シンデレラ2

すぎな之助(旧:歌帖楓月)

53 再始動

 謎を解き明かそうとはやる心が歯車の規則的な動きになじみ、約束を守り抜こうと張り詰めた心が静かな歯車の音に落ち着きを取り戻したころ、二人はお互いの顔を見合った。
「フロラ、今からお願いできるだろうか? この時計室を見て欲しい」
「はい。ファウナ王子」
 王子は、フローレンスを抱き上げて、床から上に伸びる、細い金属製の階段を上り始めた。
 フローレンスの顔には、安らかな微笑みが宿っていた。物ではなく、まるで心を見るように、懐かしく満ち足りた様子で、歯車を見つめる。
「うれしい? あなたのお父様のからくりに会えたのが」
 問いかける王子は、目を好奇心に輝かせながら、歯車とその動きをあちこち見回していた。
「はい」
 フローレンスはうなずく。
「これは私の父ですから。城のからくりには、最後の時間を過ごした父がいて、王宮のからくりには、ここが建設されるときの、楽しかった時間の父がいるのです」
 王子は、歯車から目線を変えて、フローレンスを見下ろした。
「そうか。あのころの」
 フローレンスは微笑みを浮かべて応じた。
「はい。とても楽しかった。空に輝く太陽。緑の森に囲まれたこの場所。石材を運ぶ人達。私は父の後ろについてまわって、父の仕事をじっと見てました。父は真剣な顔で、この、歯車の群れを見上げていました。そして、王子が以前の王宮から駆けていらっしゃる。あのころは、父が導く科学の世界や、王子と遊ぶ楽しい時間に、私の心は占められていたのです。青い空のように」
 二人は階段を上って行く。
「私も、楽しかったな。カールラシェル教授は小さい私の質問にも答えてくれた。学問の扉を、開いてくれたのは教授だった。そしてフロラがいた。一緒に教授の話を聞いて、一緒に走り回ってくれる友達が」
 王子は、思い出し笑いを浮かべた。
「最初はびっくりしたな。女の子はしないだろうと思っていた木登りにはついてくるし。歯車に向かって話す教授のそばでうなずいているし」
 フロラは王子を見上げてにっこり笑った。
「わたくしには、それが普通のことでしたもの」
「そうだったね。私は、人形のように動かない女の子たちしか知らなかったから。つい『走っていいのか?』 と聞いたことがあったな」
「私は『どうして走ってはいけないの?』 と聞き返しました。そうしたら王子はびっくりなさいました」
「答えようがなかったからな。そういえばそうだなと思った」
 王子は最初に苦笑し、次いでおかしそうに笑った。
「ふふ」
 フローレンスは柔らかく微笑んで、同調した。そして、たずねた。
「重くありませんか?」
 王子は軽く首を振った。
「いいや」
 クリスティーナが化けたときに比べると、フローレンスはずっと軽かった。ちゃんと食事を食べられたのだろうかと心配になる。だが、無闇に今までの暮らしについて触れるのは気が引けたので、王子はそのことは言わないことにした。
 それにしても、同じ顔なのに、こうまで印象が違うとは。王子は、歯車に目をやったフローレンスを見下ろして意外な思いだった。昨夜、クリスティーナが魔法で化けたフロラは優美な中にもあでやかさがにじんでいた。今、抱き上げているフローレンスは、涼風のようにきれいな乙女だった。はかなげな雰囲気すら漂っている。
 ただ見つめていたら、フローレンスが王子の視線に気づき、首を傾げた。
「どうしました?」
「いや、なんでもないのだ」
 王子は目線を外したが、代わりに頬が淡く赤くなった。
 見とれていたと言うには恥ずかしく、ただ黙っているには気まずく、困った王子は、答えのわかっている問いかけをした。
「フロラ。ところで、調整する歯車はどこにあるのだろうか?」
 フローレンスは、ちょっと目を見開いて不思議そうな顔になったが、笑って答えた。
「この階段の終わり、一番上にある歯車がそれです」
「そうだったね。歯車は、上から、年を計る歯車、月を計る歯車、一日を計る歯車。そして時間、分、秒、と続いて、一番下が王宮の設備を動かす指示を出す歯車になっているのだった」
 王子は、とりあえず話題が尽きないようにと、きれいに覚えている配置を、ことさら確認した。
「そうです」
 フローレンスはうれしそうにうなずく。うなずいただけでなく、王子の言葉を引き取って続けた。
「下部にある歯車ほど良く動くのです。ですから、下の歯車は毎日しっかり見なければなりません。上の方にいくに従って、手を掛けなくても良くなりますが、かえって上の方は、毎日のわずかな差異にも気を配らなければならないのです。大きな影響を持つ歯車ですから」
「そうか。教授も良くそう言っていたね」
「はい」
 同じ話題を語り合える仲間が十年もいなかった。ようやく話せて、心から喜んでいる。
「笑ったね。フロラ」
 王子は、弾むような雰囲気を表している乙女の笑顔を見て、自然に言葉が出た。
「え?」
 フロラは笑いを中断して、王子を見た。
 王子は笑った。
「昔みたいに笑ったね」
「……あ、」
 まるで、鬱蒼とした山間から、突然、平地が見渡せるひらけた場所に来て驚いているような顔にフロラはなった。
「……はい、」
 王子に贈り物をもらったように、すこしうつむいて恥ずかしそうに、そっと微笑んだ。微笑みはやがて、静かな二筋の涙を連れてきた。
 王子は、フロラのために立ち止まったものか、それとも上り進んだものかと逡巡した後、進む方を選んだ。
 王子はフロラの涙をそのままに、小さな声で語りかけていく。
