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五万時空の神隠し〜言霊の娘〜

すぎな之助(旧:歌帖楓月)


「なー、ちょこっとだけでいいからさ、貸してもらってもいいかー? な? あとでちゃんと返すからさ」
 南の賢者ノウリジは、北の友人の館を訪れて、一刻ばかり酒を飲んだ後に、そう切り出した。
「なにをだ? 酒をか?」
 冷えた紫の目線をやって聞き返す相手に、赤い賢者はひどく爽やかに首を振った。
「違うぞ! 雪葉ちゃんをだ!」
 北の巫女の名を口にした瞬間に、紅い賢者が握っていた瑠璃の杯は木っ端微塵に砕け散った。
「……」
 ノウリジは、哀れな最期を遂げた杯があった場所、つまり自分の右手を呆然と見つめた。そしてそこから、遺産の酒を相続することになってしまった自分の両膝を見下ろした。
「だああ! もったいねえーッ!」
 南の賢者は、北の賢者の非道に憤ることもなく、ただ酒の悲劇を嘆きに嘆いた。
「なんてことをー! もったいねえ! うああ! っ酒がぁああ!」
「お前なら、足からでも酒が飲めるだろう」
 冷たい言葉を吹き付けて、北の賢者インテリジェはついと立ち上がった。
 今まで、二人して居間の床に腰を下ろし、まあそれなりに仲良く酒を注ぎ交わしていたのだが。
 雪葉の名が出た途端、雰囲気は一転してしまった。
 紫の賢者が、氷の視線を友人に突き刺した。
「天罰だ」
 ノウリジは、普段この紫の面憎い男が口癖としている言葉を思い出して、顔をしかめた。
「おーい。『罰は私の与えるところではない』って……あれは一体、誰の口癖だったか?」
「知るか帰れ」
「そうするよ。雪葉ちゃんと一緒にな」
 空気が凍りついた。
 正確には、空気中の水分が凍りついた。
「うわ冷たッ!? ていうか寒ッていうか、痛ぁッ!?」
 金剛石の微細な粒のように、キラキラと光を放ちつつ、凍りついた水蒸気が部屋を漂う。
「もう一度言う」
 見下ろすインテリジェが、氷の微笑を口に刷いた。非情な勢いで部屋の気温が下降する。
「帰れ」
 見上げるノウリジは、小春日和めいた脳天気な笑みを、ぬるく浮かべた。
「やだよぉーん」
 寒波にも紫の賢者にも、動じない。
 北の賢者も、南の賢者のおちゃらけに動じはしなかった。
「わかった私が手ずから返してやる」
 北の賢者が右手を伸ばしてノウリジの紅い髪を荒くつかんだ。
「……手元が狂ってどこへ跳ぶやら知れんがな?」
 されるがままのノウリジは、慌てもせずに呆れた。
「あーのなー。おまえその、あてずっぽうで投げやりな性格なんとかしろよー。面倒になるとすーぐこれだ」
「面倒がなければこうはならん。二度と会わんかも知れんが息災でな」
「あーおまえも次に会うときは、もちょっと辛抱強くなれよー? すぐまた来るからな?」
かたや客を時空の彼方に投げ飛ばしながら、かたや為すがままになりながら、温度の違う会話を続けている。

