「ひーひひひ」
マジックキングダムのどこかで、狡猾な笑い声が響いた。
「異世界の人間も来た。そして、邪魔なエフィルは、ユエにしがみつかれて身動きが取れない。水晶玉は、カイの手にある。絶好の機会だわ。ひっひっひ!」
計算高そうな、早口の高い声だった。
「この、シナーラの出番ってことね」
「……エフィルさんは、王様になったらどうします」
明理沙は、エフィルに向き直った。
ユエはどうやら王様になっても生活態度等は改まらないらしい。それどころか、エフィルにとっては悪い事態を引き起こすようだ。それは、とりもなおさず、この国の民にとっても、悪い事態が起こるというわけである。
ユエさんが王様になるのは、よしたほうがいいかも。
明理沙は、とりあえずユエについてはそう思うこととして、エフィルの答えを待った。
「私は、……」
と言って、真面目な顔をしたエフィルは、わずかにうつむいて、長い髪をゆっくりとかきやった。
「わたしはまだ、未熟だ。そんな私が王なんて。……私の目標は、金糸の君」
抑えた調子の声だが、瞳には強い意志の炎が燃えており、一言一言を、慎重に口にした。随分真剣に考えた結果の答えのように感じられた。
「いつか、あの人を越えたいと思っている」
エフィルはそう言って、きり、と前方を見据えた。
「きんしのきみ、って、どなたですか? ……すばらしい魔法使いなんですか?」
明理沙が問うと、エフィルは、少し苦く笑い、
「まあ、すごい人だよ……」
と言って肩をすくめ、口をつぐんだ。
金糸の君について、エフィルは、それ以上言う気はない様子だ。では、王様になったら何をしたいかを聞こうかな、と明理沙が思っていると、エフィルがまた口を開いた。
「カイ、安心しろよ。多分、誰が王になっても、きっと、大丈夫だから」
明理沙は瞬いた。
エフィルは、じっとカイを見つめて、力強くうなずいている。なんだろう? カイが、恐れる何かが、王の仕事にある?
ユエが、エフィルの腕をぐいっと引っ張って、自分の両腕を、蛇の絞め殺し技のように巻き付けた。
「きゃっ! エフィル様! わたしが王になって、怠けたりしてたら、私のこと、叱りに来てくださる? じゃ、あたし断然、怠けちゃお!」
真剣な話をしていたのに。
エフィルは苦虫を数十匹噛み潰したような顔になって、ユエを見た。
「……。ユエが、もしもそうなったとしたらな。絶対に怠けなくなるような方法をとるつもりだ」
「きゃー! ユエ、うれしい! ついに結婚してくださるのね!」
エフィルが顔色を変えた。赤ではなく、青に。
「なんでだ!?」
「いやーん! ユエが怠けない方法なんて、それだけですう!」
「あほか!」
がたっ、とエフィルが立ち上がった。額に青筋が浮かんでいる。
怒ってそのようになる人を、明理沙は初めて見た。
「帰る!」
「え!?」
エフィルの言葉に、一番驚いたのは明理沙だった。二人のとんでもないやり取りに呆然としていた。『帰る』の一言で、明理沙は我に返った。
帰ってもらっては困る!
「エフィルさん、待ってください!」
「エフィル、」
明理沙とカイが同時に呼び止めた。エフィルはというと、絡み付くユエの手を退けて帰ろうと必死になっている。
「カイ、明理沙。くっ……、またな! ユエのいないところで……離せっユエ! ……ゆっくり話をしよう。今日は……離せと言ってるだろうが! ……これで」
苦闘の末、ようやくエフィルは、ユエの魔の手から逃れられた。
その壮絶とも表現できる光景を見ていた二人は、ぜいぜい言っているエフィルを引き留めることなど、できなくなった。
「エフィルさん……また会いましょうね」
明理沙はおそるおそる別れのあいさつをした。
「あ、後でな。エフィル……」
カイもおろおろしながら声を掛けた。
「ああ」
エフィルは、それだけ返すと、ユエの屋敷の居間を早足で出て行った。
荒っぽく引きはがされたユエは「ああん! エフィル様ー!」と言って、ソファーに座ったまま身を振って、駄々っ子のように「いやいや」の動きをしていた。
「じゃ、明理沙、僕らもこれでおいとましようか? じゃあな、ユエ」
「そうね、ユエさん。ありがとうございました」
カイは苦笑で、明理沙は笑ってあいさつすると、ユエは「いやいや」をやめて、二人に可愛らしくほほ笑んだ。
「うふ! またね!」
そう言うと、ユエは笑ったまま、二人の前から、霞のように消えた。
「! 消え、ちゃった……」
明理沙が目を見開く。
まるで手品だ。いや、魔法だ。
「ユエはなんでもできるからなあ。空間転移とか。今のがそうだけど。……あれこれ使える魔法使いって、あんまりいないんだけど」
カイは呆れたように肩をすくめた。
感心した明理沙は何度もうなずいた。
「ふうん。そうなんだね」
そのとき、叫び声が、屋敷内に響き渡った。
