妹から借りた本は読み終わった。
厚い本を閉じる。
一部めでたしめでたし、で、巻末付近で気になる事件を引き起こして、この本は終り。次巻に続くのだ。
妹のように、「あー面白かった。続きが気になるー」とは思わない。
面白かったけれど、まあ続きも気にならないといえば嘘になるけど。
別に見られなくてもいいと思う。気になるのは当たり前、だって物語だもの。そういう仕掛けになっているからだもの。
これは物語で、現実ではない。
国語の先生が言っていた。物語というのは、自分たちの現実世界とは違うんだって。あれは、作者が、登場人物を通して、自分が言いたいことを表現している『作品』なんだって。
「私は、物語を読むのは向いてないな」
作者と一緒に、ううん、作者の意図どおりに、余韻にひたれない。
そんなことばかりじゃないでしょ? と、思ってしまうのだ。
幸せな結末でも、不幸な結末でも、何かを暗示する結末でも、はたまた物語が破綻して未消化なものに終わっても。
私は物語の登場人物ではないし、ましてや作者とは違うから。一部共感もするし反感も持つ、けれど、大方の感想は「作者は作者、自分は自分。結局それぞれでいいんじゃないの」というものだった。
「……」
明理沙は首を振った。
頭がぼうっとする。
自分なりに、物語世界に没頭していたのかも、しれない。
というより、相手の一方的な言葉を延々と聴かされて疲れた、という方が、ぴったりくる。
起承転結、たぶんきっと、この手の冒険物語の作法どおり。
でも、その行間行間にほのみえる作者の人間性。
どちらかといえば、ううん、物語よりも、作り手の人間性の方が私は気になる。
どういう人が書けば、こんな物語が作れるのだろう?
「作者って、どんな人なんだろう?」
今はインターネットがあり、検索すれば、色々な情報が手に入る。
明理沙は、居間に置いてあるパソコンのところに行った。
エドガーブラウン、で、検索をかけた。
数々の著書の紹介サイト、本屋さんのサイト、彼の物語が好きな人たちのサイト。
明理沙は、それら一つ一つを、見ていった。
絶賛する文章の中に、彼の作風が紹介してある。
本の紹介一覧を見ることで、どんな書き方をする人かわかる。
彼の生い立ちには……生年月日や生誕地、学歴、職歴が書いてある。そして、これまでどんな賞を取ってきたか。
彼の写真。
「ふうん」
検索をかけていくと、彼を嫌う人たちのサイトにも出会う。
嫌いな人たちは、否定的な見方で、彼の作風、物語紹介、ひととなりを書いていた。でも、そんなにひどく嫌っているふうでもない。たいていが、「小さい頃は呼んだけど、もう大人だから、自分には幼すぎる」とか「長い物語で、もう付き合うのにも飽きてきたけど、なんとなく続きが気になってやめられない」などと言ったものだ。マニアみたいなサイトもあって「登場人物は突き詰めると悪意が無い。子供向けの物語だから仕方がない部分もあるが、もっと大人向けに裏設定や深刻さがあれば……」なんていう、自分の好みらしきものを長々と書いてあるサイトもあった(ちょっと閉口した)。
明理沙はこれらのサイトを見てまわり、彼の姿を自分なりに組み立ててみた。
性格は極端ではない。極端な性格の人には、必ず、それを激しく嫌う人がついている。彼の穏やかな言行や作品に対する静かで真摯な探究心について書かれたサイトから、社会の常識をわきまえている人であるとわかる。当然、嫌う人は少ないだろう。
妖精や不思議を信じていること。しかしそれは、狂信的な感じではなくって、どの人も多かれ少なかれ持っている「夢」の範疇にあって、彼がその夢について語ったり行動したりしても、周囲の人には悪い印象はもたれない、健全な熱意。
「あ、」
小さな出版社のサイトに行き着いた。そこは、児童書を主に取り扱う出版社で、十年ほど前に、日本で最初に彼の作品を翻訳して出版した。その後、日本でもじわじわと人気が出て、今や、あちこちの出版社から彼の作品が刊行され、書店で平積みされるものとなっている。
その小さな出版社のサイトに、エドガーブラウンに取材した内容が載っていた。
