世界の幹に、二人はいた。
闇の少女と、異世界の少女が。
「ねー明理沙。世界の幹に染みがあるの、知ってる?」
黒髪の少女は、異世界の少女を抱えて、虚無に浮かんでいた。
「……聞いたことはあるけど」
自分よりもずいぶん華奢な女の子に抱えられて、明理沙は居心地が悪そうにみじろぎして、そう答えた。
「御力、その流れに混じる闇。うふふ?」
黒い瞳の魔法使いが、黒い瞳の人間を見つめた。
「ねえ明理沙? 闇と光はまざらないものでしょ? そうでしょ?」
一体、ユエは何を言いたいのだろう?
明理沙はとまどいつつ、うなずいた。
「うん。光があたれば闇は消えるし。混ざらないと思う」
「消えないのは、お・か・し・い・でしょ? そう思うでしょ? ねっ? ねっ?」
いやに念押しをする。
次第に、明理沙を抱える腕に、力が入っていく。
「ユエさん?」
たしかに、消えないのはおかしい。
だけど、そう答えたら、ユエが恐ろしいことをしそうな気がする。
「私、わからない。消えない闇もあるんじゃないの?」
「嘘は嫌よー? そぉんな闇なんて無いでしょー?」
自分を見るユエの目が、険しくなった。
「いーかげんなこというと、ぶっころすわよ」
彼女の生々しい感情の発露に、明理沙はどうすればいいのかわからなくなった。
「いい? 明理沙。嘘は止めて。そんなのありえない。光が射せば、闇は消えるの」
愛らしい少女は、次第にその白い顔を笑みに歪ませていく。
「だけど消えないの私は。いくら待ってても消えないの。光の中にいるのに」
「あなたは闇なの?」
ユエが嗤った。
「あれぇ? 明理沙は、まだそんなことも知らないの? カイは何も知らなかった? リディアスは何も教えなかった? エフィル様は……やっぱり気づかなかったの?」
「ユエさん、どうして泣くの?」
「いつも泣いてたわ」
明理沙は、首を振った。
「私は、あなたが泣いた所なんて見たことないよ?」
「嘘よ。嘘は止めて」
黒髪の魔法使いは、顔をしかめた。
「実在のくせに嘘をつくなんて」
「ユエさん?」
そうして、ユエは口を閉ざした。
どれだけ経ったことだろう。
「むかーしむかしのお話です」
虚無の闇に浮かぶユエが、つぶやいた。
彼女に抱えられた明理沙は、はっとして顔を上げた。今度は、何を言い出すのか?
明理沙に聞かせるというよりも、まるで童話をそらんじるように、ユエは可愛らしく言葉をつなげていく。
「そこにはマジックキングダムなんてものは、ありませんでした。虚無の世界に何か在るわけなんか、なかったのでした。……なのに、大昔の魔法使いたちは世界を造りたがったのです。虚無とは逆の力を借りて、世界を造ったのです。そんなおかしなことをするためには、すごーく無理をする必要がありました。なんて困った魔法使いたちでしょう。あー変なの」
ユエはどうしたんだろう? 明理沙は、彼女の独白に耳を傾けた。
「御力に、闇を混ぜちゃったんです」
黒髪の少女の瞳から、虚無の涙が落ちて消えた。
「そうしてマジックキングダムを造ったのでした」
ユエは、自分の話をしているのかもしれない。明理沙は、声を掛けるのをやめた。
もっと聞きたい。私が何か言えば、この話はすぐに終わってしまう。
「変なの。有り得ないものをいつまでもいつまでも。白い魔法の力を借りて。御力を使って……いつまでも」
ユエは首を振った。 明理沙は、押し黙ったユエを怪訝に思って見つめた。
黒い瞳からは涙が落ちては闇に消えていく。
二人の、遥か向こうで輝くマジックキングダムの白銀の光。
ユエは、まぶしそうにそれを見つめ続けた。
「きれいよねえ、光に闇が混じってるマジックキングダムは。まるで、エフィル様。エフィル様を大好きなユエが、あんなふうに、ぴったりくっついてるの」