「うわああーっ!」
二人は顔を見合わせ、声のした方へといそいで走った。
「ウフフフー」
場所はユエの屋敷の玄関。
「エフィル様ぁ……。やっと会えたのですもの。そう簡単には、ここから出しませんわ……ふっふっふっふ」
屋敷を出る寸前だったエフィルの首に、女の白い腕だけが、何も無い空間から現れて巻き付いていた。というより、締め付けている。
「やめろ! 離せ! 」
「いやです」
しんなりした女の声が、広い玄関に、エフィル以外には誰もいないはずの広い玄関に、しいんと響く。
「ねえ、何カ月会えなかったとお思いですの? 一カ月ですのよ? ユエ、エフィル様にとっても会いたかったのですもの。しばらくここから帰しませんよ。うふふふふふ!」
次第次第に、腕以外の部分が空間に現れていく。まるで見えない霧が晴れるかのように。
「離せ! ユエ!」
姿が現れた。
宙に浮いたユエが、エフィルの背後から、彼の首に腕を巻き付けていた。闇夜のように黒い髪が、重みを無視して、ふわふわと靡く。
「離しませんわ。今離したら、今度いつお会いできるなんて、わかりませんもの」
ユエは、獲物に使う刃物を研ぐ鬼婆のように、ニタリと笑った。
「エフィル様、もう、ユエの屋敷で一生暮らしなさい。待つのなんて、私、もう嫌です」
エフィルは、歯を食いしばって抗う。
「離せー!」
ばたばたばた、と足音がして、カイと明理沙がやってきた。
「うわー! ユエ! 何やってんだよ!」
「うそ……! あれが、ユエさん? 本当に?」
明理沙がつい、そのように口走った。
さっきまでの愛らしい顔は一体どこへ? と、ユエの豹変ぶりに愕然とする。
真っ青な顔色、目の下に塗ったような隈。らんらんと輝く、血走った目。そして、血をすすったかのような、真っ赤にてらてらと輝く唇。……部屋の内装が古く地味だったので、かわいいユエのイメージにはとても合わないと思っていたが……こちらのユエにならば、不気味に合う。廃屋に住みついた怨霊のようだ。
ユエは、生者を脅かす死者のような戦慄の笑顔で、笑った。
「うふふふ! さあ、あなたたち二人は今すぐお帰りなさい。これから、この屋敷は私達二人だけの、愛の世界になるのですわ」
「はあ? あいのせかい? ……何言ってんだよ?」と言って、カイは引きつる。が、ごくりと生唾を飲み込んでから、表情を引き締めて、ユエに物申した。
「こらこらこら! ユエ! 何を血迷ってるんだ! 離れろよ!」
くわっ、と、ユエがカイを睨んだ。
「お黙り! お荷物のくせに! 私とエフィル様の邪魔をする気?」
ユエは、地獄の底から響くような、恐ろしげな叫び声を上げた。
「!」
カイは押し黙った。
ユエの底冷えのする迫力に圧倒されたのだろうか?
明理沙は、荒れるユエをなだめるようと口を開きかけたが、「おちついて」とか……ありふれた言葉しか思いつかない。そんな言葉をかけた所で、感情の暴走したユエには逆効果になることが目に見えている。結局、何も言えなかった。
ユエは、右手でエフィルの薄緑の髪を掴み、ぐっと後ろに引いた。
「ふふふふふ! エフィル様が一月も姿を見せないのがいけないの。ユエ、とても悲しかったのよ? でももういいんですの! エフィル様! 私、今日こそ、あなたを私のものにすべく、強い強い呪いを作り上げましたの! ずーっとずっと、この機会を伺っておりましたのよ? では! エフィル様!」
「だめよ! そういうのはやめようよ! ユエさん!」
明理沙が二人に駆け寄る。
「明理沙、離れて!」
しかし、どうしてかエフィルに制された。
「カイを連れてここから離れるんだ!」
「エフィルさん?」
ユエに絡み付かれたままエフィルが叫ぶ。
「私は大丈夫なんだ! ちょっと魔法を使う! 危ないから、離れて!」
「え……? は、はいっ!」
明理沙は、隣で、まだ押し黙ってどうやらユエの言葉に自失しているらしいカイを引っ張って、外へと駆け出した。
それを見届けて、エフィルはため息をつく。
「ユエ。もういい加減にしろ」
エフィルがひたとささやく。
が、ユエはゆらりと笑う。
「いやです。ユエは、今言った通り、あなたを私のものにするんですの」
「なら、仕方ないな」
「うふふ! いかに元王の親衛隊長でいらしたエフィル様でも、今度の呪いは、効きましてよ? ……よろしくって?」
フ、と、エフィルがうつむいて笑った。
ユエも笑う、蛇のように。見ると、ユエの衣の裾からは、……足ではなく、大量のいばらの蔓が伸びているではないか。
「ふふふ、エフィルさま、」
「裁きの白い手!」
玄関を出て、もう少しで屋敷の門から道へ出るという時、視界が真っ白になった。
「!?」
時間してわずか2秒ほど。突然の視覚の乱調に、明理沙はよろけた。
ホワイトアウトって……こういうのを言うんだろうか……?
