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五万時空の神隠し〜言霊の娘〜

すぎな之助(旧:歌帖楓月)


13

 薄紫の衣の右袖に、長い黒髪が一筋、残っていた。
 北の賢者はそれを手に取り、愁えた瞳でじっと見つめ、口に含んだ。
 館から出て、北の果てを見ていた。果ての向こうにある南を。目ではそちらを見ているが、さて想いの方はというと、常に、強く、愛しき娘の方角に向かっていたのだが。
 たずねに行こうと思っていた。南の賢者を。彼ではなく、その側にいる物を。むしろ、彼には会いたくない。
 インテリジェは紅い賢者を思い浮かべて、不快気に目を細めた。なぜ奴はいつもいつもヘラヘラ笑っていられるのだと。血がつながっているとはいえ、祖母とはいえ、彼が巫女星華は「言霊の娘」であったのに。どうして笑っていられる? ああそれはいい。今、用があるのは奴の巫女の方になのだから。
 星華に用がある。かつて「言霊の娘」であった巫女に。
 しかし紅い彼らは、紫の賢者が行くまでもなく、みずからやってきた。

「げー。何食べてんだ?」
 彼の館に前触れなく押しかけてきた南の賢者ノウリジは、指とそれに絡めた黒髪を口に入れたインテリジェを見るや、その不可思議な行動に眉を寄せた。そして、心に浮かんだことをあっけらかんと口にした。
「何? あ、髪の毛だな? 口に入れるもんじゃないだろ? 気持ち悪。何やってんだ? 腹壊すぞ?」
「お上、」
 すぐさま、祖母であり巫女である星華から、たしなめられた。
「お上。まずは御挨拶を、伺うのならば、その後になさいませ?」
 しかし、ノウリジは少しも悪びれずに軽くうなずくだけだった。
「わかってるよ。でも答える訳無いって。インテリジェが」
「わかっているのなら帰れ」
「うわ酷いッ」
 殺気すら感じられる紫の青年の言葉に、紅い少年はわざと顔を派手にしかめてみせた。
「もー。今ようやく会えたのに相変わらず酷いよなあ。お前とあんまり会わないからさあ。せっかく遊びにきても留守してるしさ。」
「来いと頼んだ覚えは無い」
「で、何で食べてんだよ?」
 ノウリジは憎まれ口をあっさり無視して、話を元に戻してのける。
「くっらい顔してるなあー。ははあ、食当たりか? セイシェルが言ってたぞ? 4、5年前くらいに遊びにきたときにさ。まだ当たってるのか? 相当キツイなそれ」
「帰れ」
「酷ッ! 追い返すなよ、信じられないな。見舞いに来たっていうのに」
「嘘をつくな」
「あはは。ばれたか」
 でも見舞いの品代わりにもなるかなこれ、と、屈託ない笑いと共に、南の賢者は懐から酒瓶を差し出した。手のひらに少し余るくらいの大きさだった。
「これを持って来た。やるよ。でも残念、酒じゃないぞ?」
「……?」
 紅い液体が入っていた。
「何だそれは」
 インテリジェは機嫌が悪いままでたずねた。
 相手由来のものであることはわかる。色が色だけに。だから、不快なこと甚だしい。
「ん? やるつもりじゃなかったんだけどなー。今の今まで。そう、お前が、ヘンに具合悪そーにしてるのを見るまではな? ほんとに具合悪そうだなー。精彩に欠けるというか、疲れきってるっていうか? ああ、疲れてる、いい表現だ」
 求める答えを言わないノウリジに、北の賢者はいらいらした。
「それは何だと聞いている」
「はいはいはい」
 うるさい小姑を見るような目で、紅い賢者は相手を見た。
「今から説明するよ。なんかいつにも増してほんとに機嫌悪いなーお前。落ち着けよ。お前、機嫌悪くしてたっていいことなんかないぞう?」
 インテリジェは、説明はもういいから帰れ今すぐ、と思った。
「うえ。その思ってること丸わかりな不穏な気配くらい、取り繕えよ。じゃあ説明しまーす。この薬はなあ、お供え物の酒とか花とかを混ぜくって作ったんだ。というか、遊んでたら偶然にもできた。これはな、今のお前にはおあつらえむきの」
「お上、もうお話なさいますな」
 なぜだか南の巫女が制した。
 しかしノウリジは実に機嫌よく笑った。
「お疲れ様なアナタに滋養強壮剤ッ! 腹下しも癇の虫もおさまって、元気ハツラツぅ?」
 瞬間。北の果てに、白紫(ビャクシ)の稲妻が轟き落ちた。

