下書きばかり載せている「下書回廊」

歌帖楓月



2 三日月国の下書回廊

「どうしてでしょう」
 王妃は自分の腹をそっとなでる。やりきれない歯痒さと、わきあがる恐れとが、若い彼女をこわばった顔にさせていた。
「なぜなの? 私たちこんなに頑張ってるのに何故できないの?」
 王妃は、それまで優雅に腰掛けていた椅子から、重々しく立ち上がった。
 医師は渋い顔でうなった。
「王妃、そのような言い方をなさらないでください。はしたないことです。頑張るなどと」
 王妃は、下唇をくっと持ち上げた。
「頑張っているから言ってるの。そうでなければ、言わないわよ」
 恥じらう素振りもない王妃に、若い医師の頬が、2回引きつった。
「御年十八におなりの姫が口に出して良い言葉ではありません。お止しなさい」
 王妃の頬が膨れた。
「わたくしたち夫婦にとっては、恥ずかしがってる場合ではないの。欲しいのよ赤ちゃんが! なんとかならないの? お医者様でしょう? 何か良い方法はないの? なんでもするわ! なにかないの?」
 言葉が途中から、大きくなる。
「姫!」
 応じる医師も、ついに、椅子から立ち上がった。
「それ以上聞き苦しい言葉を並べないでいただきたい!」
 浴びせられる苦言の槍を強い視線の盾で弾き退けるように、王妃は見返した。
「あなたとお行儀の話をしててもしょうがないでしょう? 子どもの話をしているのよ!」
「ですから、」
 医師は、ため息を入れて、続けた。
「お二人のどこにも異常はないと申し上げているではありませんか!」
「だったら何故なの! どうして子どもができないのよ!」
「それがわかれば、私だってはっきり申し上げます! 貴方に!」
 王妃は、泣きそうな表情になった。
「あなたお医者様でしょう? どうしてわからないの?」
「無茶をおっしゃらないでください。医者なら患者の体のことを何でも知っていると思っているのでしたら、それは大間違いです」
 二人は、険悪な表情で真っ向から睨み合った。
 ところでここは、宮殿の医務室。つい今し方まで、検診を受けに来た王妃と典医が和やかに語らっていた。話が、懐胎しているかどうかになるまでは。
「先生も王妃様も、まあまあまあ」
 険悪な二人の間に、穏やかな微笑みを浮かべて侍従が割って入った。酸いも甘いも味わってきた壮年の女性だった。
 侍従は、医師と王妃の双方に、とりなすような微笑みを向けた。
「こんなことは、あせっていては始まりませんでしょう? もっと、どんと落ち着いて、2年や3年は待つくらいの気持ちで。まだ結婚されて1年ではありませんか。お二人とも十二分にお若くてらっしゃるのですから。そんなにお慌てにならないで」
「でも赤ちゃんが欲しいのー!」
 王妃は必死の表情で、のんびり笑う侍従を見やった。
 そこに、医務室の扉がゆったり開いた。
「なんだい? 夫婦ゲンカかい?」
 金髪の青年が、微笑んでいた。
「あなた!」
 真っ赤な髪の美貌の姫は、扉の方に駆け寄った。
 逃げ場を見つけたウサギのように、懐に飛び込んで来た姫を、青年はポンと抱きとめた。
「ほらほら、何を言い合っているんだい? いいかい? 夫婦ゲンカは犬も食わないというよ? 私も好き嫌いはないけど、そればっかりは食わないなあ。だから、けんかはやめなさい」
 姫はぷうと頬を膨らませた。
「私はあなたと夫婦なのです!」
 王は、大仰に首を傾げて見せた。
「ふうむ。そう? だけど、どう聞いても夫婦ゲンカみたいだったけどね? さっきまでのは」
 からかうように笑いながら、金髪の青年は、医師の方を見た。
「ねえ先生?」
 医師は、頬を引きつらせながらうなった。
「断じて違います。王、このじゃじゃ馬をなんとかしてください。まったく。冷静に話も聞けないのですから」
 王は医師の苦言を、肩を大きくすくめて聞いた。
「ひどいな。人の妻になんてことを。悔しいなあ。よし、もっとけんかして困らせておやり、アリー」
 青年が姫を見下ろすと、姫はもっとふくれた。
「もう良いのです! 先生に何を言っても始まりませんわ!」
 それを聞いた医師のこめかみが震えた。
「私も、もうこれ以上、王妃のはしたない言葉は聞きたくありません!」
「ははは」
 青年は面白そうに、すっかりふてくされた医師と姫の様子を見た。
「では双方物別れということで、けんかは終わり。機嫌を損ねた姫は、私がもらっていくよ。じゃあね」
 青年は、姫を抱き上げて医務室から去って行った。
「ああ……ようやくうるさいのがいなくなった。やれやれだ。まったく」
 医師はため息をついて、二人が出て行った扉を見つめた。
 侍従は、医師の不機嫌な横顔を見て、にやりと笑った。
「ホホ。先生? そのようにケンカばかりなさっていたから、姫は王を選んだのですよ?」
 医師は、他人の分の苦虫までまとめて噛んだ顔をした。
「昔の話は止してくれよ。……もう、あきらめたんだ」

