シンデレラ2

すぎな之助(旧:歌帖楓月)

断章 夜明け前の暗黒

 窓は壊されていた。血赤の嵐が吹き抜けたように、ぎざぎざに壊れ、窓一面に血液がしぶいて、ぼたぼたと滴を落としている。窓際は血溜まりがあふれ、大小さまざまなガラス片が血色になって浮かんでいた。
 マリーは、ベットの枕元に立っていた。
「……」
 彼女は、息をついて肩を上下させながら、割れた窓を見つめた。粗ぶる感情に、まともで確かな心が引き裂かれた顔をしていた。顔は、額から流れる自分の血と、大量にかかった娘の血で真っ赤になっていた。
「お前……」
 ベッドの足元に座り込んだロビンが、震えて乾いた声を、喉から絞り出した。
「お前、なんてことを、」
 ベットの枕元辺り一面に、血が飛び散り、窓際から血が、ぽつぽつぽつ、と、時間の経過を告げているように規則的な早さで流れ落ちる。
 勢いよく、マリーはロビンに顔を向けた。
「!」
 ロビンは、恐れ、弾かれるようにベットから飛び降りて後ずさった。視線にさらされただけでおしまいのような気がした。
「ロビン、どうしたのよ、」
 マリーは、ロビンが急激に離した距離を、確実に縮めるように、一歩、二歩と足を踏みしめて進んだ。
「来るな、来るな、」
 ロビンは何度も首を振った。死をもたらす病原菌が撒き散らされるのを見ているかのように、マリーを見た。
 そんな表情で見られたマリーは、両頬を大きく引きつらせ、始動前のエンジンのように体を大きく震わせ始めた。そして、震えて調子の定まらない声を出した。
「逃げないでよ。あなたには何もしないわ。ほら? 私、もう何も持ってないでしょう? なによ……、あんな子いなくたって、構わないのよ」
 ただ前方に向かって歩むしかない亡者のように、マリーはロビンの方にじりじりと向かって行く。
「来るなこの人殺し!」
 マリーはその言葉を飲み込んで隅々まで味わうように、ゆっくりと低く笑い返した。
「っふふふ、人は殺してないわ。あれは魔女。魔女がいなくなっただけよ。そして、継子の方は、……ふふふ、あの子はここにはいない子なの。私たち以外に、あの子がここに住んでいることなんて誰も知らないわ。身寄りのない父無し子の行方なんて、誰も気にするものですか。死んだって誰も気づかないわ。ふふふふ……、わたしは、ああ、わたしは誰も殺してなんかない」
 取り憑く獲物を見つけたように、マリーはロビンに向かって突進した。
「ね? 一緒に暮らしましょうよ。ねえ、ねえロビン!」
 マリーは歪んだ笑いを浮かべながら、ロビンにむしゃぶりついた。顔は血で赤く染まり、左の頬は無残に腫れ、ばらばらに乱れた髪が、血の海からはい上がってきたように、ベッタリと顔に貼り付いている。
「離せこの!」
 ロビンは、恐怖に歪んだ表情で、マリーの腹を蹴った。
「ああ!」
 マリーは床に倒れた。
 ロビンはがたがた震えながら、疫病神を退散させるような口調で言った。
「人殺し! お前、やっぱり人殺しだったんだな! 自分の娘まで……お、お、斧で、き、きき切り殺すなんて……。夫も殺したんだな。それから、おい、俺たちが若いときにつるんだ仲間、あれが全部死んだのは、お前のせいか!」
 ロビンは扉へ向かって後ずさりしながら、血みどろのマリーの恐ろしい外見と、不気味な迫力に脅え、歯をがちがち鳴らした。
「フッフッフフ、」
 床に転がされたマリーは、気味悪い笑い声を漏らす。
「何を言い出すのよ、ふふふふ、」
 呪いに魂を売り、すでに抜け殻となった体を操って持ち上げるかのように、不気味なほどゆっくりと、マリーは起き上がった。
「私は男を愛してきただけ。私は殺してない、殺してないわ。ふふ、ふふふ。私はだれも、殺してなんかない。殺してなんかない。殺してない」
 部屋中の空気を、その言葉の色に染め抜くように、鎮魂歌を歌うように言った。呪文のように何度も。
 ロビンは、マリーの放つ黒い墓石のような不気味な引力から逃れようと、しかし精神的な恐怖に捕らわれて彼女から背を向けることもできず、じりじりと後ずさりしながら、扉に進み始めた。背筋を、数滴の脂汗が伝わり落ちた。
「うふふふ、」
 マリーは、目を滑らかに磨いた金属のように輝かせ、白い歯をあらわに見せて嗤った。血塗れて変形した顔の中で、その歯だけが真っ白で完璧な形と輝きを持っていて、鬼のようだった。
「逃げるの? ねえ、逃げるの? 何もしないと言ったのに、一緒に暮らそうって言ったのに、逃げるの? ふふふ、」
 言いながら、マリーはニヤニヤ嗤い、ロビンの首に縄を巻き付けるような目でじっとりと見て、首を横に振った。
「逃げられないわよう、」
「!」
 それが限界だった。ロビンは、身を翻して鍵の掛けられていない扉を体当たりで開けて、部屋を駆け出た。もはや背後から剣だろうがマリー本人だろうが追って来て構わない、一刻も早く、一寸でも遠く、離れたかった。
「ロビーン、」
 マリーは、海辺ではしゃぐ恋人を呼ぶように、言った。
「ロビーン、もう……、待ってえ」
 なのに、追うこともせず、その場に崩折れてげたげたと嗤い始めた。
「アハハハハハハハ! アハハハハ!」

