「こうして、下流魔法使いの浅薄な企てを、逆に己の踏み台としてのし上がり、国の繁栄を築いた女王は、以後、魔法使いあるいは魔女を、王族の伴侶にすることを認めませんでした。『白雪姫』終り」
クリスティーナは、子どもに聞かせるように、まろやかな声音でもって、話を終えた。
「……」
おそろしい話だ。
言葉を失った私に、魔法使いは嗤いかける。
「めでたしめでたし、でしょう?」
「あ、ある意味、な」
私の中では、この金銀の髪の魔法使いと黒髪の白雪姫とが、重なっていた。外見は違うが、中が似ている。
白雪の継母など、目ではない。
「まさか、その白雪姫の林檎を食べてしまったら、誰も彼も、姫のような性質になってしまうのではあるまいな?」
クリスティーナ、お前も食べたのではないか? と、聞きたいが。恐ろしいから止めた。
「残念だけど、それはないわね。彼女の性質は生来のもの。『白雪姫の林檎』は、単に前後不覚に眠り込ませ、起き抜けに聞いた言葉を信じ込ませる代物」
「嘘でもか?」
「なんでもよ」
私は、さきほど、台所で彼女が言った言葉を思い出した。つまり、媚薬と同じ成分、というのは、
「……例えば、白雪姫の林檎を君に食べさせて、起きた君に、『私の妃になれ』と言えば」
「あのねえ、坊ちゃん?」
魔法使いはこめかみを押さえた。
「『私の妃になれ』は、そもそも命令だから、どう信じようもないでしょう? 明らかに無効よ」
そうだ。うっかりしていた。内容が内容だけに……恥ずかしい。
「言葉の授業が必要かしら? 命令、疑問、勧誘、等々、相手の反応を促す言葉は、信じようがない。だから、除外されるの。断定の言葉だけが、信じる対象になるの。このお坊ちゃまは、本当にお勉強をしてきたのかしら?」
私は、決まり悪く顔を真っ赤にしながら、言い直した。
「すまん。初歩的な誤りだ。では、……起きた君に、『君は私の妻だ』と言えば、どうなる?」
魔法使いは速攻で私の額を、パァンと叩いた。
ひりひりと痛かった。
「どうして打つのだ!?」
クリスティーナは、長い長いため息をついて、答えた。
「どこまでも、お馬鹿さんね。それは、信じるも信じないもないでしょう? 王族の伴侶に、魔法使いは駄目。私は、王宮魔法使いの名にかけて、それを拒否するわ」
「拒否できるのか?」
「するの。私を誰だと思っているの? たかだか林檎くらいでは、操られないわよ」
フフン、と、鼻で笑われた。
「……そうか、」
がっかりだ。
「そうよ?」
魔法使いときたら、私をやりこめられたので、機嫌がいい。
そのとき、彼女の膝に頭を乗せたプリシラが「うーん」とつぶやいて、寝返りを打とうとした。
「客用の寝室があるから、プリシラを寝かしてやったらどうだろう?」
「そうね。ありがとう」
勧めに応じて、魔法使いは立ち上がる。
「よかったら、プリシラと泊まっていけばいい」
自然に出た私の言葉には、返事がなかった。
一人になり、私は思いついた。
私には、彼女が掛けた強力な魔法がある。それを使えば、彼女は、言うことを聞くだろうか?
叶えられないのはわかっている。命じるつもりもないが。
しかし、尋ねたら、魔法使いは、どういうふうに答えるだろう。
「林檎を戴いていってもいい?」
戻ってきたクリスティーナは、林檎を3つ抱えていた。
「プリシラに、もっと食べさせたいの」
「全部持っていけばいい」
「そこまで必要ではないわ」
「魔法に使わなくても。あの子は、普通の林檎が好物だというじゃないか」
「そうね。プリシラが起きたら、聞いてみましょう」
相変わらず床に座り続けている私を見て、気位の高い魔法使いは、「くつろげそうね」と言うと、隣に腰を下ろしてきた。
私は、すぐそこにある横顔を見て、話の続きをしてみようと思った。
「クリスティーナ、思いついたのだが、」
「何をかしら?」
「さきほどの話だ。林檎では駄目なら、君が私に掛けている、」
こちらを見る彼女の目が、低い温度で細まった。
「何を、言うつもり?」
ひるまずに、私は続けることにした。
「君が掛けている『隷属の魔法』にのっとって、私が命ずれば、どうなるのだ?」
「何を?」
私は、気を静めるべく、深呼吸をひとつした。
が、かえって、動悸がしてきた。怖れのためか、それ以外かは、心中様々な思いがごったがえしているがゆえに、判別しがたい。
「た、例えば、『私の妻になれ』と」
「さっきも言ったでしょう?」
畳み掛けるように返答された。
「王宮魔法使いの名に掛けて、断固拒否するわ」
「できるのか?」
「するわ」
「どうやって?」
魔法使いは、私の右手首を掴んだ。
そして、銀の目で、じっと見つめた。
「おぼえていない?」
「何をだ?」
私の手を、彼女はゆっくりと引くと、自分の下腹に当てがった。
「私があなたの前に落ちてきたとき。年増魔女に操られてあなたを篭絡しかけた私が、どうやってそれを解除したか」
「あ……」
思い出し、
……ぞっとした。
「腹を、」
そうだ、腹を、自分で、裂いて、
子宮をつぶして。
