「まーあ、なんだかよくわからないけれど、仲良くなってよかったわ! ウフ」
セイシェルは首をひねりひねり、それでも言葉の終わりを微笑でしめくくり、館の扉を開けて外へ出た。
まるで人のように自分の足で歩いて、新殻衛兵の女は、主と客とを追った。
二人が荒野を散策しているのだ。
セイシェルの頭には、昨日おきた出来事が、まだ未消化のまま残っていた。
なんとしてもすっきりしないワ。
昨日。夜明け前に主上が館を出ようとしたのだ。セイシェルはそれを引きとめ「雪葉が会いたがっている」と申し伝えた。主上は不機嫌な受け答えの後にいきなり部屋に駆け戻り……
戻って、その後どうなったのかしら?
セイシェルは口をへの字に曲げる。
「状況が急変しちゃったのよねェ。その後はああしてべったりくっついてる。主上と雪葉ちゃんの仲が良いのは、イイんだけど。だけどぅ……納得できないのよねェ? ああん不思議不思議ん」
夜が明けて、外を舞うのは白い小雪で、それは灰の空から落ちるのだと目に見えるようになったころ。二人は部屋から出てきたのだ、あんなふうにくっついて。
一体何があったの? と、セイシェルは思いをめぐらせる。
どうすれば「一目も会わない」から「始終寄り添いあう」に変わることができるのか?
想像もつかない。
なにより、主上の性格の豹変ぶりが、セイシェルには信じられない。あんな素直で率直な優しさなど、いまだかつて見たことも聞いたこともない。そう、いまだかつて、だ。
あの方は本当に本当に私の主上だろうか? まるきり「似てない」全然「似てない」偽者なのではないかと、疑うほどに。
なぜなら、インテリジェは至福の笑みを浮かべて、優しさに満ち満ちた仕草で雪葉の肩を抱いて、荒野を導いていくのだから。
この地の風景について話をした雪葉を、インテリジェは外へ連れ出していた。冷たい空気から娘を守るべく、その肩を抱き己が長衣の袖に包んで、ゆったりと歩く。
「ここは北の果てで……この先にはもう何も無いと思っていました。本当は、もっと北があるのですね?」
言霊の娘は、荒野を瞳で受け入れて、雪の結晶のような可憐な声で問う。
賢者はうなずいて、雪葉の瞳を見つめた。
「ああ。このまま北に歩けば、やがて南の果てにつく。北の都よりも、南の果ての方が距離はずっと近い」
「……それでは、南の賢者様のお館が?」
「そうだ」
「もしや、東西の賢者様方のお館も近くに? 四方の果ては、お互いに近しいものですの?」
「そうだ。見たいか?」
三方の賢者たちと彼らの巫女たちの「関係」を思い浮かべ、北の賢者は「南以外なら連れて行くが?」と、つけ加えた。
娘はそっと首を振った。
「いいえ、恐れ多うございますから」
おとなしい返答を、インテリジェは静かな表情で受けた。
しかし、次に口を開いた時、彼の口元には愛しい娘をからかう笑みが、かすかに浮かんでいた。
「では、私は? 私のことは恐れ多くはなかったのか? どう思った?」
「インテリジェ様には……」
大人の駆け引きを知らない雪葉は、素直に質問を聞くと、それまでやや伏せていた瞳を上げて、じっと賢者を見つめた。
「一目、お会いしたかったのです。生きているうちに一目、……そして、あなたの言葉を聞きたかった。私が生きていく理由をご存知なら、教えていただきたかったのです」
連なる言葉は、徐々に熱を帯びた。雪葉の頬が、茜色に上気した。
心から純な言葉を聞いて、インテリジェは、それまでしていた、からかいの笑みを消した。
「インテリジェ様が私の名を呼んでくださった時、そして、貴方を見たとき、私は初めて満ち足りた気持ちになりました」
「雪葉、」
自分の方こそ娘の言葉に惹かれ、賢者は思わず声をもらした。
言霊の娘にとって、たしかに神の事象は己を満たすもの。
それは事実。
だが、雪葉が自分に寄越す言の葉の、何と甘美なこと。事実それ自体に心象はないが、雪葉が自分の耳に届ければ、それはからめとられるような目眩を覚えるほどの、
「その時に見えた生と死の境目。わたしは、ずっとそこに居たいと、インテリジェ様をずっと見ていたいと、思いました」
まるで、自分を巫女にと願うような言葉だった。
巫女という物の存在を、雪葉は知らない。それなのに。
己が物にしたい。
北の賢者が、今までに、こうも心底から何かを欲したことなど、なかった。
しかしすぐに、その思いを封じた。
巫女に召し上げて常に側に置いて、星を巡り、愛を語り、心も体も一つに溶け合わせて、
……それで?