 ロビンは戦慄の形相のまま走った。頬がひくひくと痙攣している。
 先ほど城中を歩き回ったので、大体の配置はわかっている。あの時は「どうして、城の主人となる自分が、自ら女捜しをしなければならないのだ。」と憤懣やる方ない思いだった。だがそれは、今、幸いな経験となっていた。
 魔女の部屋を出て廊下を左に走ると、突き当たりに階段があるのだ。それを降りれば一階につく。一階に城の出入り口がある。そこを出て、厩舎を探して馬を得る。そうすれば城から出られる。
 ロビンは走った。
 外に出たら、女の犯罪を明らかにしよう。自分も決して人に言えることばかりしている訳ではないが。あの女は、危険だ。放っておいたら、また近寄られかねない。そして、狂っている。十数年前は当たり前の女だったのに。復讐心に取り憑かれた、ただの女だったのに。
 取り憑かれた? 

 ロビンは、その言葉に引っ掛かりを感じた。何に取り憑かれたというのか? マリーが。
 外部の何かに支配されて、復讐心を持たざろう得なかったたのか? いや違う。
 マリーは、夫への復讐心に取り憑かれていたのだ。それはすなわち、自分に取り憑かれていた、彼女の人格そのものということではないか。
 昔から、あんな女だったのだ。あの女を、自分たちは抱いていたのだ。自分自身の欲望の結果だと信じて。自分の意志でそうしていると信じて。あの女の内側も知らずに。ただの女だと思って。
 ネズミの女を抱くよりも、俺たちは恐ろしいことを、していたのだ。
 そして仲間は死んだ。
「助けてくれ、」
 知らず、ロビンは叫んでいた。
「助けてくれ! 誰か!」
 ロビンは、階段を駆け降りた。
 転びそうになりながら降りた。
 そして、一階の石の床を踏んだ。
 そして、
 誰もいない、だだっ広い一階のホールには、
 チュウチュウと嗤うネズミと、
 わさわさと蠢く黒灰色のトカゲ、
 たくさんのカボチャが転がっていた。
「うわああああ!」

 女は立ち上がった。
 床から立ち上がった。
 破れた窓から風が吹き込み、鉄サビのような血の臭気を持ち上げて来た。
「フフフフフ、」
 血の香りが女を嗤わせた。
 自由なのだと思った。
 もう何もいない。
 もう何もないのだ。
 だから、また探しに出掛けられる。
 血まみれの顔の口を開き、女は歌を喉から引き出した。楽しそうに引き出した。
「外はとてもいい天気、あなたの家を出て行くの。雨降りだって構わない、足の傷も癒えたから。扉が無くても構わない、だってここは、わたしのいえ」
 マリーはわらった。
「さようならあなた」
 私の腹を借りて自分の薔薇を産ませた男。 私の復讐に手を貸すと言いながら、いいようにもてあそんで、邪魔な荷物までこさえていった男たち。
 妻に娶っておきながら、私よりも娘を愛していた男。
 マリーは嗤った。
「フフフフフ」
 わたしを利用した男たち。
「フフフフフフフ」

