シンデレラ2 後日談

すぎな之助(旧:歌帖楓月)

135 明るい春の朝に

 フロラは身支度を済ませて一階に降りる。
 咲き誇る春の庭の花々が見える部屋では、焼きたてのパンの香ばしい匂いとともに、二人が待っていた。
 大好きな二人の家族。
 自然に微笑みがこぼれる。
「おはようございます」
 クリスティーナがにっこりと笑い返す。
「おはよう! フロラ」
 プリムラは、フロラのお茶を入れるために立ち上がりながら、かすかに微笑んだ。
「おはよう」

 朝。
 王子は、大学へ行く途中で王立病院に寄った。
 診療室では、兄である医師が、あと半時で始まる外来診療の準備をしていた。
「おはよう。兄さん」
 白い部屋の扉を開けて入ってきた王子に、医師は診療記録から目を上げた。彼の周囲では、助手たちが忙しそうに歩き回って、銀色の医療器具をそろえている。
「ああ。おはよう」
 医師は苦笑いを浮かべた。
「昨日はちょっとした騒動だったな。心配のあまり、血液検査をしそうになったが」
 王子も苦笑で応じる。
「お騒がせしました」
 医師は、兄の顔になってたずねた。
「父上や母上には、きちんと言ったのか? 有頂天の理由を」
 弟はうなずく。
「うん。さっき、朝食のときに言った。驚いてたけど、でも、『どうりで』と言われたから、……意外なことじゃ、なかったみたいだ」
 医師も同調した。
「だろうな。縁談を断り続けるお前の近くにいた女の子は、彼女だけだったしな。ま、とにかく、おめでとう」
 王子は、少し照れて微笑んだ。
「うん。ありがとう。じゃ、僕はこれから大学に行ってきます」
「ああ。いってらっしゃい」
 医師は、再び診療記録に目を通し始める。
 王子は扉を開けて出て行く。
 出て行き間際に、王子は振り返った。
「兄さん」
 医師は、顔を上げた。
「? どうした?」
 ファウナ王子は、少し腕白な微笑みを浮かべた。
「兄さんも、おめでとうなんじゃないの?」
「!」
 兄の顔が紅潮した。
「ど、どうして知ってるんだ……? クリスティーナか?」
 兄の反応に確信を得て、王子は笑った。
「いいや。兄さんたちの様子を見ていたら、なんとなく」

 午前10時半を過ぎたころ。
「こんにちは」
 工学部棟の三階。研究室に二年生がやってきた。
 長い白金の髪を後ろで三つ編みにして、長い丈の紺のスカートに、襟の立った真っ白なシャツを着て。
 学生用の実験室に入ると、目の下にくまを作っている四年生が、フロラを迎えた。自分の机に向かって論文を書いている。彼の周りには参考資料が山積みになっていた。
「こんにちは、フロラ。早いね?」
 普段は小さい束にまとまってツンツン立っている黄色の短髪が、今はてんでんばらばらに乱れている。
 フロラは彼の頭髪に目をやってから、答えた。
「二限目が臨時休講だったんです。先輩は、徹夜ですか?」
「当たりー」
 四年生は、元から赤い上にさらに充血して赤くなっている目をこすりながら、ふらふらうなずいた。
「いやー……、進まなくって。ねえフロラ、後でまた手伝ってくれないかな?」
「ええ。構いませんよ」
「ありがとう。助かるよ……」
 四年生はよろよろと立ち上がった。
「昼過ぎからお願いね。俺、ちょっと、資材室で、寝てくる、から。あ、ここの本の山、うかつに触るとなだれが起きるので、気をつけて……」
「はい。おやすみなさい」
 眠りの妖精に先導されるように、先輩はおぼつかない足取りで部屋を出て行った。
 フロラは自分のかばんを、自分の机に置いた。
 この部屋にはフロラ独りになった。
 他の上級生たちは、三つ隣の助教授の部屋で論文講読をしている。
 自分も参加させてもらおうと思い、フロラはかばんから筆記用具を取り出した。

