何に似ているかと思ったら、二日酔いの頭痛にだ。
頭が、響くように痛い。私は、まだ逆さまになったままなのだろうか。
……おや、
ここは、私が学生の頃に住んでいた小さな一軒家ではないか。今は改築されて、ファウナ達が住んでいるが。
では、私は、夢を見ているのだろう。
証拠に、血まみれの魔法使いを背負っている。
「あんなところに置いておけるか!」
見た目よりも重かった魔法使いをおぶって、私は帰宅した。
ぜいぜいと、息が切れていた。
今が真夜中でよかった。彼女はおろか、私も、頭の先から足の先、そして足跡まで血塗られていた。こんな物騒極まりない姿をさらすなど、太陽の下ではとてもとても。
クリスティーナは返事をしなくなっていた。私の背中が彼女の心音を感じているので、生きてはいる。
こんな姿なのに、さっきまで平気そうだったのは、彼女が意地を張っていたからなのか、それとも、本当に平気で今もただ寝ているだけなのか、彼女が魔法使いゆえに全くわからない。
家に帰って、寝室に入り、彼女をベッドに横たえた。
骨も組織もぐちゃぐちゃだ。それなのに、生きている。どうなっているのだ、彼らは。
ごほごほとクリスティーナが咳き込んだ。口から血泡が溢れてくる。
「うわ」
私はベッドに上がり、彼女の上体を起こした。そうしないと、吐しゃ物が気管をふさいで窒息してしまう。魔法使いだから大丈夫かもしれないが。
彼女の枕元に腰を下ろし、上体を抱える。先程までは、上半身と下半身がねじれてちぎれそうだったのが、今や、まあまあしっかりしてきている。
……「まあまあしっかり」、とは何といういい加減な表現だ!?
私は、私の麻痺した感覚に憤慨した。私は医を志す者なのに、彼女の度外れた頑強さに感化されてきた。
ああ、これから、私は大丈夫なのか?
起こしたクリスティーナは咳き込み続ける。口から、血泡と共に歯が何本も吐き出され、私の膝の上にぼとぼと落ちた。
「折れていたのか?」
見ると、たしかに折れたかけらもあるが、歯根から抜けたものもある。
「……まさか、」
私に、恐ろしい推測が浮かんだ。
まさか、生え変わってきている、なんてことは……。
いや待て。鮫の歯は何度も生え変わるというが、いくらなんでも人間の歯が、そんな。
いやいやいや、彼女は魔法使いだから。
ありうる。ありえないとは言い切れない。
その後しばらく、彼女は咳き込み続け、彼女の背をさする私の足の上には、血と歯が落ち続けた。……並べてはみなかったが、たぶん、上下一揃い、あっただろう。今、考えると、並べればよかったと思う。かえすがえすも口惜しい。あんな貴重な機会は、二度とないだろうに。
すでに、ベッドは血の海になっていた。
別に血の匂いは気にならない。実習で慣れている。
そんなことよりも、気になることがあった。
こんなになっているのに、どうして失血死しないのだろう? ということだった。
私は、魔法使いを抱えたまま、ため息をついた。
訳がわからない。言い方は悪いが、でたらめな命だと感じてしまう。
と、今まで、激しい咳き込みをしていたのが、止まった。
「クリスティーナ、取れた歯が残ってないか、調べさせてもらうよ?」
私は、左手で彼女の顎を支えて、右手指を、口の中に突っ込んで探った。口の中も、自身の歯によって、ひどい傷を負っている。
んん、と、魔法使いが、嫌がって首を振った。
「駄目だよ。歯が残っていたら危ないから」
無い。よかった。
というか、
口腔内に……歯が、一本も無い。
「……」
私は、自分の足やベッドに散れた歯を見下ろした。
全部、抜け落ちたんだ。
ふと、ある当然の事に気付いた。
身体を再生させるには、それだけの栄養分が必要だ。失われ、または、損なわれた、血液、体液、骨、筋肉、内臓、神経、それらを、補充または再構築するために必要な栄養分を、彼女は、どうやって調達するのだ? 魔法で調達しているのだろうか。だとすれば、私としては興味がそがれる。
愚かな俗話では、「男の精を吸って生きている」、などというが、虚言も甚だしい。男の精には、生きるに必要な栄養分はそろっていないと言い切れる。まったく、そんな寝言をいうのは、おおかた、彼女らの美貌にとち狂った、憐れな男の妄想だろう。欲望に溢れ、根拠の欠落した俗話とは、不愉快なものだ。
「……いた、」
クリスティーナの口から、小さな声が漏れた。
「ん?」
痛いとか言わなかったか?