「……は……、びっくりした……。これがエフィルさんの魔法かな?」
左手で心臓の辺りを押さえて、明理沙はふう、と息をつきつつそう独りごちた。
「そう! エフィルの魔法だよ!」
と、元気な声が上がった。一瞬、誰かいたかな? と、怪訝に思った明理沙だったが、それは、カイの声であった。先程までの消沈ぶりはどこへやら、何故か非常に明るくなっている。
「明理沙! これはエフィルの白魔法だよ! いやー、さっすが親衛隊長!」
「え? ……カイ? なんか、元気になったね?」
少年のあまりの豹変ぶりに、明理沙は唖然とした。
一方、少年は力強くうなずいた。
「うん! これ白魔法の『裁きの白い手』って言って、邪悪なものを浄化するんだ! だから、僕みたいに悩んでる奴なんか、効果てきめんさ!」
妙に明るくなったカイに、さすがに明理沙は戸惑う。
「じゃあ、明るくなれる魔法なの?」
「なやんでいる人ならね! なんだ大したことないぞ! って気に、なれるんだ!」
魔法で気分が変われるというのは、明理沙にはどうもわからない。薬のような働きなのだろうか?
明理沙は、首をかしげながら相槌を打った。
「……そうなんだ?」
「きゃん!」
可愛らしい声と、尻餅の音が響いた。
次いで、ふう、とエフィルのため息。
ここ、玄関では、真っ白に光る、大きな大きな2メートルはあろうかという掌が、二人の頭上に降って来たのだった。
「私に呪いは効かない」
エフィルはそう言って、再びため息をついて、ユエを見下ろした。
「知ってますう……」
ユエの顔が元の可愛らしいものに戻っている。そして、先程までの勢いはどこへやら、床にへたりこんで、しゅんとうなだれている。
「だけど、ユエは、エフィル様にあんまり会えないから、会いたい会いたいって思いが募っちゃって、……ちょっと黒魔法の精霊さんに、魂売っちゃったのですう」
エフィルが、またため息をついた。
「黒魔法というのは、強い理性がないと、とても使いこなせはしない。引きずられていたんだな?」
「そのようですう……。ごめんなさい、」
ぐす、と、鼻をすする音が聞こえた。ユエが、嘘泣きではなく本当に泣いていた。
「ごめんなさい」
嗚咽交じりのユエの反省の言葉を、エフィルは複雑な顔で見下ろした。
本当のユエはこういうしおらしい子なのだ、と言い切れたら、幸せなのだが。
残念なことに、ユエという子は、程度の差こそあれ、さきほどまでのあれが本性なのだ。で まあさっきのは、ほんの少し度が過ぎていたが。いつもよりは。
エフィルは、しくしく泣いているユエを、まだ複雑な表情で見下ろす。
ユエとの交流を断ち切るには、ここですっぱりと絶交すればよいのだ。そうすれば、さすがのユエでも、罪の意識から、もう自分に近寄っては来まい。
「……」
今断ればいいんだ。迷惑だと言って。そう、今。
「ユエ」
エフィルが口を開いた。
ユエは、床にへたり込んだまま、ぽろぽろと涙を落としながら、エフィルの方へ顔を上げた。
「はぁい?」
エフィルは、一つため息をついてから、自分に呆れた様子になって、こう言った。
「あまり他人に迷惑かけるような魔法は慎んでくれないか? 私は、まあ、たまには、ここに遊びに寄らせて貰うから」
ユエは、目を見開いて、それを聞き、
「あ、ありがとうございますう! エフィル様!」
と、かわいい声で叫んで、エフィルに抱きついた。とりあえず、先程のような馬鹿力ではなく、普通の女の子の力加減で。
私がこんなふうだから、ユエとの腐れ縁が切れないのかもしれない……。と、エフィルは、自分の甘さにげんなりしつつ、しがみついて泣きじゃくるユエの背を、妹にするようにさすった。
その時、
「ひっひっひっひっひ! 助かったわ! ユエ!」
どこからかはわからないが、若い女の声が、屋敷内に響き渡った。
それにぎょっとしたのは、ユエではなく、エフィルだった。
「……シナーラか。どうしてだ?」
「ふふふっ!」
ユエはただ、愛らしく微笑んでいるばかりだった。
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