シンデレラ2 後日談2

歌帖楓月

丘の上の一日

 何もかもが眠っていそうな深夜。
「なんだよこんな時間に?」
「お邪魔をしにきましたのよ? 一日の終わりに見る顔は、私にしてくださいな?」
「やっぱりか。お前らしいよ」
 舌打ちと冷笑がぶつかった。
 そして、女の方が先に言葉を発した。
 冷え切っていた。
「本当に邪魔してやろうかしら? フロラはどこ? 挨拶しにいってもいいですか?」
 次に男の声。
「ま、待てよっ、」
 ひきつっていた。
「すまん。このとおりだ許してくれ」
 けたけたけた、と、おそらく腹を抱えているだろう、笑い声が聞こえた。
「はい。おりこうさん。それでは業務連絡です。あなたのお父上から、『もう来なくてよい』と。ふふ?」
 後はわたくしたちにお任せくださいな? と、付け加えられた言葉の、なんと嬉そうなことだろう。暗い夜が不釣合いなほどだ。
「それは可哀想にな」
「いいえ? 楽しいですわ?」
「お前たちはな」
 相手がだ。
「ふふ? 明日は一日晴れますから、どうぞ幸せを満喫なさってくださいませ。それでは」
「ああ。おやすみ」

−−***−−

 常緑樹が長身の番人のようにすっくと立ち、白い花をつけた芙蓉(フヨウ)が人丈に丸く剪定されてふんわりと並んでいる。足元には青や紫や桃色の花を不思議に咲かせるオダマキ草。
 王宮の北に、緑と花がいきいきと育つ庭があった。
 そこには小さな家が建っていた。それは木でできていて、芝生の上に、おとなしくゆったりと座っているように見えた。昨日の夜は小雨が降った。今はうす曇り。世界のすべてが、しっとりと濡れて、まどろむような静けさの中にあった。
 家の中に、銀髪の青年が一人立っていた。
 ファウナ王子だった。
 彼が結婚して四ヶ月。この新居に移って、三ヶ月と少し。
 窓外には、花と緑があふれている。
 これが、フロラのお気に入りの庭。

