
「……神がそのようでは、いけないのですか?」
「私は神ではない」
もどかしげに首を振り、インテリジェは雪葉の頭に手を添えて、さらに近くに寄せる。
「では、賢者様、」
「それは人が付けた名称だ。私ではない」
「では、……インテリジェ様」
言霊の娘が神を呼ぶ。
「雪葉、」
神の事象が娘を呼ぶ。
見つめあう。それだけで、何もいらない。
何もいらない、今は。
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