腹を押さえて、寝室の床に転がった、少女魔法使い。
「お腹が空いたわ」
炊事場に立つ私に、そればかり言う。時に咳き込むのが、気になるが。
「もうすこし待ってくれ」
私は、林檎をすりおろしたり、牛乳にパンを入れてふやかしたりしている。
「ご丁寧に調理しなくて結構よ。そのまま持ってきて。歯があるのだから」
「消化器官がないだろう」
病院で縫合して輸血をする、というのが、最善だと思うのだが。彼女にとって医者に頼るならば「死んだ方がまし」らしい。
「よし、できたぞ」
「早くちょうだい。早く早く」
飢えたように急かす。いや、飢えているのだ。
「わかったよ。ちょっと待って」
私は、せっかく作った食事をこぼさないように、「ゆっくり急いで」、ぼろぼろの魔法使いの側に腰を下ろした。
盆を床に置き、林檎のすりおろしを、さじで救って、血まみれの口に入れてやる。
「おいしい、」
真っ赤な顔が笑った。
「それはよかった。どんどん食べて、」
私も、それを聞いてほっとした。
また、林檎を口に入れてやろうとするが、
「うっ」
彼女は、一声漏らすと、速やかに吐いてしまった。
「無理か……」
咀嚼し嚥下した先には、健常な器官がない。だから戻すのだろう。
そう思っていると、魔法使いは、もっと基本的な欠落を言い出した。
「唾液が出ないわ。やけに口が乾くと思ったら」
どこまでズタズタなんだ。
「……やはり病院に」
私には、それしか思い浮かばない。
「なんですって?」
思った通り、睨まれた。
そして、ある意味で当然の要求をしてきた。
「あなたの唾液をちょうだい」
つまりそれは、多くの意味で予想外の要求といえる。
「えっ?」
私は耳を疑った。
「唾液をちょうだいと頼んでるのよ?」
魔法使いは真面目な顔をしていた。
「そんな、」
私は、ひるんだ。
「唾液がないと、炭水化物を糖分に分解できないの。お医者様の卵なら、当然知ってるでしょう? 糖分があれば、細胞が力を得られるの。わかってるでしょう?」
彼女は迫力を持って真剣に言う。
「でも。でも、どうやって、」
私は及び腰になる。
魔法使いは「簡単なことでしょう?」と呆れた。
「あなたの口から出るんだから、それを私の口でいただくの。食べ物を噛んで、それを私にちょうだい」
「く、口移しか……」
自分でも、今の自分が非常に嫌そうな顔をしているとわかる。あらゆる悪い予感が、頭を鮮明によぎったからだ。
篭絡されるのではないか、とか、肉として喰うつもりじゃないか、とか、魔の息吹を吹き込まれ操られるのではないか、とか。
「くれないなら、このまま死ぬだけのことよ」
静かな声が耳に入った。
私は、はっとした。
「私は、まだ、何も言ってないぞ」
クリスティーナは落ち着いた顔で、首を振った。
「思い切り顔に書いてあるわよ『勘弁してくれ』って」
その通りだが。
「しかし、私は、断るつもりは無かった」
「私は、あなたを騙しているかもしれないわよ? 私に触れたら操られるかもしれないわよ? 喰われるかもしれなくてよ?」
反射的に身体が震えた。
それを見たクリスティーナは、おかしそうに笑って、目を閉じた。
「そうそう。それが王族の正しい反応よ。さあ、ここから出て行って。明日まで、入って来ない方がいいわよ。……さよなら坊ちゃん」
声が、最後になるにつれ、小さくなった。
「クリスティーナ?」
返事がない。
腹を抱えていた手が、力を失って床に落ちた。中身が、こぼれた。
その後に、静寂が、広がる。
わかる。演技でも冗談でもない。
つまり、
私は、あっけない最期に、ぞっとした。
「クリスティーナ!」
どうしてだ?
どうして、自分の命に対してだけは、こんなに無欲なのだ?
訳がわからない。
だから魔法使いなのか?
「死ぬな! あっさり死ぬな! 馬鹿みたいじゃないか!」
こんな、喜劇みたいな最期、……ちっとも人間らしくない、
私は、医者になる人間だ。
目の前で、こんなふうに、命が失われてたまるか。
すりおろした林檎を、さじですくい、口に含んで、噛む。
それを、事切れた魔法使いの口に、移しいれた。
血の味が多分にする。
嚥下を確認するゆとりはない。次を噛んで、移す。
それを繰り返すうちに、クリスティーナの口から、林檎のすりおろしが溢れた。
動く気配がない。
首筋に手を当てて、脈拍を確認する。完全に停止してはいなかった。弱く、かすかに、ゆっくりと、拍動はある。
死んではいなかったのか、なんとか蘇生できたのか。
どちらにせよ、生きていればいい。
私の唾液が、役に立てばいいが。
栄養吸収の面では、彼女の希望に答えた。
次は、……こぼれた腹の中身を何とかしてやりたい。
よし。
私は、まず、自分の手を洗い清めて消毒し、腹を見せてもらうことにした。
が。
林檎のすりおろしで溢れかえった彼女の口が、言葉を発した。
私が、床から立ち上がろうとする前に、だ。
「余計なことを、する気じゃないでしょうね? 例えば、治療行為とか」
「!」
意識が戻った!
