DEEP METAL BATTLE

すぎな之助(旧:歌帖楓月)



4 濯がれる呪い

 浴室のガラスが割れ、外気が吹き入って、立ち込めた湯気を飛ばした。
 互いの姿がはっきりとわかった。
「えっ!?」
 浴槽に放り込まれた少女は、国軍中将の姿に目をみはる。
「また会えたね。ロイエル」
 彼がそう静かに言って寄越すと、彼女は眉を寄せた。
「そんな。うそ。中将って、あなたが……?」
 予想外だという驚きと気落ちとが、ないまぜになっていた。
 彼は、その若さから、階級を知った相手から驚かれたことも、逆に、がっかりされたことも、ままあった。どちらにせよ意外なのだろう。失礼な反応をされても、もはや慣れているので、気にならなくなっていた。
 この任務に就くにあたっては、外見や年齢は問題にならない。実績をあげさえすれば、それでいい。
 逆に言うなら、実績をあげなければ、他に何が揃っていようと認めてもらえない。
「館の人々を皆眠らせるなんて大がかりな呪術だね。こどもの悪戯にしては度が過ぎているよ? もう逃げられないから、おとなしくしなさい」
 ゼルク・ベルガー中将は、ロイエルの二の腕をつかんで、浴槽から引き上げた。
「やったのは、君一人ではないだろう。仲間は、何処にいる?」
「……」
 少女は口をつぐんで、彼を見上げるばかりだった。
 中将は、彼女の沈黙を、黙秘だと受け取った。
 先ほど、湿地のほとりで会い、少し話した。簡単に仲間を売るような軽薄な子には見えなかった。だから、それも当然だと思われた。
 しかし、理由はそれだけではなかった。
 きつく見つめていた夕焼け色の瞳が小さく揺れて焦点を失い、膝が砕けて床に付き、上体が後方に傾ぐ。
 少女は失神した。
 中将は、片手で腕を握っていたのを、両手で体を支え、抱き上げた。
 そして、その軽さに眉をひそめた。
 栄養失調とまではいかないが、ろくなものを食べていないから、こうなのだ。
 さきほど、湿地のほとりで、少女の貧相な食生活を聞いて、耳を疑った。その内容ときたら、軽く50年は昔、農業技術が進歩していない頃の、寒村でのそれと大差ない。その上、この時、彼女は、ディープメタルに汚染されている沼から吹き寄せる風を受けていた。顔色をますます悪くさせながら、あの生臭い風に当たって嬉しそうに笑っていたのが、異様だった。
 身の上を聞くと、この子は孤児で、首謀者オウバイの孫である医師に養われているということだった。
 先ほど、村の住民台帳を調べてみた。人口規模が小さいこの村の、それらを全て確認するのに、大した時間はかからない。
 しかし、そのどこにも、この子の名前は記載されていなかった。
 すなわち、彼女は「法律上存在しない人間」ということになる。
 すると、法律で保障された様々な権利を与えられない。
 つまり、養育者は、この子を、人として扱っていないのだ。
 ゼルク・ベルガーは、気を失ったままの少女を見つめた。
「こんな子がいたなんて、」
 細い体に、男物の古着をつけている。髪はひっつめに結ってあり、どうやら、自分で切っているようだ。少女たちというのは大体身なりに気を使う。彼女のこれは、異様だ。しないのではなく、させてもらえないようにしか見えない。
 この国は、決して貧しくはない。生活の基盤は国が整備している。社会保障があり、低い所得水準にあっても、健康で文化的な生活を送ることができる。それなのに、どうして、着古した男の作業服にそでを通す必要がある? それも、高給取りの職業である医師に養われている者が。
 そして、彼女の容姿だ。ふるいにかけて選りすぐったように、ひどく整って美しい。稀に見る端麗な美少女だ。みすぼらしい衣服は、その「外見的な価値」をひた隠しにするかのようだ。
 医師は、わざと、そうさせているのだろう。
 今までに任命された指揮官の誰もが、この子に気を払わなかった。引き継いだ情報によると、あの医師は、首謀者の孫であるにもかかわらず、村人達からも兵士達からも「人柄が良い」と信頼されている。そんな彼と暮らす女の子のことを、わざわざ勘ぐる必要はない。
 だが、外面はどうとでも繕えるのだ。
 この子の境遇こそが、医師の本質を、端的に表しているのではないか?
 それは、この紛争の原因に、深いつながりがあるのではないだろうか?
 この子は、医師にとって、一体なんだろう?
