「主上、」
「主上、」
続く言葉は何もなかった。ただ名を呼ぶ、それだけで精一杯だった。
命を差し出した揺るがぬ孤高の存在が、期せずして見せた、繊細とも脆弱ともいえる姿。それは、愛ゆえの迷妄が彼にもあったということなのか。あるいは……言霊の娘がそれほどの力を持っているのか。
「白柳、柏陽、」
主上も彼らの名を呼んだ。
しかし続く言葉があった。
「雪葉が欲しい。私にくれないか?」
それに一番早く反応したのは雪葉で、インテリジェの首にすがりついた。
インテリジェは雪葉を抱き返しながらも、紫の瞳は笑いもせずに娘の両親を見つめていた。
白柳も柏陽も、押し黙って、主上を見た。
「……」
柏陽は口角を下げると、しだいにうつむき、ついには床を見て無言を通した。
白柳の方は、主をみつめたままでいた。
「主上に、娘の命を捧げよと?」
重く、ゆっくりと悲しく、白柳は首を振った。数度。
「お命じになられるのですか?」
「頼んでいるのだ」
「主に頼まれる『物』など、ここに在りはしません」
「私はお前に頼んでいる」
「……主上、」
白柳は下唇を噛んでうつむいた。
「後悔、しておるのです。私は」
「……」
今度は、主が言葉を無くす。
「私たちの娘を、主上のお目にかけるべきではなかった、と。……主上をこれほど変えることになるとは、つゆ思いませんでした」
「私は後悔していない」
インテリジェは、物の嘆きを斬って捨てた。
「感謝している。白柳」
二つの物に、顔を上げよとうながして、主は続ける。
「そなたたちが、雪葉をここまで育て上げたことに」
まこと大切そうに雪葉を抱きしめ、頬を寄せて、そして北の賢者は表情を変えた。冷厳なものへと。
「新殻衛兵が長、白柳。累機衆、柏陽」
「はっ」
「はい」
二つは膝をつき、主に頭を垂れる。深く。
「そなたたちの主、北の賢者インテリジェが命ずる。娘雪葉を私に寄越せ」
これで、二つの物は、断りの言葉を、永久に失う。
「主上の御意のままに」
垂れた頭に、愛娘の声が降る。
「父上、母上、感謝申し上げます。さようなら」
冬の名残の、やがて光に召される雪のように。
それが、子が親に遺した、最後の言葉。
屋敷から、愛娘が消えた。
今度こそ本当に。
「白柳、」
妻はつぶやく。
空になった塗籠の前で、膝をついたままで。
「子を思う気持ちとは、むずかしい、」
落ちる涙もそのままに、思いを全て夫へと届ける。
「雪葉は幸せになろうとしていました。けれど、わたしは母として娘を思うあまり、幸せになって欲しいと思うあまり、」
「阻んでとめようとした。それは私も同じ」
もはや入る者のない虚ろな塗籠を前に、白柳は妻の言葉をつないで、床に虚しく落とした。
「ああ……雪葉、」
どうしてだろうか、沈んだ顔の方こそを多く見てきた今までだというのに、
思い浮かぶ顔は、微笑んでいて
悲しくなるほど微笑んでいて、
二つの親は、そうして、悲しくなる。
「娘が幸せになるのに、胸が痛むのは、どうしたことか」
「……」
自らの命を捧げたほどの主に、愛した娘を捧げたというのに。
まるで、盗人に奪われたかのようなこの辛さは、どうだろう。
「幸せになって欲しいと思う心で、私は、私たちは雪葉を一生この塗籠に入れて置くことに、安らぎすら感じていた」
この手の中で目の届く範囲で、成長させ、老わせ、やがて死を迎えさせる。
それは、神隠しと同じこと。誰にも触れさせず会わせずに、一生を、掌中で慈しみ憐れんで。
「まことむずかしい。けれど、」
柏陽は、首を振った。
「雪葉が自分で選んでくれた。それは、まことに嬉しいことでした」
同時に、それは、ひどく、悲しいことだった。
娘は、永久に、両親から失われた。
「そなたを巫女にしたい。雪葉」
紫の世界の中で、賢者は言霊の娘に、言った。
