シンデレラ2

すぎな之助(旧:歌帖楓月)

2 灰色の城

 父様は、亡くなる前に私に話して聞かせた。秘密と、言葉を。
 病に負けた苦悶の表情と、私を残していく無念の思いと一緒に。
「この城を守りなさい。いいね、何があっても守るのだよ。すまない。本当はもっと、言うことがあるのだが、……ごめんな、フロラ、ほんとうは、もっと、」
 そして、十年が経つ。
 今日も継母の、変わらない神経質な金切り声が響く。天井を付き掠るほど高々とした声が。
「シンデレラ!シンデレラ!一体どこにいるの!私の可愛いローズを放っておくつもりなの?」
 息をついて、彼女は足下の4匹の友人たちに声をかける。
「さ、出て行って。捜し物は終わり。部屋にカギを掛けるから」

 灰色の城の化粧室で、青白く太った娘が、発酵したパン種のようにむっちりと、長椅子に鎮座していた。表情は曇天のようにむっつり陰り、頬は脂肪以外に憤懣まで乗せて、小刻みに痙攣していた。
「一体どこにいるのよ!シンデレラは!わたくしの髪が、いつまでたっても結い上げられないじゃないのん!ああ!なんてことなのん!わたくしの貴重な時間が、浪費されていくわん!殿方との雅な遊びに費やされるべき、本来の輝く時間が、どんどん消えて行くわーん!」
 娘は、余計な液体が充満しているような質感のだぶだぶした腕を、めったやたらに振り回した。
「ああ、愛らしいローズ。可哀想に」
 娘の乗った長椅子のそばには、壮年の女性が、額に青筋を浮かべて立っていた。ほっそりした肢体の上には、艶めいた小綺麗な顔が、癇癪に歪んで乗っていた。
「一体どこにいるのよ!シンデレラは!わたしの愛するローズの髪をどうして放って置くのかしら!」
 腹立ちまぎれに、尖った靴で、女性は絨毯張りの床を数度蹴った。絨毯の長い毛足が、ひどい仕打ちで泣き出しそうに乱れた。
「まあ。こわい顔」
「!」
 二人は後ろを振り向いた。
「そんなにお怒りになると、ローズ、あなたはより肥満し、お母様、あなたはよりシワが増えますわよ?ほほほほ!」
 怒りの二人の背後、化粧室の扉の方に、柳の枝のようにすらりとした若い女が、悠然と立っていた。
 母と太った娘は、こわばった表情で振り向いた。
「プリムラ!お前!」
「んなんですってええん!お姉様!色白で可愛いわたくしのどこが肥満なのよ!」
 金の巻き毛の、美女が立っていた。
 彼女は、これ見よがしに、美しく輝く金糸の髪を振って見せた。母も妹も控えめな茶褐色の髪なので、この姉の見事な金髪を妬ましく思っているのをよくわかっている。その上での仕草だった。
 案の定、二人の顔は憎らしく歪んだ。
 プリムラは、クッとほほ笑んだ。
「ああら?わたくしに言わせれば、お母様は年寄りで、ローズ、あんたは良く太らされた白豚よ。おほほ!ああそうね。お城に住んでるから城豚の方がいい?おほほほ!ああ、おかしい!自分の髪もまともに結えないあんたが、どの顔下げて、毎晩毎晩、舞踏会に出掛けるわたくしの後ろをのこのこついて行けるのかしらね?わたくし、あなたを妹だなんて紹介したくないの!それくらいなら、」
 プリムラは、背後に近づいてきた足音を耳にして、婉然とほほ笑んだ。自分が次に言う言葉に、母もこの無能な妹も、怒りに顔を引きつらせるのを想像して。
「シンデレラを連れて行った方がましよ!少なくとも、あなたよりも見目は良い、お母様よりもずうっと若いもの」
 姉姫は扉を振り返って、細い顎をしゃくって見せた。
 二人は、プリムラの想像どおりの顔をしてくれた。