 医師と少女の関係を「独り身の男と共に生活する、法律上存在しない美しい少女」、と、言い換えることができる。すると、彼女の役割が、推察される。
 慰み者にされているのではないか、と。
 しかし。
 仮にそうだとしても、彼女が荒んでいないという事実がある。不満や不遇は、表情や雰囲気に出るものだ。彼女にはそれがない。
 純粋に、医師を慕っているようだ。そして、自分の今の境遇を誇らしく感じているようであった。それは、それゆえに、異常に思われる。

 今すべきこと、同時に、この疑いについて調べる方法は、一つだった。
 みぐるみはがして、この温泉の水で身体を洗うのだ。
 この子は事件の首謀者と関わりが深い。ことによれば、首都へ連行しなければならなくなる。
 少女は、ディープメタルに必ず汚染されている。「汚染してないことが確認されている」この温泉で洗浄すれば、体表面の汚染だけでも、かなり除去できる。
 また、この子が「慰み者」になっているのであれば、その際に身体を確認すれば、それなりの痕跡が見つかるというものだ。
 医師がこの子を虐待しているという証拠があれば、たとえ、彼が紛争に関与している証拠が隠蔽されていたとしても、別件で身柄を拘束できる。
 ゼルク・ベルガーは浴室の床に片膝をついた。
 少女を膝抱きにする。
 くたりと頭が傾いた。目を開ける気配がない。
 脈拍を計ると、正常に打っていた。大丈夫だ。
 それなら、薬を用いて、もうしばらく目を覚まさずにいてもらった方が、やりやすい。
 胸ポケットから、白金製の小さな容器を取り出す。蓋を開けて、その中から、銀箔に包まれた即効性の睡眠薬を手に取った。
 左の親指を少女の口に入れて、わずかに開かせ、舌下に小さな丸薬を含ませた。
 そうして横たわらせておいて、中将は、三階にある、自分にあてがわれた部屋に戻った。
 部屋には、軍研究院が開発し製造しているディープメタルの洗浄剤や除去剤が揃っている。彼が持って来たものだ。しかし、彼のようにディープメタル事件に関わる軍人本人には必要ないものだった。研究院でワクチンが開発されており、彼らはその接種を受けている。汚染したとしても、自身には影響が無い。
 ただ、このワクチンは、開発されたばかりで、臨床試験を行なうまでに到っていない。それを待っている時間はなかった。いうなれば、彼ら自身がその被検体となっている。ワクチンの主作用は確かめられているが、副作用は未だ明らかになっていない。今は自覚症状が無いが、未来において、重篤な副作用が現れる可能性がある。
 その任務と、また、安全が確証されていない防御処理を施されることの危険性の高さから、彼らディープメタル事件に関わる軍人たちには、「生前二階級特進措置」が講じられている。それは、命と未来の保障が無い彼らに対する、国からの手向け(たむけ)だった。口の悪い者達は「香典の前渡し」と言っている。
 中将は、二種の薬剤と清拭用の絹布を手に、浴室に戻った。
 薬が効いているのだろう、目を閉じたロイエルは、ぐったりと横たわっていた。乳白色の大理石の床の上で、浴槽から湧き立つ湯気に、時折、姿がまぎれる。
 中将は少女の右脇に膝をつき、彼女が着けている男物の作業着のボタンを外していく。
 ベージュ色の上着をはだけたら、これまた男物の黒いシャツが現れた。そのボタンも外す。布紐で腰の部分ぎゅっと縛って穿いているズボンも解いた。軍の装備を着脱する面倒さに比べれば、これらの止め具は無いに等しかった。感情の一片、情緒の片鱗すら見せずに、青年は少女の衣服を無造作に脱がせていく。
 間もなく、むさくるしい男の衣服が解かれた。
 首から下の、隠されていた肌があらわになる。
 ぼろぎれの包みを解いて現れた真珠のようだった。
「……」
 それまで仕事の素早さでこなしていたのが、止まってしまう。
 内側から輝くような、無垢で瑞々しい素肌。情事の際に付く傷やあざ、その痕跡すらない。
 決して子どもの体ではない。かといって、できあがった女のそれでもない。これは、余人が触れたら「汚した」ことになる、処女だ。
 これからの作業がためらわれた。無神経に扱えなくなる。
 主観や感情がすべきことを阻むというのは、彼にしては珍しいことだった。
 だからといって、止めるという選択肢は無い。現在、彼以外の全員が眠っているので、誰の手も借りられない。この子が、ディープメタルに高濃度汚染されている可能性が高い以上、しなければならないことだった。
 中将は少し息をつくと、つぶやいた。
「『誰も見ていない』という訳ではないから、後ろ暗さは軽減されるか。情報処理課の目がある」
 軍管理職の行動は、常時、軍当局にある情報処理課から監視されている。軍規違反をすれば、後で相応の処分が待っている。逃げ道が無いこともないのだが、その裁量は、情報処理課の管理官に任されており、自分の都合でどうにかできるものではない。例え、自分と彼とが友人であったとしてもだ。
 中将はロイエルを抱き上げようとしたが、その柔肌に、あちこちに硬い装備が付いている軍服の上着を触れさせるのは、酷いことに思われた。