「巫女……?」
「そうだ、巫女だ。私の側にある物。私が在る限り、私の側にある物」
雪葉が望んだあり方そのものだった。
聞くやいなや、うなずいていた。
「嬉しゅうございます」
とまどったのは賢者の方で。
「待て。よく考えてから答えるがいい。私と過ごす『時』は、酷く永い」
「巫女になりとうございます」
じっ、と、紫の瞳を見上げる真摯な黒の瞳に、インテリジェはわずかに身じろぎした。
「そなたはまだ子供で、……巫女になるとはどういうことか、わかり難いのかもしれぬ」
「大人です、」
雪葉が身をすり寄せた。
引こうとする賢者から、距離を離さずに。
そらそうとする瞳を追いかけて、黒曜の瞳を目に入れさせて、
「子供ではありません。貴方が私を、……わたしを、」
矢継ぎ早に紡いだ言葉の途中で頬を薄紅に染めて口をつぐみその先を言えぬ乙女に、隙を見つけた賢者は「よく考えるがいい」と言い述べて先送りにしようとしたが。
「……!」
己が言葉を聞き入れたと思った賢者のそのさらに隙を突いて、雪葉は彼の首の後ろに手を回し、引き寄せて、唇を触れさせた。
そこで吐露される想いは、回された手指よりもインテリジェの情をかきたてた。
「インテリジェ様の巫女にしてくださいませ。離れとうございません。私が在る限りただ一時も。家に帰された二日がどれほど永かったか……」
「……恋しかったか? 私が」
惹かれるような問いに、娘はうなずいた。
「はい、とても」
「会いたかったか? 私に」
重ねて問う声はいっそう密やかで熱を帯びていた。
相手の想いの杯に酔うように、雪葉は浮かされたようにうなずく。
「貴方の姿がないことが苦しくてなりませんでした」
離れとうございません、と再び言って、雪葉はインテリジェにすがりついた。
「私もだ。私もだ雪葉。この腕の中にそなたが無い、そのわずかな時間すら、永劫に感じられた」
「インテリジェ様、」
「雪葉、」
まるで二人して断崖から恋の淵に堕ちるように、ひしと抱き合った。
ひとしきり愛し合った後、
紫の賢者は言った。かき上げた薄紫の髪が濡れているのは、彼の命ではなく恋情がなせた汗で。
「そなたを巫女に召し上げる」
黒髪だけをその身にまとって、言霊の娘は、風花の微笑を浮かべた。
「……はい、」
雪葉の命がインテリジェの中に流れ込む。
雪葉だった命が、インテリジェの物になる。
言霊の娘は、初めて、他を受け入れるのではなく、他から受け入れられた。神は、数え切れないほど経験してきた、「命を受け入れる」ことをした。
けれど初めて、賢者は膝をついた。
「――――」
己が物になる愛しい命に酔わされ、こらえきれず賢者が膝をついた。
それを支えたのは、雪葉の方で。北の賢者の広い背をきゃしゃな腕で抱きとめた。彼の肩ごしに可憐な顔をのぞかせる乙女は微笑を浮かべていた。その満たされて上気した様子はまるで牡丹桜が繚乱と咲くかのようで、優しげながらもはっとする息吹のような色香がただよっていた。
「主上、」
初めて愛した人を初めて主と呼んだ。
「主上、うれしゅうございます」
持ち主は言葉を忘れて巫女を抱きしめる。
「貴方が在る限り、私は側にいられるのですね」
己が物となった愛しい娘を腕に得て、インテリジェはただ笑みを浮かべて、力を込めて巫女の身を抱く。けして壊れぬ、自分が在る限り在り続ける優しい体を。
それから後。
星巡りの時、北の賢者の顔には笑みが刷かれるようになった。腕の中に巫女が在るゆえに。
「行くぞ雪葉」
「はい。主上」
愛しい巫女をその手に抱いて、白の新殻衛兵を従え、紫の賢者は北の空を巡る。
星から見上げた、宙を行くその姿は、まるで薄紫の彗星のようだった。
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