シンデレラ2

すぎな之助(旧:歌帖楓月)

13 夢〜父娘の最期3

 翌朝から、カールラシェル教授はフロラと共に、塔に上った。
「おはようございます、あなた」
 やさしい花のようなほほ笑みを浮かべた妻に、教授は軽くほほ笑んで応じた。
「ああ、おはよう」
 腕に抱き上げられたフロラは、静かな瞳で継母を見つめ、頭を下げた。
「おはようございますお母様」
 フロラの丁重な挨拶に、ぎくりと肩をゆすった継母は、ことさら優しくほほ笑んだ。
「まあフローレンスちゃん。おはようございます。今日はお父様とお出掛けなの?」
 教授が答えた。
「いいえ。今日は城に残って、先妻の遺品を片付けようと思います」
 妻は、怪訝な表情で瞬きする。
「先の、おくさまの?」
 教授はにっこりほほ笑む。
「妻のあなたがいるのに、いつまでも死んだ先妻のことを引きずっていてはいけないでしょう?」
 妻の口元に、笑みがのぼった。
「そうですの?まあ。でも奥様の大切な品でございましょう?」
「かまわないのですよ」
 暖かな笑みを置いて、教授は歩きだす。
「あなた、どちらへ?」
「塔の上の物置です」

 回る歯車の部屋の中で、教授は、床に座り込み、膝の上にフロラを乗せて、一緒に設計図を読んでいく。
 城の細部にまで浸透する精密なからくりの設計図を。
 設計図を見つめ、父の話を聞くフロラの目からは、時折、涙が落ちる。震える小さな肩に気づき、教授は設計図を置いて、フロラを抱き締める。
「父様は最後までフロラのそばにいる。死んだ後は、このからくりが父様だと思ってくれないか。これは父様が一生懸命考えて作り上げた、城を生かしている物だから」
 教授は腕の中の、白に近い金髪をなでてささやく。
「そうだフロラ。母様にも会えるよ」
 フロラはそっと顔を上げる。
「母様に?」
 教授は微笑みかける。
「フロラは母様にとても良く似てる。母様に会いたいときは、鏡を見てみなさい。それが母様だ。母様の心は天国にあって、いつもフロラを見てる。フロラは母様に、母様そっくりな姿形をいただいてる。それぞれは別々だけど、全てフロラのそばに確かにあるよ。だからフロラは一人残っても一人じゃない」
 教授は、これから生きられるはずだった一生分の愛情を、残された時間でフロラに与えることにした。
 フロラは、ずっと続くだろうと思っていた父との時間を、父が亡くなって一生経っても、忘れられないくらいに鮮明に覚えていようと、全身を目にし耳にして、心に刻み込んでいく。
 日がな一日、設計図を教え込み、塔の上で昼食を取り、調整の仕方を教え込んで、夕刻、二人は塔を降りた。
 塔を降りて、扉の鍵を開け、扉を開けたら、すぐそこに妻が待っていた。
 優しい、やさしい笑みで。
「お帰りなさいませ」
 教授が抱き上げているフロラが、わずかに震えた。
 教授はさりげなくフロラを揺すってあげて、妻には微笑みをくれる。
「ただいま。遅くなったね」
「お疲れさまでございます」
 歩きだす教授の後を、妻が追って行く。
「夕食の支度ができておりますよ」
 教授は振り返った。
「食事の知らせなど。あなたはこの城の夫人なのだから、召し使いにでも命じればよろしいのですよ」
「いいえ。大切な旦那様と、大切なフローレンスちゃんのことですもの。私が直接、申し上げたいのですわ」
「優しい心くばり、ありがとう」
「いいえ。そんな」
 恥ずかしそうに、顔をうつむけて、妻は首を振って見せた。
 と、向こうの方で、「ギャー!」という割れんばかりの泣き声が響き渡った。
 妻が顔色を変えた。
「いやだわ!ローズの声!ローズどうしたのかしら!ま、まさか、プリムラ、」
 妻は教授の脇を擦り抜けて、バタバタと駆けて行った。そして、ローズの部屋の扉を開けて妻が駆け込んで行き、次に響いて来たのは金切り声だった。
「何をやっているの!プリムラ!私の可愛いローズちゃんになんてこと!いいのよ!ローズちゃんの自由にさせなさい!」
「おだまり!屁理屈ばっかりこねて!見てご覧なさいよ!可愛いローズちゃんのほっぺが真っ赤じゃないの!なんて子なの!」
 教授が抱えているフロラが、震える声を出した。
「父様、こわい」
 教授は、娘を見上げて微笑む。
「怖がることはないんだよフロラ。いいかい。あんなのはね、ただ、頭が働かなくなって、怒り散らすしかないから、あんなにわめくんだよ。フロラ、ちょっとむずかしい話かもしれないけれど。あんなふうに、あの母様がなったときはね。目を伏せて、そっと丁寧に接しなさい。あの人があんなふうになったときは、そうなさい。あの人を怒っている猫か何かだと、思いなさい。父様がいれば、そうはならないのだろうけど。フロラ一人になったときは、そうなさい」
「はい、父様」