「シンデレラ!お前!一体今までどこで油を打ってたんだい!私の愛しいローズの髪を結い上げもしないで!舞踏会はもうすぐなんだよ!今日はね、ただの舞踏会ではないのよ!王子主催の、大切な舞踏会なのに!お前、何様のつもりだい!この穀潰しの小娘が!誰のお陰で飢えずに暮らして行けてると思ってるんだい!」
 天井裏の物置にいたシンデレラに浴びせられた言葉は、いつも以上に刺と角と悪意と癇癪に満ちていた。
「申し訳ありません、奥様」
 シンデレラは、床にひざをついて手をつき、うやうやしく頭を垂れた。あちこちに黒い染みのついた灰色の衣服を着て、真っ白なエプロンを身につけている。
「ローズ様に良く似合うリボンを捜しておりましたの」
 目を伏せてつぶやいたその言葉に、ローズの鼻の穴がふん!と勢いよく広がった。顔が真っ赤になり、唇が魚のカワハギのようにとがった。
「似合うですってえん!そんな言い訳なんか聞きたくないわん!こんなにかわいい私には何でも似合うのよん!それより早くしてよ!もうすぐ舞踏会が始まるわ!わたくしの到着を待ってるたくさんの殿方が嘆くではないのん!」
「申し訳ございません、ローズ様」
 シンデレラは再度頭を垂れた。
 いつもならシンデレラのとる恭しい態度に、少し優越感の表情を見せるローズだったが、今日は、ふて腐れ、怒ったままだった。
 すでに着飾っている姉姫が、薄笑いの表情で、一人ではろくに支度もできない自分を見つめて薄笑いしていたからだ。
 プリムラは、三人の様子を、まるで高い塔から見下ろす女王のように見て、くすくすと嘲笑した。
「ローズ。まあ、なんて面白いことを言うのかしら?殿方が待ってるですって?あなたを?あんたを待ってるのは料理だけでしょう?舞踏会も晩餐会も昼食会も園遊会も、あなたにとって意味は同じ『食事会』ですものねえ?いいわね、単純で。うらやましいわ」
「!」
 ローズの顔が青ざめた。怒りと屈辱で。丸い体でもがくようにして長椅子からどすんと降りて、姉姫の方へと手足を振り回しながら突き進んだ。
「お姉様!うきいいー!」
 プリムラ姫は軽やかに、踊るように、妹が近寄った分だけ、優雅に距離を離した。
「あらあら?褒めてやったのに、何を怒ってるの?それともそういう酷い顔だったかしら?生まれつき」
「な、な、な!」
 さらなる手ひどい言葉に、手足をばたばた振っていた青白いローズは激高のあまり、卒倒しそうになった。
 母親はぎりっと歯をかみ鳴らし、鬼の形相で姉姫に向かった。
「プリムラ!あんたはあっちへお行き!なんて子なんだい!この性悪娘が!まるで魔女だよ!」
「おほほほ!ああら、お母様?なんて言葉づかいでしょう!まるで、場末の酒場の女みたいな言葉ですこと!」
「おだまり!」
 母親は、長椅子の前の卓台にあった花瓶を、生けてあった深紅のバラごと投げ付けた。
 プリムラは挑発するような鋭い微笑みを浮かべて、舞の足さばきでふわりと身をかわした。
 深紅の地に青や黄色の唐草模様が入っている絨毯に花瓶が落ち、水とバラと自らの破砕音を撒き散らした。
「ほほほ!」
 プリムラは腹を抱えて笑い、優雅な足取りで部屋を出て行った。

「全く!なんて子!なんて子なの!一人だけ父親似だからと思って!自分だけ容姿が良いと思い上がって!」
 継母は、ぶつぶつとつぶやきながら、意味もなく部屋を歩き回った。
「まったく!痛い目に遇わせてやろうとしても、プリムラは……どこか気味の悪い子だし!ああ不愉快!シンデレラ!あたしは部屋に戻ります!いいかい!しっかりと愛しいローズのお世話をするんだよ!」
 シンデレラは、目を伏せて、深々と頭を下げた。
「はい。奥様」
 継母は足音高く部屋を出て行った。
 化粧室には、痩身のシンデレラと、脂身のローズの二人が残った。
 ローズは長椅子に腰掛けて、つぶれたゼリーのようなぐちゃぐちゃな涙顔で、顔を真っ赤にしてうなっていた。
