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五万時空の神隠し〜言霊の娘〜

すぎな之助(旧:歌帖楓月)


 霧雨に煙る、北の都。
 人の夫婦に、子ができた。
 雪葉が柏陽の腹にできたころ、白柳は新殻衛兵になった。もうこの世に未練は無くなっていた。
 生まれた雪葉が乳離れして、柏陽は累機衆になった。もうこの世に思い残すことは無くなっていた。
 それが親というものだ、と、二人は思った。愛する子さえいれば「命はいらない」のだと。二人の間にできた雪葉を見ていたら、自然に、するりと、そんな気持ちになったのだ。
 光を吸い込む闇のような漆黒の瞳と髪の、我が子を見て。
 そうして、雪葉は「物」に囲まれて育った。物となった父と母の間で。
 いとし子を抱いて、柏陽は笑う。
「目が開いたばかりだというのに、雪葉はあちこちを見たがること。一体、生まれたばかりのあなたに、世界はどのように映るのでしょう?」
 深更のような静かな黒の瞳が、母を見て笑う。
「私たちの雪葉。どうか健やかに、大きく育ちますように」
 母はつぶやいた。誰に言った言葉だろう。自らが仕える神への祈りだろうか。それとも、雪葉への願いだろうか。
 物となった肉親の愛情に包まれて、雪葉は育った。
 だから、赤ん坊のうちは、人に関わらずに済んだ。……幸いなことに。
 やがて物心がつき、人との関わりができて、それは明らかになっていった。
 雪葉を見た「人間の男」は、彼女に狂う。

 最初は、屋敷につい目をやってしまった、通りかかりの男子学生だった。雪葉が、寝床から一人で居間まで歩いて来られるようになったころだった。
「おはよう、ございます。おにい、さん」
「おはよう、お嬢ちゃん。へえ、ここには女の子がいるんだな」
 早朝のあいさつ。
 登校途中の路上を歩く学生と、屋敷の落ち縁を歩く、まだ舌の回りきらない3歳のこども。
 屋敷の内と外で、目が合って交わす少しの言葉。
 日常の、他愛のない情景。
 けれど、それが、異常への入り口。

 挨拶の距離が、一方的に近くなった。
 門の入り口と、落ち縁(オチエン)のふちが、
 飛び石の上と、落ち縁のふちになり、
 庭の入り口と、落ち縁のふちになって、
 沓脱ぎ石(クツヌギイシ)と、落ち縁のふちに、なった。

 交わす視線の温度差は、ひらいていった。
 雪葉のいとけないあいさつを引き出す、彼の様子は、
 幼い者への慈愛のほほえみから、
 心からの笑みになり、
 待ち焦がれた期待になって、
 抑えきれず溢れた欲望に、なった。

 四度目の「おはよう」。
 朝、屋敷内に入り込み、落ち縁のふちに立った青年は、雪葉が来るのを待っていた。ただ立ちつくしているだけであるのに、熱い息が上がっていた。
 もうすぐだ。
 もう少しすれば、あの子がここを歩いてくる。寝床から起き、身支度を済ませて、ここに歩いてくる。
 欲しい。
 あの黒い瞳が欲しい。
 全てが欲しい。
 こんなにも何かを望んだことはない。こんなに飢えたことはない。……こんな気持ち、知らなかった。雪葉という名の幼女に出会うまでは。
 とつとつとつ、と、軽い小さな、子供らしい不安定な足音が、前方の薄闇から響いてきた。
 屋敷の、苔むした庭に冴えた朝風が入り込み彼の背を怜悧に冷やしたが、体の熱を消すことはかなわなかった。
 何をしてるんだろう僕は。何をやってるんだ? 学校に行かなくては、講義に遅れてしまうのに。頭の中では、消え入りそうに小さくなった「それまでの自分」が、さかんに異常を訴えるが。もはや、青年の体には、これからまみえる幼い雪葉への飢えしかなくなっていた。
 来た。
 薄暗い部屋の、障子を開けて、雪葉が。白い着物を着て。
 真っ黒な髪の毛。庭に生えた南天の実のように、赤い小さな唇。
 ……そして、吸い込まれそうな、黒い、黒い瞳。そうこの目だ。僕の体を、心を、全部を、受け入れる瞳。初めて会ったときの興奮は、どんどん増して、今や自分はここに立つ。
 ぶるっ、と、青年が身を震わせた。
 そこに来た雪葉は、他人が立っていることに驚いて、目を見開いた。
「おにいさん?」
「おはよう、おじょうちゃん、」
 青年はこわばった笑いを浮かべると、雪葉に駆け寄り、小さな体を抱え上げた。片手で軽い体を持ち上げて、もう片手は、裾の中、幼い脚を這い登った。
「なあに?」
 訳がわからず、雪葉は首を傾げる。
「なあに?」
 黒曜の潤んだ瞳が青年の目を捉える。
 彼の背筋はぞっと冷たくなり、逆に頭の中はかっと熱くなった。
「……僕はおじょうちゃんが好きなんだよ」
 連れて行こう。どこへ? どこでもいい。どこだって。邪魔されない場所で。こんなに欲しいもの、誰かに横取りされてたまるものか。
「僕とどこかにいこう」
 雪葉は首を振る。
「ううん」
 しかし彼は聞きもせず、雪葉は無理矢理連れ去られそうになった。雪葉が、声を上げて父を呼んで、なんとか事なきを得た。
 その学生の性向が異常だったのだ。誰もがそう思った。
 ……最初のうちは。


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