昔も今も、私は彼女に頭が上がらない。
いやいや、魔法使いだから、仕方がないのだ。当然なのだ。腹が立つ立たないは別だが。
いまや、公園の明るい灯りが立つ森の中で、私の三歩前を歩く、クリスティーナの足取りの軽さといったら、天上に昇らんばかりだった。私のそれの重さときたら、地下に沈まんばかりだった。
「もうすぐそこだわ。お池のほとりの、清掃用具倉庫の辺り。フフフフフ」
狩りをする魔性、という表現が、ぴったりはまる。
恐ろしいと言ったらない。
「神よ……、小さき者を助けたまえ」
思わず、神に祈ってしまう。
「ホホホホ!」
それを耳にしたクリスティーナが、一層楽しく嗤いだした。
「本当に、可愛いお坊ちゃまだこと」
振り返って笑顔を見せる。腹立たしいが、美しい。
「お前の言うとおりでいいさ。私は、嫌なのだ。心の底から嫌だ。こうなれば、神頼みだ」
再び、顔だけを前方に向けた魔法使いは「あった!」と嬉しそうにつぶやいて、また、私を見た。
「その優しさは、私の仕事の邪魔だわ?」
「私の自由だ。放っておいてくれ。そもそも、君の邪魔なんかできないだろう?」
「だから神頼みなのね。可愛いお坊ちゃまだこと」
馬鹿にされているのが、よおくわかる。
しかし、私は医師だ。
命を失わせたくないのだ。
「邪魔してやる……」
ふと、クリスティーナの毒気に当てられたかのように、そんな気持ちになってきた。あるいは、神が励ましてくれているのか。
「先に行くぞクリスティーナ!」
私は、魔法使いを追い越して駆け出した。
石畳の、緩やかに曲がりくねった道。夜だというのに、樹木に巻き付けられた小さな無数の灯りが、幻想的な森を演出する。
優しく、暖かく、夢にあふれた、おとぎ話の森だ。
事態は絶望的だが、こんな森だから、「悪い魔法使いから可哀想な子どもを救う医師」の役目を演じてみようかという気になる。
背後で、その悪い魔法使いが、盛大に嗤い声を上げているが、気にしない。嗤わば嗤えだ。
私の意識は、目前に立つ、木造の掃除用具倉庫にのみ向けられていた。
「待っていてくれ、お嬢ちゃん!」
全速力で走った私は、倉庫の前で急停止して、勢いのままに引き戸を開けようとした。が、激しい抵抗があった。内部からではない。
私は引き戸の取っ手を見た。
金属製の錠前が掛けられている。しかも頑丈にだ。
「……え?」
倉庫の中にいるのではないのか?
「はずれよ。ホホホホホホ!」
クリスティーナが、道をそのまま悠々と歩いていく。倉庫には立ち寄らない。
「クリスティーナ!? お前、嘘を教えたのか!」
急いで追いかける。
しかし遅かった。
彼女は嘘を教えてなどいなかった。
倉庫の隣には、みじめったらしい薄い板を張り合わせて作った小屋が寄りかかっていた。浮浪者が作ったものか。少なくとも公園施設ではない。
そこだったのだ。
しかし遅かった。
「お坊ちゃまは、そこにいなさいな。目の毒よ?」
いい置くと、クリスティーナは、ニヤリと嗤って、外れかけたヨレヨレの扉を、残酷にも蹴破った。
美しい冷酷な声が、聞きたくも無い私の耳にくっきりと響く。
「こんばんは。小さな魔女。始末しに来てあげたわよ?」
途端、小屋から小さな塊が、どおんと、クリスティーナに突っ込んできた。
「よかった! おばちゃん、やっぱり来てくれたのね! ママを助けてえっ!」
「……え?」
あのクリスティーナが、目を丸くした。
ボロボロの肥料袋を被った、小さな子どもが、クリスティーナにしがみつき、涙と鼻水を溢れ返らせながら、叫んだのだ。
「目を開けないの! 呼んでも起きないの! ママを助けて! お願いよ! お願い!」
うわあああん! と、小さな子どもは、号泣した。
クリスティーナの孔雀色の長衣にしがみつき、涙と鼻水とを、これでもかと擦り付けて。
「お願いー!」
「これ、魔女?」
あのクリスティーナが、信じられない物を見るように、小さな子どもを見下ろした。
自分で魔女だと言っていたくせに。
私は、世にも珍しい状態に陥っている魔法使いの隣に、たどり着いた。
「お嬢ちゃん。ママは、どこにいるの?」
地面に膝をついて、私は、小さな頭と手足が生えている肥料袋にたずねた。
なんとも肥やし臭い。こんなもの、どこから調達してきたのだろう。公園の芝生に肥料をやるから、その倉庫あたりからだろうか。
ただ、頭に被った袋から少し流れ出ている髪は、見事だった。輝くように波打つ金色。本当に輝いているようだ。
「おじちゃんは、なあに?」
魔法使いの衣装から、鼻水の糸を引きつつ顔を離した小さな女の子は、涙をぼろぼろ落としながら、首を傾げた。
