熱に浮かされたように、自分の方へと歩いてくる娘。
雪葉という名の、光吸う闇の瞳をもつ娘。
インテリジェは転げそうになる娘の元へ駆け寄ると、その身を支えてやった。
白柳と柏陽は、賢者の行動にさすがに驚いていた。主がこのような形の意志ある行動を取ることはまるでなかったから。つまり、感情に突き動かされることは、なかったから。
賢者は、触れて改めて確信した。彼女の正体を。だから、娘の父母に向かって言った。つれない口調に、少しの感嘆を混ぜて。
「これは『言霊の娘』だ。よく育てたな?」
「言霊の娘?」
「命と共に、事象を体に流す娘のことだ。南の賢者からその話を聞いたことがある。だが、……ここまで黒い瞳は、」
紫色の青年は、言葉を切って、腕に支えた娘を見下ろした。
神に触れられて、雪葉は安堵していた。同時に、陶酔していた。
体の中に、ろ過された「何か」が流れ込んでくる。斟酌(シンシャク)する必要も無く、望む「何か」が流れ込み出て行く。
「雪葉」
インテリジェが、ふたたび、娘の名を呼んだ。
呼ばれた分だけ、雪葉は顔を上げた。その動きには過不足がなかった。
北の賢者の唇に、満足げな笑みが刷かれた。それはひどくめずらしいことだった。
「言霊の娘でありながら、よくここまで成長できたな」
自分の言葉が、あやまたずにそのまま娘の中を流れていく。
「言霊の娘。南の……いけすかない賢者が言っていた。『事象を流し、事象を見つめ、事象を示す。それが言霊の娘』だと。人は人であるがゆえに、揺らぐ己の心象のみを抱えて生きていくが、」
脳裏に、あの赤い少年のゆるい笑顔を思い出して、北の賢者は眉をしかめた。気を取り直すように、雪葉の瞳を見つめる。
賢者の言葉を、雪葉は残さずその身に通していく。
「まれに、このような人間がいるという。己の中に事象を流して生きていく者が」
インテリジェは、ふ、と、小さく笑った。
「私の言葉は事象を表しもする。それは人の心を灼くことがある。それは彼らが人である証明であり、また同時に、世を受け入れられぬ証明である。無理に受け入れれば狂ってしまう。詮方なきことだが」
紫の青年に支えられた少女は、もはや彼の言葉を受け入れる器になっていた。曇らぬ黒い瞳を捧げて彼を見つめ、自身の思いを止めて彼の言葉を聞き入れる。
まるで、彼の物であるかのように。
賢者は娘の両親をねぎらった。
「よくここまで成長させた。大儀だっただろう」
いいえ、と、白柳と柏陽が言った。
「いいえ、これは私たちの娘です。子を育てることは親の本分。私たちはそれをしただけのことでございます」
良い父と母の元に生まれたな、と、インテリジェは雪葉にささやいた。
雪葉は、ただそっと微笑んだ。まるで雲間から射し込む陽光の挨拶を受けて輝きつつ落ちる小雪のように。
「それで、」
インテリジェは話を変えた。
「雪葉。どうして私に会いに来た?」
普段彼が使う、表情の無い言葉ではなく、ましてや不機嫌なそれでもなかった。
賢者は少女に微笑みかけていた。
雪葉はそれら全てを瞳の中に収めると、家からここまで運んできた問いを、そのまま口に出した。
「この身の中には、得体の知れないものが流れております。私は、人に触れてはならないのです。神であるあなたは、どうして私という存在を見逃すのでしょうか? 罰しはしないのですか?」
「今までしていた話と被るな、それは。……己の中に今の今まで渦巻いていた疑念ゆえに、自身で問うて答えを得たいのだな? なるほどそなたは人間だ。雪葉」
インテリジェは慈しむような微笑でそれを受けた。誰も見たことのない、また誰にも見せたことのない表情だった。
歯の生えない幼子に食物を噛んで含めてやるように、賢者は丁寧に言葉を紡ぎ上げた。
「そなたの中に流れている『何か』とは事象のことだ。人はその身に心象を流すが、雪葉、そなたは事象を流す」
「事象?」
「事象とは、事の成り行き」
「?」
雪葉は首を傾げた。
インテリジェは、そのしぐさを見るとかえって楽しげに笑った。
「わからないか。そなた自身は認知せずにそれを行っているな。そのあたりは人に違いないな。……そうだな、たとえば、」