 暗い灰色の上着を一枚外すことにした。いくつものボタン、止め具、ベルトを取って上着を脱ぎ、それを脱衣所に置いてくる。そして、立ち襟の暗い緑灰色の長袖のシャツに、茶灰色の袖の無い中衣という姿で、青年は素肌の少女を抱き上げた。
 シャツ越しに、若い肌の柔らかさが伝わる。
 洗い場に運び、大理石の床に膝を付いた。上体を左腕で抱えて、膝の上に横座りさせて、シャワーで、ぬるいお湯を浴びせた。自身も服ごと濡れるが、構わない。
 みずみずしい肌に、水滴が珠となってころころと滑り落ちていく。まるで、白桃に水をかけているようだった。しばらくそうしてぬるま湯を浴びせた。暖められて、柔肌が徐々に薄紅色に染まってきた。
 洗い桶に湯を入れ、そこに液体の洗浄剤を入れると、青い色に澄んだ。清拭用の絹布を浸して洗浄液を含ませ、身体を洗っていく。布地が肌に触れると、それまで青かった液体が石鹸と同じに白く硬く泡立った。それは、彼女の皮膚表面にディープメタルがあるということを示していた。
 髪から脚の先まで、丁寧に入念に洗い上げた。通常のディープメタル事件では、この作業を行うのは、衛生班の兵士である。彼がこれを行うのは士官学校時代のころに訓練して以来で、実に十数年ぶりのことだった。その時に練習台となったのは、同級生の頑丈な身体だった。練習のために、お互いに洗い合う、という、全く嬉しくない思い出がある。その時には、乙女の肌を洗うことになるとは、思いもしなかった。
 少しでも力を入れれば擦り切れそうな繊細可憐な皮膚に配慮しつつも、訓練において『被曝者の今後の健康を第一に考え、汚染はできうる限り洗浄除去すること。出血しなければ薄皮一枚削る勢いでも良い』という指導があったことを忘れることはできない。加減が難しい。もしも、これが男でしかも同級生だったなら、何の遠慮もためらいもせず、一枚削ってしまうのだが。
 眠らされた少女は白い泡にまみれて、甘やかな曲線を描く優美な体が、青年からされるがままになっている。
 中将は、途中で、何度か深呼吸をする羽目になった。
 精神を鍛えねばできない職業だが、彼も人の子であり、若い上に男であるので、対象によっては、ほころびが生じる。彼の体に流れているのは冷却水ではなく、温い血液だ。
 健全な若者なら、美しい女性、それも手付かずの肌を目の前にして、凪のごとき平常心を持ち続けろというのは困難な話だ。彼女はまだ成人してはおらず幼い部分があり、平素なら、彼の情欲の対象に入らないのだが、肌を目の前にさらされても心動かないかというと、そうではない。
 しかも、ただ見ているのではない。触れて洗っている。この手指に余計な力が入れば、この子に、無用な感情が伝わりそうだ。
 理性と本能とのせめぎあいで、正直、めまいがする。
 自分は軍人であり聖職者ではないので、戦いにおいて雑念を捨てる訓練は行うが、性欲を捨てるそれはしない。下手に抑圧すれば必ず逆効果となるからだ。否定せず、合理的に処理すればいいのだ。
 しかし、だからといって肯定するわけではない。本能は一線を踏み越えたがる、が、それは理性が手綱を持つべきところだ。
 ゼルク・ベルガー中将は、大きく息を吸って、また吐いた。
 シャワーの温水を掛けて泡を落とす。磨かれた肌が現れる。薄紅に染まって艶めいている。甘く熟れた果実のように。
 男としては、早速もいでしまいたいと思う。
 息をついて、天井を見上げた。そこも乳白色の大理石が貼られている。浴室全体が白く、湯気も当然白い。色彩に乏しい明るい世界の中で肌の色が際立つ。気分が現実から離れそうになり、思わず舌打ちした。
 その時、割れた窓ガラスの向こうから、外の風がさあっと流れてきて、涼やかに髪をなびかせた。お陰で、少し気分が落ち着いた。
 洗い上げたロイエルを抱き上げて、今度は浴槽に向かった。
 広い浴槽の縁に置いた、大瓶に入った除去剤を、全て、浴槽のお湯の中にひっくり返す。すると、透明だった湯が、乳のように白く不透明になった。
 彼女を抱えたまま浴槽に入る。縁のそばは腰掛けられるように一段設けてある。自分はそこに座り、少女の顎を片手で支えて、浴槽に仰向けに浮かべた。まだ夏場なので、湯というよりも、「日なた水」のぬるさにされている。
 洗い残された少量のディープメタルが、身体から染み出し、白い湯を紫色に染める。色が交じり合って優しい薄紫に薄まり、だがすぐに消える。除去液によって無害な物質になるのだ。
 浮かべていた身を引き寄せ、膝の上に抱いて傾け、髪を丁寧に梳いてやる。湯になびく髪から、紫色の流れがわずかに染みる。
「ん……」
 心地良さそうに声を漏らして、目を閉じた少女の口元が少し笑んだ。愛しさが胸に湧くが、それを行為に表すと止め処が無くなるので、ただ濯ぐのに専心した。
 生まれてからずっと彼女の身体に染み込み続けたディープメタルを、できるだけ多く除去液に浸出させてやるつもりで、中将は、少女の手指に浸かり過ぎの皺が現れるまで、湯船に浮かべた。

 洗浄を終えて、ゼルク・ベルガー中将は濡れた服のまま、ロイエルを抱き上げて自室に連れて行った。歩いた後は、たくさんの水滴が落ちて濡れた道ができた。
 浴室を出ると、高い湿度と温度から解放され、かなり冷静さをとりもどした。
 そこで、疑問に思った。
 相変わらず、自分以外の人々が、眠り続けている。この呪術、いつまで続くのだろうか?
