すぎな之助(旧:歌帖楓月)
青い夜が待ち遠しい。
愛しいひとの気配を感じられる、青い夜が。
真夏の陽光が、西の空に消えた。
蒼穹が、群青に変わった。
天頂に三日月。まだ近くにいる太陽のせいか、うす白くかすんで、濃紺の空に浮かぶ。昼の名残の空気が徐々に冷めてくる。
「じゃ、帰るからね」
麻で織られた薄青と白の夏着をきた兄が、部屋にいる妹姫に声を掛けた。
扉に背を向けていた金の巻き毛の姫は、手入れをしていた銀の剣をそっと床に置くと振り向いて、「お姉様には、会えませんでしたね」と小さく言うと眉を下げた。
兄は軽く笑って返した。
「お祈りの時間だからね」
「ええ。でも、もうすぐ終わります。それまでは、」
それまで待っていらしたらどうでしょう? との続く言葉を聞かず、海色の髪の王子は「東の城までは遠いから、」と首を振って、少し目を伏せて笑って、扉を閉めた。
あ、と、妹姫は声を漏らし、急いで立ち上がって、辞去した兄を追った。
「お兄様っ、お兄様ー!」
まだ彼女の部屋から離れてわずかも行かないうちに、末姫の声が、すぐ近くから、大きく響いた。まるで、はるか遠くに行ってしまった者を呼ぶように。
さすがに、どきりとした。
兄王子は、ゆっくり振り返り、真後ろに立つ妹姫を見つめて、笑った。
「私は逃げないよ? 何か用?」
「お待ちくださいなお兄様。もうすぐ帰ってきますから」
シンデレラ姫が気遣うことは、何も無いんだよ。と、兄は思った。
「気にしないで。別に、取り立てて用があるわけではないし。私は、また来るのだし」
「また、って……でも、来るのは、来週になるのでしょう? 城を出られてから今まで、ずっと、会われてないのに、」
王子は、そっと笑った。
「気にしないで。……姫が心配することは何もないよ」
桜が散り、若い緑陰がそのこずえに準備された初夏に、デューク王子は王宮を離れた。
東にある城へと、住まいをかえたのだ。
別れの時。
父王は嘆いた。ああ、行かないでくれデューク王子、父が悪かった許しておくれ、これからは真面目に仕事するから、どうか置いて行かないで、父を捨てないで、と、身も世もなく泣きくれた。
末の妹姫は仰天した。一体どういうことですか? お兄様どうして? と。今でも、その理由がわからず途方にくれたままでいる。
母は、困惑した。笑い上戸の王妃から表情が消えて、言葉も無い様子だった。
上の妹姫、セフィリア姫は、姿を見せなかった。それから、ずっと。
嫌われたのだな。と、思っている。
清い姫。三日月の使い。
あの、狂った桜が散った日。
三日月姫はきっと、察したのだろう。
……聖に向けてはならない、私の恋情を。
兄のままでいたかったけれど。想いを封じて、兄として在り続けるはずだったけれど。あの、桜が散った日。笑みを浮かべて天に召されようとする貴方を見て、私は……。
デューク王子は、しぶとく食い下がるシンデレラ姫をあやして部屋に戻し、宮殿から王宮へ向かった。東の城へ帰るために。それから、もしや神殿から帰る至聖に会えたらと、淡い期待を抱いて。
日は落ちた。暗い青の空が、星空に変わっている。午後8時を回って、中央神殿の夕の祈りが、終わった。
デューク王子は、玄関へ続くまっすぐな道の途中で振り返る。そして見つめた。通路の奥にある中央神殿の方を。
王宮を出て二ヶ月。相変わらず仕事を放置しがちな父のために、デューク王子は、週に一度は戻ってくる。けれど、それを終えれば、家族と食事を共にすることもなく、東へ帰る。
別れ際のシンデレラ姫の沈んだ顔が浮かぶ。ごめんね、姫。
父は、……相変わらず留守がちなのでよくわからないが、しかしきっと、実生活(本来は王が為すべき仕事)で一番困っているだろう。悪いとは思うが、いい薬になればと願ってもいる。
母は、……母は、どうしてあんな顔をするのだろう。息子がいなくなって寂しい、それだけの顔ではない。怒っているようだ。申し訳ないと思うと同時に、不可解でもある。何の怒りなのかがわからない。