「ここと同じものを、フロラは見て、触れてきたんだね。十年間、あなたのお父様の約束を信じて」
 フローレンスの涙は止まらない。階段を上るたびに、時をまとめていく歯車たちの森を上がるたびに、心の中にある何か重く暗いものが、ろ過されて出て行くように。
 次第次第に、周りにある歯車の数は少なくなっていく。フローレンスの心の残った、辛い記憶、悲しい記憶が浄化されていくように。
「この王宮のからくりは、ずっとあなたを待っていた。教授の約束通り。……ほこりも何も積もってないな。多分、十年前のまま。あなたを、待っていたんだね」
 王子は、長い物語を聞き終えたように、息をついた。軽くフロラを持ち直すと、フロラは小さくしゃっくりをあげて、右手で涙をふいた。
「教授とフロラの約束が果たされるまで、私への教授の挑戦は続いていた。私はあなたの命綱を持っていたらしいね。私は、毎日、開かない扉、時計室の前に立ち尽くしていた。この部屋の中には、あなたと教授との約束があった。時が満ちるまで」
 教授もあんなに回りくどい言い方はせずに、「フローレンスを王宮に呼んで欲しい」と告げればよかったのに、と、王子は思ったが。いや、と思い返した。当時十歳の、直情的だった自分に、わかりやすいことを頼んだら、すぐさま何も考えずに実行に移しただろう。それをされれば、色々なものが壊れるだろう。教授は私に、十年間忘れさせないように、しかもおとなしく待たせなければならなかったのだ。お陰で忍耐力はついた。
 教授の意図を知った今、王子には、この十年は、この親子に振り回された十年だったのか、というため息にも似た気持ちが強くあったが、同時に、フロラを見下ろして思った。
 彼女だって何も知らずに十年間、ただ父親の約束だけで生きて来たのだ。笑えない環境の中で、十年も。
 教授も、他に方法があれば、何もこんな方法を取る必要はなかったのだ。大切な一人娘を残していくのに。
 王子は思う。私は、時計室の外の、何の影響もない王宮で、引き裂かれた二人のことを知りもせずに、ただ十年間、紐を持って立っていただけなのだ。
 二人の周りの歯車の数が、数えるほどになった。
「フロラ、」
 王子はつぶやいた。
「どうだろうか? 教授から、私はあなたを預かったと思うのだ。これから王宮で暮らさない?」
 フローレンスは、顔を上げた。流れる涙が、雨の滴が落ちるように、頬を伝って落ちるところだった。
「いいえ。王子」
 落ち着いたほほ笑みを浮かべて、フローレンスは首を振った。
「父は私に財産を残してくれました。知識と技術と、そして、この部屋には物の財産も残してありました。私は一人で大丈夫です。父が十年と言ったのは、きっと、私が成人するまでに必要な期間です。もう十八ですから、保護してくれる者がいなくても、一人で生きられるのです。父も、そのつもりでいたのでしょう」
「ああ……、」
 王子は二の句が告げなかった。呆れた訳ではなく、何やらつれない思いがした。
 腕の中の乙女は、頼りなげで儚い姫ではなく、父から全てを譲り受け、困難を生き抜いた、成長した一個の人間だった。そうでなければ、約束だけを希望にして今まで生きては来られなかったろう。
 王子は苦笑した。
「失礼なことを言ったね、私は。そうか、あなたは一人で生きられるのだな」
「?」
 フロラは不思議そうな顔で王子を見た。彼が内心で考えていたことには気づくはずもなかった。
 そうなると、王子は困惑する。
「では、どうしようか……。困ったな。これから、時計室のからくりには毎日の調整が必要となるのだが。あなた以外にできる者はいないのだ」
 フローレンスは微笑んだ。
「わたくしが手伝いいたします。そのうち、どなたかに引き継げるのなら、私の覚えていることをお伝えしますし」
「……、ここに、ずっといる気はない?」
 フローレンスは首を傾げて笑う。
「いいえ。ここは王宮でしょう? 私のいる場所ではありません」
「教授は、あなたのことを私に頼んだのだと思ったのだけど?」
 王子は立ち止まった。
 フローレンスは海に届いた川の流れのように、ゆるやかに首を振った。
「いいえ。王子、優しいお心づかいを、もったいなく思います。父があなたにお願いしたのはきっと、私があの城から出られるきっかけを作って下さることだったのです。私には、物質的にも精神的にも、一人で生きて行くだけの財産を残してくれましたもの。ですから、私のことはどうぞ気になさらないで」
 フローレンスはうつむいて、心底うれしそうに微笑んだ。
「私は大学に行きたいのです。父の後を追って行きたい。父が残してくれたものを、できるなら継いでいきたいと思っているのです。やっと自由になった。もう、あの城にいる必要はなくなった。これからは、好きなことをしたいのです」
 王子は、ぽかんと、フローレンスを見下ろした。この乙女は本当に、不幸に打ちひしがれた可哀想な弱い存在でも、運命に流される力無い小さき者でもなかった。庇護する対象では、なかった。
 そういえば、木登りする王子の後を、平然と追って来たのだ。教授に抱かれて行き帰りしていたが、くるりとした明晰な目で、からくりの説明を聞いていたのだ。
 フローレンスは、王子を見上げて、春の昼の陽光のように微笑んだ。
「ありがとうございます王子。あなたのお陰で、私は城から出ることができました」
 王子は息をつき、肩をすくめて苦笑した。
「いいえ。ほんの手助けをしただけだよ」