 その時、再び扉が開いた。
「先輩。さっきの問題ですけど。やっぱり一時間ずっと浸けるよりも、間で十分置いて三十分を二回の方がいいみたいですよ?」
 扉が開く音と共に、フロラの心臓を跳ねさせる声が入ってきた。
 フロラは振り返った。瞳は、扉の方へ釘付けになった。

「あれっ、フロラ!」
 学生実験室の扉を開けたら、先輩はいなかった。
 代わりに、予想外の人物がいた。
 青い青い瞳が、自分を見つめていた。
 王子は驚くと同時に喜んだ。
「どうしたの? 早いね」
 相手は、頬を桜色に染めて、うなずいた。

「はい。二限目が休講だったんです。先輩は資材室で仮眠をとっていますよ?」
 フロラは、ファウナ王子にそう答えた。
 ファウナ王子はにっこり笑ってフロラを見つめている。
 フロラは、とてもくすぐったい気持ちになる。
「そうか。寝ちゃったんだね。じゃ、起きてからでいいや」
「お昼過ぎには起きるみたいですよ」
「そう」
 王子は、次に何を話そうかと、嬉しそうにそわそわ瞳を動かした。
「ええと、フロラ……」
 フロラはそんな王子を見つめて、恥じらい気味の微笑みを浮かべている。
「はい」
「ええとね。昨日は言う暇がなかったのだけど」
 ファウナ王子は、フロラの青い瞳を優しい表情で見つめた。フロラへの愛しさを、春光の中で育ちゆく若芽のように感じながら。
「これから先の舞踏会は、ずっと、私と踊ってくれる?」
 フロラは、王子の逡巡しながらの口調に、思いやりや好ましく思ってくれる気持ちを感じとった。それだけで、心の中に、花の香りを含んだ春風が吹いてきたように、甘酸っぱい気持ちになる。
「はい。喜んで」
「あのね、それから、」
「なんでしょう?」
「私にも、時計室の調整の仕方を教えてもらえないかな? 私も、あなたと一緒に、教授の時計を守りたい。どうだろう?」
 フロラは、王子の申し出に少し驚いた様子で瞬きをした後、弱く首を傾げて王子を仰ぎ見た。
「でも……」
 ファウナ王子は笑う。
「フロラが一人で続けたいことなら、教えてもらわなくていいんだよ。あなたとお父様との時間を妨げるつもりはないんだ」
 フロラはいそいで首を振った。
「いいえ。王子にお手間を取らせるのが心苦しくて」
 そして、そっと首をかしげて、伺うように王子を見上げた。
「私にとっては、時計室の調整は全く負担ではないのです。ですから、そのことをお気遣いいただいているのなら、私は大丈夫ですよ?」
 王子は首を振った。
「ううん。本当はね、ずっと、私も時計室の調整をしたかったんだ。だけど、」
 口元に、苦笑がのぼった。
「私ができるようになったら、フロラが、もう王宮には来なくなるような気がして」
 そこで言葉を切り、王子は少し肩をすくめた。
「あなたに王宮へ来てもらうための手段でもあったんだ。ちょっとでも、一緒にいたかったから。ごめん」
「いいえ」
 フロラは、微笑んだ。
「うれしいです」

「論文講読、フロラも来る?」
「はい。ちょうど、行こうと思っていたところだったんです」
「そう。よかった。じゃ、一緒に行こう」
「はい」

 部屋を出たら、廊下には誰も通っていなかった。
 王子は、少し微笑むと、右手をさしだした。
 フロラは両手で抱えていた筆記用具を、右手だけで持ちなおし、左手を王子の右手に預けた。
 二人は手をつないで、助教授の部屋へと歩いていく。

 数年後。
 研究職に就いた若い王族の夫婦が、王宮を構造の面から守るようになる。
 彼と彼女は、二人の王宮魔法使いに支えられ、長い年を共に幸せにくらしたと。



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