 誰も家から出したりしない。

「だってここは、わたしのいえ」


「助けてくれ! 助けてくれ!」
 ロビンはめったやたらに叫びながら、ホールを走った。大量のネズミが、狡猾な老婆のようにかん高く鳴いて大移動をする。気味が悪くなるほど多くのトカゲが、ミタミタとはい回る。あちこちに明るいオレンジ色の巨大なカボチャがボコボコ転がっている。
 悪夢の光景だった。
 ロビンはトカゲとネズミにはい上がられ、踏みつぶししながら、階段と向かい側にある、巨大な鉄の扉に向かって走った。
「くそうっ! 開け! 開け!」
 ロビンは扉を押した。開かないので体当たりをした。ガッと、音が響いて、全身に痛みと衝撃が走ったが、開かない。引いてみようにも鉄の扉には取っ手がついてなかった。
 城に入るときは、確かにここから来たはずなのに、びくともしなかった。
 床では、沢山のネズミとトカゲとが合い交じって、お互いの上に昇ったり下にうずもれたりしている。トカゲの生臭さと、ネズミの汚れた獣の臭気が、ロビンの鼻に立ちのぼって来て、吐き気を催すほどだった。
「う……」
 ロビンは口を手で押さえて、くぐもったうなり声を上げて、うつむいた。
 そのとき、
「ロビーン、ロビン、どこなのお?」
 階段の方から、声が響いて来た。
「!」
 ロビンは急いで扉を叩いた。
「開け! 開け開け! 開け!」
 鉄の扉を叩く。バンバンガンガンと音が響き渡る。
「あああ! 開けえ!」
 いくら叩いても開かない。鍵穴も、取っ手もない扉は開かなかった。
 ロビンは左右を見た。壁しかない。
「ロビーン、」
 声が、階段を降りて来た。近づいて来る。ここに。
 ロビンは駆け出した。
 どこか、どこか隠れる場所はないか? 
 あの女に見つからない場所は? 
 一階のホールには、それらしい場所はなかった。壁と床と柱しかなかった。
 あった。
 床一杯のネズミと、トカゲとが。
 ロビンは、扉に向かって右側の壁に走り、大きなカボチャの陰になっている壁際の床に、寝転んだ。
 速やかに、トカゲとネズミとが群がった。 ネズミの足爪と腹の毛、トカゲの足先とざらざらした腹が、ロビンの皮膚をかすっていく。おぞましさに背筋がざあっと泡立ち、震えが来る。しかしこれ以外に隠れる方法は考えつかなかった。
 今やロビンは、地を這うネズミやトカゲ以下のものになっていた。
 見つからなければいい。
 あの女が階段を降りきるまで、見つからなければいい。
「ロビーン」 

「あうううう、あううう、」
 ローズは、うめいた。
 腹が痛い。
 母に踏み付けられた。
 痛いが、彼女の腹をとりまいた脂肪は、衝撃から彼女を守った。彼女にはわからないが、深刻な負傷には至らなかった。
 言葉を忘れた。
 母が自分を傷つけた。欲望をなんでもかなえてくれた母が、自分を傷つけた。恋人を奪い取った。邪魔だと言った。
 それで全部吹き飛んだ。
 全部吹き飛び、新しいものが生まれた。
 もうあの女は敵だ。
 あの女は敵だ。あの女は敵だ。やらなければやられる。
「ううううう、」
 ローズは、うなり、仰向けに投げ出されていた体をごろりと横に転がし、緩慢に起き上がらせた。
「うう、ううう、うううう、」
 犬が、自分の縄張りを主張するように、ローズはうなった。
 あの女は敵だ。

 マリーは目指すロビンに追いついた。
「うふふふふ、ロビン。どこ? どこなのお? 隠れても見つけるわよお? どこ? どこにいるのお?」
 階段の最後の一段を、希望をもって踏み降り、マリーは踊るような足取りで、一階に立った。
 床にはネズミやトカゲがごった返していた。「うふふふふふ!」
 マリーは、花畑に立ったような喜びで、見回した。きょろきょろと見回した。
「うふふふふふ!」
 マリーはスキップを始めた。ネズミやトカゲが、数限り無く踏まれていく。
「さあ! ロビーン! どこお?」
 まるで、海辺に立って、水をすくい上げるように、マリーはネズミとトカゲを持ち上げて、放り投げた。
「どこなのお? あはははは!」
 マリーはあちらにスキップしていってネズミをすくい上げて放り投げ、こちらにスキップしていって、ネズミとトカゲをつかみ上げて投げた。明かりのない、夜明け前の、薄暗い石のホールで、ネズミとトカゲの海にあちこち浮かぶオレンジ色の巨大なカボチャ。その中を、血まみれのマリーは踊り回った。男を探して。自分を囲い、養ってくれるだろう男を探して。

