フロラ、城を守りなさい。そうすれば、いつか必ず。
わずかな音も立てずに回る歯車の森の中で、父の声を思い出しながら、シンデレラは眠りに落ちた。
「父様、私も王宮に行きたい」
フロラは、出掛ける準備をした父のシャツの後ろを、そっと引っ張った。
父は振り向いて苦笑した。
「なんだい。おかあさんとおねえさんといもうとと、遊んでいなさい。建設現場に行っても面白くないだろう?」
「ううん。面白いよ」
小さな娘は、固い表情に、しんしんと必死な雰囲気があふれ出していた。
父は、持っていたカバンを床に置いて、膝をつき、フロラを見上げた。
「どうしたんだい、フロラ」
「まあ!まだいらっしゃったの?」
向こうから、新しい妻が駆けてきた。
「何かお忘れ物でも?」
そう言って、ひどく優しく妻は笑い掛けた。そして、娘にも同じように笑い掛ける。
「いや、何もないよ」
父がそう言うと、妻は、今度はフロラに、一層優しく言った。
「さ、お留守番しましょうね?フローレンスちゃん」
フロラのシャツを握る手が強くなった。
体が、ほんのわずかに父の方に寄った。
父はフロラを抱き上げ、立ち上がった。
穏やかな微笑みを、妻に向けてみた。
「今日は王宮に連れて行くよ。王子と遊びたいようだ」
王子、という言葉を聞いて、妻の顔がぱっと明るくなった。
「まあ!王子様と?それはいいわ!あのね、うちのローズも、プリムラも一緒に」
妻は、いそいそと娘たちを呼んだ。
「ローズ!プリムラ!」
「私は嫌よ。お母様。勉強があるもの。ローズなんか連れて行っても無駄よ。5つの子なんて、仕事の邪魔だわ」
すたすたと歩いてやってきたプリムラは、すっと母を見て、そう言い放った。
妻は言葉を失う。添ったばかりの夫を見て、取り繕うように微笑み、再び娘を見て、たしなめるような口調で言った。
「プリムラ、なんてこと言うの。謝りなさい」
プリムラはそれ以上口を開かず、きびすを返して帰って行く。
妻は、小さくなっていくプリムラの背中と、きょとんとした表情の夫の顔とを見て、おろおろ微笑んだ。
「いやねえ、困った子。ごめんなさいね、あなた」
夫は感心したようにうなずいた。
「いい子だねプリムラは。随分しっかりしてる」
「とんでもない!ただの、ただの利かん気な子ですわ!」
はじかれたように妻は返した。
「そう?じゃ、行ってくるよ」
微笑みながら言う夫に、妻は、夫の感情を急いで追いかけるように微笑んだ。
「あ、ええ、いってらっしゃいませ」
道中、馬車の中で、父はつぶやいた。膝の上に座らせた娘に。
「フロラは、新しいお母さん嫌いかい?」
フロラは顔を上げて、父を見上げた。
良く笑う子だったのに、何かを飲み込んだような表情になっていた。
「父様、あのね」
「うん?」
フロラは父の足の上でひざまずき、シャツを握って、父の間近で、困った表情でささやいた。
「あの人、怖いわ」
「……」
父の中には、何も返答する材料がなかった。数瞬の瞬きの後、問い返した。
「こわいって?」
フロラは、ただ、首を振るだけだった。
「フロラ?」
かたかた震え始めた小さな娘に、父は、嫌なものを感じた。
「フロラ、どうした?」
「父様」
娘は、小さくそう言うと、父に抱きついた。
妻は、私のいない間、
男を呼んでいるらしい。
娘に、ひどくつらく当たるらしい。
城の鍵束を、捜し回るらしい。
私の書斎を捜索するらしい。
「ごめんな、フロラ」
しゃっくりを上げて自分にとりつき泣いている娘の背中を、さすってあげるしかなかった。
「ごめんな。お前に、母様を作ってあげるつもりだったのに」
私に、再婚の話を持ちかけて来たのは、研究のための資金援助を申し出た一企業の古株だった。「美しい未亡人がいる」美しいは余計な宣伝だと思ったが、王宮でフロラが、王子と王妃の語らいを見つめている横顔が思い出された。親が私一人では可哀想だ。母親を、作ってあげなければ。
そう思って、再婚した。
今、娘は、涙をぱたぱた落としながら、私の目をじっと見て言った。
「母様はいらない。母様は父様がしてくださるお話の、本当の母様がいいの。父様、お願い」
「ごめん、フロラ。父様、考えが足りなかった。ごめん」
私は、震えの止まらない娘を、抱き締めるしかなかった。