「うう。なによお姉様なんか!ちっともきれいじゃないわん!殿方がお姉様をちやほやするのも、この立派なお城に住んでるから、それだけなのよん!わたしなんか、かわいいんだからん!それでもって、気立てが良くて、繊細で、ええと、ええと、とにかくかわいいのよ!そうよ!あたしの方が百倍はかわいいのよん!」
 細い目からは糸のように涙が流れを作り、鼻からは鼻水が間断なく落ちている。ローズは手近にあった白いレース編みの花瓶敷きを、迷わず手にとって、鼻をかんだ。
「ぶー!ぐずぐずっ!」
 鼻を出して、少し気分に余裕が出たローズは、鏡に映る自分の頭の様子に気づいて、はっとした。
「あん!ちょっとん、シンデレラ!そこはそうじゃないでしょっ!そんなに横の髪を、顔の横に垂らさないでん!私の顔は、花のように愛らしい私の顔はね、髪なんかで隠しては駄目よん!全てアップにしてちょうだい!きっちりとよん!頭のてっぺんまで結い上げて!そしたら、かわいい顔が全部見えるでしょう?わたしを愛してやまない殿方たちにん。うふふふふう!」
 ローズの焦げ茶色の髪を少し降ろして顔を隠し、ほとんど球形の顔型を細く見えるようにしてあげようかと思っていたシンデレラは、相手の要請に素直に従った。
「わかりました。ローズ姫。お顔を出した方がよろしいのですね?」
 ローズは、つん、と、鼻を上げて見せた。気位の高い貴婦人を気取って。
「そうようん?やっぱり品の良いわたくしの顔は、見せるためにあるのですものん!ああん!やめてん!リボンはピンク!ピンクよん!ブルーなんて駄目駄目ん!やっぱり可愛いわたくしには、かわいいピンクよん!愛らしいものには愛らしいものを!わかるん?」
 シンデレラは、天井裏の物置から捜し出したロイヤルブルーのリボンを綺麗に畳んだ。そして顔を上げずに、控えめに答えた。
「いいえ。ローズ様。わたくしには難しいお話ですわ」
 シンデレラのしおらしく柔順な態度に、簡単な優越心をほどよく刺激され、不機嫌でぶうたれていたローズの顔が、ぐんにゃり緩んできた。
「うっふふふうん!そうでしょうねえん?むずかしーい話ですものねえん?」
 シンデレラは、静かにうなずいた。その指には、踊り子が舞台で付けそうな、過度にフリルのついたショッキングピンクのリボンがあった。
「こちらで、よろしいですか?ローズ様」
 ローズは眉を上げて応じた。鷹揚な女主人を気取って。
「ええ。よろしくてよん!さ、急いでちょうだいな。わたくしのことを、会場中の殿方が、首をながああくして待っているわあん!」
 シンデレラは、ローズの髪を、まるで頭の天辺に塔を立たせるように垂直に結い上げた。そして、それに螺旋を描くようにショッキングピンクのリボンを巻き上げていく。
 結い上げた髪が、無意味に垂直にピンと立つ。これで、へた付きの洋梨のような珍妙な髪形ができあがった。
 鏡を通して見つめるローズの瞳が、徐々に悦に緩んだ。
 結う方としては、焦げ茶の艶やかな髪であるので、自然に優雅に流した方が美しいと思うのだが、それを本人が是としないのだから仕方ない。これが、彼女の望んだスタイルだった。
「いかがです?ローズ様」
 予想通り、ローズの顔には会心の笑みが浮かんでいた。
「よくってよん。やっぱり素材が良いと、違うわよねえー?うふん」
 思いどおりの髪にしてもらって、上機嫌になっている。頭の中では、沢山の殿方にダンスを申し込まれて、うれしい悲鳴を上げている自分を想像している。
 シンデレラは楚々と立ち上がった。
「ローズ様、では、ドレスの方もブルーではなくピンクの方でよろしいですか?」