でも、もうおしまいなの、と、ひときわ嬉しそうに、微笑む。
「エフィル様、お願いよ、『ユエは要らない』って、言って」
異世界の少女を抱えて、ユエは泣き出した。
「もうエフィル様と一緒に居たくないの。私は還りたい、元の世界に」
「ユエさん……」
明理沙はどうしようもなく見ているしかなかった。
一人、途方にくれたカイは、自分に与えられた部屋に戻ると窓を開け、エフィルを呼んだ。親切な親友は、すぐに来てくれた。
事情を聞いたエフィルの驚きといったらなかった。
「ユエが明理沙を!?」
目を丸くして、よく通る声で叫んだ。
「うん……」
魔法を使えない少年は、彼の驚きぶりにたじろいだ。
「どうしてだ! 理由は?」
若草色の混じる乳白色の髪の白魔法使いは、少年の胸倉をつかんで揺さぶった。
「ユエに何か理由を聞いてないのか!?」
「悪いけど見当もつかないんだよ。だから、お前を呼んだんだけど。ユエのことなんか、僕には全然わかんないんだよ。僕の方こそ聞きたいよ。昔からずっといるユエって、一体、何者なんだろう?」
エフィルは我に返った。友を問い詰めたところで、何もならないのだ。
「すまん。……しかし、信じられないよ。ユエが明理沙に興味を示すとは、とても思えないんだがな」
「明理沙本人ではない。エフィル、お前に用があるのだ」
低い声が割って入った。
「来い」
金糸の君リディアスだった。左腕にはシルディを抱えていた。ぞんざいに右手を差し出して、エフィルを誘う。
「はい……?」
白魔法使いの若者は、リディアスの言葉を把握しかねて、眉根を寄せた。
「なんですか、一体?」
「いいから来いと言っている。ユエはお前に用があるのだ」
「どこへです?」
エフィルは、どうせ答えてはもらえないだろうと思いながら聞いたのだが、意外にもそれはあっけなく得られた。
「ユエのいる所、世界の幹へだ」
銀の光に包まれて、三人は世界の中心へと向かう。
それまで明確だった世界は輪郭がおぼろになり、やがてめくるめく色彩の渦が魔法使いたちを取り巻いた。
「やっと、力を奮える時が来た」
リディアスのつぶやきに、シルディは首を傾げた。
「え? 何か言った?」
水晶玉を持たせた彼女を抱えて、金糸の君は笑った。
「!?」
シルバースターは、彼の見せた稀有な表情つまり微笑みに、目を疑った。
今のは、幻かしら? 幻よ幻だわ。それ以外に何があるっていうの。そうだわ周囲の景色がこんなめちゃくちゃなんだから、目が錯覚したんだわ。
「……気のせいだ。きっと、」
リディアスの右にいるエフィルから、そんな震え声が漏れ聞こえてきた。
「気のせいではない。私は喜んでいる」
「ひッ!?」
「うッ!」
金糸の君本人から恐ろしい否定の言葉を聞き、二人に戦慄が走った。
「リディアス、何を喜ぶの? 私には理解できないわ」
「シルディ。金糸の君がそうするには、きっと深遠な理由が」
「何の制限も受けることなく、思いきり力を奮える。これ以上ないほどに単純な喜びだ。お前たちが何故それを理解できないのか。それこそ私には理解に苦しむところだが?」
「……沢山、しゃべったわ……」
リディアスが予想外の長返事まで繰り出してきたので、シルバースターは目を丸くした。
「しぃッ、シルディ、刺激しないで」
エフィルがたしなめる。
金糸の君は眉をひそめた。
「お前たち、私が初めてこれほど喜んでいるというのに、なんだその態度は?」
「だって……、お、おかしいもの」
シルディが震えながら言うと、なんと彼は笑い声を上げた。
「ふふ、楽しいのはこれからだ」
「来たわぁ」
ユエが笑った。
「うふふふ」
嬉しそうに。
今までユエを見てきた中で、一番可愛い笑顔だ、と、明理沙は思った。
「こんなうれしいことって、無いわ」
