外が見たい、と、雪葉は両親に願った。
おとなしい子どもであったが、絶えず何かに興味を持っていた。
両親はそんな雪葉に本を与えた。外へ出さない代わりに、本をたくさん与えた。屋内でも外のことが知れるように。しかし、読んだ後で雪葉は願った。
「ほんものが見たいのです。この目でみたいのです」
駄々をこねるわけでもなく、ぽつりと、春日の下ですぐに消える淡雪のように静かに儚く、雪葉が願った。
物である両親は、子の願いならばと、屋敷内に持ち込めるものであれば全て手に入れ、屋内や中庭で雪葉に見せてやった。
しかし、そうすればするほどに、空虚な思いが生まれた。愛しい娘の願いを叶えたという満足はあったが、虚しさがしんしんと積もっていった。厳寒の中で凍りつき消えぬ雪のように。
外に出たい、外が見たいと雪葉がつぶやく。
出せばいらぬ「災厄」を招く。彼女を見た男が狂う。
だから彼女は外には出られない。
そうしなければ、その身が危険にさらされる。
男たちは狂う。人の言葉を聞かず、自分の理性も消えて、猛る欲求に支配される。ただ一人の娘が欲しいと。会ったばかりの少女に飢える。
たえず、雪葉には「外が見たい」という願いがあった。
自分の目で見たい。世界を。
そうして、十三になった夕方のこと。
雪葉は月が見たくなった。中庭から見上げる遠い月ではなく、地平から昇りゆく姿が見たくなった。どうしても、見たくなった。
屋敷に居るのは、父だけ。母は仕事で不在だった。
雪葉は、父に願った。
居間に座して刀を磨いていた父は、それを鞘に納めると、首を振った。
外には出せない、と。
特に今晩は満月、それも晴れた秋の夜だから、人目が多いのだと。
それは私がおかしいからなのだ、と、雪葉は知っていた。
願う声は、そこで途切れた。
わかりました、と、つぶやいて、雪葉は塗籠にこもった。そこは闇しか見せない。壁以外の何も、無い。
父にも母にも、願えない。
自分がおかしいことは、わかっていた。
ただ見ているだけで、男らの様子がおかしくなる。
穏やかな顔が、みるみる紅潮して、歪んで、私に手を伸ばす。まるで「物」を見るように。まるで私が所有物であるかのように。
闇の中で、雪葉は目を閉じた。
目を開いていると、自分の中を、自分以外の「何か」が流れていく。それは感じられる。そしてそれが、とてつもなく心地いいのだ。
この、「何か」、おそらく、これが他人には無いものなのだろう。
正体はわからないが、それは、目を開けている限り、外から自分の中へ流れ込み、言葉と共に外へ出ていく。
瞳を閉じると視界が黒になる。すると、流れがはたと止む。それはひどく寂しいことだった。しかし……しかたないのだ。
外を見たい。全てをこの目で見てみたい。欲求は日に日に高まっていく。
けれど、……私が外に出れば、それを目にした男に不幸を呼ぶ。
このまま自分自身も瞳の中に黒く閉じ込められてしまいたい。なくなってしまいたい。
黒い視界に、今まで遭ったことが映る。とめどもなく。
人として生きるのであれば、他者との交流を持たずに済ますことは、できない。
人として生まれ落ち、人として生き、人として死ぬ。いずれの時にも、誰かが関わる。
それなら、……自分は一生をここで過ごすのだろう。
これ以上、狂わせてはいけない。罪を重ねてはいけない。
しかし、そうして塗籠で眠りに落ちたはずの雪葉は、深更、そこを出た。
本人にその記憶は無い。
うつろな目をして、窓の無い部屋を出て、冷たい板の間を、夜を刻むようにひたひたと歩く。南に面した座敷、その向こうの縁側を目指して。
「雪葉?」
父が、幽鬼のような娘の背後に現われた。
「どうしたのだ?」
「……」
気遣う父の瞳を、雪葉の黒い目が捕らえた。
「そとに出ます……」
その瞳はまるで、光を吸う深闇のようだった。
主上に導かれての星巡りの折に、そんな闇を見たことがあった。
あれは、なんという名の、闇だったか……
全てを呑み込む、あの闇は……
「おとうさま、わたしはつきがみたいのです。つきを、昇る月を、」
雪葉の瞳はまるで、光吸う闇そのもの
白柳の意識は、そこで途切れた。
「!? お父様、何をなさいますの!?」
雪葉の意識はそこから始まった。
どうしてだろう? 自分は塗籠で寝ていたはず、どうしてこんな場所にいるのか。どうして、座敷で……父に、
「あっ!」
痛みに、雪葉が驚いて顔をしかめた。
父、白柳が、人ではなく、物の白柳が、娘雪葉を押し倒して衣を開き、やわい幼い乳房を掴んでいた。
「お父様!?」
「お前が欲しい雪葉お前が欲しい」
月明かりが縁側に差込んでおり、そのはかない反射光が、父の顔を浮かび上がらせた。
……狂った、男の、顔、
内股に手が掛けられた。
「いやぁッ! どうなさったのお父様!?」
雪葉が首を振って叫んだ。
物ゆえに力の加減を知らぬ豪腕が、生娘の柔肌を押し広げた。
「お止めくださいお父様! ……お母様、お母様助けて!」
その声は、たしかに母の耳に届いて、
雪葉は、すんでのところで現れた母に助けられた。
父は、母から正気づかされると、涙を流し、床に頭を打ち付けて雪葉に謝り、……それからしばらく、屋敷に帰ることをしなくなった。
何が男を狂わせるのか?
それは、雪葉の闇の瞳。
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