「あたりまえよん!この前あつらえた、あれをもって来てちょうだい。可愛いーいい私にぴったりの、羽飾りのついたあれをね!うふふふー!」
「はい」
 シンデレラは、ローズの衣装部屋へと歩いていった。
 
「ねえ?」
 化粧室を出て、継母の部屋の入り口を通り過ぎ、突き当たりを左に曲がったところで、プリムラが待っていた。
 シンデレラは、床に膝をついて、冷たいほほ笑みを銀月のように浮かべている彼女を見上げた。
「なんでしょう、プリムラ様」
 丁重で恭しいが、この十年間、けして媚びない表情だった。
 プリムラは、策士の様にほほ笑んだ。
「立ちなさいよ?」
 桜色とも薄紫ともいえる色に染められた爪を持った細く白い手が、シンデレラの襟をつかんで引き上げた。けして懐かない、もらわれてきた猫を調教するような表情で、プリムラ姫はほほ笑んだ。
「私と、この城を乗っ取らない?ああ。あなたにとっては取り返す、かしら?」
 シンデレラは、眉を寄せてつぶやいた。
「乗っ取るだなんて。なんてことを」
 プリムラは、ただ笑ってシンデレラの青い瞳をじっと覗き見た。
「なんてことですって?いいの?あの訳の分からない年寄り女にでかい顔されてて?あの女、ここに来る以前は何をしていたのか、知ってるんでしょう?」
 シンデレラはすっと目を背けた。プリムラ姫は浅くほほ笑んでささやいた。
「相変わらず綺麗な肌をしてるのね。悔しいけれど、あたくしよりも美しいし。何よりあの愚かな妹と違って、かしこいものね。それが特に気に入ってるのよ。私」
 プリムラ姫は掴んだ相手の襟を、引き寄せた。
 シンデレラは、表情を消して、姫を見返した。冷たいほど静かに、はっきりと言葉を渡した。
「お戯れは止してください。わたくしは奥様のことなど、何も知りません」
 プリムラは眉を上げて、虐げるように笑った。
「なあに?わたくしがこんなにしゃべったのに、あなたは、しらを切るつもりなの?」
 シンデレラは、襟を掴まれていることに、苦しげに目を細めて声を漏らした。
「……。本当に知らないのです」
 ふっと、プリムラの手が緩んだ。
「いいわよ。そういうことにしてあげても。黙っててあげる。それで?これから灰かぶりのあなたは、ローズちゃんの、どピンクの衣装でも取りにいくのかしら?ああ。想像しただけで憂鬱だわ」
 いらいらと眉を眉間に引き寄せて、プリムラはそうこぼし、ため息をついた。
「そうね。今日はわたくし、舞踏会には行かない。あれと一緒じゃ、寄ってくるものも来ないわ。いい男除けよ」
 シンデレラは、何も言わずに、表情なく顔を背けて床を見下ろしている。
 彼女を見て、さらにプリムラは不機嫌な顔になった。
「……ねえ、」
 プリムラは、シンデレラの足がもつれるほど強く、体を引き寄せた。
 表情のない声がプリムラに当たった。
「やめてください」
 拒絶の言葉に、プリムラは加虐的な笑みを浮かべる。
「あら。そんな口きいていいとでも思ってるの?今のあなたは、単なる使用人。私はこの城の女主人の娘。叩き出されたくなかったら、静かになさいな」
 シンデレラの白金色の髪に指を絡めたプリムラは、しかし、次に眉を顰めた。
「ほこり塗れ。……興ざめね」

「ちょっとお!遅いじゃないのよん!」
 ショッキングピンクの生地に、白色のレースと、純白の白鳥の羽を、襟ぐりや裾などに鎧のように幾重にも取り付けた、ある意味で豪壮なドレスを持って帰って来たシンデレラに、ローズは頬を膨らませ、低く濁った声を出した。
 シンデレラは、衣装掛けに丁重にドレスを掛けると、膝をついてしおらしく謝った。
「申し訳ありません」
 ローズは、自分より低い位置で頭を下げている義理の姉に、私はお姫様なのよ、という上流ぶった虚栄心のほほ笑みを落とした。