自分を犠牲にして、王族を守る。
魔法使いが、わらってみせた。
「よろしい。思い出したわね。そういうこと。私はね、仕事をするために、王宮にいるのよ?」
「……悪いことを、聞いてしまった……」
私は、深く、うつむいた。
あわせる顔がない。
「君の言うとおりだ。馬鹿だ。私は、」
「今更、殊勝になったって、あなたが馬鹿なのは変えようがないでしょ?」
「そうだな……」
冗談めいた彼女の口調に、普段は反発するのだが、それどころではない。自分の恋情ばかりに拘泥した自分が、情けなくて仕方がない。彼女たちは命がけで働いているというのに。
「落ち込んだって、事実でしょう?」
「まったくその通りだ。私という奴は……」
不甲斐なさに涙が出る。
「君が話した『白雪姫』の王子と同じだな。私だって、己のことしか考えていない、」
「ホホホホ!」
真面目に言ったのに、魔法使いが面白がって笑い出した。
「そうかしら。あなたは、隣国の姫君に夜這いを掛けて手篭めにできる? 絶対に真似できないわね!」
「そうだが、そうじゃないだろう。他人を傷つけたという点で同じだ……」
言うほどに沈んでしまう。
「坊ちゃんは、落ち込むと、面倒臭さが増しに増すわね」
隣では、林檎を宙に放って受け止める音がする。消沈した私を、適当にあしらってくれている。
どうして、彼女は、そうも軽々と生きていけるのだろうか。
「そうだな、私は、面倒くさいな……」
私ときたら、傷つけた側であるにもかかわらず、こうしてあやしてもらっている。かといって、けろりと明るくふるまうなど、良心の呵責により、できはしない。
「では、償ってもらおうかしら?」
林檎を受け止めつつの言葉を聞いて、私は、顔を上げた。
「償い……?」
林檎に顔を寄せて、芳香をきいて口の端をつり上げ、魔法使いはうなずいた。
「そうよ? それで、許してあげる」
林檎が、差し出された。
「なんだ?」
「食べて」
まさか、毒、
「ひ、」
「何て顔してるの」
音高く、額が打たれた。
「……痛いじゃないか、」
むっとして眉を寄せると、相手はもっと気分を害していた。
「これは普通の林檎よ。正真正銘、あなたの上司で財産でもある、あのお節介焼きの院長が、不必要な量で寄越した林檎よ。それを食べろと言っているの」
「それが、わたしの償いか?」
「まだ続きがあるわ。黙って食べなさい」
突きつけられた大玉の林檎を、訳がわからないままに受け取って、かじった。
もいで二日と経っていないのだろう。みずみずしく、はじけるような甘みと酸味が、口中に元気よく広がった。
「うまい」
飲み込んで感想を言うと、魔法使いは軽くうなずいた。
「そう。それはよかったわ」
解せない。
「……これが、償いか?」
「ここからが、きっと償いね。お医者様、私が林檎を食べない理由がわかる?」
私は、きっとこうだろうと思っていたことを、確信をもって口にした。
「酷い目に遭ったことを思い出すから、食べたくないのだろう?」
魔法使いのうなずきは、軽かった。
「まあ、近いわね」
「そうだろうな」
私はしみじみとした。
「あんな目に遭ってはな。嫌になるだろうとも」
同情したら、意外にも彼女は眉をひそめた。
「……誰も、嫌だとは言ってないわ? 逆よ」
「逆って、」
逆ということは、
嫌じゃないということで、つまり、
「あんな目に遭ったのに、嬉しいのか!?」
なんというか、血が逆流する思いだった。
「自殺願望でもあるのか!?」
「この坊ちゃんは!」
言った瞬間、叩かれた。
明日になったら、額に手形の青あざができているのではと危惧するほどに、強く。
「何するんだ!」
額を押さえる私が、当然の非難をする。
対するクリスティーナは、肩を震わせて怒っていた。
「どうしてこうなのかしら!? 最初に会った時と、ちっとも変わらないんだから! 悪い意味で!」
「どうして怒るんだ!?」
「坊ちゃんが、坊ちゃんだからよ!」
「……」
さっぱりわからない。
途方にくれて彼女を見ると、冷たくそっぽを向かれた。
……これは、わかる。
拗ねているのだ。
ということは、私の察しが悪いことに、怒っているのだ。
しかし、何を察すればいいのかが、さっぱりわからないままだ。
何か、いいことがあっただろうか? あの惨劇の時に。
「酷い目に遭っていたのに、……どうしてだ?」
ふらふらと聞くが、
「あんなのは通常業務だと、何度も言ったでしょ? あの時に」
向こうをむいたままで、返ってきたのは怒り声だけだ。
どうすればいいのだ。
……お手上げなのだが。
依然として気分を損ねたままこちらを向かない。
「すまない。わからないよ」
私は途方にくれて、彼女を抱き寄せた。
「どうして嫌ではないのだ? 私には理解できない。だって、あの二日間、君は、命を失いかけて、ぼろぼろだったではないか」
「だから、そんなのは、仕事だと言ってるでしょう!?」
やっと振り向いた魔法使いは、本当に泣いていた。
「!」
泣き顔なんて、初めて見た。
これは、私が泣かせたということに、なる、のか?