「おじちゃんは、病気を治すお医者さんだよ?」
おいしゃさん、と、私の言葉を真似て、首を傾げた。
「おじちゃんは、お医者さんだ。ママを、助けられるかもしれないよ。会わせてくれないかな? ママは、どこ?」
「……おうちの中」
惨めな小屋の、暗がりを指差して、しかし、小さな子は、ずっと、クリスティーナを見上げていた。
「おばちゃん、助けて」
当然、クリスティーナの表情は、動かない。
「その『おばちゃん』は、とても怖い人だから、こっちにおいで。おじちゃんと行こう」
彼女と関わらせたくない。関わらせるものか。この子を始末する気なのだから。
あくまで、「おばちゃん」に頼ろうとする小さな子を、私は、抱き上げてやった。いやに軽い子だった。魔女だからだろうか。
「さあ行こう」
小屋に入る。小屋に床はない。公園の地面に、直接建てられたものだった。森の灯りが入ってくるからか薄明るい。目が馴染むと、人が横たわっているのがわかる。
かすかな呼吸音が、聞こえる。
「ママぁ!」
小さな子が、泣き声で呼んだ。
いた。
灯りもないのに、なぜか薄明るい小屋の奥、地面の上に横たわって。肥料袋を何枚か被って。
私は、輝く金髪の女の子を、地面に降ろすと、急ぎ駆け寄った。
肩を軽く叩いて、声を掛ける。
「もしもし。大丈夫ですか?」
反応が無い。
二の腕をつねってみる。
反応が無い。昏睡に陥っている。
頸部に手を当て、脈を確認する。拍動が弱い。
掛けられた袋を取り払う。
ぼろぼろの衣服。ひどく痩せている。栄養状態が悪い。浮き出た腰骨の間の下腹が、異様に盛り上がっている。栄養失調のためか、なんらかの疾病が原因によるものなのか。
とにかく。
「お嬢ちゃん。ママを病院に連れて行こう」
まだ、生きているのだ。
私は、私の左隣にしゃがみこんで、自分の母親の足をなでている子どもに言った。小さな子は、こちらを見ず、ただただ母だけを見て、聞いてきた。
「びょういんて?」
私は、子どもの頭に答える。
「ママみたいに、痛かったり苦しかったりする人を、良くする場所だよ」
はじかれたように、小さな魔女は顔を上げた。
「うん行く!」
「どうやって運ぶの?」
聞きたくなかった声が、すぐ隣で聞こえた。
彼女が、私たちと同じく、地面に膝をついていた。
「ひっ!」
思わず悲鳴をあげた。
「どうやって運ぶのかと聞いているのよ。お医者様」
無表情が恐ろしさを際立たせている。
「き、救急車両を呼ぶのだが」
「がっかりだわ」
「どうして?」
「どうして、ですって?」
魔法使いが横目で睨みつけた。恐ろしい。
「ここに、有能な王宮魔法使いがいるというのに」
「……は?」
私は、彼女の意図を測りかねた。
話ぶりからして、「自分が運んでやる」と言っているように聞こえはするが。
しかし。
彼女はクリスティーナであり、魔女狩りに意気込んでいたのである。
ゆえに、そんなはずがない。
つまり、私には彼女がわからなくなった。
「おばちゃん、助けて!」
小さな魔女が、止せばいいのに、またそんなことを言い始めた。
「止しなさい、お嬢ちゃん。この『おばちゃん』は、けっして助けてくれないんだよ」
これだけは言っておかないと。この子のためにならない。
「いいわよ?」
そらみたことか。クリスティーナが応じてしまったではないか。何を企んでいるのだ。
「その代わりに、あなたの名前を教えて?」
クリスティーナが嗤った。
「いいんだクリスティーナ! 君の手は借りない!」
私が断った。
「おだまり」
王宮の魔法使いが、殺気だった目で私をにらみつけた。
「坊ちゃん? 私は、この子と話しているの」
「駄目だ!」
私は、小さな子の口を押さえた。話させないために。
「駄目だお嬢ちゃん、絶対に言っちゃ駄目だ! このおばさんは君を殺そうとしているんだ!」
「うるさいったらないわ」
クリスティーナが、私の額を手の甲で軽く叩いた。馬鹿にした動作だが、しかしこれには魔法の効果があり、私は、声と腕の力を失った。子どもを守るための手が、だらりと落ちる。
「さあ、あなたの名前を教えて頂戴な? そうしたら、ママを助けてあげる」
……最悪だ。
魔女は、可哀想に元気よく答えてしまう。
「プリシラよ!」
「プリムラですって?」
魔法使いの表情が、怒気をはらんだ。
「なんてことかしら。嫌な名前ね」
聞き間違えられたプリシラが、頬を膨らませた。
「違うわ。プ・リ・『シ』・ラ!」
「そう。なら、よかったわ。ではプリシラ、」
クリスティーナは立ち上がった。
狩る気だ。
私は、もごもごうめきながら立ち上がり、クリスティーナに正対して、小さな憐れな魔女を庇った。
絶対にこの子は守る!
