桔梗の君は、悪びれもせず、かといって平気な顔もせずに、ふらりとこちらを振り返った。
血にまみれ、憔悴した顔をして。
「エフィル……」
「どうなさったのです! 大丈夫ですか!?」
あわてて駆け寄る私に、彼女は、ふらりと手で制した。
「近づいてはいけないわ。関わったら、王宮に行けなくなりますよ」
力を使い果たしてすりきれた声が漂ってきた。
「お帰りなさい。関わってはいけません。あなたは、これからも、王宮で働かねばならない人だから、」
「……何をなさっているのです?」
問いかけに、答えは返ってこなかった。
土の上に、仰向けで倒れているシナーラは、白目をむいていた。
死んでいるかのように、ぴくりとも動かない。紫の光の中、顔色がわからないが……、健やかな様子ではない。
その母ハールは、娘の右脇にぴたりと寄り添って、何かを握り締めていた。
それは「ぎゅう」と、一声鳴いた。
白魔法を側で支える、魔法でできた動物ではないか?
私が飼っている、バンリやセンリのように。
ハールは儚く優しく笑った。
両手でそれを捧げ持ち、震えるそれに、そっと口づける。
「さあ、私の娘のために、働いて」
生暖かい夜風に、生臭い香りが混じってきた。
これは、魔法ではなく、本物のいきものだ。
ハールが持っているのは、きっと生き物だ。
私は、紫色のゆらぐ光に目をこらした。
彼女は、何をしているのだろう?
両手の中の、震えるその小さな生き物は、シナーラの腹の辺りに載せられた。
ハールは、それを、指で弾いた。
それは、どくん、と、震えた。
そして、シナーラの体の中に、沈んでいった。
ああ、……生き物なんかじゃない。
心臓だ。
私の膝が、笑い始めた。
では、これは。
ハール様が、していることは、
「黒魔法を使っているのですか?」
思わず口にして、しまったと手で口元を抑えたが。
相手は、返事はおろか、表情を動かしもしなかった。
私は、いないのと同じだった。
桔梗の君は、疲れ切った表情で、ただ、じっと、娘を見つめ続けていた。
「お願い。生きて、シナーラ」
身をかがめて、母は、目を開けたまま動きを止めている娘に、微笑みかける。
「おねがいよ、どうか、」
優美で凄惨な横顔に、血が幾筋も伝い落ちた。
生暖かい強い風が、どう、と吹いた。周囲の畑から、赤紫の光が立ち上る。
……私だけ異質だ。だが、私は帰りたくなかった。この、母子を見ていたかった。ここを去ることは、二人を見捨てることのように思われたから。
どれくらいたっただろう。
頬に、ひやりと、冷たいものが当たった。
それは徐々に数を増していく。
雨だった。
ざざざざ、と、針葉樹を叩く音が降ってきた。
目の前の母子は、相変わらず同じ姿勢でいた。
雨音は大きくなっていく。雨滴が赤紫の光を反射し、辺りをぼんやりと煙らせる。
だんだんと、衣服の肩のあたりが、冷たく湿ってきた。
前髪から、水が滴り落ちてきた。
「ハール様、」
座り込んだまま動かない彼女のことが心配になり、声を掛けた。
桔梗の君は、ようやく、こちらを向いた。ゆっくりと、大儀そうに。
「……まだ、いたのね。もうお帰りなさい」
今夜見たことは言わないで、とは、一言も口にしない。
「ハール様、先ほどの、あれは黒魔法ですか?」
「……」
白魔法使いのはずの桔梗の君は、しばらく沈黙した。彼女の手は、ずっと、娘のシナーラの体を撫でていた。病気の子にしてやるように、そっと、愛情深く。
やがて、静かに口を開いた。
「そうよ。だから、あなたは関わっては駄目なの。光に溢れたあなたは知らなくていいことだわ」
「黒魔法で、一体何をしていたのですか?」
「……聞かないほうがいい。知らない方がいいの。お帰りなさい」
「いいえ」
私は、きっぱりと首を振った。
「貴女の、そのあまりにも痛々しいご様子、聞かずにはいられません。私は貴女の力になりたいのです」
桔梗の君は、目を伏せて、弱く首を振った。
「何を言うの。黒魔法に手を染めた私なんかに、関わってはいけないわ。もはや私は、白魔法使いではないのです」
「あなただから、関わりたいのです」
「……え?」
次いで出た言葉は、私自身、予想だにしないものだった。
「貴女が苦しんでいる姿を見たくないのです。なぜなら私は貴女を愛しているからです」
「えっ?」
桔梗の君は、目を丸くした。
言った私も、同じように目を丸くした。
な、何を言ってるんだ私はっ!?