 二人で夕食をとっていると、妻が来た。
 濃い赤紫色の液体が入ったグラスと、小さなガラス器を乗せた盆を持って。
「あなた、お疲れでしたら、こんな飲み物はいかが?」
「それは、ブドウ酒?」
「ええ。それに、」
 妻は、やんわり微笑んだ。
 盆をテーブルの上に置き、手のひらにすっぽり包めるほどの大きさのガラス器を、取り上げて見せた。
「この真珠を入れますの」
「……」
 透明なガラス器に、上品な輝きを放つ真珠が、二粒入っていた。 
 教授は、抑えた微笑みを浮かべた。
「古代、砂漠の国で、女王がそんな飲み物を飲んでいたというね」
「ええ。いかがですか?」
 教授は、首を振った。
「私は、酒類は駄目なんだ。それにそれは、女性が、自分の美を永遠にするために飲んでいたものだという。だから、貴方が飲んでご覧なさい」
 妻は、笑みを浮かべたまま、一歩下がった。
「私にはもったいないですわ」
「そんなことないよ。飲んでごらん」
「いいえ。これはあなたのために用意したものです。あなたが召し上がらないのでしたら、いいのですわ」
 妻は、もう一歩下がり、そして、背を向けて部屋を出て行く。
 扉の際で、ゼンマイ仕掛けの人形のように、緩慢な動作で振り返った。
「どうぞ早めにお休みくださいね。お疲れでしょうから」

 夜、私はフロラに、母の思い出話をして、御伽噺を聞かせて、自作の子守歌を唄う。
「子どもが神様に招かれて、夢の世界へ向かうころ。大人はなにをしてるだろう。眠らないのはどうしてか?神様に留守番まかされた?それとも悪戯した罰のため?どちらにしても、こどもたち、私たちはここで待ってるよ。安心して行っておいで。明日になったら教えておくれ。神様のこと。夢のこと」
 じっと私を見つめ続けるフロラの瞳が、天使にさらわれるように眠りに落ちて行く。フロラは疲れている。一日中、私の話を聞いて、私に言われるままに、小さな体でからくりの扱い方を懸命に覚えて。
 糸の切れた人形のように、ことりと眠ってしまったフロラを、私は抱き締める。
「ごめんな、フロラ」

 父様は、元気だった最後の一週間の全てを、私と過ごした。
 父様は私に、城のからくりのことを全て教えた。
 私は父様の膝の上か、腕の中で、それを聞いていた。
 もうすぐ、もうすぐ、父様がいなくなるのだと思うと、涙があふれた。
 ずっとこのままで、どうしていられないのだろうかと。父様のそばにいるだけなのに。
 泣いて設計図が見えなくなるたびに、父様は私を抱き締めてくれた。
「ごめんな、フロラ。父様、最後の最後まで、フロラのそばにいるから。一生分、そばにいるから」

 日が過ぎるごとに、体が重くなっていった。頭が重い。徐々に徐々に曇りゆく空のように、思考は晴れず、考えるために力を使うようになる。
 フロラを抱えることが難しくなっていった。階段を昇るのに、息をついている自分がいた。
 終わりは確実に、近づいていた。

 私は父様とならんで階段を昇っていく。
 父様に寄り添って、父様の体の重さを、私がいくばくか支えるようにして。
 父様の苦笑が私にかかる。
「大丈夫だよフロラ。父様、まだ元気なんだから」
「うん」
 それでも私は父様から離れない。父様が苦しいのはわかっていた。そして、私は、生きている父様に、少しでも長く触れていたかった。

 五日目。フロラが一人で、からくりの調整ができるようになったとき。私は大きく息を吸い、吐いて、そして笑った。
「よくできたね。フロラ」
 石の上に腰を下ろして息をつく私の方へ、フロラは駆けてくる。
「父様、父様、」
 震えの起こっている私の体にとりついて、背中をさすってくれる。
「父様、寒くない?大丈夫?」
「大丈夫だよ。それより、父様にフロラを褒めさせて。よくできたね、フロラ」
 私は、冷えた手でフロラの頭をなでてやる。
「これで、安心できる」
「父様、私は大丈夫、大丈夫よ、父様、父様、」
 まるで、わたしが今すぐいなくなり、それを懸命に引き留めるように、フロラは私の背をさすり続ける。その小さな手は可哀想に、震えている。
「フロラ、」
 刻々と、体が重くなり、思考の力が抜けていく私は、持てる全てをかけて、娘を抱き締める。
「父様は、最後までフロラと一緒にいるから。愛しいフロラ」
 この手が、いつまでもつだろうか。フロラを抱き締めるためのこの手が。この目はいつまで開いていられるだろうか。フロラを見つめるための、フロラの姿を頭に焼き付けておくためのこの目が。私はいつまで私でいられるだろうか。フロラを愛する私が。
「父様、」
 フロラが私にしがみつく。
 この子を置いていかねばならないのか。
「フロラ」

 その夜、父様は、御伽噺と、母様の思い出話をたくさんしてくれた。そして子守歌を唄ってくれた。
「子どもが神様に招かれて、夢の世界へ向かうころ。大人はなにをしてるだろう。眠らないのはどうしてか?神様に留守番まかされた?それとも悪戯した罰のため?どちらにしても、こどもたち、私たちはここで待っている。安心して行っておいで。明日になったら教えておくれ。神様がどんな方だったか。夢の国がどんな所だったかを。」

 歌は終わり、私は眠れなかったけれど、起きていたら父様が眠れない。
 私は眠ったふりをした。
 父様は私をもっと近くに抱き寄せて、小さな声でつぶやいた。
「おやすみ、愛しい子。ごめんな、本当は、もっと、」

 父様は、次の朝、目を覚まさなかった。



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