誰も居ない。
ここを通るのは、今夜2度目だ。
一度目は酷い目にあった。
今回は、もう、そんなことは起こらないだろう。
なにせ、魔法使い達が出向いたのだから。
私は、街を流れる大きな河に架かる橋を渡るところだった。
深夜をむかえるころとなり、人通りも途絶えた。
暖かい色の街灯が、石橋を照らしている。
私は、橋の中ほどにある、展望用のために半円形にせり出した歩道に立った。
魔法使い達がいるはずの、王宮のある下流を見るが、暗くてよくわからない。
橋の、石組みの縁に手を掛けて、私は目をこらした。ひやりと冷たい石が、手に心地いい。河から吹き上がってくる風も、冷気を含んでいる。
そんな、私の両手に、何かしんなりしたものが被された。しなびた青菜のような感触だった。
「?」
手元を見た。
「!」
それは、
何度も使われてくたびれたゴム手袋のような、
皮膚組織だった。
「!?」
最初は驚いて、手を引っ込めた。
すると、それは、そのまま石橋の縁をつかんだ。
そして、這い上がってきた。
最初に、私の手の上に乗っていた手指の皮膚組織が、ずるずると石橋の縁から現れ、次に、手首、肘、肩、だらりと垂れた恐らく頭皮、上半身、下半身が、ぺしゃりと私の足元の路上に落ちた。
人型の、皮膚組織。内部に他の組織が入っていないため、大きなゴムのように、ぐにゃぐにゃになって落ちている。
しかし動いている。
私は、かがみ込んだ。
広げてみたくなったのだ。医師として、非常に興味をおぼえた。
「本当に皮膚組織だ」
そっと、細心の注意を払いながら、皮膚組織を展開していく。
たしかに、人間の形をしていた。
みごとに、中身がない。
しかも、動く。なめくじのように緩慢なものだが。
動く、というところで、まさか、と思った。
単なる「動く」という物理現象ではなく、「生きている」わけではないだろうな。
その性別は、女性だった。
「……魔女?」
生きている、と仮定するなら、それしかない。
こんなになってまで、生きるのか?
というよりも、
こうなってまで生きられるとして、果たして、……生きたいものだろうか? 苦痛はないのか?
クリスティーナと最初に会った時、こんなやりとりをした。
『君は痛みを感じないのか!? そんな残酷な、』
『痛いわよ?』
……もしも、この状態で、苦痛を知覚しえるとすれば。
皮膚組織は、ただ、うごめき続ける。
死ぬこともできず。
今、私が、すべきことは、
「クリスティーナ、来てくれ!」
「来るなと言ったでしょう! どうしてここにいるの!」
呼んだ途端に叱られた。
子どもを抱えた魔法使いが、弟子を従えて現れ、烈火のごとく怒っている。
「そんなことよりも! 見てくれ、クリスティーナ、こんな酷いことに、」
臆することなく、毅然とそう返した私だったが、
「そうよこれがどうしたの? これはうちのクソガキの仕事だけれど、これがなにか!? あなたには、『留守番』、と、言っておいたでしょう!」
さらに厳しく叱られた。
私は、自分が何故叱られているのかが、わからないのだが。今は聞かないでおこう。何を言っても、彼女は怒るに違いない。
「……お姉ちゃん、」
と、プリシラが、その哀れな皮膚組織を見下ろして、声を掛けた。
「クリスティーナ、降ろして?」
そう頼んで、橋の上に降りると、小さな魔法使いは、皮膚組織のそばにしゃがみこんだ。
「お姉ちゃん。お姉ちゃん、」
一生懸命に声を掛ける。
「わかる? 私だよ。お姉ちゃんのお陰で、優しいおば、クリスティーナやおじちゃんから、色々助けてもらえたの。ママも元気になったよ?」
「……」
手の皮膚組織が、ひょろひょろと持ち上がった。
「お姉ちゃん」
プリシラは、その抜け殻のような魔女の手を、そっと握った。そして、頬を寄せた。
「ありがとう」
『どういたしまして』
声が、聞こえたような気がした。
私は、プリシラの隣に、膝を付いた。
ここにいなければならない、と、思ったからだった。
「何をしてるの。帰りなさい。お医者様」
しかし、背後から、研ぎ澄まされた刃のような静かな声が、私に振り下ろされた。
「あなたにできることは何もないわ。かえって邪魔よ?」
私は、後ろを見ずに「嫌だ」と言った。
「王宮魔法使いが二人もいるから、私は安全だ。ここにいる」
「お優しい情けを垂れ流すのは、ここでは止して」
背後にぴたりと立つ魔法使いは、弟子に命じた。
「プリムラ。狩りなさい」
私は、ゆっくりと振り返った。全身が、総毛だった。
「……狩るのか?」
金銀の髪の魔法使いは、月夜のように冷たい笑みを浮かべていた。
そのさらに後ろに立つ、冷たい金髪の魔法使いは、表情なく、一歩踏み出した。
「待ってくれ、プリムラ、」
氷の表情の魔法使いは、私の声が聞こえないかのように、こちらに近づいてくる。
私の隣にいる小さな子は、魔女の手を頬に当てたまま、祈るように目を閉じていた。
「プリシラ、」
呼ぶけれど、こちらも、聞こえないかのようだった。
『きっと、あの人が来てくれる』
『銅貨を、受け取るために』
『あの人は、またきてくれる』
『今夜こそ、来てくれる』
また、声が聞こえた。
彼女が言っているのだ。
カタツムリが首をもたげるように、ぐにゃぐにゃの頭部が、ゆっくりと持ち上がった。
骨がないために、皺まみれの顔。唇が、だらりと開くと、そこから、銅貨が2枚、落ちた。
「……」
私は、どうしていいのか、わからなくなった。
人間に騙されて、貢がされて、……こんなになって、それでもまだ、
……何を、信じるつもりなのだ?
「どきなさい。関わっては駄目」
肩に強い力がかかり、私の体は、魔女のそばから引き離された。
「クリスティーナ、」
私を、おそらく、庇っているのか、魔女と私の間に、立ちはだかった。
「さっさとして」
弟子に指示して、私を睨みすえる。
「あなたは何も言わないで。関わらないで」
私は、首を振った。
「……酷いじゃないか、人間が、ここまでやったのだろう?」
魔法使いは冷酷に嗤う。
「馬鹿な不幸に溺れて、こんなになるまで騙される方が悪いのよ」
「違う。こんなになるまで、騙す方が悪いに決まっている。魔女だからといって、何をしてもいいはずがない」
私は、首を傾けて、クリスティーナが隠している、皮だけになった魔女を見つめた。
「謝らねばならないと思う。彼女に対して、少なくとも私が、人間として、」
「お黙り、坊ちゃん」
魔法使いが、私の額を叩いた。
言葉が、出なくなった。
恐ろしい目で、私を見ていた。
「こんなになった彼女に、優しい言葉を聞かせないで。人間は誰も彼も坊ちゃんみたいじゃないのよ。今の彼女に一番残酷なのは、あなた」
クリスティーナは、口が利けなくなった私を立ち上がらせた。
「見せないつもりだったけど、それだと、あなたはいつまでもいつまでも魔女狩りを邪魔したがるでしょうから。よく見ておきなさい」
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