白銀に輝く世界の幹を背にして、異世界の少女を抱えて、闇の少女は笑う。
「早く来て。ここまで来て。私に会いに来て」
愛しいあなた。
私を消しに来て。
「あっ!」
明理沙は見た。
真っ黒な闇の彼方に、突然現れた白銀の光を。
「ユエ! 明理沙を離してくれ!」
エフィルが叫んだ。
まばゆい世界の幹のところに、果たして、少女が二人いた。
「エフィル様、おっそーい!」
ユエは、きゃいきゃいと手を振って返した。
「でもそれ以上近づいちゃダメでぇーすッ!」
ユエが右手を振り上げた。
空間が歪んだ。金糸の君たちを中心に球状の闇が発生した。
「取ーり引きしましょ! ねっ!」
わくわくと微笑んで、少女は右手をぎゅっぎゅっと握って見せた。すると、三人を飲み込んでいる球状の闇が応じて伸縮した。そうしながら、「死ね、無くなれ、」と、ユエはつぶやき続けた。
「ユエ、」
と、ユエの背後から、手が伸びて、彼女の頭を掴んだ。
「お前は取引できる立場ではない。闇の分際で」
次いで掛けられた低い侮蔑の声に、柔らかな少女の笑顔が醜い皺に引きつった。
「おのれ生意気なリディアス!」
目の前の闇の玉には、三人はいなかった。すでに彼らは少女たちの背後に回っていた。
振り返りざま、ユエは口から闇を吐いた。小さな口から、膨大な黒が放出された。その勢いで、二人と三人の距離が離れた。
「死ねリディアス! 憎いお前なんか無くなれ!」
「きゃああ!」
明理沙は恐ろしさに悲鳴を上げた。
「人型をした闇など、」
受ける金糸の君は片頬で薄く嗤った。
「取るに足りぬ」
彼の左腕に抱えられたシルバースターが持っている、白銀に輝く水晶の珠がさんぜんと光り輝いた。
闇の少女が吐いたものが儚く消え去る。
「アハハハハハ!」
しかしユエは笑った。ひどく嬉しそうに。
「アハハハハ! バカー! リディアスのばーかッ! そんな憎たらしい真似するのなら、明理沙から手ーを離して無くしちゃうよー、ウフフ?」
「駄目だ、ユエ! さあ、私と話をしよう!」
エフィルの制止に、ユエが笑った。
「エフィル様ったら、大好き! エフィル様は私を見てくれるものね! でも、わたしはー、リディアスの方がキライだから! バカねぇ、バカなリディアスぅ」
金糸の君が目を細める。
「染みが、生意気な口を」
ユエが舌を出した。
「染みじゃないよーだ、私は可愛い可愛いユエでーすッ! バーカ! バーカ!」
リディアスたち三人の周りに闇が滝となって降り注ぐ。
「おとなしく取引しなさーい? でないと、わたしは明理沙を壊しちゃうよぉ?」
「駄目よ! やめて!」
「ユエ、駄目だ!」
シルディとエフィルが叫ぶが、金糸の君は何も口にしない。
「なぁに? リディアスはぁ、お口がきけないのォ?」
ねえ? と、首を傾げながら、ユエは自分の耳に手をかざした。
「リディアス、お返事はーぁ?」
フン、とそっぽを向くリディアスを見て、シルディが舌打ちした。
「『はい』って言いなさい! リディアス!」
「嫌だ」
「シルディは黙っててッ!」
ユエが金切り声を上げた。
「こーれーはー、わ・た・し・と、リディアスのモンダイなの! アンタは関係なーいのッ!」
「私も混ぜてくれユエ! 話し合いをしよう! 何が欲しいのだ!? ユエ!」
エフィルの叫びに、黒髪の娘はキャッとはしゃいだ。
「きゃッ! エフィル様ってば、嫉妬してるのぉ!? ユエ、嬉しい! うふふ! こんなの初めて!」
明理沙を抱えて、くねくねと身をよじって見せた。
「じゃー、ま・ず・は! エフィル様と取引ーッ! あのねぇ、エフィル様……」
明理沙は、ユエが先ほどまで見せていた哀しい顔を思い出した。
……ユエさんは、まさか、エフィル様に自分の始末を頼むのでは、
しかし、