セフィリア姫、私は貴方の妨げにはならないから。
「ディーフリークマリンベータ王子」
謹厳な声で名を呼ばれた。
デューク王子は、王宮の奥から歩いてくる白い長衣の男性に目を留めた。
中央神殿神官長、アルビオレだった。
長い銀髪の初老の男性は、まだ暑い空気の中を、すっと背筋を伸ばして見事に涼しげに歩いてくる。
デューク王子は一礼した。
「こんばんは。神官長」
「良い晩ですね、ディーフリークマリンベータ王子。ところで、」
続く言葉に、デューク王子は耳を疑った。
デューク王子は、初老の神官長の落ち着き払った言葉を、信じられない思いで聞いた。
「……どういうことです?」
「聖王の行方が知れないと、言っているのです」
聖王の行方をご存知ありませんか? と。
「いつからです?」
問う言葉が、乾いた。
「夕の祈りには、いらっしゃいませんでした」
答える言葉は、どこまでも淡々としていた。
デューク王子の胸が、ちり、と、燃えた。
どうして、この神官長は、こうも落ち着いているのか? 聖王の補佐が、どうして、か弱い主の不在を、こうも、
「探されなかったのですか?」
「お探し申し上げたのですが、どこにも、」
銀髪の神職は、軽く首を振った。
「最近は至聖のお加減が優れぬ様子でしたが……」
「わかりました。私が探してみましょう。失礼します、」
デューク王子は、返事も挨拶もそこそこに、駆け出した。
さきほどは軽くぱたんと閉じた扉が、今度は前触れもなく荒く開いた。
シンデレラ姫は、きょとんとした様子で、のんきに振り返った。
「あれっ? お兄様?」
どうしたのですお帰りになりませんでしたの? との言葉も聞かず、兄王子は切り出した。
「セフィリア姫を見なかった?」
末姫は不思議な顔をした。
「……えーと、夕のお祈り、では?」
「『来ていない』とアルビオレ神官長がおっしゃっていた。姫、今日、最後にセフィリア姫を見たのはいつ?」
金髪の末姫は、うううーん、と、うなって、あごに手を当てた。
「えーと、いつでしたかねえ? 午前中はいらっしゃいましたよ? お昼をご一緒しましたの。それから後は、……えーと、えーと、えーと?」
考えて、あれ? と、姫は首を傾げた。
「それからは、そういえばわかりません。あ、そういえば今日はお加減が悪そうで……」
「わかった。それじゃ、」
デューク王子は、返事もそこそこに、扉を閉めた。
宮殿の池のほとりで侍女を連れて夕涼みをする王妃のもとへ、息子が駆けて来た。
半時前に、母と子は、はずまない会話の後に別れていた。
「母上!」
先の丁寧な辞去の言葉とうってかわり、俊足でやってきた王子は凛と声を上げて呼ばわった。
「セフィリア姫をご存知ありませんか?」
「まあお父様なら相変わらずキャバレーマリンレディに行ってしまいましたよホホホ。熱心よねえホーホホホホ」
とんちんかんな答えに、デューク王子は首を振った。
「父上ではなく。セフィリア姫の行方を聞いているのです」
「……え?」
王妃はおっとりと首を傾げた。
「あら、夕の祈りではないの?」
「神官長から不在である、と」
「……あら、まぁ、」
王妃はのんきに肩をすくめた。
「さあねえ。わたくしは、てっきりお祈りに出られているものとばかり」
なんて暑いこと、などとつぶやいて、左手にもった扇子でふわりと顔をあおいだ。
「本当に、今日はうだるような暑さ。夕方まで暑いなんて珍しいこと。元気なわたくしでも、倒れそうだわ」
「今日、最後に姫をご覧になったのは何時ごろです?」
王妃はのんきに扇子をあおぎ続けた。
「……そうねえ。お昼を一緒に食べた、それくらいまで」
宮殿の誰に聞いても、セフィリア姫を最後に見たのは「昼食」の時まで。それ以降は、誰も行方を知らなかった。
どういうことだ?
駄目で元々で、通りがかった侍女に行方を聞きつつ、デューク王子は不審に思った。
尊い聖のことに、こうまで無関心でいられるとは。
いっそ、見つけたら私が連れ帰ってしまおうか。その方がずっと……。
ずっと?
……ずっと、なんだろう?