「いえっ! 今のは、違います! 私は、純粋に、人として先輩として貴女のことを、」
こぼした盆の水をかき集めるようにして、私は必死で言い繕う。
「私は、決して不純な気持ちではなくっ、ただ、困っているあなたの力になりたいと、それだけしか、」
「……」
表情を取り落として、唖然と私を見つめていた桔梗の君の、その口元に、やがて、笑みが浮かんだ。
優しい心の現われでも、社交のためでもない、おかしみから来る明るい笑顔が。
「ふふ。ふふふ。エフィル、そんなに慌てなくってもいいのよ。わかっていますよ。若い人は、愛という言葉にひどく敏感ですものね。あなたが打ち明けたのは、私という『仲間に対する愛情』、なのでしょう?」
「あ……、はい。ええ、そうです」
彼女が、あまりにもあっさりと誤解せずに、想いを受け入れたので、私は、よかったと胸を撫で下ろした。しかし、……心の奥が、ちりちりと燃えた。
ほっとしたのは、「隠しとおせた」と思ったからだった。
心が焦げたのは、「わかってもらえなかった」と思ったからだった。
桔梗の君は、私に優しく微笑みかけた。
「ありがとう。あなたの、あたたかい申し出を断るのは、却って失礼になりますね。では、できる範囲で手伝ってもらいましょう」
その柔らかな表情と言葉に、私の乱れた心は、すうっと静まった。
「よかった。私は、何をすればいいですか?」
傷だらけの指が、愛娘を示した。
「この子を、家の中に運び入れてください」
シナーラは、今は目を閉じて眠っている。いや、眠っているように見えた。
「わかりました」
私は、すぐに娘を抱き上げた。
それを見つめると、ハール様は、目を細めて笑った。
「助かるわ。では、先に行っていて。後から私も来ます。家に入ってから、私のお話を、しましょうね?」
表の扉は閉まっていたが、裏庭に続く勝手口は開いていた。私は、そこからシナーラを家に入れ、2階にある彼女の部屋の寝台に寝かせた。
先ほど、彼女の母は、シナーラに「心臓」を入れたようだったが。
彼女の衣服には、何の汚れも、ほころびも、見当たらなかった。雨に濡れてさえもいなかった。
さきほどの禍々しい光景が嘘だったかのように、ぐっすりと、ただ眠っている。
黒魔法をこの目で見るのは初めてだった。施術後があまりにも「普通」なので、あれは幻だったのでは、気のせいだったのでは、と、思いたくて仕方がない。
「黒魔術……」
私は、シナーラに上掛けを被せてやると、1階に降りた。
だが。
まだ、ハール様は家に戻っていなかった。
ひどく消耗し、その上、怪我をしていた。力尽きて動けないのではないだろうか。
私は心配になり、裏庭に戻った。
ハール様は、先ほどと全く同じ姿勢で、赤紫に光る雨に打たれていた。
「ハール様、」
私が駆け寄ると、ふらりと私を見上げた。
「もう少ししたら、行こうと思っていたのよ」
あえての微笑みが、かえって、この人の疲労の度合いを示していた。
「大丈夫、立てますから、」
風に吹き揺らされる柳のように、頼りなく、桔梗の君は立ち上がるが、すぐに膝が崩れる。
私は、彼女の両肩をつかまえて支えた。
「参りましょう、ハール様」
「……ごめんなさいね、」
しぼりだされた詫びの言葉には、ただ首を振って、家に入った。
室内に入り、灯りをともす。
彼女が、まだ血を流し続けていることが明らかになった。
「治癒の魔法をお掛けします」
「いいえ、私に、そんな資格はありません」
居間の長椅子にぐったりともたれかかる桔梗の君は、首を振って、申し出を断る。
「何をおっしゃいます」
「いいえ!」
「……ハール様?」
きっぱりと、そして、悲しい声音で拒絶した桔梗の君を、私は驚いて見つめた。
「私に、そんな資格は無いの」
深い水底から悶えながら浮かび来る水泡のように、苦しそうな声が、私の耳を打つ。
桔梗の君は、目元をぬぐった。
「こんな場所に、あなたを引き止めてはいけないわ。さっさとお話しましょうね。私が、どうして、黒魔法などという忌まわしいものに手を染めてしまったのかを」
「ハール様……」
私は、ただ、打ちひしがれた様子の彼女を見ていることしかできなかった。
私は、ハール様の向かいに、一人掛けの椅子を持ってきて座った。
「ずっと前に、シナーラは死んでいるの」
「え!?」
切り出された話は、私を驚かせるに十二分だった。
「そんな、だって、私は彼女と会っている。さっきは彼女を部屋に運んだ。……確かに生きていましたよ?」
「あの子はシナーラじゃないの。いいえ、正確には、体はシナーラだけど、シナーラの命ではないの」
「……」
言葉を失う私に、桔梗の君は目を伏せる。