「はっはーん!わかったぁ!あなた、わたしの素敵な衣装の山に、見惚れてたのねえ?そうでしょ?いつか、私も、こんな素敵な服が着られる身分になりたいわ!って、思ってたんでしょう?うふふ!でも、無理なのよお?こおんなに素敵なドレスなんて、揃えられないものねえ?あなたには?」
「……そうですね。ローズ様」
 うんうん、と、ローズは三重あごを重苦しくぼってりとうなずかせた。
「そうよおん?さ、わかったら、さっさと可愛いわたくしに、素敵な素敵なドレスを着せてちょうだいっ!」
 ローズは、だすんと立ち上がって、威勢よく、今着ているフリルまみれの薄桃色の部屋着を脱ぎ落としていった。
 シンデレラ姫はすっと立ち上がり、ローズにドレスを着せ始めた。

「何しに来たの?さっきの失礼を、謝りにでも来たのかい?」
「どうしようかしら。別に、謝ってもいいですわよ?」
 母の部屋には、実の娘がノックもせずに立ち入って来た。
 扉を開けてしなやかに歩んでくるプリムラを、母は巣穴に入られた蛇のような形相で睨んだ。
「あんたは、頭は良いけど可愛くない娘だよ!子供のときからちっとも子供らしくなかったしね!愛らしいローズとは大違いだ!」
「ごめんなさいね?あなたに都合の良い子供じゃなくて。それにしても、笑わせてくれるわね?誰が愛らしいですって?あんな肉饅頭のような小娘が、お母様お望みの、裕福な殿方がお気に召すとでも思ってるの?しっかりなさってくださいな。お気は確か?」
 母の頬の肉が、けいれんした。
「お黙り!お前が食わせてるらしいじゃないのよ!知ってるのよ!料理人に頼んでるんでしょう!好きなだけ食わせろって!」
 母は、プリムラの蠱惑的な美貌に向かって、履いていた靴を脱いで投げ付けた。
「この疫病神!」
 プリムラは、蔑笑を浮かべてそれをかわした。赤い絨毯を敷き込んだ床にはね落ちた黒く細い革靴を見て、さらに笑う。
「まあこわい。やはりお育ちが悪いようですわね?お母様?靴を投げるなんて。それも、実の娘に向かって」
 母は、闘犬が飛びかかるように叫んだ。
「あんたの根性よりはましさ!」
 プリムラは、その言葉を聞いた途端、腹を抱えて笑い出した。
「おほほほほ!私よりましですって!?ほほほほ!笑わせないでくださいな!」
 懐からナイフを抜き出すように、プリムラの目は瞬時に笑いを引っ込めて、剣呑な光に置き換わった。
「わたくしは、あなたの背中を見てここまで育ってまいりましたのに。あなたを手本にしてますのよ?なのに、そのような言葉をくださるなんて、心外ですわ?ねえ?そうでしょう?おかあさま?」
 継母は頬を引きつらせてプリムラを睨み、顔を紅潮させ、顔にかかる蝿を吹き払うかのように、粗く鼻息を吐いた。
「ふんっ!」
 そして、もはや娘の忌ま忌ましい様子を正視するに耐えられなくなり、勢いよく顔を背けた。唾を吐くように、言った。
「本当に、お前の名前なんか『プリムラ』で十分だったよ!」
 プリムラは、婉然と、それこそ勝ち誇ったように嗤った。
「ほほほほ!亡くなったお父様から聞いてましたのよ?本当なら私の名は、ローズになるはずだったと。でも、わたくしが生まれたとき、病の床に伏していたお父様は、こう言ったのですってね?『おお、まるで私にそっくりだ。まさしくバラのような美しさ。』そしてあなたを見て、『お前にはちっとも似ていない。』そう言って、満足そうに笑ったと。お母様は、お父様の言いように憤慨し、私の美しさに嫉妬して、私が本来いただくべき『ローズ』の名を取り上げて、『プリムラ』の名を付けた。毒にも薬にもならず、ただ野に咲くだけの、桜草の名前を。私を愛したお父様は悔しがった。でも病に弱った身ではどうにもならなかった。かつては浮名を流した遊び人も、病を得ては形無しだったようですわね。あなたは、父が元気だったころに散々泣かされた憂さを、このときとばかりに晴らした。父に似た私に、プリムラの名を付け、若い男を次々たぶらかして家に連れ込み、そして生まれたあの無能な小娘に『ローズ』と名付けた。父にもあなたにも似ていない、あの子に。でも……、ホホホホホ!」