「シルディを消しちゃってくださーい! でないと、明・理・沙・を返しませーん!」
ユエは、明理沙が予想もしなかったことを言い出した。
「ええ!? なんで、シルディさんを!?」
驚いたのは明理沙だった。
「駄目だ! それは絶対に駄目だ!」
エフィルが断固拒否した。
ユエが片目を閉じて、いたずらっぽく笑った。
「じゃー、明理沙は死んじゃいますよぉ! うふ?」
「そんな……」
言葉に詰まるエフィルの隣で、シルバースターが「しかたないわね」とつぶやいた。
「ユエ。私が消えれば、明理沙は助かるのね?」
シルディが確認した。
黒髪の少女は顔をしかめた。
「そーね。明理沙は助かる、かも! あんたみたいな、良い子なんて大っ嫌ーい!」
「シルディはお前に関係ない」
遮る金糸の君に、黒髪の闇は舌を出した。
「べーだ! 取引に関係あるもないもありませーん! 私のじゆうー!」
「人の生き死にを賭ける取引は駄目だ!」
エフィルが毅然と言う。
「ユエ! バカなことはやめよう。さあ、戻ろう、マジック・キングダムへ!」
「……バカはあんたよ?」
彼の言葉を冷たく笑ったのは、
ユエ、だった。
ハニール・リキシアは、城に残り、星のように輝いていた。
「いいんですか? 主に付いていかなくても」
隣には、カイがいた。
「その主が、ここにいろと命じたのよ」
いたずらっぽく笑ってのける妖精に、先王の息子はうなずいた。
「わかりました」
光は微笑む。
「わたしはマジックキングダムの光なのよ。主が許さなければ、虚無の中には出られないわ」
「ユエ?」
思わず耳を疑って問い返すエフィルを、闇の少女は無視した。その瞳の深淵は、輝く水晶珠の主を睨んで嗤う。
「ねえ、リディアス。わたし、もう手が疲れちゃって、明理沙をポイしちゃいそうよ? ほんとは、一本しかない手だもの。あなたが片方ぶっちぎった所為で」
大魔法使いは、にこりと微笑み返す。
「お前が私の物を横取るのが悪い」
べえ、と、ユエが舌を出した。
「心外だわ。まるでまだ私が握り締めてるみたいな言い草。早速奪い返した癖に」
外見とは裏腹に、口調がだんだんと大人びてきた。愛らしかった瞳が、鋭く深く澄んできた。
「エフィルを私に頂戴。道連れにしたいの」
「お前にくれてやるものなど一つも無い。私はお前を始末しにきたのだから。最期に一目見せてやった、お前にはそれで充分だ」
「その白いのを消さないと、私、許せないの」
「闇の分際で口がきけるようになるからだ。しかし、それももう終り」
「では、交渉決裂ね」
ユエが、満足そうに笑い、明理沙を放り投げた。
「じゃあね明理沙。さよなら。少しの間だったけど、楽しかった」
「?」
明理沙は、まるでユエがシナーラみたいなきっぱりした言い方をする、と思った。
場違いにのんきなことを思うのは何故だろうと思いつつ、異世界の少女は闇に落ちた。
なんだ、拍子抜けした。
この前に、金糸の君に連れられて来た時は、
自分一人ここにいたら、すぐに死んでしまうものだと思っていたのに。
まるで、電気を消した自分の部屋の中。
なんて安らげるのだろう。
……なにも、こわがることは、なかった。
ここは、見知った、闇だ。
わたしは、ユエさんを、知ってる。
落ちていきながら、明理沙は呼んだ。
他ならぬユエを、
「ユエさん!」
見下ろすユエの笑い顔は、シナーラに似ていた。だけど真っ黒で。
「私、あなたのこと、知ってるよね?」
「そうね」
「あなたは、私が目を閉じたら見える、」
まぶたの闇。
ユエは、明理沙に手を振った。
まともな微笑みだった。
「そうかも。もうすぐ目が覚めるよ。じゃ、またね、明理沙」
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