 奇妙なことに、来客もないようだ。もしかすると、屋敷に入った時点で眠るようになっているのかもしれない。
 私だけが覚醒している。
 この奇妙な状況を放置している呪術者は、一体、何を考えているのだろう? ロイエルを守るために掛けたものならば、彼女が捕まった以上、もう意味が無い。私にとっては都合がいいが。
 彼女を助ける力量があるなら、仲間意識の強弱にかかわらず、この子が私に捕まる前に動くだろう。あるいは、私も術の範疇に加えて眠らせればいい。それをしないということは、そうではないということだ。
 たいした力もなく友情も無いのであれば、彼女が捕まった時点で、すぐに術を解き、この子を置き去りにして逃げる。友情だけがあれば、捨て身で助けにくるか、この子を救う隙を伺うか。……だが、その気配はない。
 いずれも成り立たない。
 とすれば、屋敷内で起こっていることを知らない可能性が高い。ただ眠らせる術を掛けるのだけに集中している。あるいは、知る術を持たない。そう考えれば、状況に矛盾が無い。
 呪術は、いつ解けるのか? すでに1時間以上経過している。精神や神経に影響を与える術は、長時間に及べば神経系に悪影響を及ぼす。このまま解かないなら、研究院の術者と連携して、相手の素性にかかわらず叩く。
 ゼルク・ベルガー中将は、自室に入った。
 ベッドにロイエルを降ろし、研究院が調製した大きな絹布を掛けてやる。飲ませた薬の効果は、もうじき消える。その前に、服を着せてやらねばならない。
 青年は部屋の浴室に入り、装備を全て解き、水を浴びた。浴場で湧いた熱を全て除くつもりだった。涼しかった空気を「温い」と感じるくらいに身体が冷え切ってから、浴室を出た。
 新しい軍服にそでを通し、中将は再びロイエルが横たわるベッドの左脇に立った。
 何を着せたものか? 屋敷中が眠っているので、服を借りようがない。家捜しする訳にもいかない。かといって、ここで裸のまま置いておくと、無用な誤解を受けかねない。手持ちの物で済ませたい。軍服は渡せないが、鎧の下に着用する長衣であれば、いくらでもある。それにしようと思った。
「う、ん、」
 ロイエルが寝返りを打った。暑いらしく、掛けられた絹布を握って剥ごうとする。
 ゼルク・ベルガーは、やっと心身の熱を下げたのに、また煽られては困ると思い、絹を掴んだ少女の手を解こうと、華奢な指に触れた。
 すると、冷たくて心地よいのか、差し伸べられた青年の左片腕に、ぎゅっとすがってきた。彼のひじ辺りから少女の両腕が巻きつかれ、両手で手首を握られて、手のひらを右頬に触れさせて、ほうっと息を吐いた。冷気を餌にして釣ったようになった。彼女の熱が、服地をとろりと通りぬけて青年の皮膚を舐めた。軟らかな胸の間に硬い腕が挟み込まれる。
「!」
 青年は思い切り眉をひそめ、腕を引き抜こうとする。が、少女の素肌はぴったりと触れていて、離れなかった。もっと力を入れたら叶うだろうが、そうすると、肌が擦れて傷ついたり、驚いて目を覚ますかもしれない。だから、動けなくなった。
 ぬるま湯とはいえ、結構な時間浸かっていたから、暑いのだろう。伝わる熱からよくわかる。逆に、私は冷えている。冷ますにはもってこいだ。しかし、その分、こちらが火照る。
 気を逸らさないと、腕の触覚が余計な衝動を駆り立てる。
 外さねば。
 右手でロイエルの手指を腕からはがす。
「ううん、」
 寝苦しそうに、身じろぎする。唇から、「あつい」、と、気だるい声が漏れてきた。くねる上半身から白い絹布が逃げて、肌があらわになる。寝返りを打って、仰向けからうつぶせになり、これまで横たわっていた所よりも少し身を移して、はあ、と、あえかな息を吐いた。
 まるで情事の後のようだ。
 誘われているような気になるが、それは全てこちらの不埒な了見だ。眠っている上に男を知らないだろうこの子に、下心はない。
 今のうちに、長衣を着せることにした。これも絹布でできている。袖がなく、前みごろと後ろみごろとが、肩だけで縫い合わされている。みごろから腕を出し、左右の脇下を腰の位置までボタンで留め、そこから膝上まで前後のみごろに再び分かれる。
 上半身を抱き起こし、頭から長衣を被せる。脇のボタンを全て止めると、腿の中ほどまでボタン留めが続いた。身が細いので、服の幅にかなりのゆとりがある。
 これで、目のやり場に困らずにすむ。
 ロイエルは、寝返りを打ち、横向きになって、身体をくの字に曲げた。まぶたが半ば開いて、熱にうかされた夕焼け色の美しい瞳が、少し現れる。そして、「う、ん、」と声を漏らすと、身を起こした。横座りになって、両手をついて身体を支えようとする。しかし、まだ薬が効いているので、くらりと倒れる。
 それを、中将が肩を抱いて支えた。
「……つめたい、」
 肩に触れた中将の手をぼんやり見つめて、少女はそうつぶやいた。
 ほっそりと優美な腕が二つ伸ばされた。
 先ほどは腕にすがってきたが、今度はすぐそこにいる青年の首に手を回した。身体を遠慮なく押し付けて、熱を解こうとする。
「すずしい、」
 かすれた声が、熱い吐息と一緒になって左耳を撫でた。