 フロラは花が大好きだ。ずっと暮らしていた灰色の城には、……切花くらいは生けてあったけれど、全く「庭」がなかった。今は崩れてもう無い、あの灰色の城。荒れた暗い城だった。新居を構えるとき、フロラは花のある庭を希望した。庭の話が終わって、僕が「自宅の作業場はこれくらいの広さでいいかな?」と確認した時も、「その周りに花壇を作ってもいい?」って聞いてきた。にこにこ笑いながら。ちょっと恥ずかしそうに、小さな声で、「手を休めて、ちょっと外を見たときに、春はチューリップとか、夏はひまわりとか、季節の花が咲いてると、ほっとしない?」って言っていた。その後、青い目でじっと僕を見て、ふわりと微笑んだ。……かわいかった。
 僕は、その新居の二階にある寝室に上がる。
 一階の食堂には、朝食を用意してきた。この家には侍女はいない。本当に二人きりの生活。でも不便は感じない。自分の身の回りのことはできるから。大学にいたころに研究室での生活でずいぶんこなされてきた。フロラの方は言うまでもない。
 不便どころか、僕は、フロラと二人っきりで幸せこの上ない。なにより、「邪魔者」がいないのでうれしい。新居ができるまでの一ヶ月ほど、僕たちは王宮に居たわけだが、彼らは……いや、もういい。思い出すのは止そう。今、僕は幸せなんだから。
 僕は寝室の扉を開ける。
 南に面した窓にかかっているカーテンは、半開きになっている。さっき僕が起きたときに開けておいた。明るい曇り空が、優しい光をそっと届けてくれる。
 フロラは、外の光が直接には届かない部屋中央にしつらえられた寝台に眠っていた。
 彼女が眠るときの癖。上掛けにくるまって、丸くなる。
 かわいい。
 こんな時に抱きしめると、フロラは僕の上半身と腕の中に収まってしまう。でも、だいたいそれで彼女は目を覚ます。そしたら、半ば夢見心地でほほえんで寄り添ってくる。
 ……あ、駄目だ。そういうことは今思い出しては。起こす気が失せてしまうから。 
 僕は、寝具から出ているフロラの顔に手をのばす。
 白金色の柔らかい長い髪をすいて、しっとりした頬に触れる。まだ寝てる。長いまつげ。どんな夢を見ているんだろう。
「フロラ、フロラ」
 呼びかけると、吐息混じりの声がもれた。
「ん……」
 僕はフロラの髪をすいて、枕元に手でまとめてあげる。
「フロラ、起きて」
 右を向いていた顔が少し寝返りを打って、上を向く。まぶたが少し震えて、ゆっくりと瞳が開かれる。青い、青い瞳。
 彼女が起きて最初に会う人間は、僕。
「おはよう」
 フロラを見下ろして、ささやいて、ちょっと笑いかける。
 優しくてかわいい、私の妻。
 彼女は、ほう、と息をついたあと、唇が今日初めての笑みを形作った。
「おはようございます、王子」
 ……王子じゃないってば。たまに忘れるんだから。まだ慣れてないんだな。
 僕は笑いをかみ殺す。自分が何を言ったのかまだ気付いてないみたいだから、後でからかってあげよう。
 フロラは瞬きを二回すると、すっかり起きている僕を見て、今度は慌てた。
「わたしったら。朝食の準備が、まだ……」
 急いで起き上がったその両肩を、僕はそっとつかまえる。
「できてるよ。フロラ」
「え……」
「できてるよ?」
 駄目押しのように笑い掛けると、フロラは瞬きをまた二回して、まだ答えられない。
 当たり前だよね。僕だってこんなに急に「予定変更」になるなんて思ってなかったし。
 僕は、言い加える。
「今日から、また交代にしよう?」
 フロラは、心配そうに、僕を見上げた。
「でも、王子。王宮の方のお仕事がありますでしょう?」
 ごめん。それをこれから言うところなんだ。
 僕はそう思って、苦笑した。
「昨日の深夜、フロラが眠った後に連絡があったんだ。もう仕事は切り上げていいって。あさっての月曜から、大学に戻れるんだ。だから、土日の今日明日は仕事も大学も休み。今日から、元通りの当番制にしよう? ああ、それから」
「?」
 次は何を告げられるのか見当もつかない様子で、フロラはきょとんとしている。右手で、少し寝乱れた白金の髪をすいた。僕の手の中で、フロラの肩の関節が動く。華奢な彼女の体。こんななのに、からくり作りのときは、すごいんだから。まだ、僕が適わない所があるのが、悔しいけど。でも、研究中のフロラは、かっこいいから、いいか。
 まあ、それはそれとして。
 僕は、さっきのことを、からかうことにする。
「ねえフロラ? 『王子』って誰のこと?」
「!」
 フロラは、はっとして、頬が紅くなった。そしてうつむいた。
「もう慣れたと思っていたのに」
 そして僕を見上げて、恥ずかしそうに微笑んで呼びかける。
「ごめんなさいファウナ」
 優しい声が、僕の耳に入ってくる。
 かわいい。
「ううん。じゃ、先に降りてるからね」