「私は、妖精や魔法の物語を書きますし、また、不思議な世界の実在を信じる者であります。しかし、私は、その不思議の世界にも、私が生きている『この世界』と同じだと思っています。誰がどこで生きようとも、その人は自身の感情から逃れようはありませんし、明日自分がどうなるかもわからないでしょう。そうです、私は、自分が生きている世界を肯定しているのです。自分から目を背けるために物語を書いているのではないし、現実から逃れるために不思議な世界を信じている訳でもない。私の書く物語は子供向けです。ですが、『子供騙し』の本ではありません。話はそれますが、子どもは大人と違って『経験が足りない』ために、大人の小狡い言葉に騙されやすいのです。世の大人は皆、子どものこうした弱点につけいる卑怯者を決して許すべきではないと思っています。さあ、話を元に戻しましょう。大人にも子供にも、喜びや悲しみ、楽しいことや辛いこと、思い通りにならないことが同じようにあります。私は、それを肯定する物語を書いているつもりです。読者の皆さんに言いたい。私の物語は、現実から逃れて楽をするために読むのではなく、現実を受け入れたり、生きる元気をもらうため、つまり、『どこにいても、自分の心からは逃れられない。どこにいても変わりは無く、いいことも悪いこともあるのが当たり前』であることを知るために読んで欲しい。とね」
「ふうん……」
ひととおり、サイト巡りをしたあとに、明理沙は作者に思いを馳せ、そして、物語を振り返った。
そんな作者が作った物語を、子ども達(そして大人たち)は毎巻楽しみに読んでいるのだ。もしかしたら、子ども達は、日々生活する中で、楽しいことがあったり嫌なことがあったりして、それが物語の一場面と重なれば、作者の紡いだ物語を参考に「あの登場人物も頑張ったんだから、自分も頑張ろう」と思うのかもしれない。物語を読んだ子供達のそばに立って、力づけたり、一緒に喜んでくれたり、なぐさめてくれるのかもしれない。
明理沙自身は、物語を読んで影響を受けたという経験は無い。が、世の中にはそんな人がいる、ということを知るのは楽しい。具体的な例として、自分の妹がいる。
そんなふうに、ある行動を取った人の背景にある心の動きがどんなだったかを知るのが、面白い。
妹から借りた本を読むことで、自分が好きなことが一つわかった。それが、収穫だった。
「そうだ。それ以外にも、」
明理沙は、また本を開いた。
表紙をめくってすぐのところの、伝言を。
『親愛なるアリサへ。あんなふうに別れてしまってごめんなさい。闇は何とか得られました。だから、みんな元気にしているわ。どうぞまた来てね』
どうやら、マジック・キングダムは、私とこの作者には存在しているもらしい。
また行こうにも、行き方なんて知らないし。行きたくはあるけど、どうしてもってほどじゃない。
「この物語のカイは、私の知っているカイとは、別人だしね」
明理沙は、本を閉じた。
物語では、成長したカイは、偉大な歴史家になるようだ。無力な自分の姿を受け入れて、歴史の傍観者として、世界に起こった出来事を記録するようになる。
「私の知ってるカイは、そんなに強くも立派でもないし、努力好きでもなさそう。すぐ根を上げそうだったし」
でも、それでいいと思う。カイが、自分で幸せだと思える生き方ができれば、それでいいと思う。幸せの意味を履き違えたり、不幸になったりさえしなければ。
私は、そんなカイの「すごく良いところ」知ってる。あんなに悩んでたのに、私のことを何とか案内しようとしてくれた。間違ってたり記憶がおかしかったりしたけど。でも、精一杯の誠意で、私と一緒にいてくれた。
そうだ。
カイにお礼を言いたい。なぐさめたりはげましたりするばかりだったから。
伝えておきたい。
どうすればいいだろう?
「そうだ」
エドガーブラウンさんに手紙を書いて、頼んでみたらどうだろう。私が「アリサ」だってこと、信じてもらえないかもしれないけど。
作者のエドガーブラウンさんは、私とは接点を持たないほうが、可能性が広がるって書いていたけれど。
「でも、送ってみたら、なんとかなるかもしれないし」
明理沙は、手紙を書くか、電子メールを送るか少々悩み、出版社のメールアドレスに電子メールを送信することを選んだ。
自分の自己紹介、カイと会ったいきさつ、この世界に帰ってきたことを、丁寧に書いた。
「いたずらって思われないといいけど。でも、……それならそれでいいか」
そして、送信ボタンを押した。
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