どこをどう見ても、痛い場所だらけだろうに。今まで、けろりとしていたのに。それを、わざわざ痛いというとは。
「どうした? クリスティーナ」
魔法使いが目を開けた。
「おなかすいた」
痛みではなく、空腹を訴えていたらしい。歯が無いので、発音が不明瞭なのだ。
「お腹って、……歯が無いのにか?」
言った後で、空腹には歯は関係ないだろう、と、自分でも思った。
クリスティーナは、自分の口に手をつっこむと、下を見た。
私の膝の周りに、歯がちらばっている。
「いやだ、おちてる。もったいない」
「うわっ! 止せ!」
彼女は、歯を拾い上げると、一々口に突っ込んだ。つまり、食べた。私が止めるのだが、言うことを聞こうとしない。
「止せ! 歯は、食べられないぞ!?」
「のみこめるわ」
「飲み込んでも、消化できないだろう!」
「できるわ」
……そう、なのか?
ごくり、と、魔法使いの喉が鳴った。
「ほ、骨すらも、食べるのか?」
私は、恐ろしくなって聞いてみた。頭の中では、骨をむさぼる魔法使いの絵図が展開されて、気持ちの悪いことこの上ない。
「そうね……」
クリスティーナは、少し考えると、うなずいた。
「じぶんのだったら、たべられるかもね」
「……」
呆然としている私のことは気にもせずに、クリスティーナは、自分の歯を全て拾い上げて飲み込み尽くすと、少し息を吐いて、私の胸にもたれかかり、また言った。
「おなかすいた」
再度の願いだ。答えざるを得ない。
「何か作ってもいいけど。ところで、君、胃の方は大丈夫なのか?」
血まみれの魔法使いは、あっさりうなずく。
「はをしょうかできるくらいだから、だいじょうぶよ?」
「いや、やっぱり病院でちゃんと検査してからのほうが、」
勧めかけた瞬間に、私は、ぺん、と額を叩かれた。触れた手指は、がくがくしている。
「いかないといったらいかないの……うっ、」
言い終わったところで、クリスティーナが咳き込んだ。
また、私の膝に、全ての歯が落ちてきた。血泡も落ちた。
「……。やはり、消化できないのだと思うのだが……。無理をしない方が、いい」
控えめに言い聞かせるのだが、彼女は聞こうとしない。
「こなごなに砕いたら、なんとかなるかもしれないわ。ああ、少し生えてきた」
「えっ!? 是非、口の中を見せてくれないか?」
驚いて、口を開かせると、たしかに、歯茎から、白い歯が、顔を覗かせている。まるで、乳児のそれのように。
「お腹すいたわ?」
「わかった。何か作るよ。何がいい?」
「たんぱく質」
そのもの栄養分の名前で要求されて、目の前が暗くなった。やはり人間とはできが違う。少なくとも、人間が空腹の時は、そういう言い方はしない。
やはり、食物から、快復するための栄養分を得るのだ。なるほどたんぱく質か、たしかにな。
「すまないけど、タンパク質を合成するのは、家庭の設備では無理だから。……肉や魚や乳製品あたりで許してくれないか?」
「あら?」
クリスティーナが、眉を寄せた。下腹部に手を当てる。
「不満なのか? それとも、今さら具合が悪いのか?」
彼女が、深刻な顔をしていた。血まみれなので、詳細な表情まではわからないが。
「……私としたことが。坊ちゃん、逃げてちょうだい。私から離れて」
「え?」
チッ、と、舌打ちすると、クリスティーナはベッドから降りた。膝が立たず、すぐに床に座り込む。床に血が飛び散って広がる。
「何をしているんだ? 無茶をしては、」