 その無邪気で無防備な動きは、「暑くてたまらないので自分より冷たいものに触れたい」という素直なものだ。この子にとっては、木や石を抱くのと変わりない。ただ冷たければ何でもいいのだ。他意はない。そう、いちいち自分に言って聞かせてやらないと、こらえられない。
 ゼルクは奥歯を噛み締めた。どこかに力を入れてないと、自分が何をするかわからない。
 水風呂に浸けてやればよかった、と、後悔した。
 左耳のすぐそばにある唇から届く、熱い吐息と、口中から漏れる乾いた舌の音を聞いて、青年がささやいた。
「何か飲みたい?」
「……」
 うつろな瞳が青年を見つめて、ゆるやかにうなずきが返った。
「じゃ、離れて。ちょっと待ってなさい」
 中将は心の底から安堵すると、ロイエルをベッドに横たわらせて、軍の補給物資を取りに行った。

 冷えた飲料を持って戻ってみると、ベッドに横向きに寝た少女は、こともあろうに長衣を脱ごうとしていた。服地を引っ張って長衣の首穴から肩を抜いて脱ごうとするが、幅が狭くてうまくいかないようだ。
「着てなさい。脱いじゃ駄目だよ」
 ことさら強く声を掛けるが、こちらを向いた少女の目は茫洋としていて、言っていることがわからないようだった。あまりにも無防備なのは、まだ薬が効いているからだ。私が誰かも認識できていないだろう。
「まだ暑い?」
 聞くと、うなずきが返った。
 暑がり方が尋常じゃない。湯船に浸けただけでなく、ディープメタルを洗浄したことも影響しているのかもしれない。
 ロイエルの肩を抱えて起こし、飲料が入っている樹脂製の瓶の蓋を開けて、口元に持っていった。体液と同じ濃度の塩分と微量元素を溶かした蒸留水に、香料や酸味甘味を加えて飲みやすくしてある。
「さあ、飲みなさい」
「……」
 緩慢な動きで、彼女の両手が瓶を包む。冷えているのがわかると、今しがた青年にすがりついたのと同じ勢いで、ぎゅっと握り締めた。瓶に口をつけて、傾け、こくこくと喉を鳴らして飲んだ。
 コップに2杯分ほどの量を一気に飲み終えると、ふう、と、息をついて、瓶から口を離した。
「もっと欲しい?」
「……ううん。もういい」
 返事があった。
 瓶を握ったまま、ロイエルは、ゆるやかに室内を見回した。
「……ここ、どこ?」
 だんだんと、意識がはっきりしてきたようだ。
「さあ、どこだろうね」
 静かにはぐらかすと、少女がこちらを見て首を傾げた。
「……だれ?」
「誰だと思う?」
 そろそろ、送り出さなければ。
 薬が切れて、この子が目醒める前に。
 呪いが解けて、皆が目覚める前に。
「おいで。別の場所に行こう」
 両腕を差し出すと、冷たい身体がまだ好ましいらしく、ロイエルは中将にぴったりと身を寄せる。
「どこ、行くの?」
「ここより涼しい所だよ」
 そう答えたら、唇に自然な笑みが浮かんだ。やはり暑いらしい。
 抱き上げて、部屋を出た。
 通路に出ると、あちこちで倒れて寝込んでいた人々が、ぼんやりと起き上がるところだった。この子の覚醒と連動するかのように。
 部屋は三階だった。そこから、地下牢を目指す。
 時間の経過と共に、人々が次々に目覚めていく。
「なんだ? なんで、俺はこんなところに倒れてたんだ?」
「いやだ、どうしたのかしら。お洗濯物を取り込みに行く所だったのに」
 あちこちで、そんな声があがっていた。
 階段を降り、二階にさしかかると、アンネ准将が部屋の扉を荒々しく開けて出てくるところだった。彼女は上官を見ると、「中将!」と、急いで駆け寄ってきた。赤道色の短髪が凛々しく揺れる。
「ご無事でしたか!? 私としたことが、不覚でした! これだから異体系の呪術は油断ならない!」
「私は被術しませんでした。アンネ准将の方こそ、無事ですか?」
 中将を前に、准将は背すじをぴっと伸ばして敬礼した。
「大丈夫です。ご命令いただければ、早速、施術者を探しますが。……あら、」
 青い軍服の女准将は、上官が抱えている少女に気付いた。
「ロイエルではないですか」
「この子をご存知ですか?」
「ええ。ジョン医師と一緒に暮らしている孤児です」
 言いながら、彼女は、眠る少女のいでたちと、そして、彼にくたりと身を預けている様子を見て、怪訝そうに眉をひそめた。
「どうしたのです、この子。どうしてこんなところに?」
 中将は肩をすくめた。
「どうしてもなにも。この『悪ふざけ』の一端を担ってたのですよ。2階の浴室に忍び込んでいたところを、捕らえました。弱い薬を使って、少しおとなしくさせていますが、」
「ロイエルが? そんな……、」
 しかし、准将は、相手の言葉が信じられないようだった。上官であり、彼を信頼し、また、私的に憧れているにもかかわらず。
「ロイエルが呪術を掛けたとおっしゃるのですか? そんな子ではないはずです。この子は、医師の手伝いをよくする、心の優しい子で、村の子達の面倒もよく見て。たしかに、首謀者のオウバイに近しい人間ではありますが……、でも、」
 さかんに首をひねる准将に、中将は応じてうなずいた。
「ええ。あなたの言うとおり、この件、施術者は別にいるようです」
 アンネ准将は、不思議そうな顔になった。
「では、この子は、ここで何をしたのですか?」
「降りながら話をしましょう」
 青年は階段を歩み始めた。
 部下は、相変わらず不可解そうにしている。
