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五万時空の神隠し〜言霊の娘〜

すぎな之助(旧:歌帖楓月)


 北の果ての荒野に建つ、紫の賢者の館。
 ときおり、粉雪が舞い飛ぶ。まるで、ふきすさぶ風が流す凍った涙のように。
 雪葉は、両親に迷惑を掛けた、と思った。
 彼らの言ったとおり家に帰り、そして、終わりにした方がよかったのかもしれない、と思った。
 色々な考えが浮かんできた。実行しなかった案が次々に。しかし、しだいに、思い浮かんだ事柄が飽和してあいまいになっていく。
「立たせたままであったな。疲れたであろう?」
 とりとめなく思いをめぐらせる雪葉に、インテリジェはねぎらいの言葉を掛けた。
「こちらへ来なさい。雪葉」
 呼ばれて、娘は、父母がいた辺りを見るのをやめ、賢者の方をゆるゆると向いた。
 だがインテリジェは目を合わさなかった。暖炉の炎を見ていた。
 それだけのことに、雪葉は気落ちした。
 娘は、散る粉雪のように力なく目を落とした。
 私を見て欲しい。
「おいで、」
 動こうとしない娘の方へ、北の賢者が歩み寄った。足が萎えてしまったか? と言葉を足しながら。
 雪葉の前に来ると、インテリジェは少し身を屈めて、黒く潤んだ瞳をのぞいた。
「何日眠っていたか、両親から聞いたか?」
 目が合った。流れ込む神の事象に、心奪われる。雪葉は、とらわれたいと思った。身も心も、全てを、彼に。
 こんな思いは、初めてだった。
「いいえ」
「半月だ」
 紫の青年は娘を抱き上げた。
「体を冷やすといけない。火の側に居た方が良い」
 漆黒の髪の上に、賢者の薄紫の髪がさらと降りかかる。繊細な触感を、雪葉は慕わしく思い、賢者の胸に頬を寄せた。
 ……貴方の側に居たい。
「心身の疲労が過ぎたのだ。体の方は睡眠で幾分か良くなっただろうが、」
 インテリジェは雪葉を、暖炉に向かって左に置いてある自分の安楽椅子に座らせた。火の方に向けられていた椅子は、十分に暖まっていた。
 雪葉の体は火の暖かさに安堵したが、心は賢者から離れたことで凍えた。
 北の賢者は、雪葉の右、火の正面に立ち、再び手の中に紫水晶を現して砕き始めた。左手の平の上で、握りこぶし大の水晶が、不思議なことに小さな鈴が鳴るような音をたてて、ひとりでに砕けていく。進んで命を捧げる殉教者のように。
 インテリジェの目は水晶をとらえていて、娘の方は見ない。
 雪葉は、寒いと思った。心が寒いと。眠りによって体の疲労は無くなっていたが、心はやはり消耗したままだった。この賢者に会って、初めて心の充足を知った。同時に、今までいかに心が飢えて沈んでいたかを思い知った。 
 この神に触れたい。その紫の瞳で、自分を見てほしい。
 しかしそれから、雪葉が起きている間、インテリジェの瞳が彼女をとらえることはなかった。

「体は眠りで癒されただろうが、心は疲弊(ヒヘイ)したままだ」
 また眠りに落ちた雪葉を、インテリジェは抱き上げた。
 暖炉の火を見る。
 砕かれた紫水晶が燃えていた。賢者の作った紫水晶が。
 紫の青年は眠る娘を見下ろした。
 黒曜の瞳は閉じられており、自分を見ることはない。
「……わたしに尽くしてくれるそなたの親たちを、悲しませるわけにはいかんのでな」
 惹かれたのは娘も自分も同じだった。
 初めて娘の姿を見たときの、あの吸い込まれるような感覚が、忘れられない。自分の存在全てをこの娘は受け入れて、その身の中に流し入れた。
 只人の男が狂うのも道理だと、身をもって思い知らされた。
 この娘が欲しくなる。一時も離さずに、自分の側に置いておきたくなる。
 言霊の娘を、インテリジェが直に見たのは二度目だった。一度目は南の巫女星華。しかし、それは一瞬に終り、彼女の灰黒の相貌は再び頭巾に閉ざされた。
 そう、
 南の賢者ノウリジの巫女星華。彼女も言霊の娘だった。
 以前、南の賢者に従って館に現われた時、風のいたずらで、星華がいつも深く被っている頭巾が外れた。
 その時に、聞いた話だった。
 言霊の娘は、その瞳を見た男たちをことごとく狂わせると。
 星華は、その身上ゆえに、只人であったころに惨い仕打ちを受けていた。その瞳が男を狂わすからと、まだ幼いうちに親から目を潰された。後はずっと家の中で生きてきた。孫のノウリジが賢者となり、巫女に召し上げるまで。
 北の賢者は、眠る言霊の娘を見つめた。
 言霊の娘の瞳を、しかと見たのは、これが最初だったのだ。それも、こんなに純な闇を見たのは。
「雪葉、そなたは幸運だったな。そなたの両親は物。法も命にも縛られず、全てを懸けてそなたを守り育ててきたのであろうから」
 瞳に傷一つない、美しい「言霊の娘」。
 ここまで育て上げた両親の愛情の深さは、いかばかりだろうか。
 それゆえに、賢者は雪葉を遠ざける。
 自分の「物」にするわけにはいかないのだ。すでに自分に命を捧げた白柳と柏陽、彼らの掌中の珠なのだから。
 しかしそう思えば思うほどに、それを上回る欲求が頭をもたげる。自分がどれだけ強く惹かれているのかわかってしまう。
 その瞳を自分だけに向けて欲しい。
 他所に目をやらないで欲しい。
 そなたは、私だけを見ていれば良い。
「いかんな」
 インテリジェは、苦い息を吐いた。
「私もとらわれたのか」


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