「この坊ちゃんはッ! どこまでいい子ぶる気なの!」
私の頬にビシッと衝撃が走った。
魔法ではなかった。
魔法使いの平手だった。
「坊ちゃんじゃないわね。このしつこさは父親気分ね。パパ! 王立病院の何処に連れて行けばいいの? 救急外来? それとも婦人科外来? さっさと答えなさい!」
「あ、」
声が出た。腕が動く。
「殺さないのか?」
振り返ると、クリスティーナが怖い顔をして睨んだ。
「殺して欲しいの?」
「とんでもない! 救急外来にお願いする!」
……どういうことなのだろうか?
クリスティーナが、おかしい。
救急外来、略して救外の空きベットに、プリシラの母は、魔法で移動した。私も、プリシラも、そしてクリスティーナも着いてきた。
「いきなり、こんな方法ですみません。王宮魔法使いと外出中に、急患を発見しましたので、連れてまいりました」
通常は、医療と魔法は同居しない。
ゆえに、転移魔法を用いて救急外来にくることはない。そんなことをするよりも、魔法で病の治癒までしてしまった方が早いからだ。
私は、居合わせた救急外来の医師看護師達十数人に、詫びた。しかし、その多くが、私の相手をしている暇はないようで、軽くうなずく程度の反応を見せると、他の救急対応に忙しく動き回る。
「ふむ。魔法で治したらどうですかな?」
今晩当直の医師から、当然の反応が返ってきた。彼は冷静で紳士な壮年の男だった。
「嫌です」
魔法使いが、当然反対した。
そして、なぜか、私を指差した。
「なぜなら、この医師が、私の治療の申し出を断ったからですわ?」
何を言っている!?
「嘘だ! 私は反対していない! 君だろう! 君が、嬉々として、」
「おだまり」
クリスティーナが私の頬をつねり上げた。
「いいこと? 私は一言も、この虫の息のご婦人を見捨てるだなんて言っていないわよ。よおく思い出してご覧なさいな、パパ?」
「パパ、とは、なんですかな?」
救急外来の医師が首を傾げた。
魔法使いは、意地の悪い律儀さで答える。
「彼は、今抱えている肥料袋を被った女の子の父親だから、ですの。いつの間にこしらえたのでしょうねえ? 呆れちゃうわ」
医師がぎょっとした。
「なんですと!?」
私を見る目が険しくなった。
「こんな小さな子をこんな状態で養育、……酷い有様だ、まさしく虐待。……王族にして医師たる者が、なんという、」
「そうでしょう。さすがのわたくしも、あまりの惨状に目を疑いましてよ?」
魔法使いが息をするように嘘を吐いて同調する。
「違います! 私の子ではない!」
「時間が無いわ。今更、くだらない言い訳は止して」
偽りの火種に油を注いで暴風を吹きかけた張本人が、いけしゃあしゃあと、私にぬれぎぬを着せつつ言動を封じた。
「クリスティーナ! 君は!」
王宮の魔法使いは、威厳ある態度で堂々と応じた。
「あなたの真実なんて、今はどうでもいいわ。死にそうなご婦人、というか、あなたの子どもを産んでくれた人の命を、助けるの? 助けないの? どちらにする?」
「是非とも助けていただきたいッ! ほら! まずは君が頭を下げるべきだろう!? まったく嘆かわしい!」
私が答える前に、当直の救急医が、すごい剣幕で言い、私を叱りつけた。
「謝りたまえ! そして、お願いしますと頼みたまえ! 仮にも、人の命を守るべき医師が、何をしているっ!」
何故、私が悪人に仕立て上げられているのだ!?
まあいい、誤解なら後で解けば、
私は、頭を下げた。
「お願いする」
その後、数分と経たないうちに、プリシラの母の容態は軽快した。
それとは逆に、医療現場における私への誤解が解けるのは、……私が必死で弁明したにもかかわらず、数日を要した。不本意極まりないが、その件については、今語るべき内容ではないので、涙を飲んで割愛する。
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