「おはよう、素敵なお嬢さん」
独りになって街行く少女に、声が掛かった。
彼女は振り返る。黒い長髪がさわと揺れて、淑やかに柔らかくその身に添う。朝の中でその色だけが、闇夜の神秘的な安らぎのようだった。
「どなた?」
濡れた黒目がちの瞳が彼を捉えた。落ち着いて、それでいて相手の心を甘くくすぐるような、少し高めの声が、静かに奏でられた。
彼は、しびれたように、それまで言葉をつむいでいた唇を、震わせながらつぐんだ。
「素晴らしい」
「?」
少女は、首を傾げた。
「何を言ってらっしゃるの?」
「素晴らしいお嬢さんだ」
彼は背をかがめる。上品そうに微笑み、細い身を丸め、相手の目線に合わせる。
少女の視界に彼の顔が入り込む。
やせた白髪交じりの男。
「どなた?」
「私を知らない?」
男はわずかに驚いて目を見開く。
「そう。そうか。そんな子がいるとは」
その後は、気分を害すどころか、ますます上機嫌になって、熱を込めた微笑みを少女に差し出した。
「素晴らしい。昨今は、若者の非行が大問題となっていて、私を知らない者はいないはずなのだが。いや。お嬢さんのような方なら、私が何者か知らなくても、一向構わないよ。いや、私を知らないことこそ良いことだよ」
少女の柔らかくて細く白い手を、男はじとりと握ろうとする。骨ばって、血管の浮き出た、いやに湿っぽい手で。
少女は手をひらめかせて、男から逃れた。空気までも酔わせるような優雅さで。
「みだりに私に触れないでください」
「なんと清らかな。本当に素晴らしい。夢のようだよ」
男は、少女のそんなしぐさにすら、感動して唇を振るわせた。
「ああ。お嬢さんのように素敵な女の子には、ついぞ出会ったことがない。なんて汚れの無い」
男は、少女の前に膝をつくという行為にでた。
「どうだろう? 私は青少年の非行について、日々心から憂いている者だ。もちろん、それに相応しい社会的地位もある」
少女は瞳を伏せて、一歩、後ろへ退く。
街行く人々は、彼が彼であるがゆえに、まるで気にも留めない。
「お嬢さん、家に来て、私と話をしてくれないだろうか? そこには素敵な植物園もあって、素晴らしく美しい花たちが咲いているよ?」
「申し訳ないけれど」
少女は、雪降る静寂の森に立って神託を告げる巫女のように、静かに言った。
「私は買い物の途中なの。主(あるじ)が待っているわ」
「主?」
異様な響きに、男は、眉をひそめた。
「まさか、君は誰かの妻なのかい? まだ子供なのに。それとも使用人かな? いずれにしろ」
その瞳に、炎にも似た怒りの光が宿った。
「君のような年齢の子にさせてはいけないことだ。それは法に反する……」
「いいえ」
少女は首を振った。可笑しいらしく、口元を緩めてつぶやいた。
「法なんて関係ないの」
「……」
関係ない……だと?
男は、思わず、
思わず
愉悦の笑みを浮かべてしまった。
「さよなら」
少女は、去る。鳥のように軽やかにそして優雅に。
「待ちなさい……。ああ」
男は取り残された。陶然と。蒼い夢をみたかのように。
「素晴らしい」
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