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五万時空の神隠し〜言霊の娘〜

すぎな之助(旧:歌帖楓月)


14

 塗籠の戸が、開いて、閉じた。
 白い着物を着た娘が出てきた。
 両親の主から何をされてきたものか、黒髪はいっそう長く麗しく照り輝き、黒目がちの瞳に白い肌の可憐な容貌は愁いの淵に沈んでいたが、その姿全てに、まるで春雨に逢う椿の花のごとき、奥ゆかしいが艶やかな色香が漂っている。
 戸の前には、母父が座していた。待っていた。
 雪葉は、涙を貯めた悲しみの池に浮く睡蓮のように、力無く彼らを呼んだ。
「母上、父上、」
 母は、音無く息を吐き、かすかな声で応じた。
「雪葉、」
 父は、娘に小さくうなずくと、低い、穏やかな声で言った。地平線を描く大地のように、安心する声だった。
「雪葉。久しゅう」
 自分に命を与えて育んだ両親を前にして、雪葉の瞳から涙が落ちた。
「父上、心配を掛けてしまいました。戻ってまいりました。母上、お世話いただきありがとうございます」
 しずしずと申し上げると、両手で顔を覆って、床に膝をついた。
「……父上、母上。わたくしは、……インテリジェ様の元へ戻りとうございます」
 両親は、口をつぐんだ。
 神隠しに遭ってもなお、賢者と共にいたいという。それほどの望みなら、叶えてやりたかった。親として。
 しかし、彼は彼らの主である。
「雪葉よ、」
 白柳が口を開いた。労わるような穏やかさ、しかし同時に、詮無いことをと、たしなめる口調であった。
「そなた、主上から帰されたのではないか? ……ならば、もはや、戻るすべは無いのだ」
 それを聞いた途端、雪葉は声を上げて泣き崩れた。
 親心がさすがにこらえきれず溢れ、父も母も、そんな娘に寄り添い、憐れみを込めて肩を抱き、腕をさすった。
 親子三人、言葉ではもはや足らずに、しばしそうしていた。
 どれくらい経っただろう。
 時刻は、夕刻になっていた。
 雪葉がいつ塗籠から出てきたかは、三人が三人とも時を忘れるほどの思いでいたために、判然としないが。
 夕刻になっていた。
「父上、母上」
 娘が、擦り切れた声でつぶやいた。
 父と母は、娘から身を離し、様子を伺った。灯りがともっていないために、赤い夕日が小さく射し込む窓以外は、黒いほどに暗い。しかし彼らは物ゆえに、それでも見えた。
 表情が無くなっていた。
「私が15の時。あなたがたが私の願いを聞きいれ、インテリジェ様に会わせてくださったこと……感謝申し上げます」
 その時は、自分の正体すらわからなかった。このようなことになるなど、考えもしなかった。このような想い、知りもしなかった。ただ、答えが欲しかった。
 いまや、答えは全て得られた。
 けれど同時に、叶えたいことができた。
 命を換えたい。インテリジェ様の物になりたい。けれど叶えられない。賢者は雪葉を帰してしまった。
 思いとは裏腹に、雪葉の口は感謝する。
「北の賢者様にお会いできて、よかった。ありがとうございました」
 会わないほうがよかったのかもしれない。逢いたい、触れたい。あのまま終わりたかった、……お恨み申し上げます、インテリジェ様。
「不詳だったこの身が明らかにできた。それだけで、」
 言霊の娘でなければ、あなた様に会うことも逢うこともなかった。隠されることも。でもそれは私が私でなければ、ということ。嫌、それはいや。……あいたい、インテリジェ様。
「幸せでございます」
 あのまま終わりになりたかった。あなたの世界の中で。
「今後は、慎ましく生きてまいります」
 このまま塗籠の中で果ててしまいたい。
「雪葉……」
 両親は、表情の無い娘のうつろな言葉に、何も言えなくなった。
 ただ、側にいることしかできなかった。優しく寄り添うこと以上に、なぐさめるすべはなかった。

 無人の塗籠の戸が、開いた。

「雪葉、」
 声と動きとが、同時。
 引き戸を開き、紫の賢者は、母に手を取られ父に肩を抱かれていた雪葉を、取り上げた。
 まるで子取りのように。いや、そのものだった。
 賢者は両親の元へ帰した娘を、再び己が手に取り返した。愕然と顔を上げた白柳と柏陽を一目たりとも見ることもせず。娘だけを見て。
 雪葉を両の腕に抱き上げ、間近に見つめて矢継ぎ早に言う。
「雪葉、申せ。望みを申せ、」
 焦がれた想いが口調と瞳に熱く宿っている。
「……」
 雪葉は驚いて、声も出ない。
「雪葉っ!」
 北の賢者は、じれて叫ぶ。
「インテリジェ様……、インテリジェ様、」
 ようやっと、愛する賢者の名を、熱に浮かされたように呼んだ雪葉を、遮ったのは、
「お待ちなさいませ。主上!」
「雪葉は私たちの子でございます!」
 厳しい声音で遮ったのは、
 彼の物、新殻衛兵の長である白柳と、累機衆の柏陽だった。
 白い父と、黒い母は、立ち上がる。怒りに瞳が染まっていた。
「今更、どういう了見でございますか?」
 低く硬い白柳の声。
「主上、身勝手にも程がございます」
 静かに燃え盛る柏陽の声。
 インテリジェは雪葉を強く抱き閉め、無言で二つの物を見つめた。表情は、剣呑なものになっていた。
「雪葉を私たちに返してくださいませ」
 白柳は地に響く低い声で、申し上げた。
 しかし、親の言葉に雪葉の方が首を振り、心底嫌だというふうに何度も首を振って、インテリジェにすがった。
「雪葉。さあ、帰って参りなさい」
 柏陽はその娘に言う。静かに、強く。
 娘は一層強く賢者にすがる。
「インテリジェ様、私はあなた様の物になりとうございます」
 崖縁から最後の助けを求めるように、雪葉が乞う。
「雪葉、」
 神とも呼ばれる存在がうなずこうするのを、両親が叫んで止める。
「ならん雪葉! 何であれそなたを泣かすものになど、寄越したくはない!」
「雪葉こちらに帰りなさい。母のところへ、さあ、さあ戻ってきなさい」
 振り返った雪葉は、インテリジェの腕の中で断固拒否した。
「いやです。インテリジェ様の物になります。帰りたくありません」
「雪葉、」
 硬い決意に、母は目を落とした。
 父は決然と顔を上げた。
「主上、」
「……なんだ?」
「あなたは、」
 白柳は、命を捧げた主に、言った。
「慈しみ愛して育てた娘を、手荒に取り上げられた親の気持ちがわかりますか? 子を無体に扱われた親の気持ちがわかりますか? 主上」
 賢者は、うつむいた。
「……すまない」
 およそ彼とは思えぬ、気弱な言葉だった。
「すまない。私は今、雪葉しか見えないのだ。……そなたら、雪葉の親御たちの姿も、」
 吐息して、娘の黒髪に頬を寄せ、苦しげにつぶやいた。
「わからなくなるほどに、愛している」
 かつて見たことのない主の姿に、新殻衛兵の長とその妻は、立ちつくした。


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