賢者の心に、荒野の風が吹き抜けた。
それでなんとする?
「インテリジェ様?」
表情を消した北の賢者を、雪葉は見上げた。
「どうなさいました?」
「いや、」
インテリジェは、雪葉から視線を外した。
そうして、北へと目を転じる。
欲求は常に胸にある。
だが同時に、この荒野と同じ想いも、
それで、なんとする? と。
……なんともならない、と。
生と死は等価。
有と無も等価。
時も空も等価。
ならば、なんともならない。
全ては変化するが、全ては変わらない。
全て異なるがゆえに、全て同じもの。
「それが神の事象ですか?」
雪葉の声、「言霊の娘」の声が、すっと耳に入り込んだ。
「―――!」
インテリジェは、目を見開いた。
「雪葉?」
娘は賢者を見ていた。
賢者は彼女を見ることができず、荒野に目をやった。今、彼女を、彼女の瞳を見てしまっては、
「神の事象だと?」
問い返したインテリジェに、雪葉はうなずいた。
「はい」
「神などどこにもいない」
「いいえ、」
雪葉は、儚く首を振った。
「いいえ、私の目の前にいらっしゃいます」
インテリジェは確と首を振った。
「私は神ではない」
そして、表情を殺して聞いた。
「私に何を見た? 言霊の娘」
今度は、雪葉が表情を消した。
「……私は、」
「私から何を受け入れた?」
やはり神の事象でした、と、答えようとした唇が、塞がれた。
「ぅえ!? 主上!?」
十歩ほど離れて従っていたセイシェルが頓狂な声を上げた。
今の今まで仲良く寄り添って歩いていた主と娘が、だんだん無表情になってアラ喧嘩? どうしてなのん? と思ったら、
ああなった。
「主上ッ……少女趣味でしたの?! って今はそんなこと言ってる場合じゃないわっ! 主上ッいずこへー!?」
インテリジェと雪葉の姿が、消えていた。
「どこにイッちゃったのォ!?」
抵抗しようともしない、華奢な、女の性へと仄かに色づき始めた娘の体。
娘を部屋の寝台に押し沈めて、北の賢者は、思う様、燃える恋情のままに、唇を奪った。
爪の先ほど残った理性により、どうにかインテリジェは雪葉から身を起こした。
「……すまぬ。無体な真似をした」
「いいえ」
雪葉は、怯えた様子も驚いた顔せずに、先ほどと同じように、インテリジェを見上げていた。初雪を降らせるべく静かに大地を見下ろす冬雲のようだった。
「インテリジェ様、」
賢者は、言霊の娘から目を逸らしていた。雪葉の呼びかけにも、言葉だけでしか応じられなかった。
瞳を見たら、もはや何をするかわかったものではない。いや、思うとおりのことを、するに違いない。
「なんだ?」
「私を見てください」
「……」
無言で、インテリジェは首を振った。
「どうしてでしょう?」
娘の声音が沈んだ。
「どうして私を見てくださらないのでしょう?」
「歯止めが、」
返答は、素直なほどに心に浮かんだそのまま表された。
「歯止めが利かなくなる。そなたに惹かれて止まない。言霊の娘、」
インテリジェは苦痛をこらえるかのようにきつく瞳を閉ざし、雪葉の瞳の上に左手を掛けて隠した。
「そなたは人の子だ」
「人は、……貴方に惹かれてはなりませんの?」
「それは構わぬ、」
「インテリジェ様をお慕い申し上げております。私は、」
娘から甘い思慕を吐露され、震えを覚えた。喜びに。けれど、浮かぶ表情は苦悩そのものだった。
「私が人に惹かれてはならないのだ」
「どうしてでしょう?」