 プリムラは哄笑した。笑い話のオチを聞いたときのように。
「今となっては、どうでしょうか、お母様?あの小娘がローズで私がプリムラ。巷では良い物笑いの種ですわ?『名をつけた親は一体何を考えているのだ?顔を見れば逆としか思えないが。』ですってよ?お父様への嫌がらせのつもりが、あなた自身の顔に、愚か、という名の泥を塗っただけのようですわね。おほほほほ!ああ、何て愉快!」
 継母は、怒りによる震えで、歯の音をかちかち言わせた。
「お前!それ以上余計な口を利いたら、二度と表へ出られない顔にしてやるよ?」
 粗ぶる感情のために、おぼつかなくなった足取りで、室内に飾ってある甲冑の置物から、斧を引き取ろうと歩み出す。
 プリムラは、盤上の駒を見るように母を見て、微笑んだ。
「お待ちくださいなお母様。わたくしは喧嘩をしにきたのでも、あなたとの過去のわだかまりを精算に来たわけでもございません。あなたの未来の、安定した生活について、話をしにきたのですわ?」
 まさに今、母の心配の中心であったことについて、プリムラは話を持ちかけて来た。
 母の表情が、マムシを見るようなものから、品定めをするものに変化した。
「なんだって?」
 プリムラは、眉を上げて軽く嗤った。
「これまでどおり、裕福な暮らしがしたいのでしょう?かつてのように、ヒモにくびりつかれ、うらぶれた酒場で、金に飢えた獣のように、客にまとわりついて微笑みを浮かべ続ける生活には、決して戻りたくないでしょう?わたしに良い案が、ありますの」
 母の目が、底暗く光った。
 両手で持った斧を、プリムラに向けた。
「お前、何を算段してるんだい?ずる賢い女だねえ。お前は昔からそうだった。この魔女め」
 プリムラは、揶揄するように微笑んだ。
「話に乗るのね?お母様。では、まず一つ、取引しましょう?」

 鏡の前には、胸焼けを起こしそうに濃厚な桃色と、滝のような怒涛のフリルに取り憑かれたダルマが立っていた。
「いやーん!ローズったら、かわいらしいわーん!うふっ!」
 満足そうに、ぐるぐると回っている。5回転したところで、ローズは、鏡を睨みつけた。視線の強さでひびが入るのではないかと思うほどだった。そして、自分の背後で膝をついているシンデレラを見た。
「ちょっとおう!シンデレラ!」
 この難解なドレスを見事に着付けた義姉に、いわれのない苦情を浴びせるような口調だった。
 シンデレラは、静かに顔を上げた。
「なんでしょう、ローズ様」
 ローズは、つん、と天井を見上げて、にやりと笑った。
「わたしの隣に立ってごらんなさいよ?」
「?」
 シンデレラは、ローズの意図がわからなかった。
「はい」
 立ち上がり、ローズの隣に立つ。二人で並んで鏡に映る格好になった。
 洗いざらしの、落とせない黒いしみのついた暗い灰色の服を身につけた、プラチナブロンドのすらりとした乙女。全身を桃色とフリルに取り巻かれ、焦げ茶色の髪を塔のように垂直に結い上げた、丸々した乙女。
 どちらも完璧に美しいとはいえないが、造作の美醜は明確だった。
 シンデレラが並んだ途端、ローズの鼻の穴が二回り大きく膨らんだ。
「ブフフ」
「?」
 シンデレラには、ローズの抑え切れない笑いの意味が、わからない。
「ブフフフフ」