「中将。この子は、ここが嫌いなのです。それなのに、わざわざ来るなんて。きっと深い訳があるはずです」
「嫌い? どうしてです?」
「領主一族と反りが合わないからです。この子はつましく働き者で、彼らは浪費好きの怠け者です。それに、」
 そこで、凛とした声が途切れた。
「それに?」
 促すが、答えない。
 会話が途切れた。
 再開したのは、階段の踊り場にさしかかり、周囲に屋敷の者達の姿が無くなったからだった。
 准将は、少女の着衣を見て、「これは、鎧の下衣ですね?」と聞いた。
 中将は目を伏せた。
「ええ。この子を浴槽に落として捕まえたのです。ずぶ濡れにさせてしまいました。私以外、皆、被術して眠っていましたので、揃えられる着替えがこれしかなくて」
 そうでしたか、と、部下は、すんなり納得した。彼が不埒なことをするとは思っていないのだ。実際、していない。ぐらつきはしたが。
 彼よりニ、三歳年上の准将は、青年の後ろめたさを慮り、弁護するように言う。
「よくわかりますわ。貸してやれるのはこれくらいしかないですものね。軍服は論外。我々は私服は持ち込まない」
「ええ」
 それ以上の言及を避け、すぐに部下は話を変えた。
「途切れた私の話の続きをいたします。彼女がここを嫌いな理由は、私の前任であったソイズウ元大佐にあります」
 そこで言葉を切り、彼女は「察していただけますか?」と、青年の反応をうかがった。
 ゼルク・ベルガー中将は、渋い顔になった。噂はよく知っている。
「悪い癖、ですか」
「はい。当時まで、この子は、医師から、彼の婚約者である領主の令嬢エミリへの伝言を頼まれて、よくここに来ていたそうです。この子にとっては好きな仕事ではなかったようですが。それでも言いつけを守っていました。元大佐はその時に目をつけたのです。そして、自分の居室に連れ込もうとしました」
「……」
 眉をひそめた上官に、アンネは、「ご安心ください。未遂に終わったそうです」と言った。
「その後、ロイエルからその経緯を聞いたジョン医師が怒鳴り込んできて、発覚しました。……あの穏やかな人が、それはもう大変な剣幕だったそうです」
「それはそうでしょうとも」
「ええ。それ以後、彼女がここに来ることは無くなりました」
 今は降格された元大佐の性的欲求の対象は、初潮を迎える年齢の少女たちだった。その上、彼女たちから足蹴にされることを望むなど、被虐趣味まであるらしい。
 アンネ准将は舌打ちをした。
「さらに彼は、領主の娘にまで手を出しました。……これも未遂でしたが。その結果の更迭降格処分です。私的な意見ですが、私は、その処分に不満なのです。彼は懲戒免職されるものとばかり思ってました」
「辞めさせて野に放つと、かえって被害が広がるから、ということかもしれませんね。軍人のままの方が、監視ができる」
「あの卑劣漢! とても許せるものではありません!」
 つい先ほどまで本能と闘ってきた青年は、女性であるアンネ准将の当然の憤慨に、どうしても後ろめたさを感じてしまう。
 年下の青年のそんな気配を感じとった准将は、荒ぶる感情を引っ込め、苦笑した。
「申し訳ございません。つい感情に走ってしまいました」
 恥ずかしそうに、少しうつむくと、すぐに、さっと顔を上げて鋭い目で凛として言った。
「私は、自分よりも弱い者に劣情を押し付ける下衆が、大嫌いなのです」
「それは私も同感です」
 そして、また、階段を降り始める。
 屋敷の中が騒がしくなってきた。それは、決して、和やかなものではない。怒りが多分に含まれていた。
 中将は歩を速めた。
「みんな起き出しましたね。急いでこの子を牢に入れるとしましょう。どうやら、村でのこの子の立場は、ひどく弱いようですよ。今夜は牢にいた方が、この子にとって安全かもしれない」
「弱い、とは?」
 彼の速度にぴたりと着いてくる部下に、中将は静かに告げた。
「住民台帳を確認しました。どこにもこの子の記載が無かった」
 意味するところを理解し、准将は表情を曇らせた。
「まさかそんな。……ジョン医師は、一体、どんな心積もりがあるのでしょう」
「さあ。少なくとも、善意でしたことではないでしょうね。准将は、その事実があると認識してもらいたい。これからは、医師との関わりを慎重にしてください」
「わかりました」

 一階に降り、廊下を通って、地下牢へ続く階段室の扉の前で、中将に黄色い声が掛けられた。
「ゼルク・ベルガー中将様ぁーっ!」
 声を聞いた途端、アンネ准将のこめかみに、ぴっと青筋が浮いた。
「喧しい」
 口から嫌悪のつぶやきが漏れる。
 それを横目で見て苦笑し、中将は振り返った。
 相変わらず華美で丈の短いドレスに身を包んだ、この館の令嬢が駆けて来た。ふわっふわっと裾が揺れ、華奢な脚が膝上まで見え隠れする。
「中将様ぁっ」
 彼の前に来ると、エミリは、うるんだ瞳で見上げて、胸の前でぎゅっと両手指を組み、肩を寄せてみせた。
「館のみんなが眠らされてたんですって! わたくし、とってもこわいですわ。どうか、あなたのお側にいさせてくださいませ」
「狙われたのは私だったようです。側にいるとかえって危険ですから、部屋にお戻りなさい」
 媚びた物言いをさらりとかわされても、令嬢はひるまなかった。