「星華、」
「はい。インテリジェ様」
 わずかに清々してはいるものの相変わらずの不機嫌が八割方をしめる紫の賢者と、ひどく落ち着いて冷静な面持ちの紅い巫女とが、静かに静かに静かに言葉を交わした。
「そなた、こやつの巫女になって後悔したことはないか?」
「このような時には、少々ございます。まこと、不躾な孫で申し訳ございません。いつまでも子供気分が抜けませんで」
 二人の足元には、落雷を受けて変わり果てた姿の南の賢者がぼろぼろに転がっている。使い古された紅い雑巾のようだった。
「星華、」
 インテリジェは、右手の指先で、いまだに一本の黒髪をからめながら、たずねた。
「立ち入ったことで失礼かも知れぬが、たずねたいことがある。実は、これからそなたに会いに行こうと思っていたのだ。そなたの身上に関わることだが、ここで聞いても構わぬか?」
「まぁ、わざわざお越しに? どのようなことでございましょうか?」
 このお方が、他の物に興味を持つなんて……。ひどく珍しいどころか、初めて聞く問いかけに、星華は心から不思議に思って応じた。
「これを見て欲しい」
 沈んだ表情で、逡巡しながら、インテリジェは右の指に巻いた、黒く愛しい名残を、紅い巫女へ見せた。
 星華は、初めはそれを見せる相手の意図が理解しきれず、だが、目にした時にはすでに、ああ、と思っていた。それは嘆きに似た感情だった。痛ましい事故に居合わせたが、力及ばす、助けることができなかったかのような。
「これは、……この人間は、」
 星華は、その髪に同類を感じた。どうやら……その娘は、神を捕らえてしまった。そう、彼を。
「言霊の娘、ですね」
 聞いた途端、北の賢者は重い息を長く長く吐いた。心に積もった持て余すものの出口を、ようやく見つけたかのように。
「教えて欲しい。私はどうすれば良いと思うか?」
「その者は今もまだ娘ですか? 老いてはいませんか?」
「ああ」
「見つけられたのは、いつごろでございましょう?」
「五年前、」
 丁度、北の賢者の姿を見なくなった時だと気付き、それからのことが星華には容易に想像がついた。
 娘は、彼の心を捕らえたのだ。そして、彼に隠された。娘の時を5年。娘にとって、その期間は長かっただろうか、それとも短い? ただ、わかることは、どうであれ、紫の賢者にとってその時間は……代えがたいものだっただろう。
「どうすればよい?」
 インテリジェは、言霊の娘であった巫女に、尋ねた。
「教えて欲しい。これから私はどうすればよい? そなたならわかるのではないか?」
 南の巫女は恐縮して首を振った。
「わたくしには、わかりません」
「では問いを変える。そなたは巫女になって後悔していないか?」
 主の物となって、後悔していないか? 命を物に換えて後悔してないか?
 巫女は複雑な表情をした。達観とも諦観とも見極められない、暖かではあるが抑えた笑みが、寂しげながらも楽しげに、浮かんだ。
「……インテリジェ様、私とその娘とは、おそらく立場が違いましょう。私は血の繋がりにより巫女に召し上げられました。それゆえの後悔といいますか、苦労ならば、全くないとはいえません」
 そこで言葉を切り、星華は目を伏せた。
「ですが、貴方様は、別の思いゆえに、わたくしに問われている。決して血が理由ではございますまい?」
「そのとおりだ」
 うなずいて、北の賢者は思いをかみ締めて沈黙した。指先は黒の髪を愛しくからめていた。
「そうだな。詮無いことを聞いた」
 星華は、そんなインテリジェの右指を、いたわしく見つめた。
「インテリジェ様、」
 恐れながらも、彼の打ちひしがれた様子を何とも言えず哀れに思い、南の巫女は呼びかけた。
「その娘は、今、どうしていますでしょうか?」
「家に帰した」
 答えは、辛く小さなものだった。声が口から出て行くのでさえ、たまらなく寂しいという風だった。
「もう私の元にはいない」
 紅い巫女は、紫の賢者の心細さを、痛いほどに感じた。誰も必要としない、外に一片の興味すら持たないこの孤高の賢者が、誰かに後押しされることを望んでいる。そうだと思わずにはいられない、もろい姿だった。
「インテリジェ様、今、わたくしはあなた様に申し上げることができました」
 言霊の娘であったこの身に沁みて消えぬ記憶ゆえに、星華は意を決して申し上げる。
「その娘の望みを叶えてくださらないでしょうか。言霊の娘はその身上ゆえに望まぬ目に遭わされ続けて、早々に命を終えます。ですから、どうか、望みを聞き入れてくださらないでしょうか?」
 彼の娘への想いは知れた。しかし、黒髪の娘が賢者にどのような情を持っているかは知れない。同類である自分は、賢者を無闇に後押しするのではなく、娘の肩を持つことにより、まごころを示したい。
「これは、わたくしの願いでございます。ただあなた様のお耳に届ければ、それで結構です」
 インテリジェは、右の手を持ち上げた。
 恋しげに五指に巻きつけた髪を眺め、かつてを心に描いて口付けた。
「わかった。……行く。娘の願いを、叶える」
 紫の瞳に意志の光が宿った。
 そうしたのち、いまだに土の上に転がって意識が無い紅い賢者を見下ろすと、今までの辛そうな表情を無関心なものに急変させ、かけらも悪びれることなく南の巫女に言った。
「そなたの主に『来訪に感謝する。息災でな』と、伝えておいてくれ」
「かしこまりました」
 星華は深々と礼をする。被った紅い衣がそそと慎ましい音を立てて落ちかかり、頭部を覆い、黒灰色の瞳を隠す。
「娘の願いを叶えてみよう。星華、今の話は、」
 顔を上げた巫女は、月夜のように深く柔らかくうなずいた。
 口外しない、と。
「恩に着る」
 北の賢者は、姿を消した。


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