−−***−−


 侍女がいない暮らし。王子は、最初、少し不便を感じた。あくまで少し。それ以上に彼は幸せだったのだ。新しい生活に生じたわずかな面倒など、無いも同然。消え去った大きな不幸には比べようもない。
「嫌味言いの根性悪達がいない。僕は自由だ!」
 四ヶ月前に結婚して、王宮の北に小さな新居を構えて以来、王子の不幸は消えた。
 ここには、王宮付きの魔法使い達が、今のところではあるが、ただの一人も来ないからだ。
「自由なんだ……」
 南に開いた窓の外を見る。家のひさしに巣をかけたツバメが、庭に立つ暗緑色の月桂樹を超えて飛んできて、すい、と、弧を描いていった。若々しい翼に、王子の笑みも明るくなる。
「その上、幸せだ」
 不幸が消えても、それで幸せとは限らない。たしかにそうだ。
 この王子は不幸を手放し、同時に幸せを手に入れた。
 魔法使いたちが家に来ない。そして愛する妻がいる。
 身支度を済ませた愛しいその足音が、階段を下ってくる。ここに来る。
「いい匂い」
 白金の髪を若々しく簡素に結い上げている彼女は、準備された朝食を見て、そして窓辺に立つ彼に微笑みかけた。
「桃のお茶の香り。先輩からのいただきもの?」
 彼の幸せが、そこに立っている。
「うん。さっそく使ってみた」
 王子はにっこり微笑むと、食卓に向かった。
 白木の食台の上には、真っ白な食器が並んでいる。
 桃の香りをつけた紅茶は、ポットの中で湯気をゆったり昇らせながら出番を待っている。薄切りのパンは、白いしっとりしたその身を、これまた白い丸皿の上に三枚ずつ重ねている。冷たい水にさらされてしゃっきり目を覚ました黄緑のチシャや赤いトマト。もったりと乳色のバター。桃のジャムが優しい琥珀色に輝く。
 ファウナ王子が紅茶を注ぎ、フロラがサラダを取り分ける。
 幸せな二人は、笑みかわしながら朝食についた。
「いただきます」
 朝食を食べながらの二人の会話は、大学での研究内容のことであったり、今また窓外を飛んだツバメの5つのヒナたちの成長のことであったり、桃のジャムや紅茶をくれた大学の先輩のことであったりした。
「5匹とも、巣のふちで羽ばたく練習をしてるし。もう巣立ちだね」
 さかんに飛び交う親ツバメの姿を見つめて、ファウナ王子が言う。
 フロラはほっとした様子で、うなずいた。
「よかった。みんな大きくなれて」
「そうだね」
 王子も同じる。
「でも、別れるのはちょっと寂しいかな」
「ふふ」

−−***−−


 王子、ではなくて、ファウナは良く笑う。
 わたしは、彼のくったくのない笑顔が、大好きだ。
 彼の、少し腕白でとても明るい笑顔を見ていると、わくわくする。暗い曇り空の続く雨期が終わり、明るい太陽の射す夏になったような、爽快な気持になれる。
 今、目の前にいる彼は、実においしそうに朝食を食べている。気持がいいくらい食が進む。健康な男の人だから、それは当然なのかもしれないけれど。うれしくて、つい、みとれてしまう。
 大学にいたときから知っていたけれど、ファウナは料理がちゃんとできる。王子という立場からすると、それは意外なことに思われた。大学に入ったばかりの時、私がそのことをたずねたら、彼は照れて苦笑いをしながら、教えてくれた。「この研究室って、徹夜で様子見が多いだろう? 材料買い込んで調理してご飯ってことが多いから、先輩から叩き込まれた」と。
 あ、桃のジャムを食べ終えたみたい。私のを分けてあげよう。
 パン皿の右となりにある、黄金色のジャムが入った小さなガラスの器を手にとって、ファウナのパン皿の隣に置く。
「足りる?」
 そう言って彼を伺う。と、自分のパンの最後の一枚を手にとって、ファウナがこちらを見た。紫の瞳が、ジャムを今すぐ欲しそうにしてるけれど。私のパン皿に2枚残っているのを見て、思いとどまった様子。
「……フロラは?」
 私は、首を振る。
「いいの?」
 私は、うなずく。
「ありがとう」
 彼は、嬉しそうに、ジャムを引き寄せてパンに塗った。
 桃の香りまでも嬉しそうに漂う。
 こんな時、私は、年上である彼だけれど、かわいいと思う。まるで弟を見ているような気持ちになる。
 私は、南に開いた窓の外を見た。
 また、ツバメが飛んでいった。とても軽やかな動き。
 夏が近い。
 そばでは、食の進む音がする。
 彼は、今日は、休養日になるはず。疲れているだろうから。私はこれから、そうじをして、洗濯をして、庭の様子を見て、そして、本を少し読もうか。
 そう思いながら、ファウナの方を向いて、私は笑った。
 ……かわいい。
「ついてるよ?」
 右手を伸ばして、彼の左頬に触れる。
「え?」
 瞬きして首を傾げてる。気付いてないみたい。
 私は、笑う。
「パンが少しくっついてる」
 左の口元に、ジャムにまぎれたパン屑がついている。
 指先ですくって彼に見せる、と、「あっ」と言って照れた。
「……しまった。桃ジャムの美味しさに夢中になってた」
 手に持っている、あと二口分くらいの大きさになったパンを見て、そして私を見て、彼は肩をすくめた。これは、彼のくせ。「しくじった」って思った時に、そうする。クリスティーナさんと話す時は、よくしている。私と話していてこのしぐさをしたら、この後、ちょっと腕白そうに笑ってみせる。
 ほら。笑った。
 私と彼は、目を見合わせて、笑いあう。
「ふふ」
「へへ」

