前言を撤回する。
彼女との出会いは悪夢だった。
「何を青い顔をしているの? 心配しなくても、あなたの財産を食いつぶすほどは食べないわよ?」
「いや。昔を思い出していただけだ」
「昔?」
「君と出会ったときのことだよ」
病院を後にして、私とクリスティーナは街を歩いている。
彼女の金銀の髪と、魔法使いらしい常識外の美貌は、否応なく目立っているが、
「まあ。ホホホホホ!」
この高笑いほどには、目立たないかも、しれない。
「あの時のあなたときたら、怯え慌てること甚だしくて、本当に『お坊ちゃま』だったわよねえ?」
哀れんで見下げる魔法使いに、私は眉をひそめて返す。
「そんなことを言うのなら、君にとっての一般の人間とはすべからく『お坊っちゃま』だということになるな」
逆に、魔法使いは眉をあげた。
「あら。お医者様があれしきのことで震えていては、つとまらないでしょ?」
「あれしき、ではないよ。あれ以上のものは、私は医師になってからも、ほとんど見てはいない。私は法医学の人間ではないから、いや、そちらの分野であっても、そう頻繁には、」
「ところで、私はお肉をご馳走になりたいのだけれど、」
予期せぬ話題の転換に、私は肩をすくめる。
「構わないよ?」
クリスティーナも肩をすくめて返した。
「つまらないわ。これがあなたの弟君だったら、『なんでこの話運びで肉って言えるんだよ!? 食欲が無くなるじゃないか!』と、怒り嘆くに違いないのだけれど。ああ、あなたはやっぱりお医者様よねえ、残念だわ」
「うん。たしかにそれは君の見込み違いだね。医者にそんな話をしても効果が無いよ」
「……」
珍しく、クリスティーナが口角を下げ、面白くなさげな顔をした。
おや、私の勝ちかな? と、嬉しく思ったのだが、実はそういうことではなかった。
「……魔女がいる」
彼女が表情を曇らせたのは、別の理由からだったのだ。
今、私たちは、街を流れる大河に架かる橋を渡ろうとしていた。
その河は、ここから少し下流で王宮のそばを通っている。
最近、王宮の取水口に船が吸い寄せられるという事故が多発しているのだが。原因は定かではない。設計に誤りがあるのでは、という疑いもあるにはあるのだが……。
「魔女? どこに?」
私がクリスティーナに聞くと、彼女は橋の真中に設けられた展望場所を指差した。
小さな、汚い身なりの子どもしかいない。
「どこに?」
クリスティーナの表情からは、平素に浮かべている、意地の悪い笑顔が抜け落ちていた。
「橋の上と……河の中」
表情の無い、魔法使いの顔をしていた。
プリシラは、母のために氷を作ろうとしていた。
いつものように、橋の真ん中の、少し河側に出っ張ったところに立つと、にぎりしめた氷嚢を、橋の外に突き出した。
河の水がこの袋に入り、冷たく凍る様を想像する。そして強く思う。
母の具合がよくなりますように。どうかお願い。
『来たのね』
すると、河から声が聞こえてきた。
プリシラは、一生懸命に氷を造りながら、うなずいた。
『また少し集めたの。あなたのお母さんのために、使ってね』
声が途切れると、氷嚢が少しばかり重くなった。
「ありがと」
3歳にも満たない女の子は、お礼を言った。
『早く元気になるといいね』
河の声は、そこで終わった。
プリシラは、突き出していた氷嚢をひっこめた。
袋の中には、彼女の握りこぶしほどの濁った氷が3つと、小さな銅貨が3枚、入っていた。
帰ろう。
これで、ママがまた元気になる。
プリシラは、にっこりと笑った。
頭からかぶったボロ袋を、ふるふると揺らした。
「お待ちなさいな。お嬢ちゃん」
けれど、いつもと違うことが起こった。
誰かに呼びかけられたのだ。
プリシラは、この声は、間違いなく自分を呼んだものだ、とわかった。
なぜ、そうとわかったのかは、自分でもわからないけれど。
いつもなら、急いで家に帰るはずのプリシラだったが、なぜか立ち止まり、振り返った。
女の人と、男の人が、こっちを見ていた。
プリシラは微笑んだ。
……願いが、叶うのだと。
「一体、誰が魔女だっていうんだ?」
「あの子よ」
つかつかと、クリスティーナは歩いていく。魔法を使ったりはしない。
ちょうど、展望場所にいた、汚れた袋を被った小さな子どもが、自分たちに背中を向けて、歩き出そうとするところだった。
「お待ちなさいな、お嬢ちゃん」
魔法使いが声をかけた。
「あんなに小さいのに、魔女だって?」
私は不思議に思った。どうにも、自分の想像する「彼女たち」とは、「妙齢の根性悪」しか思い浮かばないのだ。あんな幼児がそうだとは思えない。