「お上っ!」
「主上……?」

 北の青年が南の少年を廃棄しようとしたその時に、居間の扉が開いて、入ってきた人影が二つ。
 双方の巫女たちだった。
 まるで大きな紅いてるてる坊主のように頭巾をかぶっているのは、南の賢者が巫女、星華(セイカ)。
 薄紫の前合わせの衣装をさらりとまとい、漆黒の長髪に黒曜石の瞳、その手に「虹の珠」を持つは、北の賢者が巫女、雪葉。
 彼女たちは同時に部屋に入ってきて、同時に言った。それぞれの主に。
「お上。なにをなすったのです? どうしておとなしくなさっていられないのですか? 私たちは『虹の珠』を貸していただきにきただけでしょうに」
 呆れ半分、咎め半分の口調は、星華。今日は三十路前の若い姿だった。
「主上、……どう、なさいましたの?」
 己が主の凍れる怒りに、とまどうは雪葉。二十歳そこそこの姿。
「かわいー!」
 ノウリジが反応したのは、北賢者の巫女に対してであった。
「かわいーなあ。雪葉ちゃんは」
 悦に入って「ヘヘ」と笑い声を上げると、紅い賢者は己の物に同意を求める。
「星華、やっぱり雪葉ちゃんと虹の珠、一緒に貸し出してもらおうぜ? 真っ黒と虹色って、まるで逆だからさあ、一緒にあるときれいくないかー?」
「お上!」
 ぴしゃりと、星華がノウリジを制した。
「お止しなさいませ。雪葉殿は北様の巫女ですよ?」
 そして紫の賢者に対して、深々と頭を下げる。
「まこと、申し訳ございません。いつもいつも」
「……そうだな」
 インテリジェは、握っていたノウリジの紅い髪を離した。殺気が、いくぶんか和らいだ。
「虹の珠は……星華に貸し出す。持っていくがいい」
 星華が、そっと一礼した。派手やかな色を身に着けてはいるが、この巫女から放たれる雰囲気は非常に謙虚なものだった。
「ありがとう存じます」
「ええッいいのか!? やったー! 雪葉ちゃんが我が家にっ!」
「虹の珠の方だ!」
 はしゃぐノウリジに、ついにインテリジェが声を荒げた。
「雪葉は渡さん!」
 つかつかつか、と、北の賢者は雪葉の方に歩いていき、さっと抱き寄せると、白い繊手から虹の珠を取って、隣に立つ紅い巫女に渡した。
「そなたに貸す。使い終わったら、そなただけで返しに来るが良い。よいか? そこなる紅いのに用は無い」
「承りました」
「じゃー、俺は雪葉ちゃんの方を返しにくるから」
 紅い賢者は、まだ茶々を入れる。
 しかしその言葉には、続きがあった。
「ところでさー、インテリジェ。まだ足りないんじゃないのか? 雪葉ちゃんの、その、」
 打って変わった真面目な声に、北の賢者は怒りかけた表情を改めた。
「?」
「うちの星華は、ほら、黒があんまり強くないからこんなもんだけど。雪葉ちゃんは真っ黒だ」
「……だから?」
 促すインテリジェに、ノウリジは、んー、と、うなった。
「虹の珠と雪葉ちゃん。丁度、対になるだろ? 放つものと受け入れるもの?」
「……だから?」
「だから、……ほら、街に出たら、雪葉ちゃん、いろいろと、それでもまだ大変なんだろ? 聞いたぞこの前の、なんだその、変質者が実の娘をどうこうっていう事件。そのときに、雪葉ちゃんが、なあ?」
 ノウリジが同意を求めたのは、星華に対してだった。
「お上、私の意見が必要なのでしょうか?」
「誰の意見も、もういらん」
 断ったのは、インテリジェだった。
「もう私の側から離すつもりはない。雪葉はたしかに虹の珠と対になるが。……雪葉と対になるというなら、私も同じ。雪葉には私がいればいい」
「えー。たしかに賢者がいればいいけどさあ。なぁ、……雪葉ちゃんはどう思う?」
 ノウリジは、北の巫女にたずねた。物言いたげに。
「それでいいのか? 雪葉ちゃん?」
 北の賢者の隠し巫女は、笑った。
「私は主上の物でございます。主上が私の全てでございますから。全ては主上の御心のままに」
「ぐは!」
 雪葉好きの南の賢者は、傷心という名の闇色の淵に突き落とされた。
「俺としたことがしくじった。……雪葉ちゃんに直接聞くんじゃなかった……。そうだよな雪葉ちゃんは巫女だものな。ああ、俺、しばらく立ち直れないかも……」
「どうなさったのです?」
 雪葉は、相手が何を言わんとしているわからず、首を傾げる。
 紅い賢者は「じゃあね元気で雪葉ちゃん」と自失の体でつぶやくと、ふらふらと上体を斜め左に傾がせながら、消えた。まるで悪い酒に酔わされたように。
「それでは虹の珠をお借りいたします。お騒がせいたしました」
 星華は楚々と笑って一礼し、主を追う。
 別れしな、南の巫女は黒灰色の瞳で、北の巫女の漆黒の瞳を見つめて微笑んだ。
「……お幸せに」

 館の外にでると、赤い少年が祖母を待っていた。
「ありがとな。ばあちゃん」
 紅い巫女は、少しためいきをつく。
「まったくあんたときたら、やんちゃばかり」
 ぞんざいな口調を受けて、賢者は嬉しそうにへへへと笑った。
「だってばあちゃん、面白いんだもの、アイツ」
「いつか出入り禁止になるよ?」
「とうになってるさ。だけど俺、押し入るもん」
 若い外見の祖母は、顔をしかめると、孫の頭をげんこつで軽く叩いた。
「ほんとに困った孫だよあんたは」
 ノウリジはくすぐったそうに笑う。
「へへ。ごめんなばあちゃん。……でもさ、俺、気になってるんだ本当に」
 ふざけた賢者の顔が、少し真顔になった。
「どうやって出会ったんだろうな。あいつと雪葉ちゃん……その、……符合するみたいに、」
 星華は、そっと目を伏せた。
「他所の恋路に立ち入るもんじゃない。それより自分のことをなんとかおし?」
「何の話だよ? 雪葉ちゃんと俺の恋路についてか?」
 ばか、と言って、祖母は、また孫の頭を軽くこづいた。
「いいよもう。あんたはもっと成長しな。あたしは何にも教えてやんないからね」
「なんだよそれ!?」
 東の賢者が巫女優奈に想われているとも知らず、相変わらず子供じみた自分の孫に呆れて、……星華はふっと後ろを振り返った。遥か昔に潰され、賢者によって再生された目が、北の館を見つめる。

 お幸せに。
 体を損なうことなく結ばれた言霊の乙女と。
 彼女に永遠を与えた賢者。
 ……どうかお幸せに。 


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