−−***−−

 
 洗たくと掃除を終えると、9時を過ぎていた。
 結婚した当初から、この家にはフロラとファウナが二人きりで暮らしており、侍女の姿はない。
 正確には、人間の侍女の姿はない。
 夫婦ともに働いている身であるので、両方の仕事が忙しい時だけは侍女が四人来る。四人もくる。
 その侍女たちの正体は、フロラの義姉プリムラの飼っている四匹のハツカネズミだった。
 ネズミが化けた人間ではあるが、だからといって馬鹿にしたものではない。ひどく気が利く。うわさによると、「女の外見」ゆえに不埒(ふらち)な考えを抱いた人間の男を、逆手に取ってきりきり舞いさせることすらあるらしい。かなり頭が良い。
 魔法使いプリムラは、おそらく彼女の一番大切な使いであるそのハツカネズミを、全部寄越してくれる。
 そこのところが、ファウナには、少し申し訳なく感じ、また複雑に感じるところでもあった。
 美しい魔女、いや魔女は例外無しに美しいのだが、プリムラはフロラに懸想(けそう)している。つまり恋している。男のファウナにではなく、女でしかも義妹のフロラに。
 あまり歓迎できることではない。
 たしかに、彼女は酷い環境で育ってきた。だから、共に暮らしていた「優しいフロラ」を慕うのは無理もない、と言えなくもない。医師である兄いわく「プリムラにとって、フロラは母親のような存在」らしいから。それなら、彼女が抱くのは恋人以上に親密な思い、ともいえる。
 可哀想な魔女プリムラが生きる希望、それがフロラだったのだから、責めはすまい。
 けれども。心配になる。
 魔女はその気になれば、「色目」を使って、ただの人間の心をたやすく操ってしまえるのだから。
 ということは、プリムラはその気になれば、フロラの心を容易く……。
 ……。
 暗い気持になってしまった。
 いや、プリムラはフロラをとても大切にしている。愛想というものが欠落している彼女だから、ぱっと見にそうは受け取れないが。
 とにかく、とてつもなく大切にしている。だから、プリムラがそんな道に外れた真似はすまい。
 うん。
 だからこれ以上考えるのは止そう。
 今日は楽しい予定を考えたのだから。仕事も終わったことだし。
「フロラ、」
 台所から出てきた妻に、ファウナ王子は声を掛けた。
「なあに?」
 王子は、晴れ間がのぞき始めた窓外をちらりと見てから、言った。
「これから、丘の上に出掛けてみない? お弁当を持って」

−−***−−


 二人で台所に立つ。
「パンケーキにチーズにソーセージ。ゆで卵。昨日ゆがいておいた菜の花とツクシがあったわ。ソースを小瓶に入れて持っていって、お昼にその場であえてサラダにしましょう」
 フロラが献立を提案した。
 好き嫌いのないファウナは「うん」とうなずくと、さっそく支度に取り掛かる。
「じゃ、僕がパンケーキを焼くから、フロラはソースを作って」
「ええ」 
 夫は冷蔵庫から卵を取り出し、乾物などが入った食品棚から小麦粉とふくらし粉を持ってきた。
 ゆで卵を作るために、鍋に水と少量の酢を入れ、卵を入れて火にかける。
 そうしておいて、粉類を量ってふるい、卵をほぐし砂糖を加えて泡立てて、両方をさっくり混ぜ合わせて、パンケーキの生地を作った。
 フライパンを熱して、手際よく手のひら大のパンケーキを焼いていく。
 最後の2枚の生地をフライパンに流し込むと、冷蔵庫にソーセージを持ってきてナイフで切れ目を入れておく。やがて最後のパンケーキが焼きあがると、同じフライパンでソーセージを炒めた。
 火まわりの調理をするファウナと離れて、フロラは食台でソースを作った。植物油、パインビネガーや果物のジュース、マスタード、蜂蜜や塩を混ぜて味をととのえ、蜜色のソースを作った。
 フロラの後ろに立ったファウナが、肩越しに手を伸ばす。上の棚から藤製のかごを取り出し、できあがった料理を詰めていく。
「楽しみだな。お弁当」
「ふふ」