 鏡を割れんばかりに見ていたローズは、勢いよくシンデレラの方を向いた。もううれしくて堪らない様子だった。
「やっぱりわたくし、お姫さまよねえええん?あんたと違って、にじみ出る気品があるっていうのかしらあん?もう、お城と小屋くらい、おおっきな差があってよん?」
 シンデレラは、しずかに微笑んだ。
「そうですね」
 ローズはうれしさにこらえきれずに吹き出した。
「ぶふっ!そうでしょおう?やっぱり、そうよねえん?」
「シンデレラ!」
 勢いよく、化粧室の扉が開いた。
 黒真珠が縫い付けられた紫のドレスを着た母と、黒色のドレスを着た継姉が立っていた。母は、宝石箱を持っていた。
「はい、奥様。何か御用ですか?」
「なによん?なあんだ。お母様じゃないの。んもう、びっくりしたじゃないのよう?」
 シンデレラとローズは、同時に振り返った。
「ホホホ!樽だわ!樽!樽よ!オホホホホホ!祝いに使う、レースが巻かれたブドウ酒の樽!そっくりだわ!」
 プリムラが、弾かれたように笑い転げた。
 母が、プリムラを一睨みした。しかし、言葉では何も言わずに、シンデレラの方に向い直った。
「シンデレラ!」
 シンデレラは、床に膝をついた。
「はい。奥様」
「わたくしと可愛いローズは王宮の舞踏会に行くわ。あなたは、私たちが帰ってくるまでに、」
 そこまでいうと、母は、真っ赤な宝石箱のふたを開けて、中身を床に落とした。
 突然の夕立のような、バラバラバラという音を立てて、無数の真珠が、絨毯の上に転がり落ちて行く。
 母は嗤った。
「この真珠をよりわけなさい。偽物と本物が混ざっているの。本物だけを選んで、明日の舞踏会にローズがつけていく首かざりにするつもりよ。……そうだわ。偽物の方は、酒につけて洗っておいてもらおうかしら?」
 シンデレラは、目を見開いて、床に転がり行く無垢な輝きの真珠を見つめた。
 どれが本物で、どれが偽物か。
 見分けがつかない。
 母の目が、シンデレラの途方に暮れた表情を見て、夜の雨のように冷たく光った。
「もしもできなければ、この城から、出て行ってもらうわ!」
 シンデレラの隣に立つローズは、にまりと笑った。
「んまあ!どれがどれやら、ローズにはさっぱりわかりませんわん!こんなこと、馬鹿なシンデレラにはとても無理です。ねえお母様ん、どうせ無理に決まっているのだから、明日なんて言わないで、たった今出て行ってもらえば?」
「お黙り樽」
 プリムラが、冷笑した。
 ローズは眉を寄せて眉間に大地溝帯のような深いしわを作り、首を傾げた。
「たる?たるって何?さっきもたるたる言ってたけど。なんなの?おねえさま」
「あんたのことよ。わからないくらいなんだから、あんたは樽よ。いいから婿漁りに出て行きなさい。くれぐれもエサを漁ってこないようにね」
「なっ!なによう!漁るですって、エサですってえ!こんなにかわいい私に、なんて失礼なこと言うの!」
 母が、不機嫌そうに二人のやり取りを見て、苦々しく口を開いた。
「いいから!行きますよ。ローズ」
 声を掛けられたローズは、むしゃぶりつくように母の渋い顔に向かって叫んだ。
「だって!お母様あ!お姉様ったら、ひどいわ!あんまりでしょ?」
「放っておきなさい!」
 珍しく、母が継妹の癇癪を制した。
 ローズは、ぶっと頬を膨らませて、ぷいとそっぽを向いた。
「なによっ!お母様のばかっ!」
「行きますよ」
 二人は出て行った。
「行ってらっしゃいませ」
 シンデレラは震えた声で、見送った。

 二人残った。
 床に広がる白い星団のような真珠を見つめ、シンデレラは表情を無くした。
 全てが同じにしか見えない。
