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五万時空の神隠し〜言霊の娘〜

すぎな之助(旧:歌帖楓月)


「雪葉は?」
「塗籠の中におります」
 夫は妻のどこまでも静やかな返答を耳に入れると、厳しい表情を辛くした。
「そうか……」
 塗籠とよばれる、密閉された部屋にこもってしまう娘。十五歳になった今、もう、彼女が外に出ている方が、珍しいほどだった。
 出入りを繰り返す、それが生の終わりまで続く堂々巡りかに思えた。が、終末はたびたび予見されるようになった。
 きっと、一生をそこに入ったまま過ごすのだろうと。もはや人目に触れさせてはならない、と。

 漆で塗り固められた壁。
 両側から掛けられた鍵。
 雪葉は、黒い塗籠の中、闇の腹の中で、沈んでいた。
 ……もう終わりにしたい。
 最後に、神に会ってから、終わりにしたい。
 死んだら、きっと会うことはないだろうから。
 私は神の世界には入れてもらえないだろう。こんなにも罪を重ねてしまえば。
 ……一体、何人の男を、父の刃の露にしてきたことか……。そしてついには父までも狂わせかけた。
 私が死んだらそれで終わり。私は無くなる。
 人の中に存在するだけで、人を狂わせてしまうのなら。
 私は無くなるべきだ。

 朝。塗籠の引き戸が開いた。
 父と母は、そこで待っていた。いつ出てくるとも、また、生きて出てくるかどうかも知れない、娘を待って。
「父上、母上」
「なんだ?」
「どうしました?」
 雪葉は、伏せていた瞳を、持ち上げた。断罪を願うように。
「お願いです。あなたがたの神に会わせてください」
 親としては気が進まなかった。あの冷たくも無情な神にだけは会わせたくなかった。しかし、ここまで追い詰められた娘の願いを、聞き入れないわけにはいかなかった。
「……わかったよ、雪葉」

 北の賢者の館は、荒野にある。
 北の果て、散る雪と吹く風と凍える岩の他に何も無い荒野に。
「失礼いたします、主上」
 壮年の男の声が、静かに耳に入った。姿はない。
「なんだ白柳」
 暖炉の前、薄紫に燃える火に紫水晶をかざしながら、主は口だけで応じた。そこに感情は無い。
「恐れながら、お願い申し上げたいことがございます」
「申せ」
「はい。私には娘がおりまして、」
「人の子だな。知っている」
 主の応答に、感情の色は無い。
 持ち物も同じだった。無感情に言葉を奏上した。心は、どこかに分けて離して。
「主上へお目通りを願っておるのです」
 主は、その娘に、関心を向けた。そうすれば、娘のことがわかる。自分の必要とする分だけ。
「……ほう」
 少しの事情を理解した、たったそれだけの意味しかない相槌が、返された。
「よろしゅうございますか?」
「構わん。連れてくるがいい」
「かたじけのうございます」

 人は物のようには、動けない。
 雪葉は、頭から頭巾を被り、母に手を引かれて足で歩き、それから二月の後に、北の賢者の館へと参った。
 神の館に参る人など、数えるほどもいない。
 四方の賢者を神と表現するのならば。神に関わらなくとも、人は生きていける。直接詣でる必要はないし、それで自分の欲するものが得られるわけではないから。神そのものに用が無いのなら、四方の果てまでいく必要はない。
「着きましたよ雪葉。ここがお館ですよ」
 むかってくる冷酷な北風から娘の身をかばって先導してきた母が言った。
 神の館。ここが。
 ……着いた。
 雪葉は、顔を隠す頭巾を取り、荒地に唐突に建つ、石造りの賢者の館を見上げると、気を失った。

「申し訳ございません。家から出たことなど、数えるほどしかない娘でして。長い距離を歩かすことも、今まで無く……」
 館に入った柏陽は、昏倒した娘を抱えて、主に頭を深々と垂れる。
「それまで気を張って歩んでいたのですが。お館を見て安堵したようで」
 雪葉はやつれきっていた。体も、心も。
 見つめるインテリジェには、何の感情もなかった。
「よい。部屋をやる。休ませよ」
「お心遣い、まことに……」
 北の賢者は、娘を抱いた母を見下ろして「早くせよ、死ぬぞ」とつぶやいた。

 どれくらい歩いたか見当もつかない。
 母が言った「ここがお館ですよ」の声が、最後の記憶。
 ……それで私は死んだのだと思っていた。
 それなのに、どうだろう、目が覚めた。
 私は、白い、漆喰塗りの部屋に、寝かされていた。
 どうやら着いたらしい、と思った。
 神の館に。
 今までのことが、すべて、かすみの向こうにある風景のように、あいまいに思えた。決して、関心を失ったわけではない。持ちすぎて、擦り切れてしまっていた。
 両親の仕える「神」に私のことを尋ねて、そして答えをいただけたとき、私は私を終わらせていいだろうか。私は、異常な私の理由がわかればそれでいい。もう、いい。
 なにやら、とおく、ながい道のりを歩いてきた。
 終わりを迎えるために。
 人は誰しも、いつか終わりがある。ただ、自分は、終わるために生きている。もう見たくないからだ。男に罪を犯させる自分の得体の知れなさも、狂った彼らの異常な姿も。なにも見たくない。
 部屋には、窓があった。
 窓の外は、荒野だった。
 人の気配は当然無い。ここがこの世の果てなのだ。
 この先にはきっと何もないのだ。きっと何も。
 寂しいが、しかしそれが雪葉にとっては安堵する光景だった。
 ここが死後の世界なら、どんなに幸せだろう。
「雪葉」
 物である母が、静かに姿を現した。
「雪葉」
 物である父が、威厳ある姿を現した。
「気がついたか。ならば主上のお目にかかるがよい」
 彼らの神に、ようやく会える。

 館の居間。そこは広大でも豪奢でもなかった。火のついた暖炉があり、椅子と卓があり、小さな飾り棚があり、敷物がしかれ、飾り気の無い照明が天井から下がっている。それだけの。乾いた笑いがこみ上げるほどに、あっけない部屋。
 父に支えられて、雪葉は居間に来た。母が扉を開けて、親子は、しんとした静けさで、部屋に入った。
 主が、暖炉の前に立っていた。心無く。
「よかったな。気がついて」
 紫水晶を持ち、紫の髪に、紫の瞳で。

 それが神だった。

「名は?」
 神が、ただ、聞いた。
「雪葉でございます」
 雪葉が答えた。ようやく出せた、消え入りそうに小さな声だった。
「雪葉」
 神が、名前を言った。
 雪葉、と。
 今まで聞いたことのない、しかしそれは聞きなれた自分の名前だった。
 雪葉は、自分をきちんと呼んでもらえたと、思った。
 心臓が真実の矢に貫かれたようだった。
 気付いたら、父の手から離れていた。
 神の元へと足をもつれさせながら、歩んでいた。

 これで終わりにしてもいい。
 このまま召されてしまいたいと思った。生の終わり、死の始まりのふちへ。


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