−−***−−


 二人は家の南にある丘へと向かった。
 さきほどまで明るい曇りだった空は、今、その半分が青くなってきている。
「今日は一日、晴天だっていうから」
 丘の麓。広葉樹の森を通るなだらかな昇り道。明るい緑の木漏れ日を浴びて、ファウナ王子はフロラよりも2歩先を行く。足元は程よく踏み固められた黒茶色の腐葉土。遠い秋の落ち葉が、粉々になって散れている。
「のんびり過ごそう?」
 王子はくるりと振り返って、さわやかに笑ってみせる。今の季節のように。
「ええ」
 フロラはふわりと笑い返す。
 こんなふうに、二人きりで過ごせる時間。心の中にも木漏れ日が落ちるような、ほのぼのとした幸せ。
 先を行く夫のしなやかな背中を見つめていると、フロラはほっとする。
 私は、彼と二人で生きている。彼がそばにいる。今、誰よりも近い家族。うれしい。

「ノバラが咲いてるよ」
 森を抜けた所に、白い一重のバラの群落があった。
 膝丈の高さの草原。白茶けた倒木があって、その上にツルをはわせている。深緑色のつやつやした葉っぱ。先端が赤いトゲが薄い緑の茎のあちこちにある。
「大きな花」
 まるで蝶が惹かれるように、フロラがそちらへと近寄った。
「ファウナ、庭にあるものより、大きな花よ。ほら、きれい」
 うきうきと瞳を輝かせて、フロラは幼児の手のひらほどの大きさの花を見つめ、夫に微笑みかけた。
「うちのは本当に原種だったからね。花の大きさが指先くらいだよね。5輪くらいでまとまって咲くし。これは園芸種が飛んできたのかな? それともこの大きさで原種なのか……」
 王子がそう言いながら歩いてくるうちに、フロラはバラの花の香りをかいで「においはそんなに強くないわ」と感想を言った。
「きれいね」
 たくさんの白いノバラ。初夏の空、草原の中で、とても美しく咲き誇っている。
 しゃがんでいるフロラが、そばに来た王子を見上げて、にっこり笑った。
 サファイアの瞳で微笑む白金色の髪の妻。背景に優しげなノバラ。
「きれいだね」
 もはやバラのことか妻のことか、判然としなくなりつつ、王子は微笑んだ。
 フロラは空を見上げて「晴れてよかった」とつぶやき、ふふっと笑い声を漏らすと再び夫を見た。
「うん。今日はゆっくりするぞ」
 ファウナ王子は、大きく伸びをした。
 空では天へと昇っていくヒバリの声が響く。

 ゆるやかな斜面を登っていく。
 ところどころに、座るにちょうど良さそうな岩が、草の間から顔をのぞかせている。
 ときおり、白いモンシロチョウが、ふかふか飛んでいく。
 ただ眺めただけでは緑ばかりの草原でも、そばに行って良く観察すると、チガヤの細長い葉がしゃんしゃん伸びていたり、カラスノエンドウが赤紫色の花を咲かせていたり、ナズナが小さな小さな白い花を風にそよがせていたりしている。登り道のそばには、お日様のように黄色いタンポポや、しゃれた紫のスミレが咲いている。
 やがて、振り返って見下ろす麓の森の先に、だんだんと下界の街並みが見えてきた。
「王宮だ。大広間の屋根が見える」
 王子は、見知った建物を目にして笑った。
 高い所から見ると、あの大層な場所も、自分の手の中に収まる模型のような、気安いものに感じられる。
 丸いふくらみを持つ大きなえんじ色の屋根が、薄青いかすみの向こうに見えている。王宮のそばを流れる川が、空の青をさわやかに反射して、日光にきらきら輝いていた。
「……あれ? フロラ、大丈夫?」
 肩で軽く息をしている妻に気付いて、ファウナは声をかけた。
 これくらい体を使うことなど、なんともないはずなのに、どうしたんだろう? と、王子は思った。
「ええ」
 微笑みを浮かべての返事だが、本人も不思議そうにしていた。
「大丈夫。おかしいわね? これくらいで」
 昨日の疲れが残ってるのかしら? と、苦笑する妻に、夫は素直に謝った。
「ごめん。もう少し早めに眠らせてたらよかった」
「え?」
 どうして夫が謝るのかわからずに、フロラはきょとんとした。けれど、「何の話」と間違えたのかに気付いて、どぎまぎと「違うの」と答える。
「そうじゃなくて、大学の、研究の方……」
 言葉は段々消えるように、うつむいた頬の色はそれとは逆にあざやかになっていく。
 そんな反応をもらい、王子も自分の間違いに気付いた。
「そうだったんだ?」
 彼女がその手の話題を持ち出すはずもないし。朝からする話ではない。
「ごめんね。早とちりした」
 こちらも頬が少し紅潮する。
「……ううん」
 行こう、と、王子が照れながら笑って手を差し出すと、フロラはそっと握った。
「うん」