「ご無事で何よりでしたわ。さすがゼルク中将様ですこと。素敵ですわ」
 愛らしく首を傾げて、うっとり見上げてくる。
「あら?」
 その、糖蜜を掛けた甘ったるい表情に、氷の冷たさが刺し込んだ。それまで令嬢に背を向けて扉に正対し、首だけ振り返っていた中将が、少し身体を傾けたのだ。
「それは……、ロイエル、ではありませんこと? ドクターの所の」
 乙女の瞳に、一瞬、暗い炎に似た剣呑な光が閃いた。しかし、それはくるりと転じて、優しい陽だまりのようなものになった。
 アンネ准将はそれを見逃さず、「この陰険性悪娘が」、と、心中で毒づいた。
 まぁっ、と、エミリは慌てた声を上げる。
「ロイエル、一体どうしたの!? 気を失っているのかしら? 中将様っ、この子、どうしてここにいるんですの?」
 その声色に、相手を心配する静やかさはない。むしろ、男の気を惹きたい嬌声に近かった。
「エミリは、ロイエルを心配しているのですか?」
 眉目秀麗な青年から穏やかな笑みを向けられて、優美可憐を自認する令嬢は極上の笑みをこしらえてうなずいた。
「もちろんですわ。心配でたまりませんの。この子、具合が悪いのですか? 一体、どうしてうちに来ているのかしら?」
 この娘、心にも無いことをよくも流暢に言ってのけるものだ、と、アンネ准将は眉間に怒りの皺を寄せた。そして、相変わらず穏やかに笑っている上官へ、「騙されないように」と、注意を促すため、小さく咳払いする。
 ゼルク・ベルガー中将は、金髪巻き毛の領主の娘に、できた微笑みでたずねた。
「エミリ嬢は、この子と友達ですか?」
「はい。大切な大切な友達ですわ。わたくし、誰とでも仲良くできますのよ。お友達は、かけがえのない宝です」
「そうですか」
 中将は笑顔でうなずくと、こう言った。
「では、優しいあなたに、お願いをしてもいいですか?」
「まあ!」
 令嬢が心から表情を明るくした。
 そして、期待にきらめく瞳を見せつつ、いっそう彼に近づく。
「ゼルク中将様のお言葉でしたら、わたくし、何でもしますのよ?」
「ありがとう、エミリ嬢」
 そこまでやりとりしたところで、中将に抱き上げられて目を閉じていた少女から、声が漏れた。
「エミ、リ……?」
 青年は何も答えずに抱えなおし、甘ったるい視線を浴びせてくる令嬢に頼んだ。
「ジョン医師に伝言をお願いしたいのです。『ロイエルが悪戯をしたので、一晩だけ地下牢に留置します。明朝には帰しますので、心配しないでください。エミリ嬢に伝言をお願いしたのは、彼女が、あなたの大切な婚約者で、あなたにとって一番信頼できる人だと思ったからです。私も明日には挨拶に伺います』、と」
 そこで言葉を切り、ゼルク中将は、空色の瞳で、令嬢の目をじっと見つめ、微笑みかけた。
「お願いできますか? 優しいエミリ嬢」
「ッ!」
 エミリは、青年の視線と笑みとに、目を奪われて息を飲み、そして「そういえば、見つめあったのは、初めてじゃありませんこと? 一歩前進だわ!」と思った後、速やかに返答した。
「お任せくださいませッ!」
 令嬢はうわずった声で応じると、いそいそと駆けて行った。
「彼女が来てくれて丁度よかった」
「そうですね」
 事務的に言葉を交わすと、中将と准将は、飛んでいった小雀を見送ることはせず、さっと階段室の扉を開けて、地下牢への階段を折りた。
 階段から降り、左右に五つずつ牢が並んだ通路を歩き、奥から二番目にロイエルを入れた。
 冷たい石床に下ろし、壁に背を預けさせると、少女は冷たくて心地よいらしく、はあっと息をついた。
 ゼルク・ベルガー中将は、床に左膝を付くと、囚われる少女に声を掛けた。
「とりあえず、悪戯をした罰だよ。明日の朝まで、ここにいなさい。食事はちゃんと用意する。ジョン医師には伝えてあるから」
「……ドクター?」
 ぼんやりとしていたのが、医師の名前には反応して、ふんわりと笑ってみせた。
「……」
 複雑な表情になった青年に、アンネ准将はそっと言い加えた。
「穏やかで人望厚い医師のことを、この子は、とても信頼しているのです」
「そのようですね」
 声の響きに、苦さが混じっていた。

「ゼルク・ベルガー中将、アンネ准将」

 その時、兵士が階段を下りてきて声を掛けた。
「何だ? 何か起こったのか?」
 きりりと応じた女准将に、側まで来て敬礼した兵士は、はっ、と、うなずいた。
「ちょっとした騒ぎが起こりまして。大浴場の床が紫色になっています。使用人が見つけて騒ぎになっています」
「……どういうことだ?」
 それがそんなにも慌てることなのか? と、アンネは首を傾げた。入浴剤だとか、何かの染料がこぼれているだけなのでは? と。
 しかし、隣にいる上司は、さっと立ち上がった。
「すぐに行く。君は先に行って、皆に、浴室に近づかないように言ってくれ」
「中将?」
 准将が伺うと、彼は「アンネ准将、ここの施錠を頼みます」と言ってから、兵士と彼女に告げた。
「それはディープメタルだ」

 ゼルク・ベルガー中将と、兵士は、急いで階上へと向かった。
 しかし、地下牢から上がる階段付近に気配を感じ、立ち止まった中将はそちらを睨んだ。兵士は先に駆け上がっていく。
 すると、
「ひゃあっ、」
 怯えた悲鳴が上がった。