賢者は、右手に持っていた紫水晶のかけらを、雪葉の目の前にかざした。暖炉の火を横から受けて、それは鼓動するような輝きに揺れた。
「これをどう見る? 雪葉」
「美しいと思います」
「そなたの心はな。人と違うのはここからだ。そなたの身は、その時同時に、この紫水晶の物性、この部屋の温度、暖炉で燃える火の由来……目に見えるもの全てのあるがままを流しいれている。この世にその形で生を受けて今もこれからも、そなたの身は、そなたの見ているもの全てのあるがままを、流しいれる」
その証拠を示そうか? と、北の賢者は言った。
はい、と、雪葉はうなずいた。
賢者は、笑った。
「では、私だけを見よ。雪葉」
少女の目線が自分と同じ高さになるように抱き上げて、インテリジェはささやいた。
「他に目をやるな。私だけを見よ」
雪葉は、間近で賢者の紫の瞳を見つめた。
黒曜石の瞳は、神の瞳に見入った。
瞳から流れ入る、それは、神の事象だった。
雪葉の心が彼から感じたのは、生の終わりと死の始まりの縁。それ以外に、彼女が認知し得ない全てをも含めて、神の事象が身を流れていく。
それまで、雪葉にとっては得体の知れない「何か」だったものが、明らかな姿を現した。
それは世界だった。目から入るこの世全ての事象だった。
「あ……」
うわずった声を漏らし、少女の体が震えた。
そして初めて雪葉は充足を知った。神の事象が、この世全てが、少女の身を流れたから。
それは、雪葉を使って、言葉を話させた。
「物であった時には確かに知っていた。そして私を作っている全ての物もあなたを知っている。でも、私の心だけがあなたを知らない」
受け止める賢者は、ひどく、嬉しげだった。
「事象が身を操ったか……。そう、そなたの心は私を知らない。雪葉と私が会ったのは今が初めてだ。それゆえそなたの心は、私を知らない」
「私の身全てがあなたを知っている」
まるで彼の「持ち物」のように、雪葉はインテリジェにすがった。
賢者は、だから、少女の身を優しく離した。視界に、別のものも入るように。この娘は「自分の物」ではないから、離して自由にせねばならない。このままでいると、少女は神に魅入られてしまう。
雪葉は我に返った。哀しいことに、世の全てに取り残されたような顔をして。天から自分独りだけ見捨てられたような顔をして。
ひどく心細くなった。
ずっと、そこに居たかったのに。ずっとそれを身の中に入れていたかったのに。
紫の賢者は、優しく言った。
「わかったか? これが証拠だ。そなたの身は、事象を流す」
「……はい」
雪葉は、酷く沈んだ声を返した。生まれてから今まで、これほどまで残念だと思ったことはなかった。
そこに、……居たかったのに。
娘の消沈した様子に気付いたそぶりも見せず、賢者はさらさらと言葉を続けていく。本当に気付かないのか、そうせざるを得ないのか。
「それから、そなたは『罪を犯した自分に、罰はくだらないのか?』と聞いたな。罰は、私の与えるところではない。罰とは人の心象。それは、事象をすら心象と解釈してのける、人の心にあるもの」
罰は私の与えるところではない。と、再びインテリジェは念を押した。
雪葉は、最後の問いを口にした。
「私は、人に関わってはいけないのでしょうか?」
インテリジェは首を振る。なんのしがらみも無い様子で。
「さあな。それは私が答えるところではない。だが、そなたは関わりたくないないのだろう?」
「……はい」
雪葉は瞳を伏せた。
「狂わせてしまいますから」
賢者はうなずいた。
「そうだろうな。言霊の娘ゆえに」
「言霊の娘……」
「事象を流す人間のうち、若い女のことをそう表す。言霊の娘は……女もだが、只人の男の心をことごとく奪う」
今までのことが思い出されて、雪葉の瞳から涙が落ちた。
「それは……どうして、なのでしょう?」
「全てを受け入れる『女』だからだ」
雪葉は首を振った。
「いいえ。私はなにも、なにもしていません」
なにもしない、なにもしないのに、
「でも男は、ひとりでに狂っていった。そうだろう?」
インテリジェは、雪葉の言葉のその先を言い当てた。
雪葉は伏せた目を無理に上げて、賢者を見た。
「はい」
賢者は軽くうなずいた。続きを言うつもりで。