私は喜んで、また、床に膝をついた。
「クリスティーナ! よかった!」
魔法使いは、林檎まみれの口で言った。
「食べ物を与えてもらうだけで、十二分よ? 遠慮ではなく」
「わかったよ。……よかった」
私の目から、涙が出てきた。
心からよかったと思い、そして、嬉しかった。
「よかった……ああ、よかった」
命が、助かったのだ。
「何を泣くの? 困った坊ちゃんね」
私を見ているクリスティーナが、あきれて、笑った。
「いいんだ、おかしくても」
右手で、涙をぬぐう。何をいわれても、涙も微笑みも、止まらない。
「君たちにとっては、どうでもいい命かも知れないが、私にとっては、かけがえのない命だから」
「まだお医者様じゃないのに、もうお医者様気分なのねえ」
おかしがる魔法使いに、私は、首を振ってみせた。
「違うよ。違うと思う。魔法使いは変に思うかもしれないが、私たち人間にとって、命は大切だ」
「それは嘘ね」
魔法使いはきっぱりと答えた。
「私たちが魔女の駆除をしているのは、王の命令があるからよ。つまり、あなたがた人間が命じているの。人間が皆、命を大切に思っているのなら、させるはずがない」
「……そうだな」
何よりの証明を、突きつけられた。
「その通りだ。私の表現は間違っていた。では、何と言えばいいのだろう、」
困惑する私に、クリスティーナは言った。
「話を大きくしすぎただけでしょう。『あなたは命を大切にする』。それで、いいんじゃないの?」
「私だけかな……?」
限定されて、寂しくなった。人間として、当たり前だと思ったのだが。
魔法使いは「本当に変わり者の坊ちゃんねえ」を呆れて、それから私に命令した。
「では、あなたが大切に思っている私の命のために、今度はそっちの牛乳に浸けたパンをちょうだい」
「さっきから気になってるのだが、林檎を飲み込まないのか?」
彼女がしゃべるたびに、口からすりおろし林檎が溢れ出てきて、何をやってるんだろうこの魔法使いは、と思ったのだが。
クリスティーナは当たり前のように答えた。
「まだ、飲み込んだら吐くもの。今のところ、私が栄養を吸収できるのは、口の中だけよ」
「……栄養を吸収する器官は、胃と腸だけだったと思うのだが」
「だって魔法使いですもの」
「そうなのか?」
「そうよ。さあ頂戴。動物性タンパク質が足りないわ」
唾液には、タンパク質分解酵素は入っていなかったと思うが、魔法使いだから違うのだろうか。
私は、言うとおりにした。
でないと、また、あっけなく死にそうで、気が気ではない。
牛乳に浸したパンを口に含み、かみ締める。
幼い頃の味覚が甦る。朝食の一つがこれだった。
「どろどろになるまで噛んでね」
クリスティーナの要求に、私はうなずいた。
つまり離乳食の状態にすればいいのだ。
しかし、唾液と一緒に、私の口内に棲んでいる善悪両方の細菌も移入されるわけだが、大丈夫なのだろうか。魔法使いだから、免疫力がべらぼうに強いのかもしれない。
……なんというか、医療行為とはかけ離れている。しかし命を助けているのだ。
と、考えながら咀嚼しているうちに、彼女の望むような状態のものができた。
口移す。
林檎と牛乳とパンと血の味がする。
それを2回ほど繰り返すと、クリスティーナは言った。
「もういいわ。私は寝ます」
床の上で、また、両腕で腹を抱えて、口から栄養分を溢れさせながら。
部屋は血まみれ。
けれど、彼女には悲惨さがない。
「お願いが、あるのだけど、」
彼女らしからぬ控えめな申し出に、私は首を傾げた。
「どうした?」
「私の目が覚めたら、また、こうして食べさせてくださる?」
なんだ。何を言い出すかと思ったら。
「そんなことか。いいとも」
応じると、魔法使いは笑って目を閉じた。
「ありがとう。優しい王子様」
素直な感謝が聞けたので、私は、嬉しくなった。
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