夜明け前。
まだ暗い空を映した河に、魔法使いが立つ。
悪意に満ちた真珠が溶け込んだ、熱では溶けない氷を前にして。
胸の中では、夜半過ぎから、ずっと同じ曲が流れていた。
ローレライが唄っていたのは、王宮の時計が奏でる曲だった。午前零時に鳴り響く「子守歌」だ。
ここにも聞こえていたのだろう。
この曲には、実は詩が付いているのだが、ローレライの記憶には旋律しかなかった。
どんな詩だったのか、プリムラも詳しくは知らない。
「でも、必要ないわ」
冷たい親に産み落とされた私とローレライには必要がない。
あの詩は、フロラのものだもの。
カールラシェル教授が作った、愛娘の為の子守歌。
金髪の魔法使いは、氷の雨が降るように嗤った。
「悪意を解かすには、相応しいわね」
ローレライの絶望、自己耽溺、他者依存、歪み、悪意、害意、殺意。きっと、あの曲の旋律なりと口にできていたときには、それらは無かっただろう。
魔法使いは唄う。
午前零時の子守歌、その旋律を。
得られなかった愛情の片鱗を。
叶わないものに拘泥するから、歪んでしまった。
『いいえ、違う』
内なる声が聞こえる。
『歪んだのは、私が魔女だったから。そうでしょう? 魔法使い』
「大して変わらないわ」
魔法が解け、氷が溶ける。
水は河の一部に戻り、真珠が現出する。
それは、魔法使いの手に収まる。
「ローレライ?」
上流から、泣き笑いの誰何の声が近づいてきた。
小舟が流れてきた。
男が二人乗っていた。一人が舟を操り、もう一人は舳先近くに座っていた。
プリムラに狩られた命が、彼女の内で、複雑な熱を帯びた。
「違うわ。私は魔法使いよ」
笹舟のような形の小さなそれは、王宮の船着場にゆるゆると近づいてきた。
しかし、舟をもやっても、舳先に座った方は降りようとしなかった。櫂を握る舟人に「魔法使いだから、何もしやしない」と、背中を押されても、なお、そこを動こうとはしなかった。
ただ、すがるようにプリムラを見上げた。
「あ、あの、」
「何?」
銀の瞳をすいと向けられて、男は怯んだ。
「そ、その、」
ついには目を逸らし、揺れる河面しか見られなくなった男に、魔法使いが眉をひそめた。
「あなたはローレライを知ってるのね?」
「あ、あ、」
男は肩を揺らした。
魔法使いは銀の針で刺すように、背けられた目を注視した。
「彼女は狩ったわ。安心なさい。あなた、ローレライと逢っていたでしょう?」
表情がこわばった。
「舟を出してくれぇっ!」
「駄目よ」
プリムラは、小舟の縁に左足を乗せた。
「動かしては駄目」
舟人は、「わかった」と応じて、おののく男を笑い飛ばした。
「未練がましいことするからだよ、坊ちゃん。ハハハハ!」
魔法使いの目が細まる。
「……。この男、『坊ちゃん』、なの?」
足にしがみついて震える男を見下ろして、頑丈な体躯の舟人が笑う。暗い中で、色眼鏡を掛けていた。何か特殊な効果でもあるのか。
「そうだ。王宮の舞踏会も見学するだけで参加しないほどの慎ましさだ。深窓のご令嬢ならぬご令息で、楽師志望なんだよ。笛より重い物を持ったことが無いときていらっしゃる」
そして、ニヤリ、とプリムラを見つめる。
「俺は、坊ちゃん宅に雇われている。王宮にも仕事で来る」
その目には、恐れのかけらも無い。
「あなたは、『私たち』に慣れているようね?」
「とんでもないぜ」
舟人は大仰に首を振るが、それも冗談がかっていた。
「いつかは慣れてみたいね。なにせ、上玉のお姉様方ばっかりだからな。アッハハハ」
「かっ、彼女たちの容姿を、そんなありきたりに表現するな!」
震え怯えた声が、小さな勇気を盾にして、割り込んだ。
舟人が、舌を出す。
「こりゃー、失礼しましたね。お坊ちゃま」
プリムラは、感情の無い目を、必死の瞳で見上げている青年に向けた。
「あなたに庇ってもらう必要はないわ」
「……」
青年は、傷つき泣きそうな顔になって、しおしおとうつむいてしまった。
「ハハハー。坊ちゃん、そう落ち込みなさんな」
舟人たるや、陽気になぐさめている。掛けている大きな色眼鏡が軽薄に見えてくる。
「姉さん。この坊ちゃんは、魔法使いや魔女の姉さん方に、夢や憧れを持ってるんだよ」