 ネズミとトカゲの下で、ロビンの耳は、恐怖に高鳴る自分の心臓の音と、マリーの嬌声とで一杯だった。
 体が震え、歯が震える食器のようにがちゃがちゃ鳴った。
 逃げねば。
 逃げなければ! 
「あははははー! ロビーン! どこおー?」
 マリーが捜し回っている。
 今なら、振り切って、階段を掛けのぼれるはずだ。
 どこか、どこか別の出口を探さねば。
 マリーの声が遠くなるときを見計らって、急いで走れば。
「ロビーン! どこー!」
「あははははは!」
「うふふふふふ!」
「ロビーン!」
「ロビン!」
 しかし、
 声は
 すぐそこに来た。

 マリーは見つけた。壁とカボチャの間に、人型の山を。
 待ちかねた晩餐が運ばれて来たような表情で、マリーはニタリと嗤った。
「えへへへへへ! みーつーけーたああ!」
「うわああああ!」
 人の山が、ネズミとトカゲを撒き散らしながら立ち上がった。
「来るなああ!」
 自走式の罠のように、ネズミまみれのロビンにむしゃぶりついたマリーは、上げられた叫び声と共に突き飛ばされた。
「ぎゃあっ!」
 ネズミたちの海に落ちる。
 すでにたくさん踏み潰されて、辺りは生臭い香りが充満していた。
「うわあああ!」
 ロビンは駆けた。魂すら置いて行く勢いで駆けた。いかなる障害も無視する速さで、階段へ走った。
 マリーは、激しく突き飛ばされて床に転がされたにもかかわらず、鬼のような勢いで起き上がった。
「待てえええ! 待てええ! ロビン、ロビーン! 逃がさんぞお! 逃がさんぞおお!」
 歯をぎりぎりかみ鳴らし、口を歪め、頬とこめかみを痙攣させながら、マリーは血走った目と歪んだ血みどろの顔で、逃げる男を追い立てた。
「待あてえええ!」

 ローズは部屋を這い出た。
 あの女を排除するつもりだった。
 あれがいれば、命があぶない。
 あれがいれば、男を取られる。
 今まで受けて来た無条件に溺愛された記憶は、さっきの暴行で霧散した。
 ここは3階。あの女の部屋は2階。
「ううう、ううううう、」
 四つん這いで、ローズは進む。太った赤ん坊を、大人の大きさまで巨大化させたようだった。
 実際、彼女の精神年齢は、幼かった。欲しいものが「欲しい」と言うだけで手に入り、何の努力も勘案も必要なかった。彼女の言葉は自分の欲望をただ表すだけのものであり、それ以上、深いものでも広いものでもなかった。
 何も知ろうともせず、何も考えようとしなかった。
 姉の不気味さも、継姉の立場の不自然さも、母の不公平な態度も、とるにたらないことだった。
 母はローズを教育しようとはしなかった。ローズも教育されようとは思っていなかった。ただ、口に入る旨い食べ物、飾り立てる衣服、誰かの称賛の言葉、それがあればよかった。それが世界の全てだった。
 そして一度の暴行で全てが瓦解し、ローズは言葉も忘れ、ただ欲求だけが残った。
 ローズが階段まで這い進んだとき、男と女の声が響いて来た。

 駆け上がるロビンに、背後から女が飛びかかり、とりついてきた。
「ぎゃああ!」
 ロビンは絶叫した。
「つーかーまーえーたああああ! ひっひっひっひ!」
 女、マリーはロビンにおぶさるようにしがみつき、彼の左頬に後ろから頬擦りした。
「離さないわよおお!」
「うわああ! うわあああっ!」
 ロビンは全身を大きく振った。空気全部いらないというふうに、激しく身を振った。
「離せ! 離せえっ!」
 ロビンは階段の壁に、自分の背を向けた打ち付けた。取り付いているマリーが、ロビンと壁との間に強たたかに挟みつけられる。
「ぎゃあっ! ぎゃあっ! ……ふふ、ふふふふ! 離すものですかあ!」
 マリーは、打ち付けられながら、ロビンの首に手を回し、憎々しく力の限り締め付けた。ロビンの首の肉が、マリーの手指の間にめりこんでいく。
「おやめ、おやめええ! こうしてやる! やめないと、こうしてやるうっ!」
「ぐぐ、苦しいっ! やめろ! ぐうっ!」
 呼吸ができなくなり、ロビンは意識を失った。膝が折れ、階段を踏み外した。
 二人は一階に転げ落ちた。