「誰もデューク様ほどには、セフィリア姫様のことをお気づきにはなれません」
侍女が楚々と微笑んだ。まるで見透かされたように。
「!」
自分でもわかるほどに、ぎくりとした。
「……ありがとう。別をあたるよ」
努めて穏やかに応じて、デューク王子は侍女と離れた。
医師たちなら、知っているはずだ。姫は、毎朝、医師の診察を受けているのだから。
デューク王子は医師の控える部屋へ向かった。
姫を連れ帰り、東の城で、二人で暮らして。
わたしは……いったい、何を考えているのだろう。聖を中央神殿から引き離すなど。神の寝所から連れ出すなど。
デューク王子は、心に浮かんだ甘く苦い想いに首を振り、医師の部屋の扉を開けた。
「失礼します」
「おや、デューク様、こんばんは」
「こんばんは。セフィリア姫をご存知ありませんか?」
「さきほどまでこちらにいらっしゃいましたよ?」
王子の問いに、医師はあっさり答えた。
「……は、」
王子の方がきょとんとした。
医師の所にいたのだ。居場所としては、順当過ぎるほど順当な。
では、なぜ、母も、妹も、神官長すら、この居場所を知らない?
まあ、いい。姫の無事さえわかれば、それで。
「よかった」
デューク王子は、ようやく笑った。
無事がわかればそれでいい。そして、わたしたちは会わない方がいい。
「では帰ります」
「え? お待ちください。まだお話が、」
しかし、医師が引きとめた。
「体調が悪いままでこちらを抜け出した?」
「はい。三日月様に会いに行くとおっしゃられて、たったお一人で……。三人の巫女のお付きが、ちょうど、神官長に呼ばれて不在の時でした」
医師たちは、それぞれに言った。
「先ほど安定剤を打ったばかりなのです」
「猛暑続きで、体調が思わしくなく、」
「昨日も、昼過ぎに倒れられて」
……王子にとって、それはどれも初めて聞く情報だった。
「それで、どちらへ?」
「ここから外へ」
医師は、南へ出る、ガラス張りの戸を指し示した。
「池のほとりの東屋にいらしたのではないかと。あちらは、神殿に次いで三日月様が美しく見えると伺いました」
池のほとりといえば、……さきほど母がいた辺りではないか。行き違いになったのかもしれない。
「デューク様、私たちの願いを聞いてください」
医師たちがこぞって言った。
「こちらに帰られた際には、是非とも姫様のお側にいらしてください」
デューク王子はきっぱり首を振った。
「それはできない」
医師たちには、率直に話した。なにせ、妹姫の命を守る者たちなのだから。
「私は姫に嫌われている。避けられている」
「……」
一様に、不思議な顔をした。
信じられなくて当然だろう。春までは仲のいい兄妹だったのだから。
あれ以来、二人の関係は変わったのだ。
王子は苦笑した。
「姫が眠っていれば、側にいられるけれど」
そう言って、言外に「無理だ」と伝えたつもりだったのだが。
医師たちは顔を曇らせたりはしなかった。
「なるほど! そうですか、その手がありますね!」
「では、お戻りになる時には、あらかじめ、姫に安定剤を処方しておきます!」
「なにもそこまでしなくても」
王子は呆れたが、医師は深刻だった。
「そこまでいっているのです。ご覧下さい」
あれ持ってきて、と医師は助手に言いつけ、姫の診察結果が記された紙を受け取り、王子に見せた。
「ひどい数値なのです」
「……どうして、こんなに、」
何故、こんなになっているのに、父も母も妹も、神官長さえも、ああして落ち着いている?
姫に近しい者達は、何を考えているんだ?
心の奥が、焦げた。
「ですからデューク様。お帰りの際は是非セフィリア姫のお側においでください。貴方は姫の体を安らがせるのです」
それは、桜の咲く、あの夜に知れた事実。
しかし……同時に、私たちは。
しぶるデューク王子に、医師が言い募った。
「どうか、お願いです」
「わかりました。眠っていれば、側にもいられましょう」
姫は、月の光が満ちる東屋にいた。
月光が、尊く優美な体に宿っていた。彼女自身の貴色の髪も同じ色に輝いている。
姫は、東屋に倒れていた。
「セフィリア姫、」
安定剤が効いたのか、それとも、
デューク王子は、静かに歩を進めて、姫の近くに立った。白の大理石で作られた東屋。硬いが、柔らかい月光に満ち満ちた床に膝をつく。輝く姫の髪に手を添える。首筋に指を当てて、脈を確かめる。乱れてはいなかった。少しだけ安心した。