「そなたの心が否定しようとも、そなたの身は受け入れる。男はそれを感じ取る」
「人にそんなことができるのですか? 彼らは、私が事象を流しいれることを、わかるというのですか?」
「できるとも。只人は、己の心象のみを流すのだから。それゆえに己が快楽に敏感なのだ」
雪葉は、うつむいた。
「私は、では、人と関わりたくとも、関われないのでしょうか?」
「そなたが望むようにはな。男とは」
それを聞いて、娘は口をつぐんだ。
人の半分は、男だ。彼らを狂わせてしまうのなら、自分は、人の中には入れない。
「どうして女は狂わないのでしょう?」
その問いはいちるの望みに賭けたものではなく、ただ理由を確かめたいというだけの、小さく虚しいものだった。
「言霊の娘であるかそうでないか、違うとはいえ、そなたと只人の女は同じ『女』。同じものが会おうと関わろうと、狂いはしない」
ただ、と言って、インテリジェは言葉を切った。
「そなた、年は幾つになる?」
「15です」
「そうか」
では、まだ、子供のうちだ。
賢者は、少女にそれ以上話すのをやめた。
代わりに、彼は、扉の側に控えた雪葉の両親を見た。
柏陽と白柳は、うなずきを返した。
ただ、狂った男を思慕していた女がいれば、そなたをひどく恨むであろうな。
主の口に出さぬ問いに、娘の両親はうなずいた。
幼い子供のころならば、もし男が狂ったとしても、女は男の妄執のみを責めればそれで格好がつく。しかし、『女』の香りの出てきた雪葉に、そろそろ女たちは遠慮なく恨みや憎しみや嫉妬の目を向けるようになっていた。男に向ける分までも。
三つの、子供ではないものたちは、同じことを思っていた。
娘を穏やかに生かしたいなら、人間たちの中には入れられない。と。
「聞きたいことは、それだけか?」
「はい」
インテリジェは雪葉の返事を得ると、右手の中にあった紫水晶のかけらを、暖炉の火に放った。それは紫の光を一瞬きらめかせて消えた。
「では、これからどうしたい? 雪葉」
「これから?」
「家に帰りたいか?」
たずねられて、雪葉はうつむいた。
すでに、自分は北の賢者のそばに居たいと思っていた。初めて名前を呼ばれた時、居場所を見つけたと思った。生でもなく、死でもなく、ここに居たいと。
「しばらく、こちらに居させてはもらえませんでしょうか?」
思いは言葉となり口から出ていった。
「雪葉、それは過ぎた望みだ」
「願ってはなりません。雪葉」
父と母とが、すぐに止めた。
「只人が主上のお側にいることは、許されないのだ」
白柳が、静かに、しかし厳しい重々しさをもって、諭した。
「戻るぞ、雪葉。人の世界に」
雪葉は、父の言葉を聞くと、大雪にのしかかられた若竹のように、頭を垂れてうつむいた。
「……」
戻らなければならないのか。家に。
それならば、私は塗籠のうちで生きるしかない。
いや、
神から答えを得られたのだから、もう終わりにしてもいい。
北の賢者の側に居ることはせず、家に帰ることもせず、生を止めよう。
それでいい。
神に触れることができたのだから。今までこれほど満ち足りたことはなかったのだから。なかったのだから。
これで終わりにしよう。もういい。もういいのだ。答えが得られたのだから。
「私は構わない」
賢者の声がためらいなく響いた。
「雪葉がそう願うのなら、しばらくここにいればいい」
まだ手についていた紫水晶の砕けた粉を払いながら、インテリジェは言った。
「しかし主上、」
顔色を変えたのは白柳だった。
「お側に只人などを置いては……」
「只人ではない、雪葉は『言霊の娘』だ」
すげなく答える主に、今度は柏陽が言い募った。
「主上、人は短い時を生きます。御身が過ごされる時とは比べようもないほど、儚く短い時を。只人を側に置かれては、主上の暮らしに障りが……」
「たまには面白い」
「もったいのうございます」
柏陽がこらえきれぬ涙声で申し上げて、首を振った。
「もったいないことでございます。たかが只人に時間を割くなど」
珍しいことに、紫の賢者が呆れた。
「白柳、柏陽。雪葉はお前たちの子であろうに。ずいぶんな言いようではないか?」