−−***−−


 丘の上には、一本のケヤキが生えていた。若々しく明るい緑葉が風にそよいでいる。木の周りに生えた草は刈られていて、芝生のように短くなっている。そこに、木陰とひなたが半々になるように、布を敷いた。寝床二つ分ほどの広さがある。
 二人で並んで座り、初夏の風景を眺めた。
 あちこちでヒバリの声。太陽の光がキラキラ降り注ぐのを喜ぶように、忙しい高音でさえずっている。
 熟した白黄色の麦畑が風にそよいで、動くくぼみを作っている。
 王宮の際と街の中を流れていく川が、空と雲を穏やかに映し、日光を砕けた宝石の輝きのように反射させている。
「あ、大学も見える」
 フロラがつぶやいた。
「え? 王宮しか見えないけど?」
 右隣にいるファウナの問いかけに、ほら見て、と、妻は彼の肩を自分の方へ引き寄せる。そうして、人差し指で左斜め前方をさした。
「ほら、さっき通ってきた麓の森から王宮が見えてるでしょう? その左に小さく、建物の角が」
「あの灰色?」
「いいえ、灰色は街の建物、その下に少しだけ黒い建物が……陰みたいにも見えるけれど」
 王子をもっと近くに優しく引き寄せる。彼も身を動かして、フロラの後ろの敷布に左手を回してついた。
「見えた! 文学部か」
 ようやく確認できて、ファウナはくすくす笑った。
「普段見慣れてる建物なんだけどね。見つかって嬉しいな。こうして見ると新鮮だね」
 さして珍しくもないものを、妙に真剣に探して無邪気に喜んでいる自分たち。フロラも、それがおかしくなって笑った。
「ふふっ」
 寄り添って笑いあった後、やおら王子が立ち上がった。
「そうだ! もっと高い所から見せてあげるよ! フロラ」
「え?」
 腕白坊主さながらに、夫は得意げに微笑みながら妻を見下ろしている。
 妻はおっとりとほほえんで、太陽の光を浴びる夫を見上げる。
「どこ? ケヤキのこと?」
 木登りは今日は無理ね、と、膝丈の木綿のドレスをちょっと持ち上げて、夫に見せる。
「ううん!」
 妻が気付かないのがとても嬉しいようで、夫は満面の笑みを浮かべた。
「ここ! ほら!」
「きゃ!」
 ファウナはフロラの腰を、自分の肩の高さに抱いて持ち上げた。
「あ、ファウナ!? え? あ、」
 突然視界が変わったので、フロラは驚いた。自分がどういう状況にあるのかわからず、きょろきょろと見回し、夫の腕が自分を支えて、彼の顔が自分の右ひじの辺りにあることがわかった。抱き上げられているのだと。
「ハハハッ! 高いだろう? 何か見える?」
 明るい笑い声で問い掛けられた。
「ファウナ、ファウナ、大丈夫!?」
 こんな持ち上げ方をして、彼の腕やら腰やらは平気なのかと心配でドキドキした。
「大丈夫大丈夫! 何か見えるー?」
 変わらぬ明るい声に安心して、フロラは前を見る。
 そして微笑んだ。
「見えるわ。王宮が川に面してるところが見える。ちょうど船着場に小船が着くところ。たぶん、漁師さんの」
「じゃあ父の今日の昼食は魚料理だ。他には?」
「海が見える!」
「本当!?」
 でもここまで! と一声上げて、王子はフロラを下ろした。
「どうだった? 高いところは?」
 フロラは王子の両肩をなでてあげながら、にっこりと微笑み返した。
「楽しかった!」
「天気がいいから、遠くの海まで見えて、よかったね!」
「うふふ。そうね?」
 楽しそうに笑いながら、二人は歩き出す。
 刈り取られた草地から、そうでない所へ。
「登る間中、ずっと気になってたものがあるんだけどね?」
 いたずらっ子のように笑いながら、王子がそちらに歩いていく。
「もしかして、同じことを考えてたかも」
 フロラもくすくす笑いながら着いていく。
「本当?」
「きっと同じことよ?」
 二人は、伸びた草の際にしゃがんだ。
 あちこちに咲いたタンポポが綿毛をつけていた。
「どれだか教えっこしよう?」
「ええ! じゃあ一緒に、」
「せーの!」
 二人同時に手を伸ばした。
「これ!」
「これ!」
 同じ綿毛の茎を、二人で握った。
 目を合わせた。
 あはははは、と笑いあった。
「子供みたいだね!」
「本当!」
 まあるいタンポポの綿毛を折り取って、二人で吹いた。
 白い小さな天使のような綿毛が、薫風に舞い飛んだ。ぱあっと上空に飛ぶもの、そのまま同じ高さでまっすぐ飛び行くもの、ふわりふわりと辺りを舞うもの、色々に宙をゆく。
 夢を見ているように、二人でその光景をながめていた。
 未来へ希望を運ぶ小さな乗り物のように、白い綿毛たちは飛んでいく。
「幸せだなあ」
 王子はそう言うと、満たされた微笑を浮かべてフロラを見つめた。
「あなたとこうして過ごせることが」
 フロラは、ふわりと笑って返した。
「私も」
 深い青の瞳に夫の姿を映して、妻は安らいだ様子で微笑む。
「あなたがそばにいて、こんなふうに過ごせることが」
 王子は照れて、くすぐったそうに笑った。
「へへっ」
 フロラは愛しそうに王子を見つめた。
「ファウナ、大好き」
「僕もだよフロラ!」
 夫は妻を、はずむ心のままに、ぎゅっと抱きしめた。
 フロラはファウナの腕のなかで、幸せそうに笑った。