 金の髪も眩しい青年の王は、暁色の髪を持つ姫を抱えて、王宮の外へ出た。
 遠く正面に見える海から王宮に向けて、気持ちのよい風が吹く。
「ほら、ご覧。今日もカーリナルーデル海は見事な青だ」
 王の胸に頬をもたせ掛けた姫は、膨れたままでそれを眺めた。しばらく不機嫌なむくれ顔でじっと海ばかり見て、やがて、心をさらうようなその青さに、硬い表情が緩んだ。
 王妃は、ふう、と息をついた。
「ほんとうにきれいな海。あの中には色んな生き物が競い合って生きているのでしょうに、それでもあんなに穏やかに澄んだ青なのですね。見ていると、私は怒っている自分のことが馬鹿馬鹿しくなってまいります」
「だろう?」
 王は笑って、王妃の腰を持ち上げて、高い高いをした。
「さあ怒るのは終り! 笑って、アリー!」
「きゃあ! やめてくださいまし! 王!」
 王妃は悲鳴を上げるが、すぐにそれは嬌声と微笑みに取って替わる。
「フフフ!」
 細い脚をぱたぱた揺らし、王妃は無邪気に笑った。
 王妃の微笑みを見上げて、王は笑う。
「ようやく笑った。私はあなたの笑顔が一番好きだ」
 王妃を抱えて、王は、王宮が立つ丘の草原でくるくる回った。空は颯爽と青い。陽光がキラキラと黄色に輝いて、草葉を照らし、二人に光を投げかけた。
「フフフフ! 王、王、目が回りますわ! フフフ!」
 はしゃぐ王妃を眩しそうに見つめて、王も笑った。
「ハハハハ!」

 そうやって、緑の草原を駆けたり回ったりし、やがて、二人は息を切らせながら、ゆっくりと腰を下ろした。
「ああ……」
 王妃は笑い混じりにつぶやく。
「こんなに笑ったのは久しぶり」
 草原に寝転がった王に、にっこり微笑み掛けると、王も見上げて微笑んだ。
「よかった。あなたが笑ってくれて」
 王は手を伸ばして、王妃の真っ赤な髪を梳いた。
「ねえ、アリー」
 王は、髪に触れていた手を、王妃の頬に優しく添わせた。
「なあに? あなた」
「私たちは、赤ちゃんは欲しいけれど。もうちょっと二人だけの時間があっても、いいんだよ。三日月様も、そのおつもりかもしれないよ。三日月様が良いとおっしゃるまでは、二人だけで仲良くしていよう?」
 王妃は、子どものことで思い詰めている妻を守る夫の言葉に、目を見開いた。
「あなた……」
 王は「ね?」と言って笑い、王妃の頭を自分の胸に引き寄せた。
 王妃は、王の胸に頬を添わせ、彼の鼓動を暖かく聞きながら、うなずいた。
「はい」

「でもおかしいと思わない?」
 ふと漏らした、新米の女官同士の会話の始まりを、年のいった女官が聞き付けた。
「あなたたち、どうしたの? 何の話をするつもりでしょう?」
 つかつかとやって来た先輩の硬い表情に、まだ少女と言っても通るような若さの2人は、驚いて後ずさった。
「いえ、あの……、別に」
「なんでもないです。ちょっと、手が空いたから、世間話を」
 二人をじっと見つめた後、女官は口を開いた。
「そう? 世間話ね。では、私から一言、別の件で言っておくことがあるわ。王夫妻のお子様にかかわることは、この王宮でも、王宮を出てからも、一言も話してはなりません。いいですね? 王族の私生活には、仕事のはんちゅうを超えて立ち入らないこと。これは、王宮に仕える者として守るべき、最低限のことです」