「無意味ね」
本心を言い、そして、内にいるローレライの声を聞いて、プリムラは、冷めた目で付け加えた。
「だから、ローレライと関わりを持ったの?」
「!」
青年が、目を見開いた。
「あ、あの……」
口の端と鼻の横が、震えてひきつった。
「あ、あ、」
金髪の魔法使いが、心のない目で見下ろす。
「私たち、そんな甘い存在じゃないわよ?」
「……」
青年の目尻に涙がにじみ始めた。
プリムラは、彼の心情には一切関心を持つことなく、淡々と言葉を重ねていく。
「何を勘違いしたのか知らないけれど、魔女に名前なんて付けないで」
彼の額に浮いた脂汗を認めて、魔法使いは、静かに冷たく言葉を落とした。
「魔女に執着されて、恐ろしくなったのでしょう?」
「……」
青年は、膝の間に顔をうずめ。両手で頭を抱えて震えた。
舟人が、彼に代わって、魔法使いに言った。
「それでも、いまだに未練たらたらなんだよなあ。今夜だって、このお坊ちゃんときたら、『ローレライはどうしているだろう、ローレライはどこにいるだろう』とジメジメグダグダうるさくて仕方がないから、こうして連れて来たんだ」
膝の間から、くぐもった声が忍び出て、涙まみれの姿を表した。
「逢いたくないが、逢いたくて仕方がないんだ……。私はどうすればいいんだ? 恐ろしいが恋しい。苦しくて苦しくて、心が引き裂かれそうなんだ」
魔法使いの耳には、青年の慟哭が、世迷言にしか聞こえなかった。
「そんなもの、魔女の色目に惑わされているだけよ。間もなく忘れるわ。当のローレライはもう居ない。色目の効果も消える」
「どうして、もういないのだろう……」
「絶望して歪んで手がつけられなくなったからよ」
青年は、力なく顔を上げた。
「……私の所為で? 私が逢わないと言ったから?」
「そうね」
素っ気無い返事にもかかわらず、それすら呼び水となり、感傷的な独白が湧き溢れた。
「仕方なかったんだ。私は、私を命と頼りきるローレライが怖くて怖くて、でも逢いたくて。だから、逢うのに無理難題を言った。彼女の方から断ってくれれば、私も諦められると思ったんだ。でも彼女は逢った。だから怖くなった。でも逢いたくて、また私は無理を言った。それでも彼女は私に逢おうとする……。だんだんと、実は、彼女は私を見ていないのがわかってきたんだ。彼女は自分の孤独を埋めたいだけなのだと。私は、気が狂いそうになって、もう逢わないと言った。そして逢えなくなった。でも逢いたい。恐ろしいが逢いたい」
魔法使いは、うるさげに目を細めた。
「そんな気持ちは、すぐに消えるわ」
青年の悲壮が深くなった。
「私の気持ちは、そんな簡単じゃない」
魔法使いは嗤って返す。
「気持ちなんていい加減なものよ。今のあなたは死にそうに深刻な顔をしてそんなことを言うけれど、例えば、たった今、私があなたを殺そうとしたら、あなたは自分の命を守るのに必死になって、その間は、ローレライへの気持ちなんて、かけらも残さず消えてしまうわ」
若い嘆きは、魔法使いによって、非情に凍りついた。
「それは……」
「ハハハ。もうその辺にしておいてくれよ」
がく然として表情を無くす青年を庇って、彼より若く見える舟人が、魔法使いに苦笑した。
「姉さん、お手柔らかに頼む。坊ちゃんは感じやすくて夢が多くて純情な上に初恋だったんで、思い入れだって、そりゃ強い」
プリムラは、片足を、舟から離した。
「それなら、連れて帰って」
「『そして、2度目の新月が来るまでは、家に閉じ込めておけ』、ってか?」
にまりと嗤う舟人に、魔法使いは眉をひそめた。
この男……。
「あなた、」
舟人は、人を食った笑顔で、「俺に興味があるのかい? うれしいね」と応じる。
「王宮での仕事って、何?」
「粋な姉さんが、野暮なこと聞きなさんなよ」
暗かった空が、白々と明らんできた。風景に色が付き始める。
深緑の河面を、舟が、すべるように離れていく。
「初恋はほろ苦いもんで、魔女の恋は苦いばっかりのもんだ。じゃ、俺と姉さんは、また会いましょう?」
薄青い色眼鏡の奥で、銀の瞳が煌いた。
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