「黒魔法で、偽りの命を与えてあるの。見たでしょう? さきほど、裏庭で、私が、あの子の胸に心臓を入れてやるところを」
「あれはやはり心臓だったのですね」
ようよう、私がそう返すと、桔梗の君は重くうなずいた。
「ええ。今のシナーラと同じくらいの大きさの、羊の心臓なのよ。死んだ体に、生きた動物の心臓を入れて、……黒魔法で、動かすの」
長い吐息と、「ふふ、」という疲れ切った小さな笑い声が、聞こえてきた。
「黒魔法の心臓はそんなに長くは動かない。だから、たびたび入れ替えなくてはならない。……そんなにまでして、生かしたいのよ、私は。なんて罪深い母なんでしょう」
あの子が苦しんでいるのはよくわかっているのよ、と、やるせなくつぶやいた。
「あの子はねえ、生まれて一週間目に亡くなってしまったの。体のひどく弱い子だった。小さな可愛いあの子は、たくさんの白魔法を使ってさえでも、たった一週間しか、生きなかったの」
両目からばらばらと涙が溢れ落ち、まるで、今ここがその時であるかのように、桔梗の君は泣き崩れた。
「どうして死ななければならないの? 可愛いあの子がどうして死んでしまうの? どうして私一人生きているの? 小さな小さな亡骸を抱きしめて、私は、二日を過ごした」
嗚咽が数度漏れて、やがて、長く細い息が吐かれた。強いて気持ちを落ち着かせるように。
「二日目の夜だった。きれいな星月夜だった。星の光と、桔梗畑の光とが、見事に共鳴していた。私は、どちらの光も同じに見えてしまった。そこで、私は、気付いてしまったの。小さな可愛いシナーラを、生かす方法に」
「でも、ハール様、」
私は、彼女の話を中断させなければならなかった。
「あなたは全き白魔法使いです。黒魔法を使えるはずがない。なのに、どうして、……使えるの、ですか?」
彼女は顔から両手を離した。泣き濡れて、赤みがかった顔が、私を見た。
「……どうして、だと、思う?」
狂気をにじませた、あらゆる感情が飽和しきったその表情に、私は息をのんだ。
「わかりません」
「知らない方がいいの。知らなければ、私みたいにならないわ」
「……しかし、」
知らなければ、彼女の悲しみは理解できないのだ。
私は、一歩、踏み出そうと思った。彼女の心に向かって。
「ハール様、是非教えてください。私は、あなたの心を孤独なままにしたくないのです」
「……」
桔梗の君は、それを聞くと、私の顔をじっと見つめた。
「同じことを言うわね」
「え?」
何の話だろうか?
「同じこと、とは?」
尋ねるが、彼女は私の顔を見つめ続けた。
やがて、答えた。
「シナーラの父親と、……彼が、私にシナーラを遺してくれた時と、同じことを言ったのよ。あなたは」
「えっ、」
なんという偶然だろうか。
「そうだったのですか。それを聞いて、私も驚きました」
ハール様は、思いつめた顔で私を見ている。
これはいけない。疲れている彼女を、これ以上、驚かせたり心配させたりしてはいけない。
「どうか、お気になさらないでください。単なる偶然ですよ。ハール様、お疲れになっているのですから、休んでください」
「……」
だが、かえって、桔梗の君は打ちひしがれた様子で、うつむいた。
「ハール様?」
「ごめんなさい、何でもないのよ、」
顔を上げ、強いて笑ってそう言い紛らすが、瞳に涙が浮かんでいた。
私は、彼女に負担をかけないために配慮したつもりだったのだが、もしかして、逆効果だったのではないか?
今夜は、もう帰ったほうがいいのだ。これ以上、自分がここにいても、迷惑になるばかりだ。
「ハール様、今夜はこれで失礼します」
「……」
沈んだ顔で見つめる桔梗の君に、私は微笑んだ。
「また明日まいります」
明日は、無かった。
彼女は家から姿を消していた。
桔梗畑に棲む悪霊になっていた。
彼女は、実は、既に死んでいたのだった。
娘のシナーラが生後一週間で死んだ後、彼女は、桔梗畑の次元の裂け目に身を投げて命を絶ったのだ。黒魔法のために。
次元の裂け目に命を捧げ、代わりに、黒魔法の力を得るために。
この事実は、後で、同僚から聞いたものだった。
だから王は私を心配していたのだ。「次元の裂け目に気をつけろ」と。だから、王宮では、誰もハール様の話をしなかったのだ。
私は何も知らなかった。光と希望しか知らなかった。
そして、それゆえに、
……私は、桔梗の君を、ただただ亡き子を取り戻すために道を誤った悲しい母だった白い彼女を、……悪霊にさせてしまったのではないだろうか?
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