「インテリジェ様は私どもの主上でございます。一方、雪葉は私の主ではありませぬ。雪葉は私の子にすぎず、そのうえ只人にございますゆえ」
白柳は即答した。柏陽も同じてうなずいた。
「ええ、そのとおりでございます。とてもお側になど、」
頑迷とも卑屈とも言える持ち物の態度に、インテリジェは不快感をおぼえた。
主が良いと言うに。そこまでへりくだる必要はなかろう。
これでは話にならんと思い、賢者は娘の方を見た。
賢者は雪葉に、そなたの意向を汲むつもりだ、と伝えるつもりだったが。
しかし、当の娘はうつむいて立ち尽くしたまま動かなかった。誰を見ようともせず、ただうつむいて。
その寄る辺のない孤独な姿がひどく哀れに思えた。
賢者は再び親を見た。
「お前たちの主が良いと言っているのだ。それに異を申すか?」
主の言葉に、雪葉の両親は顔色を変えた。
「いいえ、滅相もございません」
普段とは違う、彼らの様子だった。酷く何かを恐れて、気を弱くしていた。あるいは逆に、強く何かを拒んでいた。
「主上のお言葉に逆らうつもりはございません。ただ、……人を側に置くことが、主上の妨げになるのではと、」
「そうでございます。只人などを側に置くなど、」
彼らは、礼を失したことを恐縮しているのではなかった。自分たちの大切な子供をぎりぎりの線で護っている、親のあせりを表していた。あるいは、子供を奪われてしまう、という恐れを。
インテリジェには、そんなつもりはない。いわゆる「神隠し」をする趣味などない。そもそも自分を神だとは思わない。ただ「しばらくの逗留を認めた」だけに過ぎなかったのだが。
賢者は内心で嘆息して、「親」を安心させるためにあえて言った。
いつもの調子で。表情なく無関心に。
「雪葉が落ち着いたら、戻す」
家の塗籠にしか、帰す所はないが。生かしていく場所はないが。
なんとも暗い未来だ。
主の放り出すような言に、しかし、両親たちは少し安堵した。主の様子から推測するに、彼が雪葉へ向ける関心の度合いは、自分らが心配するほどには深くないと感じられたので。
「……かたじけのうございます」
こうして、雪葉は、賢者の館に逗留することになった。
「ではな。雪葉」
「雪葉、失礼のないように」
父と母が娘に残した言葉はそれだけだった。
主に預ける手前、元気でだの息災にだの、娘を案ずる言葉を足せば無礼になる。
代わりに、主に対して深い感謝を奏上し、辞去した。
これより後は、主が呼ばない限り、館を訪れることはできない。ただ娘に会いたいだけでは、館を訪れるわけにはいかない。
白柳と柏陽は御前を辞した。
雪葉が館にたどりついてから、実は半月が経過していた。
柏陽は、賢者から己に与えられた使命を交替してもらい、眠り続ける雪葉の世話にあたっていた。新殻衛兵の長たる白柳は、代わりがきかない使命をおびていたので、今日雪葉が目覚めた報を受け、急きょこちらへと参じたのだった。
妻は家へ、夫は使命を果たすべき場所へそれぞれ帰る。別れるまでの道のりは短い。大切な話は、それゆえに急ぎ語られた。できれば、自宅でしっかりと時間をかけて話したかったが。
夫は、主の意外な姿に驚いていた。ああも優しげな姿など、これまでに見たことがない。
妻も、同じ心境であった。
二人、口には出さずに、困惑した顔をお互いに見せ合った。
「主上の御厚意に甘えてしまったな」
「ええ。……でも、あの子のためには、どちらがよかったのでしょうか。私にはわかりませんでした。あの子が選んだことを、思わず反対してしまいましたが。でも、もし、あのとき雪葉が家に帰ることを選んだとしたら、それもきっと反対していたでしょう」
雪葉の母は、苦く悲しく笑った。
「勝手なものですね、。子を辛い目にあわせたくないばかりに、私は、どちらも選ばせようと思っていたのかもしれません。あるいは、どちらをも選ばせないようにしていたのかも……」
「私たちには、理解も選択もできないな。子を思う強さのあまりに、かえって物事が不明になる」
「……ええ」
「雪葉の気持ちを、まずは尊重しよう。では、行ってくるぞ柏陽」
「はい。いってらっしゃいませ」
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