助け起こそうとする私の手を、邪険に振り払い、魔法使いは、しっしっ、と、私を追い払う。
「いいから、坊ちゃんは離れなさい。私が乗っ取られそうだから、逃げなさい。すぐに、他の王宮魔法使いを呼んで、自分を守るのよ」
「一体、どうした? どういうことだ?」
「早く!」
クリスティーナの表情が険しくなった。
「あなたは王族でしょう? 王族を守る王宮付き魔法使いである私が命じているのよ! 私の身体が、とち狂ってた魔女にのっとられるの。危ないから、さっさと逃げなさい!」
「!」
ようやく、私は、自身に危機が迫っていることを理解して、その場から逃れようとした。
しかし、遅かった。
クリスティーナは、下腹を押さえてうずくまる。
私は、扉を開けようとする。
しかし、すでに、開かなくなっていた。
「お待ち」
背後から、聞いた者の脳を変質させるような、艶かしい声が響いた。
「お待ち。私は、この国が生まれる前、最後の王妃だった者だよ。振り返ってご覧よ」
惹かれて、私は振り返った。加速度的に小さくなりゆく理性が、「見るな」、と、訴えるのだが、もう、身体が言うことを聞かない。
「そう。素直なのは良いことだ」
血まみれのクリスティーナが立って、嗤っていた。
あんな身体で立つなんて、と、思うのだが、意識は、彼女への心配から、別の、浅ましい方向へ急速に変化していく。 目の前にいるのは、欲望の対象となるべくもない、体組織がずたずたになった血みどろの魔法使いなのに、だ。
これが、いわゆる、「魔女の色目」、なのか?
見たものを虜にして隷属させる、という。
クリスティーナは、笑みを浮かべながら、私に歩み寄ってきた。彼女が大量の血を流れ落としながら近づくごとに、私から理性が消えていく。 代わりに、不条理で強烈な欲望が湧き上がる。
「王族の男。この小娘の腹に、あなたの精をおくれ。私は、子を為す前に、憎い継子に殺された憐れな王妃だ。願いを叶えさせて欲しい。そなたの名前は、なんという?」
「うう、」
いけない、名前を口にしては。完全に虜になってしまう。
クリスティーナは、私に、血塗られた身を寄せて、笑みを浮かべて見上げる。口の端からも、血液が流れる。
「名前を教えるんだよ。お前は、この小娘が産む、魔王の父になれるんだ。国を滅ぼす偉大な魔王の父にねえ」
なんということだ。
王宮魔法使いを、呼ばなければ、
しかし、思い通りに舌が動かない。別の言葉を発したがっている。
自分の名を。
「私の、名前は、」
ああ、駄目だ。なんと不甲斐ない。私は、仮にも王族であるのに……
「あんたの名前は、本ッ当に『坊ちゃん』で充分よ!」
クリスティーナに篭絡されかかっていた私は、当の本人の怒りの声によって、我に返った。
「!」
頭の中にかかっていた、唾棄すべき毒霞のような情念が消えた。身体を支配していた異常な熱が、凍りついた。
私を突き飛ばして離れ、床の上にくずおれた魔法使いが絶叫した。
「坊ちゃん! ぼうっとしないで! さっさと王宮魔法使いを呼びなさい! 自分の身を守るの!」
はっとした。
倒れている魔法使いを見た。
腹から、鮮やかな動脈血が噴き出していた。
自分の手で、下腹を深く貫いていた。おそらく、子宮を、
これが、王族を守るために存在する、王宮魔法使いの姿だ。
「私だ! 誰か来てくれ!」
呼ぶのは、こんなに簡単なことなのに。
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