背に手を差し入れ、細くたおやかな身を起こす。月光の髪が、さやさやと流れて床に広がった。
姫は眠っていた。深く。
そして、
「……何を、悲しんでおいででしたか?」
頬が、冷えた涙で濡れていた。
このまま、医師の部屋へ連れて戻ろうと思ったが、月光の下に眠る姫の美しさは言葉に表しようが無く、また、ひどく憐れに思えて、王子は、しばしこの場で姫を腕の中にとどめておきたいと思った。
「何を苦しんでおいでです?」
聞こえぬように小さくつぶやき、デューク王子は三日月姫をそっと抱きしめた。
「貴方が悲しむことは何もございません。姫、」
優美な至聖を腕に抱き、その髪をすいた。
「どうか貴方の苦しみが、癒されますように」
涙を供にしていた寝顔が、いくぶんか安らいできた。
デューク王子は、愛しい姫の頭をなでた。小さく、聞こえぬように小さく、祈りのようにつぶやく。
「具合が悪いんだって? ちゃんと寝ている? きちんと食事をしている? どうか無理をしないで、……大切な妹姫、」
「……う、」
それまで、意識の無かった姫から声が漏れた。
力なく下がっていた右手の、指先がそっと動いた。
麗しい薄紅の瞳が、かすかに開く。目覚めたかと思われたが、それ以上開くことは無く、うっとりとまどろんでいるようだった。
唇が、小さく動いた。
ゆめ? と。
デューク王子はうなずいた。これは夢だと。
すると、姫が微かに笑って見せた。ひどく安堵した様子で。
唇が、動いた。
だいすきなおにいさま。と。
その言葉は、音になりきれぬその声は、デューク王子の胸に重く甘く響いた。
大切な妹姫。尊い三日月姫。
……愛しい、セフィリア姫。
恋情は、おそらくは聖王が必要としないもの。清い身を穢すもの。
私は貴方の兄だ。間違いなく。
……しかし同時に湧く、この感情は、
「おにい、さま、」
小さく唇が動いて、セフィリア姫は兄の背に手を回した。
「姫」
デューク王子は、あくまでも兄として、愛しい姫を腕に抱いた。
それから半時の後、デューク王子はセフィリア姫を医師のもとへ連れて帰した。
兄の腕に抱き上げられて眠る姫の表情は、夜の海に落ちた月光のように、安らいでいた。
「ああ、セフィリア姫様、よかった」
ガラス戸を開けて入ってきた王子へ、医師たちは駆け寄り、姫の様子を見てほっとした。
「姫を頼みます」
王子は、寝台に妹を下ろすと、部屋を辞去する。
医師たちは一礼して見送る。
「はい」
「デューク様、今度お帰りの際も、是非、」
扉の際で振り返った兄は、海色の髪をゆらしてうなずいた。
それから、兄王子は東の城へと帰ってしまい。
「ああー。茂みに潜んでいたらね、やぶ蚊にさされちゃったんだよ。50箇所は軽く超えたねこれは。かゆみ止めの薬をくれないか?」
ガラス戸をそろそろと開けて、王がそこへ入ってきた。
「これは王様、」
「王様、どうぞこのお薬を」
「おつかれ様でございます」
医師たちは、塗り薬を手に、ルシーダ王の方へ歩み寄った。
王は、蚊にさされて所々赤くはれた顔をしている。寝台で安らかに眠る愛娘を見ると、目を細めて笑った。
「よかったねえ、セフィリア」
寝台の側に膝をつき、医師たちから薬をべたべた塗られながら、王は笑い続ける。
「よかったね。これで少しだけ、楽になったね?」
ガラス戸の向こうに、人影が立った。
王妃だった。
侍女たちをひきつれた王妃は、蚊避けと納涼を兼ねて、扇をぱたぱたあおぎながら、これまた部屋へ入ってきた。
「虫刺されの薬をくださいな。あなたお腰は大丈夫? まあ、そのお顔ったら、」
自分も所々赤い顔で、王妃は夫の姿を見ると、クスクス笑った。しかしそれは大きな笑いには変化しなかった。
娘を案じて。
うふふ、と、父王は笑い返した。
「大丈夫だよ、まだまだ僕は若いんだから、姫くらい運べるよ? ところで、君のお顔も赤いよ?」
「まあ、そう? ふふふ」
神殿の最奥で祈る神官長のところに、金の髪の姫が、歩んできた。
「こんばんは。アルビオレ神官長」
初老の神官長は、その瞳を月から姫に移すと、微笑む。
「シルエスタクーデルベルクアンジェリカ姫、こんばんは。良い夜でございますね」
その長い本当の名前をおっとりと聞いて、姫は「一緒にお祈りをさせてください」と願った。
「ええ、よろこんで」
天頂の三日月が、優しく光った。
三日月の姫は、家族の愛に包まれて眠る。
海の色をいただいた王子は、独り、東の城へ帰る。
青い夜が待ち遠しい。
愛しいひとの気配を感じられる、青い夜が。