 ロビンの下には、女がいた。
 そして、征服すべき目標を見つけたようにして、ネズミとトカゲが群れをなして這い寄って来た。
 二人は気を失っていた。

 ローズは奪われた恋人を見つけた。
 1階のホール、階段の終わりのところに倒れていた。
「……! うえへへへえへ!」
 四つん這いで、足から先に階段をずり降りていたローズは、男が倒れているのを目にして。目をぎらりと光らせて笑った。
「ロー……ざま、へへへへへ!」
 階段にしがみつく肉団子の様子で、ローズはじりじりと降り進んだ。一刻も速くと気は急ぐが、腹を蹴られた時に腰をやられたらしく、立ち上がることもできない。
「げへ。……!」
 ところが、ローズの笑いは凍りついた。
 ロビンが仰向けで倒れている。
 ネズミやトカゲが群がっている。
 ……それで、ロビンの背中からはみ出して痙攣している細い手は、誰だ? 
 とてもよく知っている、手は誰だ。
 ローズの頬が、釣り針に掛けられたようにピイッとひきつった。
「うううううう!」
 敵だ。

「あおお……ぐっ! ああっぐうっ!」
 女のうなり声で、男の目は開いた。
「がっ! があっ!」
 マリーの声だ。
 ロビンは、光の届かない深海にいるような心地で、身を起こした。どうしてか、階段に転がされていた。
 そして、叫んだ。
「うわああああっ!」
 床の上で、丸々太った女が、マリーを踏み潰していた。いや、踏み潰すではない。マリーの上に乗りかかり、体ごと跳ねていた。
 跳ねるたびに、マリーは潰されていた。
「うがっ! ああっ!」
 床は血の海になっていた。トカゲとネズミが血塗られて、真っ赤に蠢いていた。
 ふと、肉の塊が、階段を見上げた。
 丸い顔の細い視線が、ロビンを貫くように捕らえた。狂喜した。
「ロー……ざま! げへへへへへ!」
 跳びはねをやめて、ずるずるとマリーの体から降り、四つん這いで階段を昇り始めた。
「うわああっ!」
 ロビンは逃げようとした。
 だが、立ち上がろうとした瞬間、足首に異様な激しい痛みが走った。
「あうっ!」
 耐えられずに座り込んだ。見ると、足が異常な方向に曲がっていた。階段から落ちた時にやったらしかった。いや、足首だけでなく、膝も痛かった。そういえば、腰も痛い。背中も、腕もだ。
 目覚めて始めて見たのが異様な光景だったので、痛覚が途切れたらしい。
「ぶふふふー、ロー……ざまああ」
 ローズが這い上って来て、ロビンの足を力任せに引っ張った。
 全身を痛みが衝撃となって駆け抜けた。
「ぎゃああっ! 離せ! 痛い! 痛いっ! 離せえっ!」
 ロビンは絶叫した。だがローズは、盗まれた人形を取り返したように、彼を加減なく引っ張って、力の限り抱き締めた。
「へへえへへ! ロ……ざま! ロざまあ! へへへへへ!」
 ばきばきばき、と、生木が折れるような音がした。
 ロビンは、口から泡を吹いた。

 ローズはにっこり笑った。
 階段から下を見る。敵が動かなくなっていた。これでもう危険はない。自分の身を脅かすものは消えた。
 そして、自分が抱き締めている恋人を見た。これは自分の物だ。
 ローズは恋人を離した。ごとり、と、階段に落ちた。
「ああああ、うう」
 暴れたら、すっかりドレスが汚れてしまった。着替えなければ。
 おなかも空いた。ケーキが食べたい。
「ぶふふふ!」
 ローズは階段を這い上り始めた。
 どんなドレスを着ようか。
 そうだ、シンデレラを呼んで、着替えを手伝わせなければ。
「シー!」
 ローズはどなった。
「シー! シー!」
 ローズはどなった。
「シイイ!」
 しかし、灰色の継姉は来なかった。
「シー! きいいいい!」
 癇癪を起こして、ローズは階段を握りこぶしでドンドン叩いた。
「シー!」

 いつまで待っても、シンデレラは来なかった。
 ローズは歯軋りしながら、階段を這った。化粧室に行って、シンデレラを呼んで、今度こそ呼んで、折檻してやる! 
 地底からはい上がる亡者のようだった。
「シー!」

 やがて、夜が明ける。



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