 やがて、階段の終わりに行き着いた。手すりには、留め具で固定された大きな歯車が一つ、立て掛けてあった。大人が両手をいっぱいに広げたくらいの直径で、銀色の滑らかな光沢を持っていた。
 そして、同じ大きさの銀色の歯車が一つ、頂点にいた。恐らく一年に一度、歯車の歯が一つじわりと動くだけなのだろう。まるで止まっていた。
「これです」
 フローレンスは微笑んだ。旧知の友に会えたように。
「歯車を取り替えます。私を降ろしてくださいますか?」
 王子は眉を寄せた。
「でも足が」
 フローレンスは首を振った。
「大丈夫です。始めれば忘れてしまいますもの」
「私が代わりにできないか?」
 フローレンスは、穏やかな微笑みながらも、はっきりと首を振った。
「いいえ」
「……。気が進まないけど」
 王子は渋い顔をして、そうっとフローレンスを降ろした。
 フローレンスは二つの足で床に立った。
 表情が変わった。
 柔らかでどこか儚げな美貌が、すっと引き締まった。白百合のような印象の美貌が、凝結した白い氷のような硬質なものになった。
 止まっているとしか見えない大きな歯車の軸の所に手をやり、左手でやんわりと、微細な動きをする歯車の自由を奪わないように押さえ、右手で、軸の部分の留め金を速やかにそして丁寧に回して外していく。いくつもの手回し用のネジが外され、それらは全て床の上に、規則正しく並べられていく。
 全ての留め具を外し終わり、フローレンスの両手は、大きな歯車にかかった。歯車の下部に手を掛け、ほんのわずかに左右に振動させるように動かすと、大きな歯車は、素直な、という表現がぴったりなほど簡単に外れた。歯車を両手で支えるフローレンスは、目をほんのわずかに細めた。相当な重さが細い体にかかっている。床を踏み締める両足の包帯に、血がにじみ出した。
 音もなく歯車を床に降ろし、新しい歯車を持ち上げて、ぴたりと軸にはめた。そしてネジで留めていく。両肘から先が、適切な動きをするように仕組まれた機械のように、滑らかにすばやくよどみなく動いてネジを回していく。沢山のネジがあるのに、一つとして間違えなかった。それに、金属同士の結合なのに、ネジを回すときにまるで金属音がしなかった。金属音どころか、何の音もしない。
 王子は目を皿のようにして、見入った。あきれるほどの職人技だった。
 するするとネジが留められていき、そして、フローレンスは振り返って微笑んだ。怜悧な表情はほとんど消えていた。
「終わりです」
 静かで流れるような、洗練された動きで、速やかに歯車の交換は終わった。
「すごいな……」
 王子はつぶやいていた。
 フローレンスは「いいえ」と言って首を振った。
「よかった。取り替えるのが一番大きい歯車で。小さなものだと、歯車を外すには別に道具が必要になりますから、私の手だけではできないところでした」
 説明するフローレンスの足には血がにじみ出していた。
「あ、」
 王子は急いで抱き上げた。
「痛くないかい? と言っても、痛いに決まっているのだろうが。戻ろうか? とりあえずは、病院へ」
「はい」
 フローレンスはうなずいて、取り替えたばかりの歯車を見上げた。
「父様、」
 天にいる父親につぶやくように、小さな声が漏れた。
 王子は同じく歯車を見て、そっと声を掛けた。
「約束が、果たせたね」
「はい」



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