 いくつかを、手にすくい取って眺める。色、艶、真珠独特の光沢、それらは、どれも微妙に違っていた。本物同士の個性の違いなのか、それとも、真偽の差なのか、わからない。
「あら。お人形みたいな無表情が、泣きだしそうよ?シンデレラ」
 プリムラが、酷薄な笑みを浮かべて、歩み寄って来た。真珠の広がりの際まで来て、立ち止まる。
「助けてやりましょうか?」
 冷たいものを含んだ申し出に、シンデレラは、静かに首を振った。
「いいえ。お気遣いは結構です」
「そう。」
 プリムラは、黒のドレスから、すっと足を延ばした。
 無垢な光を放つ、真珠の群れの上に、それは乗った。
 ビシッ、という音が、運命のきしみのように、響いた。
「!」
 シンデレラは息を呑み、真珠を踏み割ったプリムラを見上げた。
「私の言葉に逆らえるとでも思ってるの?」
「そんなことは……、!」
 シンデレラに返答させず、プリムラは膝を付く義妹の襟首に手を掛け、部屋から引きずって行った。

 シンデレラは強い力に引かれて、抗うことも柔順に従うこともできず、無理矢理歩かされている。
「お許しください、」
「お黙り。わたくしに触らないで。汚い手で触ったらドレスが汚れるわ」
 大きな猫を引きずるようにして、プリムラはシンデレラの襟首を掴み、強引に引き連れていく。
 化粧室を出て、母の部屋の前を通り、突き当たりを左に折れ、やがてプリムラの部屋についた。
「逃げようなんて気を起こしたら、窓の外に突き落としてやるから」
 そうささやいて、プリムラは、シンデレラ姫を部屋の中に放り込み、叫んだ。
「あなたたち!この汚い女を磨き上げてちょうだい!」
 シンデレラは、床に転がり、すっと身を起こして、まずプリムラを見上げ、次に、部屋の中にいた女たちを見た。
 プリムラの部屋には、彼女専門の召使が4人いた。4人とも女で、それぞれに美しい容貌と、簡素だが流行の先端をいく作りのドレスに身を包んでいた。
 彼女らは、ほほ笑んで主を迎えた後、一様に顔を曇らせた。
「お帰りなさい。ローズ様」
「まあ。シンデレラではありませんか」
「彼女を入れたら、バラのお風呂が汚れます。それでもよろしいのですか?」
「プリムラ様がおっしゃることでしたら、従いますけど」
 プリムラは、右片頬だけで嘲るように笑った。
「いいからさっさとするのよ。それから、かすり傷一つつけても許さないわよ」
 4人は、お互いに困惑した表情で見合った後に、シンデレラを連れて、部屋の奥の浴室に入っていった。

 4人は、気圧されたように彼女を見た。
 白い絹のガウンを掛けられて、彼女は立っていた。つい一時間ほど前まではきっちりと結い上げられた上に埃をかぶり、艶も何もわからなかったプラチナブロンドの髪が、腰の下までするりと延ばされて、しなやかな光の滝を作っている。肌はミルクのように白く、瞳は夜明け間近の深い青。笑み一つ掃かない表情には、憂いが甘い彩りを添えていた。女神のようだった。
 立ち尽くす4人を睨んでいたプリムラが、ナイフのように鋭い声を投げた。
「何を引き込まれてるのよ!さっさとドレスを着せて!」
 はじかれたように、4人が動き出す。
「はい!何をご用意いたしましょう?」
 プリムラは、悠然と流れる金髪を、右手であっさりかきやった。
「昨日届いたドレスがあったでしょう?」
 一人が、躊躇した。
「あんな高価なドレスを?」
 それには応えず、プリムラはシンデレラの方へ、つかつかと歩み寄った。
「!」
 シンデレラを強引に捕らえて、間近で、秀麗な容貌を削り取らんばかりに見つめて、寒冷な含み笑いをした。



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