 駆け回ることはしなかったが、子供時代に戻ったように、二人は草原で遊んだ。フロラの父が生きていた頃、王宮の建築現場のそばにあった草原でそうしていたように。カラスノエンドウやスミレなどの野花をつんだり、スズメノテッポウの葉で草笛を作って吹いたり。
「もしも、子どもができて、そして歩けるくらいの年になったら」
 さわやかに吹く五月の風の中で、ファウナ王子は、優しい野の花を手にもったフロラに言う。
「ここで遊ぼう?」
 遊ばせよう、ではなくて、遊ぼう。親子みんなで楽しく。
「追いかけっこをしたり。木に登ったり。こうやって草で遊んだり」
 ファウナは微笑む。子どもというよりも「仲間」が増えることを楽しみにしている様子で。
「ね?」
「ふふっ」
 思わず、フロラは笑った。
 少年の心を失わない夫が愛しくも面白くもあり、また、フロラ自身も同じ気持ちでいることがおかしくもあり、いつかくるその時が楽しみでもあり。それは、いくつもの喜びが作ったほほえみだった。
「そうね」
 初夏の陽光は若者の笑顔のように明るく世界を照らし、風が乙女のようにすがすがしく吹いていく。
 丘から見えるすべてのものが、はつらつとして見えた。

 そして、
 空が橙色に熟し始めるころ、二人は自宅へ帰る。
 そこで待ち構えていた、妻の叔母である王宮魔法使いから、意外な、喜ばしい、驚くべき、そして待っていた知らせを、受けるのだけれど。

 ……それはまた、別のお話。

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