判断を間違えたと、思った。研究のことで頭が一杯で、女との色恋のことは、どうでもよかった。子の母親となると、また話は大きく違っていたのに。女が全て、亡き妻のような母ではないのに。
「ごめんなフロラ」
私はフロラにささやいた。
「フロラとあの母様とは、一緒にいないようにしよう。父様と一緒にいよう。夜は、新しい母様とではなくて、またフロラと休むようにするから。昼は父様と一緒に行こう。大学でも現場でも、連れて行くから。ね?」
フロラは、顔を上げた。ようやく、わらってくれた。
「ほんとう?」
「約束」
私がしっかりうなずく。ほっとして、フロラはまた抱き着いた。
「ごめんな。フロラ」
フロラと、ずっと一緒にいる日が続いた。夜は御伽噺と母さんの思い出話と子守歌。昼は一緒に王宮の建設現場に行って、フロラは王子と遊び、王子とフロラは私の仕事に首を突っ込み、私は王宮の出来具合と二人のこどもたちの嬌声に目を細める。フロラが笑うようになった。よかった。
新しい妻とは、距離を置くようにした。なるほど冷静に観察して見ると、彼女は普通の女とは明らかに違った。私の前では、背骨の無い笑い人形のようだった。主義主張も無くその場の雰囲気に追従して微笑むだけ。これが妻の仕事だと言わんばかりに、定時に、計ったようにお茶を持って部屋にやってくる。「あなた、お茶が入りましたよ。」と追従の笑みを浮かべて。
だが本性は確かにあり、それを隠している証拠に、ふとした瞬間に鋭い叫び声を上げる。特に、プリムラの冷静な言葉に。この子は多分知っている、この妻の本当の姿を。まだ11歳かそこらなのに、とても冷たい目をしている。ふと、クリスティーナのことを思い出したが、まああれは魔法使い。冷たいほどに冷静で皮肉屋なのが、天性の性分なのだから。とにかく、まだ年端もいかない子どもがこんな表情をするくらい、この妻には何かある。
当たり障りのない必要最小限の部屋の鍵だけを、妻に渡した。それ以外の鍵は全て私が保管するようにした。書斎においてある書類も、全て大学に持って行った。彼女が荒らしても、何の損害も出ないようにしなければ。 この妻との縁談を持ちかけてきた役員のいる企業からの資金援助も断った。その夜、何の関係もないはずの妻が、真っ青な顔をしていたのが忘れられない。
表層上は、特に問題のない夫婦だった。表立ったいさかいは全くない。すべて私は「用心のために」それらの防衛策を行ったのであって、妻への表立った不信感は微塵も出さなかった。本性を隠して振る舞う妻に合わせた会話をし、ほほ笑みだけの交流を行った。
私はフロラと楽しい半年を過ごした。
もうすぐこの妻が来て半年経つ。法の定めにおいて、離婚が許される時が訪れようとしていた。
だが、私は、体の不調を覚えるようになった。
めまい、倦怠感、微熱、疲労の蓄積による症状にも似たものが続いた。特に気にも留めなかった。だが、それが露見するのは、大学の定期検診の時だった。
検査でわずかな引っ掛かりのあった職員たちの血液を、とある物好きの医学部教授が、本人の快諾を得たうえで、院生たちに精査させた。数日後、提供者たちは茶話会よろしく研究室に呼ばれ、何のことは無い検査結果を聞き、笑い話のうちに解散する予定だった。 しかし、私一人、笑い話の続きがあった。散会し、にやにや笑いながら帰って行く一同を擦り抜けて、教授が私に近寄って来た。
「待って、カールラシェル教授。あなたは居残りだよ」
冗談めいたほほ笑みの後ろに、汗が光っていた。
二人以外誰もいない教授の書斎で、私は精査の結果を見せられた。
「何か、現場で使う化学薬品で、これはというものはないですか?」
「そんなものありません。今、かかわっているのは王宮の建築ですが。王宮は宮大工と石工が作る建築物です。使う資材は木と石材のみです。今回は特に異分野の私が立ち入りましたが、私の分野だって、そう大したものは使いません」
「そうですか」
教授は細く長く、慎重に息をついた。
目を上げ、じっと私を見た。
「結論を言いましょう、カールラシェル教授。有機的な毒物が、あなたの血液から検出された。即効性の劇的なものではないが、もう随分、蓄積されている」
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