どうすればいいのだ。
……殺されるかもしれない。
いや。
殺される。
「すまない。許してくれ。悪いのは全て私だ。だからどうか命だけは」
即座に出た謝罪と命乞いに、クリスティーナは、さらに怒って額を叩いた。
「坊ちゃんの馬鹿っ!」
ああ、これはわかった。
「ごめん、」
距離をおかれたので、怒ったのだ。
もっと、近しくして、欲しいのだ。
愛しい魔法使い。
私は、思いを込めて抱きしめた。
「すまない、わからないのだ」
顎に手を掛けて、仰のかせ、頬に手を添えて、たずねる。
「どうしてだ? すまないが、私にもわかるように、教えてくれないか?」
「……」
銀の瞳から、涙のしずくが、はらはらと落ちる。胸を突く美しさに、私は彼女の瞳に口づけた。
できることなら、自分のものにしたいのに。
叶わないのだ。
「わからないの?」
「ごめん、」
嘆く魔法使いの瞳が涙を産み、私は惜しむように口づける。
「償うよ。何を、すればいい?」
「林檎を、」
「……林檎?」
「林檎を、頂戴、」
私は、手に持った、食べかけの林檎の感触を確かめた。
「食べるのか?」
「どうして、今まで食べなかったか、わかる?」
私は、首を振った。
魔法使いは、涙を落としながら教えてくれた。
「嬉しかったから。あれきりにして、忘れないようにしようと思ったの、」
「……何を?」
「お医者様には当たり前のことでも、私には、大したことだったの」
白く冷たい手が、私の頬に触れた。
「人から、助けてもらうなんて、」
唾液が出ないと言っていた。そういえば、あの時。
「死ぬところだったの。それは私には大したことではないの。助けてもらえないことも、当たり前のこと。自己責任ですもの」
氷のような指が、私の唇を撫でる。
「ただ、命を繋いでもらえるなんて、思いもしなかった。嬉しくて……、忘れないようにしなくては、と、思ったの」
「……あ、」
わかった。
「君に、林檎を食べさせた、」
「そうよ?」
歯も消化器官も駄目になっていた彼女が、最初に口にできた物。
「あれが、嬉しかったのか?」
「そうよ」
林檎を持つ私の手に、優しい冷たい指が触れた。
「……戴ける?」
私は、林檎を見つめて、そうして彼女を、また見つめた。
「君と僕の考えは、見事に行き違うね。お互いの大したことが、お互いの当たり前なのだから」
「慣れているわ」
どうだか。
こんなに泣きじゃくっているくせに。子どもみたいに。
私は、彼女のまつげに、まだくっついたままでいる輝くかけらを、指ですくった。
「そうかい。でも、また、我慢できないときは教えてくれ。そうでないと、君も知っているように、私は『お坊ちゃん』だから、機微がわからないだろうし」
林檎をかじった。魔法使いのために。
すりりんごをわくわく待っていたプリシラとは違い、彼女は、林檎を噛む私を、大人しく見上げている。
……あの時と同じ。
急かしはするものの、瞳は静かだった。一度断った私を責めるでもなく。
私は、彼女の優美な顎を持ち上げて、口を開けるよう促した。
あの時と違う、美しく傷一つない唇の奥に、白い歯列が並ぶ。
請われるまま、私は、魔法使いに林檎を与えた。
魔法使いは、私の林檎を味わう。
やがて、なくなると、私は、唇を離し、言葉を捧げる。
「私の愛しい魔法使い、クリスティーナ、」
口の端についた林檎を、自らの指で取って、それも口に入れ、魔法使いは、私の額に口付けた。
「……わたしは、どう呼べばいいのかしら?」
「え?」
「『坊ちゃん』と『お医者様』と『王子様』しか、知らないわ?」
彼女の親指が、私の唇に触れた。
「そろそろ、名前を教えても、いい頃ではないの?」
……そうだった。
おそらく、本当は、彼女は知っているのだろうが。私が伝えたことがないがゆえに、口にしない。
「隷属の魔法は有効。私は、あなたにだけは、害を為せないの。悪いことはできないわ? ……名前を、どうか教えて、」
「ごめん。気がつかなかった」
口付けながら、彼女を床に倒した。
息を漏らした魔法使いに、私は、ささやきかけた。
「ベネディクトと、呼んでくれ」
|