 おかしいところはないというのに。
 どこもおかしいところはないのに。
 なのに、何がいけないのかしら?
 婚儀から、暦は二廻りした。
 今日も王妃は、窓の外の三日月を見上げている。寂しい顔で。
「王妃様、お茶を召し上がりませんか? 珍しいブドウを使ったお菓子がありますよ?」
「いいえ。いらないわ」
 王妃は首を振って、窓に向いた長椅子に腰掛け、空の三日月をただ見上げている。
「一体、何がいけないのかしらね? どう思う?」
 独白のように漏れて来た密やかな言葉は、背後に控える女官への問いかけだった。
「え……」
 中年の女官は、言葉に詰まった。
 何を聞いているのかは、わかっている。
 だから、どう答えたものか、わからない。
「結婚して2年経つわ。なのに、どうして、私の中には何一つできないの?」
 沈んだ顔で振り返った王妃に、女官は暖かく微笑むことしかできなかった。
「大丈夫でございますよ、王妃様。まだ2年です」
 王妃の瞳は、寄る辺を見つけたかのように、女官の微笑みを見つめた。
「まだ、2年?」
「そうです。たったふたとせ巡っただけではありませんか。安心なさってください。お二人が夫婦である時間は、これまでよりもこの先のほうがずっとずっと長うございます」
 女官は、王妃の不安を受け止めるような、落ち着いた笑顔を見せる。
「大丈夫でございます」
「そう、かしら」
 張り詰めかけた王妃の表情が、ほんのわずかに緩んだ。
「ええ」
 女官は、王妃が安心したものと思って、お茶を勧めてみた。可哀想に、まだ二十なのに。若い王妃が考えることといえば、できぬ世継ぎのこと一色だった。王妃としても女性としても、まだ、彼女は随分若い。もっと気持ちにゆとりを持ってもらわねば。
「さ、三日月様をご覧になるのはそれくらいになさいませ。三日月様は、いつも私たちを見ていてくださるのですから。どうぞ茶でも召し上がりください。おいしいお菓子もございます」
 王妃は、かすかに微笑んで、ゆっくりとうなずいた。
「ええ」
 王妃は、茶碗に注がれる緑茶の、和やかで懐の深い香りに目を細めた。
「ああ、いい香りね」
 ほっと息をついて、王妃は、渡された茶碗を手に取った。
 静かに口に含むと、緑の味が、口中にあふれた。
 王妃はその芳醇な味わいに、微笑みを浮かべた。
「おいしい」
 王妃の笑みを見て、気が軽くなった女官は、さらに喜んでもらおうと、菓子をすすめた。紫色のブドウがのった焼き菓子だった。
「さあどうぞ、王妃。珍しいブドウだそうですよ」
「まあ、どんな味かしら」
 王妃は顔をほころばせた。
 女官は微笑んだ。
「お召し上がりになれば、すぐにわかりますよ」

 王宮で、王が仕事をしていると、女官が駆け込んで来た。
「王、王! どうか宮殿へおいでくださいまし! 王妃様が! 王妃様が!」
 王妃が何だろうか? 女官がその先を言わないので、王は、わけがわからずに、ただ瞬くしかなかった。
「王妃が、どうした?」

 未処理の書類を抱えた臣下たちを引き連れて、王は宮殿へ帰った。
 大理石の廊下を歩いていくと、泣き声が響き渡って来た。
「あれあれ。アリーの声じゃないか」
 王はおっとりと、臣下たちを振り返った。
「ちょっと荒れているなあ。これでは多分、仕事をしている暇はなさそうだよ。それは持って帰ってくれ」
 臣下たちは、苦い顔になった。
「暇がないとはなんですか……。大切な政務ではございませんか」
 王は、軽くいいかげんにうなずいた。
「じゃあ、暇じゃないときにおりを見て片付けるから。ほら、良いから帰った帰った」
「いいですけど。そのうち大臣方に怒られますよ」
 臣下たちはぶうぶう言いながら、回れ右をして去って行く。
 王は彼らの背中に声を投げた。
「今すぐ怒られるわけではないからいいのだ。じゃあな。また明日」
 臣下たちも投げ返した。
「はいはい。じゃあまた」
 仲の良い友達のような、気心の知れた別れ方だった。