 次に、小声で「しッ、見つかるぞ」「気配を消すんだっ」「それって一体どうやるんだよう」と、慌てふためいたやり取りが筒抜けに聞こえた。
 姿は見えないが、子どもだ。まだ声変わりしていない男児の、あどけなく清らかな高い響きだった。
 気配は三つあった。どれもが恐れおののき、階段の付近で寄り添って震えていた。
 姿は見えないが、明らかにそこにいるとわかるほどに可哀想なくらいに怯えていて、中将がそちらに近づこうものなら、混乱と恐慌の極みに追い詰められ、幼心に傷を残しそうなほどだった。
 その様子から、別のことに気付いた。
 皆の眠りがなかなか解けなかった原因について、だ。
 それは、考えもしないような、憐れなものだった。施術者が「子供の使い」だったからなのだ。状況を見て判断することができない。あらかじめ言いつけられたことしかできないのだ。
 青年は小さな彼らを見逃して、このまま階段を登ることにした。緊急を要するのは浴場の方だった。
 できるものなら、彼らはロイエルを助けてみればいい。
 今、地下牢にいるのは、皆、「首謀者に利用された小さな被害者達」だ。軍も村も、この子達を責められない。

 ゼルク・ベルガー中将は三階まで駆け上り、自室に行って、除去液等々が入った研究院からの荷物を持って、二階に走り降りた。
 大浴場の入り口には人だかりができている。
 使用人らと兵士達との言い争う声が響いてきた。
「何、言ってるの!? どうしてオウバイのことをそんなふうにいうの!? あなた、しっかりしてよ!」
「近づいちゃいけません!」
「離れるわけに行かないでしょ!? だって、この人がおかしいのよ! なによオウバイオウバイって、一体、どうしちゃったのよお!?」
「危険だから離れてください!」
「じゃあ助けてよ! 早く!」
 指揮官は、扉の際で騒動をながめて不安げにどよめいている人垣を、「危険ですから、もっと離れてください。中毒になりますよ」と言いつつかき分けて、浴室に入った。
 果たして、先ほど地下牢に来た兵士と、一人の女性の使用人が、脱衣所から浴場への出入り口に立ち、激しいやりとりをしていた。
「どうにかしてよ! お願いよ!」
「わかりましたから、離れて!」
「嫌よ! 約束するまで絶対離れないからね!?」
 二人のそば、浴場に入ってすぐの場所に、一人の男性の使用人が倒れていた。彼は、紫色になった大理石の床に倒れ、口から泡を吹いて、うわ言を言っていた。
 中将は、脱衣室の床に荷物を置いた。重い音が響いた。
「全員、離れて」
 しかし、言い争っていた女の使用人が顔色を変えて、青年に詰め寄ってくる。
「中将様ですよね?! お願いですから助けてください! うちの人が、おかしくなっちゃったんです!」
 中将は、彼女の両肩を支えるようにしっかりと捕まえ、混乱して揺れる瞳をじっと見て、一語一語はっきりと言い聞かせた。
「ええ。わかりました、助けます。あなたは、浴室から出て、待っていてください」
 女性は、がくがく震えながら、すがる瞳でうなずき、言った。
「……お、お願い、しますよ? かならず、ですよ?」
「必ずお約束します」
 そして、兵士を見る。
「この人を連れて、君も浴室を出なさい。それから扉を閉めて、近づかないように。皆にもそう伝えてくれ」
「はっ! さ、行きましょうね?」
 兵士は、女性の使用人を促し、すすり泣く彼女の手を引いて、速やかに出て行った。
 中将は、荷物から除去液の大瓶を取り出すと、浴場の出入り口に立った。つま先よりも向こうは、浴場だ。
 ロイエルを洗った時まで、そこの床は乳白色だった。
 それが、出入り口に近い辺りが変化していた。半径2メートルほどの円形に、紫水晶のようになっている。
 そこに、浴槽から溢れてくる除去液では処理しきれなかった、高濃度のディープメタルが存在しているのだ。
 その上に、男性の使用人が倒れていた。
 彼は、奇妙なうわ言を言い続けていた。

「うるわしのおうばいさま……おうばいさまにえいこうあれ……そのびはえいえん……わたしは……わたしはおうばいさまのちゅうじつなしもべ……」

「……」
 ゼルク・ベルガー中将は、眉をひそめた。
 なんだこれは。オウバイを讃えている。
 少なくとも、これはディープメタルの被曝症状ではない。脳神経組織の変性あるいは破壊によって、「せん妄」や「虚言」の症状が現れることもあるが、これは違う。
 まるで催眠、あるいは、洗脳だ。
 老婆の呪術はディープメタルに伴って出現するものなのか? この呪術の機構はどうなっているのだ。
 ともかく。
 今は彼の汚染除去を優先せねばならない。
 このままの状態で研究院に引き継げば、老婆が使う呪術の機構解析ができるのだが。助ける、と、彼の妻に約束したのだ。人道的判断を先に下してある。
 それに……この手の症状は、この先も様々な形で見つけられるだろう。
 指揮官は、倒れた使用人男性を洗浄し、ディープメタルを除去した。
 そして、紫色になった浴場床から、高濃度ディープメタルの結晶が、発見された。
 それは、館に忍び込んだ少女が指揮官にぶつけることができなかった碧の小石だった。




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