瞳を隠す賢者の手を退けようと、雪葉が両の手をそっと添えた。動きは楚々としていたが、潜む決意は固かった。
インテリジェはそれら二つ共を右の手でつかんで離し、くらりと酔わされたように上気し、再び唇を重ねた。雪葉の瞳を隠したそのままで。
「神隠しをするわけにはいかない」
言葉と、想いと行動は、裏腹なものになった。そのどちらをも心が願っていた。
愛撫を知らぬ無垢な唇に触れて、愛しみ、雪葉に艶をつけていく。娘を女に変えていく。新雪を深雪に、
雪葉から初めての溺れた吐息が漏れた。唇が離され、雪葉は「神隠し……?」と、問う。喘ぐ体は、より頼りなげにインテリジェにすがって。
「神隠しとは、なんですか?」
「人を、」
インテリジェが狂おしく雪葉を抱きすくめる。
黒い瞳を見ないように、深く胸に抱きいれて、
「この世から……人の生きる世から離すのだ」
賢者と人の子の周りから、世界が消えた。
代わりに色が現れた。
薄紫の、雪葉を眠りにいざなったのと同じ、紫水晶の色が。
「そうして空間も時間も違えたところへ隠して、」
抱く力を少し弱める。少しの動きが許されるようになった雪葉が、インテリジェを見上げた。
紫色の青年は、あふれる愛おしさにその瞳を細めた。
「仮初めに、人を、私と同じ存在へ召し上げる。このようにな」
言霊の娘が受け入れる快楽。
神の事象が身を流れる充足。
見つめ合う瞳。互いが互いの存在に、心を溶かした。
「それは、いつか終わるのですか?」
「いつか、な」
「神隠しに遭ったものは、また人の世界に戻されるのですか?」
「そうだ」
「それならば、」
雪葉はインテリジェの首に手を回した。悲壮な黒曜の瞳で、賢者の揺れる紫の瞳をのぞきこんだ。淵に身を投げるような思いつめた表情で。
「どうかここで終わらせてください。私を、」
「雪葉、」
「お願いです」
「ならん」
「インテリジェ様のお側にいたいのです、いつか終わるのならば、今ここで私を終わらせてくださいませ」
「駄目だ」
「なぜですか?」
絶望の色に染まり悲嘆の涙を浮かべた雪葉を、インテリジェはかき抱いた。
「私が耐えられないからだ」
心に吹き荒れる甘く苦くやるせない感情になぶられるまま、賢者は言霊の娘の頬を包んで焦がれた瞳を注いだ。
「雪葉が無くなることに、私は耐えられない。……それならば、いっそ」
……いっそ
己が物に召し上げて
私が有る限り側に……
インテリジェは首を振った。
口にするものか、と。
まだ子供だ。娘だ。物にするのは、残酷に過ぎる。
何も言わぬインテリジェに、雪葉は乞う。
「では、私をあなたの物にしてくださいませんか?」
「―――」
賢者は言葉を失った。
どうして同じことを望む? 私と。
「インテリジェ様、」
「駄目だ」
「……私は、衆や兵になる資質がありません。ですが、あなたのお側にいたいのです」
「どちらにもするものか」
本心から、インテリジェは拒否した。
お前の全てを変えて、私の巫女にしたいのだ、私は。
何よりも近く、私の側に有る物に。
「雪葉、」
返事をさせないように深い口付けを交わして、酩酊させて、
「家に帰す。お前を」
賢者の言葉と、想いと行動は、裏腹なものになった。そのどちらをも心が願っていた。
「インテリジェ様、」
雪葉は、そうして、神隠しに逢った。
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