 夫婦の部屋の扉を開けると、王妃が長椅子に座って泣いていた。
「どうしたんだいアリー。泣き過ぎたのかな? 顔が真っ赤じゃないか」
 王はゆっくり歩み寄る。と、彼女はやおら立ち上がって、涙を振り撒きながら王の方へ駆けて来た。
「ルシーダ!」
「おやおや」
 夫を名前で呼ぶときは、よほど切羽詰まっている時だった。それがわかっている王は、少し驚いた顔をして王妃を抱きとめた。
「どうしたんだい、アリー?」
 王妃は、何も答えずに王に抱き着いた。
 そのまま、王の胸に顔をうずめて、しくしく泣きじゃくる。
「ほら、泣かないで」
 王は、嗚咽に震える王妃の背中をさすってやる。
「何があったの? 教えて、アリー」
 ぴったりと王にしがみついて、王妃は泣いていた。細い体が震えていた。
 王は、暁色の王妃の髪を、ひとりぼっちの子猫にするように、そうっと暖かく撫でた。
「泣かないで、アリー」
「ルシーダ、」
 王妃は、顔を上げた。
 朝露を乗せた木の葉が揺れるように、涙の滴がぼろぼろ落ちた。
「ブドウに、種が無かったの」
 王は、瞬いた。
「え?」
 ぶどう?
 ……たね?
 それが、涙の原因なのか? 一体、妻は何の話をしているのだろうか?
「何? どういうこと?」
「ブドウに種が入って無かったの」
「へ?」
 王は、答えようがなかった。
 それで、泣くのだろうか?
「……ブドウ?」
「そうよ。わたしと同じ、」
 そこまで言うと、王妃の瞳からは新しい涙が湧き上がってきた。
 何かを振り払うように、思いきり首を振ると、王妃は王に訴えた。
「空っぽなのよ、熟れるだけ熟れて、中には何も入っていないの! ただ熟して、そして、……でも、ブドウは種がなくても実を結べるけれど。私は、それもできない。ただ枯れるだけなのよ」
 一気にそこまで言って、もうこれ以上言うと何かがおかしくなるという様子で歯を食いしばって王を見上げ、
 王妃は泣き出した。
「どうして私には赤ちゃんができないの? どうしてこのおなかにはいつまでも空っぽのままなの! あなたも私も赤ちゃんが欲しいのに! どこも何も悪くないのに! どうしてなの!」
 王妃は、王の胸を叩いた。
「どうしてなの! どうして!」
「アリー、アリー! 落ち着いて! しっかりしなさい、」
 王妃は強く首を振る。
「もういや! ……わたくし、耐えられないわ!」
 王妃は、王の手から離れた。王は止められない運命のように、目を見開いて王妃を見るしかなかった。
 王と、三歩の距離を隔てて立ち、王妃は叫んだ。
「もういいの! あなたは側室でもなんでも取って頂戴! あたしのおなかには赤ちゃんができない! 誰か別の人に生んでもらって頂戴。もう嫌、赤ちゃんが欲しいのに何も生まれないのは」
「何を、言うんだ」
 王は、乾いた声でつぶやいた。
 王妃は、息を切らし、涙を落として、追い詰められた表情で王を見ていた。
「アリー、」
 一歩、王は王妃に向かって踏み出した。
「いや、」
 王妃は首を振り、後ずさった。
「私、わたくしは、もういやです」
 王妃は、王の存在を振り切るように身を翻して、部屋を飛び出した。
「アリー!」

「アリー!待ちなさい!」
 王は王妃を追う。走れる限り走って追いかける。
 しかし彼女は速かった。真っ赤な髪をなびかせ、銀糸の刺しゅうが施された白いドレスを閃かせて、駿馬のように駆けた。宮殿から王宮へ、そして、その中にある、中央神殿へ。
 泣きながら、目を見張る速さで駆けて行く王妃と、慌てた顔をして一生懸命に追いかける王。女官や王宮の職員たちは、何が原因でそうなっているのかわからないので止めようもなく、ぎょっとした顔で、ただ見ていた。
 中央神殿へ入るぎりぎり一歩手前のところで、王の臣下が王を目に留めて、呑気に声を掛けた。
「どうなさいましたー? 夫婦ゲンカですかー?」
「違うっ! もっと深刻なのだっ!」
 王は神殿の中に駆けて行った。

 三日月国の王宮にある中央神殿。ここのまたの名は「神の寝所」。空から降りた三日月の神が憩う所といわれている。
 この神殿を取りまとめるは、聖王。三日月の神から送られる、天の御使い。
 しかし、その中央神殿の主である聖王は、十数年間不在だった。貴色の髪を持つ、類い希な存在が、聖王となってこの神殿の主となる。女性であっても男性であっても、聖王の仕事は同じ。国中の神官たちをまとめて、三日月に祈りを捧げること。
「三日月様っ!」
 今、若い女性の声が、神の寝所に響き渡った。
「わたくしに子どもをくださいまし! でなければ夫と別れさせてくださいまし!」
「アリー!」
 中央神殿の最奥、天蓋のない神の寝所。夕暮れの空に三日月がいた。
「三日月様!」
 王妃は、声を限りに叫んだ。
 今は祈りの時間ではないため、最奥にいる人は少なかった。個人個人で祈っている神官が少数いるばかりだった。
 王は、王妃の背後にようやく追いついた。
「止しなさい!」
 王妃の両肩を、後ろからつかんで振り返らせる。
 王妃の瞳からは涙が滝のように流れていた。終わる目処のつかない悲しみそのものだった。
「止しません! もう嫌です! どうしてなのしょう? どうして赤ちゃんができないの?」
 そこまでを、王に向かって言うと、王妃は空を見上げた。
「三日月様!」




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