早足で歩くクリスティーナに問うと、笑っていない声が返ってきた。
「魔女に小さいも大きいも無いわ。チビのくせに、もう魔法を使っている。歪んでいたら大事になる」
すると、小さな子どもが駆け出した。
「逃げる気?」
魔法使いが酷薄な笑みを浮かべた。
まずい、と、私は思った。
この王宮付きの魔法使いは、魔女狩りをするつもりなのだ。あんな小さな子に酷いことを。
「少し待ってくれ、クリスティーナ。その前に、まず私が、あの子と話を、」
クリスティーナを置いて、私が駆け出した。
命が、目の前で失われるのは、医師として看過できない。
「お嬢ちゃん。お嬢ちゃん、待って!」
呼びかけた瞬間、
私の体は、風に舞う紙きれのように宙に舞い、橋の上空を飛んで、河の上に移動させられ、
そして、
落とされた。
「うわあああ!」
魔女を狩るためならば、クリスティーナはここまでするのか!? と思った。
『私の仲間に、何をするつもり?』
ところが、高いかすれ声が、河の中から、私の耳めがけて差し込まれた。
「!?」
深緑の大河に落下しながら、私は、あの根性悪魔法使い以外の声を聞いた。
ひどく儚げなものだった。
いや、今はそれどころではない。
「うわああああ! クリスティーナー!」
もはや、誰が魔法を掛けたのかは、どうでもいいのだ。私は、今、危機的状況に陥っている。一番助けてくれる可能性があるのは、彼女だけだった。
「助けてくれ! 私が悪かった! だが、こんなに怒らなくてもいいじゃないかー!」
ひとまず謝ってみた。
髪の毛が、ずぷりと河に落ちた。
そこで、落下は止まった。
「一応、言っておくけれど。落としたのは、私じゃなくってよ?」
頭皮すれすれまで河面に浸かった時点で、クリスティーナは落下を止めてくれた。
彼女は河面に偉そうに立って、上下逆になっている私を見下ろす。
「もう一度、私に謝りなさい」
この状態でか?
しかし、言うことを聞かないと、落とされて河流しにされる。彼女だからこそ、やりうる。
「すまなかった」
頭に血が昇って、めまいをおぼえながらも、私は、なんとか、彼女の命令を聞いた。
クリスティーナは、鼻で嗤った。
「さすがに、命が懸かると素直ねえ?」
横柄に過ぎる。
彼女を命の恩人などとは、呼びたくない。
「せめて、私の体を、上下正常な位置にしてくれないか」
耳にさんざん響く、ゴオゴオという音が、水流なのか、血流なのかわからなくなってきた。
「我がままなこと」
舌打ちと共に、そちらこそ傲慢な答えが返ってきた。
「それはすまないな」
私の声が、震えた。今は怒りでそうなった。
しかし、この性悪魔法使いは、なかなか願いを聞いてくれない。
何をやっているのかと、私は頭をガンガンさせながら、視線を上げて彼女の顔を見る。
と、なんと、明後日の方向、つまり、私とは逆の方向を見ているではないか。
彼女が向いているのは、ここからだと河の下流側にある、王宮の取水口の方だった。
「クリスティーナ、早く……」
あ。
駄目だ。
私は、平素、逆立ちなどしない。こんなになったのは、子どもの時以来だ。
もう駄目だ。もう無理だ。
意識が遠のく。
「この私の前で、舐めた真似をしたものね?」
王宮の魔法使いは、冷然と取水口の方を見た。
「出てらっしゃいな?」
しかし、河は河でしかなく。
深緑の流れは、街を置き去りにして、海への旅を続けている。
クリスティーナは、河面に膝を付いた。左手を平らに浸ける。
「水の中に隠れるなんて、湿っぽい魔女だこと」
河の水の緑が、明るく輝き始めた。
底の方から、よどんだ悲痛な声が浮かんできた。
『やめて、やめて、』
「では、さっさと出てらっしゃい」
王宮魔法使いの唇が、嬉しそうに歪んだ。
「でないと、河ごと引っくり返すわよ?」
やめて、と、かすれた悲鳴が河に流れた。
『魔法使い、私を狩る気でしょう? でも、少し待って欲しいの』
哀願に、クリスティーナは目を不機嫌に細めた。
一層、河面の輝きが増す。
「言葉の遣い方がなってないわよ、魔女。私を、誰だと思っているの?」
『ああ、魔法使い様、ご無礼の程お許しくださいませ。私は、何も、理由なくこのようなことをしている訳ではございません。どうぞ、この私めの話に、お耳を貸してやってくださいませんでしょうか?』
「聞いたところで、許さないわよ?」
『お聞きいただくだけで光栄でございます。どうか、』
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